御法主日顕上人猊下に対する浅井昭衛の

         不遜なる「対決申し入れ書」を破折す


  (一)御遺命破壊≠フ謗言を破す



 まず、はじめに、その一は、大聖人一期の御遺命たる国立戒壇建立を二冊の悪書を以て抹殺し、いまなお国立戒壇を否定していること≠ニの謗言を破す。


          [広布進展に応じた大堂の建立は必然]


 貴殿は御法主日顕上人に対し、貴殿は「国立戒壇論の誤りについて」ならびに「本門事の戒壇の本義」の二書を著わした。この二書は、池田大作に諂って正本堂を御遺命の戒壇とたばかり、以て国立戒壇を否定せんとした大誑惑の書である。そしていま池田大作との抗争が起こるや、貴殿はこの悪書の罪を池田一人に着せ、自身はその責めを逃れんとしている。まことに卑劣というの他はないが、加えて許されざることは、なお依然として「国立戒壇が間違いだと言ったことは正しかった」などと公言していることである≠ニ述べている。
 日顕上人は、『国立戒壇論の誤りについて』と『本門事の戒壇の本義』の二書を著された理由について、
最近、浅井が出した本でも、日達上人の悪口をさんざん言ったあと、また私の悪口を言っているのですが、この当時、浅井の問題に関連した形で宗門と学会とが、日達上人の御指南を承りつつ、どうしてもやらざるをえなかったのが正本堂の意義付けということでありました。私は当時、教学部長をしていたものだから結局、このことについて私が書くことになってしまい、昭和四十七年に『国立戒壇論の誤りについて』という本を出版したのです。また、そのあとさらに、これは少しあとになるが、五十一年に『本門事の戒壇の本義』というものを、内容的にはやや共通しているものがありますが、出版しました。しかし、これらは全部、正本堂に関連していることであり、その理由があって書いたのです。つまり正本堂の意義付けを含め、田中智学とうり二つの浅井の考え方を破り、また本来の在り方をも示しつつ、さらに創価学会の考え方の行き過ぎをもやや訂正をするというように、色々と複雑な内容で書いたわけであります。(大日蓮 平成一六年一一月号五三頁)
と述べられている。この御指南を正しく拝するには、当時の状況に思いを致さねばならない。
 すなわち終戦後の創価学会の折伏による本宗の教線拡大は目覚ましいものがあった。戸田会長の逝去の前年・昭和三十二年には七十五万世帯であったものが、七年後の昭和三十九年(第一回正本堂建設委員会の前年)には五百十八万世帯(昭和三十九年十一月二十七日・本部幹部会発表)と七倍の勢力となっていた。昭和四十五年には十倍の七百五十万世帯、正本堂落慶時には約八百万世帯にまで爆発的に増加したのである。公明党の国会議員の数も八十人を超えるまでになっていた。この急激な信徒の増加を目の当たりにし、宗門の僧俗誰もが、もはや広宣流布は現実のものとして目睫の間に迫っていると確信したのである。だからこそ貴殿も「すでに広宣流布の時はきております」と述べたのである。
 これに対し、総本山大石寺における御開扉の状況は、その信徒の急激な増加に伴い、たちまち御宝蔵に入りきれない状況となって奉安殿を新築したのだが、これまた瞬く間に狭隘となるありさまで、一日に十回も御開扉を行うなどして、全国はもとより全世界からの信徒の参詣に応じていたのである。
 そこで新たに正本堂が建立されることになったのであるが、この時に於ては御戒壇様御安置の堂宇を建立するに際し、蔵の機能が満たされればそれで良しとはしないのである。日寛上人は『寿量品談義』に、
未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖も、既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則は本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ。(富要一〇巻一三一頁)
と御指南され、信徒が進んで登山し本門戒壇の大御本尊に参詣することを勧められている。即ち、一度日蓮正宗信徒になったならば、御戒壇様への御内拝を許された御慈悲を厳粛に拝し、御報恩の信心をもって、進んで登山参詣すべきなのである。
 日蓮正宗の御本尊は全て本門戒壇の大御本尊の分身散体にまします。故に、その御本尊に向かう時、大御本尊への恋慕渇仰の信心なくしては、真に功徳を成ずることはできない。まして破門されたことを得々として、参詣せずともよいという輩においてをやである。つまり、現代にあって本門戒壇の大御本尊御安置の堂宇は宗勢に比例した大堂でなければならないのである。
 また、本門戒壇の大御本尊所住の処は「現時における事の戒壇」である。現にその道場に詣で、謗法罪障消滅と信心倍増を祈念し、一生成仏を期すところ、事の戒壇の意義を成就満足できるのである。故に、直ちに御遺命の戒壇ではなくとも、現当の我々にとっての事の戒壇であることは揺るぎない。その堂宇を、どのように建立することが正しいのか。よくよく考えてみよ。
 広宣流布の暁に顕れる「本門寺の戒壇」は、宗祖日蓮大聖人の御遺命であり、本宗僧俗の大目標である。その大目標たる「本門寺の戒壇」を恋慕渇仰し、思い描き、そして門下僧俗の和合と精一杯の信心の結晶をもって、大御本尊の御威光・御威徳の一分を顕さんと荘厳し奉るところに、『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇の意義が含まれることは至極当然である。大御本尊を荘厳し奉ることは、門下僧俗としての務めなのである。


