対決申し入れ書    一、対決の趣旨  御本仏日蓮大聖人の御法魂まします唯一の正系門家は富士大石寺である。そして、もしこの正系門家において仏法の壊乱があれば、国の亡びることは御書に明々と示されるところである。  されば富木抄には  「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし、体曲れば影ななめなり」と。  また神国王御書には  「王法の曲るは小波・小風のごとし、大国と大人をば失いがたし。仏法の失あるは大風・大波の小船をやぶるがごとし、国のやぶるること疑いなし」と。  さらに法門申さるべき様の事には叡山にこと寄せて  「仏法の滅不滅は叡山にあるべし、叡山の仏法滅せるかのゆへに、異国我が朝をほろぼさんとす」と示し給うておられる。  さて、貴殿は昭和五十四年七月二十二日、細井日達管長が急逝されたその通夜において、「実は昨年四月十五日に内々に相承を受けていた」(取意)と自己申告して、貫首の座に就かれた。  しかしながら、宗務院教学部長当時より今日に至るまでの貴殿の所行を見るに、御本仏大聖人に背く許されざる三つの大謗法を犯している。  その一は、大聖人一期の御遺命たる国立戒壇建立を二冊の悪書を以て抹殺し、いまなお国立戒壇を否定していること。  その二は、戒壇の大御本尊に敵対している身延派の悪侶等を幾たびも大石寺に招き入れたこと。  その三は、河辺慈篤に対し、ひそかに戒壇の大御本尊を偽物呼ばわりしていたことである。  日興上人が「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用うべからざる事」と遺誡されてより七百年、かかる大それた仏法相違の貫首は、未だ見ざるところである。  かくて正系門家は濁乱し、日本国も亡国の淵に立っている。すでに亡国の号鐘たる巨大地震は足下に迫り、他国侵逼の影も刻々と近づきつつあるではないか。  過去三十五年、小生は貴殿の仏法違背を諫め続けて来た。そして大聖人の御威徳により、ついに誑惑の正本堂は崩壊した。しかるになお貴殿に改悔の色はなく、依然とし違背を続けている。  この無慚無愧をご覧になり、大聖人様はいかに御憤りあそばしておられようか。  事ここに至っては、正系門家の禍根を除くの術はただ一つ。公開の場において邪正を決し、勝負を決断するの他はない。よって文末「三」の約定に基づき、対決を申し入れるものである。    二、三大謗法について  前記、三大謗法のそれぞれについて、以下少しく説明を加える。   (一)御遺命破壊  貴殿は「国立戒壇論の誤りについて」ならびに「本門事の戒壇の本義」の二書を著わした。この二書は、池田大作に諂って正本堂を御遺命の戒壇とたばかり、以て国立戒壇を否定せんとした大誑惑の書である。  そしていま池田大作との抗争が起こるや、貴殿はこの悪書の罪を池田一人に着せ、自身はその責めを逃れんとしている。まことに卑劣というの他はないが、加えて許されざることは、なお依然として「国立戒壇が間違いだと言ったことは正しかった」などと公言していることである。  改めて言う。御遺命の戒壇が国立戒壇であることは、三大秘法抄の聖文に天日のごとく明らかではないか。されば  「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か」と。  これ、日本一同に南無妙法蓮華経と唱え奉る広宣流布の時いたらば、「勅宣・御教書」すなわち国家意志の公式表明を手続として戒壇を建立すべし──との仏勅であられる。  「勅宣・御教書」とは、日本国を代表する天皇の詔勅および行政府の令書、すなわち仏法を守護し奉るとの国家意志の表明である。このゆえに御遺命の戒壇を「国立戒壇」と、歴代先師上人は端的に称されてきたのである。  貴殿は「国立戒壇の語は第五十八世日柱上人以前には無し」(取意)などと痴論を述べている。  では反詰しよう。柱師以前の先師に一人として、国家と関わりのない戒壇を建てよ、と述べた上人がいたか。ことごとく異口同音に「広宣流布の時いたり勅宣・御教書を申し請け」(量師・大石寺明細誌)等と仰せられているではないか。これ全く国立戒壇の意である。  そして近世に至っては、御遺命の戒壇の意義内容を一口に表わすべく、三大秘法抄の聖文を約言して「国立戒壇」と歴代先師は呼称されて来たのである。  煩を厭わず、その文証を挙げよう。  第五十九世日亨上人は  「宗祖・開山出世の大事たる政仏冥合・一天広布・国立戒壇の完成を待たんのみ」(大白蓮華11号)  「唯一の国立戒壇、すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する」(富士日興上人詳伝)  さらに云く  「本門戒壇には、むろん本門の大曼荼羅を安置すべきことが当然であるので、未来勅建国立戒壇のために、とくに硬質の楠樹をえらんで、大きく四尺七寸に大聖が書き残されたのが、いまの本門戒壇大御本尊である」(富士日興上人詳伝)  「本門戒壇大本尊。(中略)戒壇国立の時、安置すべき本尊にして、彫刻は日法上人なり。宗祖より開山日興上人に遺属せられし唯一の重宝、今宝蔵に安置す」(堀ノート・大石寺誌)  第六十四世日昇上人は  「国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年、今日に至れり。国立戒壇こそ本宗の宿願なり」(奉安殿慶讃文)  第六十五世日淳上人は  「大聖人は広く此の妙法が受持されまして国家的に戒壇が建立せられるその戒壇を本門戒壇と仰せられましたことは、三大秘法抄によって明白であります」(日蓮大聖人の教義)  「蓮祖は国立戒壇を本願とせられ、これを事の戒壇と称せられた」(富士一跡門徒存知事の文に就いて)  「この元朝勤行とても(中略)二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての、広宣流布祈願の勤行を伝えたものであります」(大日蓮34年1月号)  第六十六世日達上人も、池田大作に諂って正本堂の誑惑に協