     [大聖人の戒壇の正義を両上人は御指南]


 貴殿は、日顕上人が教学部長時代に著された『国立戒壇論の誤りについて』の内容について、貴殿は池田の期待に応え、恐れげもなく三大秘法抄の聖文を切り刻み、ほしいままに曲会した。「王法」を「あらゆる社会生活の原理」とし「王臣一同」を「民衆一同」とし「有徳王」を「池田先生」とし「勅宣・御教書」を「建築許可証」とし「時を待つべきのみ」を「前以て建ててよい」等とねじ曲げるという大それた欺誑であった≠ネどと誹謗する。
 しかし、そのような誹謗は誠に無慚というほかない。当時の創価学会は、池田大作が戸田会長の築いた組織をうまく引き継いで、事実の上にも未だかつてない広宣流布の進展をみた。日達上人は御慈悲を垂れられ、その事実を非常に大事にされつつ、大聖人の御意に照らして正本堂の意義について御指南されたのであった。即ち、日顕上人は日達上人の御指南について、
四十五年四月六日の虫払大法会における『三大秘法抄』の戒壇についての御説法があるのですが、これは日達上人の御本意をお示しになったものだと、私は思うのであります。虫払大法会の説法ですから長い御説法でしたけれども、趣意は「『三大秘法抄』の戒壇は御本仏のお言葉であるから、私は未来の大理想として信じ奉る」ということをおっしゃっておるのです。要するに「未来の大理想」だから、御遺命の戒壇は未来のことだということです。
 そこで、これは先程言い損ねてしまいましたが、正本堂がそのものずばりの御遺命の戒壇か、そうではないのかということが一つの問題なのです。学会は妙信講の攻撃をうまくかわすため、今はまだ、そうではないと言うのです。ただ、このところがおもしろいのですが、今はそうではないけれども、将来その時が来れば、その建物になる。つまり結局のところ、正本堂自体は将来において『三大秘法抄』『一期弘法抄』の建物となるということです。それ以前には、正本堂はまさに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇そのものずばりでなければならないと、学会の教学部も池田自身も言っていたのですが、この時点で学会は一往、そこまでは譲ったのです。だが、色々な面で引っ込んではきたけれども、最後の不開門を開く時、つまり儀式の時とか、あるいは本門寺に改称する時には、やはり正本堂自体が『一期弘法抄』の戒壇になる建物であるということは絶対に譲れない、というのが学会の方針だったのであります。けれども一往、今はまだ、その意義を含んでおるというような在り方なのです。
 しかし、私どもはそうではなく、日達上人の御説法を拝すると、未来の大理想として信じ奉るということだから、あくまで未来なのです。つまり『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇は名実ともに未来であるが故に、正本堂はそうではないというのが御説法の内容であります。したがって、たしかに広布の相から言って『三大秘法抄』『一期弘法抄』の意義を含むということはあっても、その建物がそのまま『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇となるのは未来のことで、確定的ではないという意味で宗門は考えたいと思っていたし、また日達上人もそのようなお考えであらせられたと拝するのであります。(大日蓮 平成一六年一二月号三三頁)

と仰せられている。つまり日達上人の御本意としては、御遺命の戒壇建立は未来のこととお考え遊ばされていた。しかし日達上人は、僧俗一同が戒壇を建立せんとの願望をもって建てるのであり、僧俗一同を慰撫教導されるべく正本堂の意義を御指南を遊ばされたのである。それが昭和四十七年四月二十八日の訓諭である。
 訓諭について日顕上人は、
四十七年四月二十八日に、日達上人は妙信講への色々な回答等の意味も含めて、正本堂の全面的な定義をお示しになったのであります。その「訓諭」には、
「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」(大日蓮・昭和四七年六月号二n)
ということを仰せであります。
 このなかの「本門寺の戒壇たるべき大殿堂」というところが、また一つの解釈があるのです。「たるべき」ということは、そうであるべきということにおいては、現在はその意義を含んでいる建物だけれども、広布の時にはその建物がそのまま『一期弘法抄』の本門寺の戒壇になるのだという解釈と、そのようになるべく願望しておるところの意味との二つの解釈があるのです。つまり「本門寺の戒壇たるべく願うけれども、未来のことは判らない」という意味が、そこには含まれておるということなのです。この二つがあって、それはどちらとも言えないという不定の意味で、こういうようなことをおっしゃったのではないかと思うのであります。
(同三七頁)

と仰せられている。つまり日達上人は、当時の創価学会の功績を賛嘆し、理解を示されながらも、あらゆる局面を想定されて、戒壇に関する正義の確定を未来に残されたのである。そのことは、以下の日顕上人の御指南からも明らかである。
池田大作は浅井の抗議や色々な問題があって、結局、正本堂が御遺命の戒壇であると正面を切ってはっきりとは言えなくなったのです。どうしてもうまくいかないから、そこで最後に考えたことが、正本堂建立の記念の御本尊をお願いして、その裏書きを日達上人に書かせようということであります。それはどういうことかと言いますと、池田は「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇為ることの証明の本尊也」と日達上人に書かせようとしたのです。ここからも、いかに大作が御遺命の戒壇ということに執着していたかということが解ります。日達上人がこういうことをお書きになれば、「池田大作が大聖人様の御遺命の戒壇をお造りしたのであり、それを時の御法主がきちんと証明されている」ということが万代にわたって残る。そういうようにしたかったのです。
 そこで日達上人は昭和四十九年九月二十日に、賞与御本尊の裏に「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也」と書かれたのです。「準じて」というのだから本物ではない。これを見た池田は、最後には怒っただろうと思うのです。それからまた色々なこともありましたが、池田には、どうしても日達上人が自分の思惑のままにならない、ということでの不平不満があったのであります。(同四五頁)

との如く、日達上人はどこまでも大聖人の正義は守るのであるとして、池田大作が正本堂を御遺命の戒壇とせんとするのを退けられている。それは熱烈に燃え上がる創価学会員の折伏への意欲と、戒壇の正義、この二つを守るための御教導だったのである。さらにいえば、創価学会という組織は、会長をトップとし、組織とその指導形態の全てが在家信徒のみの団体であった。会長が純粋な信仰を持って信心に励んでいるならば、大いに利点があるが、反面会長の信仰が狂えば、末端までもが邪教化してしまう恐れのあるものであった。その面から、八百万といわれる信徒の信心を守るためにも、日達上人は常に池田大作が信心を過たぬよう、お心を砕かれていたのである。結果として池田大作の謗法により創価学会は破門されてしまったが、正道に導ける可能性があるならば、どこまでも慈悲をもって導くというのが仏法の精神である。
 上記のような意味から教学部長時代の日顕上人は、日達上人の御意を体し『国立戒壇論の誤りについて』を著され、戒壇および正本堂の意義、また八百万といわれる創価学会信徒の教導等について種々勘案され、正本堂建立当時の状況に基づき、『一期弘法抄』及び『三大秘法抄』になぞらえて仰せになられたのである。
 しかし日顕上人は、最終的にそれらを総括し、
そういう背景において、『国立戒壇論の誤りについて』のなかでも「現在は違うけれども未来においては、その戒壇が御遺命の戒壇でないということは必ずしも言えない」というような、今考えてみると言い過ぎにも思えるようなことを言ってしまっているのであります。だから、あの書を廃棄すべきかとも考えたけれども、私としては廃棄するべきではないと思ったわけです。やはり日達上人のもとで私が御奉公させていただいたのだし、当時の宗門の流れの上から、その時その時の事実は事実として、きちんと残しておいたほうがよいと思うのです。また正直に言いますと、やはりその当時は、私はそういうように書かざるをえなかったし、そういうようなことがあったのであります。(同四六頁)
と御指南され、当時においては慰撫教導の為のものであったが、時間が経過し、状況が変化した現在では「言い過ぎにも思える」と仰せられている。その上で、
未来における広布の上からの『三大秘法抄』『一期弘法抄』の事の戒壇の目標と、その戒壇の建物というのはいったい、どういうものかと言うと、これは今、論ずるべきことではありません。それこそ本当に不毛の論であります。しかし考えてみれば、今もイスラム教の聖跡を巡拝する信徒達の数たるや、すごいものがありますが、将来、一日に二万、三万、五万以上の大勢の人が総本山に参拝するような形があると、大聖人様の御仏意の上から一往考えるならば、奉安堂などは小さいものだと思うのです。だから、その時になればまた、建築技術も盛んになっているでしょうし、いくらでも大きい物を造ればよいのです。
 要するに、御遺命の戒壇は『一期弘法抄』の「本門寺の戒壇」ということであります。だから未来の戒壇については「御遺命の戒壇である」ということでよいと思うのです。(同六○頁)

と仰せられ、事相である御遺命の戒壇を今論ずるべきではないと戒壇の正義について御指南されているのである。今日顕上人が戒壇の正義を示されたのは、日達上人がどこまでも大聖人の正義は正義としてお残し下さったが故である。つまり、両上人の御指南に対して大聖人の戒壇の正義をねじ曲げる≠ネどというのは、門外漢の貴殿ならではの暴言であり、誠に無慚無愧という他はない。
 貴殿ら妙信講も『正本堂御供養趣意書』の意義に賛同し、進んで正本堂御供養に参加し、一旦はその功徳に浴したのである。しかるに貴殿は昭和四十五年創価学会の言論出版問題を機に態度を一変させる。御遺命の戒壇は「国立戒壇」でなければならないと。しかし日顕上人が仰せのように、大聖人の正義に照らし、事相であるべき御遺命の戒壇について「国立戒壇」などと意義を固着せしめることは、全く出来ないのである。


         [浅井の国立戒壇は大聖人の正義に非ず]


 貴殿は「勅宣・御教書」とは、日本国を代表する天皇の詔勅および行政府の令書、すなわち仏法を守護し奉るとの国家意志の表明である。このゆえに御遺命の戒壇を「国立戒壇」と、歴代先師上人は端的に称されて来たのである。貴殿は「国立戒壇の語は第五十八世日柱上人以前には無し」(取意)などと痴論を述べている。では反詰しよう。柱師以前の先師に一人として、国家と関わりのない戒壇を建てよ、と述べた上人がいたか。ことごとく異口同音に「広宣流布の時いたり勅宣・御教書を申し請け」(量師・大石寺明細誌)等と仰せられているではないか。これ全く国立戒壇の意である≠ネどと、得々として述べているが、これこそ欺瞞である。御歴代上人は皆『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇を述べられているのであって、「国立戒壇」を述べているのではない。貴殿も日柱上人以前の御歴代上人の御著述に「国立戒壇」の語が無いか、血眼になって探したのであろう。その結果が「無い」という結論なのである。ならば、「国立戒壇」という語を使わずとも、大聖人の戒壇義を述べることは出来るのである。
 では「国立戒壇」の語が何故に不適なのか、その点について述べる。
 貴殿は平成十六年の全国教師講習会における日顕上人の御指南を引用し、「国主が国民であるならば、国民が総意において戒壇を建立するということになり、国民の総意でもって造るのだから、そういう時は憲法改正も何もなく行われることもありうるでしょう。ところが、国立戒壇ということにこだわるから、あくまで国が造るということになり、国が造るとなると直ちに国の法律に抵触するから、どうしても憲法改正ということを言わなければならないような意味が出て、事実、浅井もそのように言っているわけです。だから国主立、いわゆる人格的な意味において国民全体の総意で行うということであるならば、憲法はどうであろうと、みんながその気持ちをもって、あらゆる面からの協力によって造ればよいことになります」と。つまり憲法改正を避けるために、国家とは関わりのない、国民の総意の戒壇を建てればよい──と言っているのである。これでは正本堂と全く同じではないか。正本堂の誑惑の本質は「国家と無関係の民衆立」にある∞貴殿のいう「国主立戒壇」なるものは、国家と無関係の民衆立ということにおいて、この正本堂と全く同一轍ではないか≠ネどと悪態をついているが、全くの見当違いである。
 今日「国立」の語の意味は、
国が設立し管理していること(広辞苑)
とある。しかし、『一期弘法抄』には、
国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。(御書一六七五頁)
とあり、国主が正法を受持した時、戒壇を建立せよというものである。文意と「国立」の語とは全く合致していない。国が戒壇を立てるという意味の「国立戒壇」とは本質が違うのである。大聖人の御金言に照らせば、あくまで「国主此の法を立てらるれば」なのであり、「国主」つまり「人」が信仰の主体者なのである。「国」とは人が生活する「国土」であり、非情のものであるから「国」が信仰を受持することはあり得ない。信仰を受持するのは「国土」に生活する「国主」であり、言うならば「国主立戒壇」となるのである。
 その上で貴殿は、日顕上人に対して、貴殿のいう「国主立戒壇」なるものは、国家と無関係の民衆立ということにおいて、この正本堂と全く同一轍ではないか≠ニの謗言を構えるが、実に浅い考えであり、浅識謗法そのものである。国主立の意義は何よりも日興上人へ御付嘱の金言であり、汝らが軽々に論じられるものではない。まさに広布の事相の上に我々の大理想として拝すべきなのである。それに対し池田大作が目指した「民衆立」の戒壇とは、当時の「学会立」であった。しかし「国主立」は大聖人の御金言のままであり、不変のものである。
 なぜならば、今日の象徴天皇は「国主」というのにはほど遠い。天皇の国事行為も極めて限定的なものである。大聖人が仰せられた封建社会において天皇が発布する「勅宣」などは、現在全く存在すらしないのである。貴殿はさらになぜ貴殿は憲法改正をかくも忌避するのか。広宣流布が成就すれば、仏法に準じて憲法が改正されるのは自明の理ではないか≠ネどとも息巻くが、これも広宣流布の成就ということが前提となっている。百歩譲って貴殿の主張の如く、広宣流布の暁に憲法を改正して、戒壇を建立するにしても憲法を改正しようとする主体者は「国民」であり、そして「国民」の意思で天皇に勅宣を発布せしめることになる。即ち貴殿の論理をもってしても国主は国民と言うことであり、現今の民主主義社会においては、どこまでも国主は国民とならざるを得ないのである。
 つまり、貴殿が憲法改正国立戒壇≠鸚鵡の如く言ってみても、その内実は国主たる国民が戒壇を建立する上での手続きに過ぎない。即ち内容は国民が国民の意思で戒壇を建立するということに他ならないのである。日顕上人は、
そして、その御遺命の戒壇とは、すなわち本門寺の戒壇である。さらに本門寺の戒壇ということについて、浅井達は「国立戒壇」と言っているけれども、御遺命という上からの一つの考え方として「国主立戒壇」という呼称は、意義を論ずるときに、ある程度言ってもよいのではなかろうかと思うのです。なぜならば、大聖人様の『一期弘法抄』に、
「国主此の法を立てらるれば」(御書一六七五n)
とありますが、国主が立てるというお言葉は、そのものまさに「国主立」でしょう。国主立とは、『一期弘法抄』の御文のそのものずばりなのであります。(大日蓮 平成一六年一二月号六〇頁)

と御指南されている。これこそ大聖人の御金言のまま、いかなる政情にも耐えうる永遠不変の戒壇についての正義なのである。


       [御歴代上人に浅井のいう国立戒壇の義無し]


 貴殿は近世に至っては、御遺命の戒壇の意義内容を一口に表わすべく、三大秘法抄の聖文を約言して「国立戒壇」と歴代先師は呼称されて来たのである。煩を厭わず、その文証を挙げよう≠ネどと、近年の御歴代上人が「国立戒壇」の語をご使用になられた文証を長々と引用する。先にも述べたが、あくまで御歴代上人が「国立戒壇」の語をご使用になられたのは近年のことであり、「国立戒壇」の語は用いても用いなくても本宗の戒壇義の本義に於ては何ら変わることはないのである。
 つまり近年の御歴代上人が「国立戒壇」の語を用いられたのは、そのような時代背景があったのである。明治以降の廃仏毀釈運動により、宗門も相応の忍従を強いられた。そして仏教を抑圧した張本は他ならぬ国家神道を掲げた国家だったのである。当時の国家は現人神と崇められた天皇と一体のものであった。つまり宗門の正義を顕揚しようとするならば、折伏の対象はまず、現人神と崇められていた天皇であり、それに追従する国家機関の要人ということに当然ならざるを得ない。つまり当時の政治形態においては、国主である天皇と国家は一体であり、「国立戒壇」とは「国主立戒壇」の意義なのである。「国立戒壇」の語を使用された御歴代上人も、御金言の「国主立戒壇」と同義として「国立戒壇」の語を使用されたのである。
 また、戦後の御法主上人が「国立戒壇」の語を用いられているではないかという反論があるかもしれない。しかし、戦後の御法主上人といえども長く明治欽定憲法の中を生きてこられたのである。その時代からの慣例によって「国立戒壇」と仰せられたのみであり、貴殿のいうように「国立」ということに固執されていたわけではない。さらに言えば、そもそも「国立戒壇」は謗法者の田中智学の創称であり、また「国立戒壇」を言えばかつて国粋主義者が国家神道を利用して台頭したように、大聖人の仏法が国家主義的なものであるかの如くの誤解をうける。そのような語をこの現代において使用する必要は全くないのである。以上述べてきたように日達上人は日蓮正宗伝統の本義の上から「国立戒壇」の語を使用しない旨御指南されたものであり、何ら改める必要はないのである。
 貴殿は正義漢を装って、自らの言があたかも正論であるかのように都合のよいことばかりを述べているが、妙信講も正本堂の御供養に参加し、それ以降五年間、何も言わなかったことを、どのように説明するのか。貴殿らは言論問題が勃発して創価学会が世間の批判を浴び始めるや、その尻馬に乗って学会攻撃の狼煙を上げたのである。そしてその攻撃材料として創価学会の非難の的であった「国立戒壇」に目を向け利用したのである。その事実は妙信講の歴史が物語っている。


           [浅井の悪言は頭破七分の罪科]


 貴殿は日顕上人に対し、およそ謗法とは、違背の義である。もし「勅宣・御教書」を「建築許可証」とたばかった重大違背が、「言い過ぎ、はみ出し」で許されるならば、法然の「捨・閉・閣・抛」も、弘法の「第三戯論」も、慈覚・智証の「理同事勝」も、言い過ぎ・はみ出しで済んでしまうではないか。世親・馬鳴のごとき懺悔がなければ、どうして後生の大苦を逃れることができようか≠ネどと述べるが、何たる讒言であろうか。どうしてこのような不知恩なことが言えるのだ。
 先に述べる如く、日達上人は度々貴殿にもお会いになられ、貴殿の意見にも耳を傾けられた。そしてまた創価学会からも意見を徴されて、血脈付法のお立場から大聖人の仏法の本義、八百万信徒の善導、大所高所からのあらゆることをお考え遊ばされ正本堂についての御指南を下されたのである。また日顕上人も同じく、教学部長として日達上人の御指南を体して貴殿にもお会いになり、心を砕かれてきたのである。貴殿は日達上人並びに日顕上人に存念を述べ、また十分考慮して頂いたのであるから、仏法の本義より下された最終的な御指南、御教導を有り難く拝すべきだったのである。その貴殿のために心を砕かれた日顕上人に弘法・慈覚・智証・法然ら同様の謗法者呼ばわりするとは何たる不忠であろうか。今日貴殿が主張する「国立戒壇」はどこまでも己義であり、邪義なのである。その己義・邪義が聞き入れられないことを理由に、血脈付法の正師であられる御法主上人を非難することなど本末転倒、まさに頭破七分の所行と言わざるをえない。日達上人、日顕上人は、貴殿や池田大作のような未熟者でも、その一分の信心を信頼し、不退転の大信者に育つことを願って慰撫教導なされたのである。その慈悲を踏みにじる悪言の罪科は甚大であると知れ。


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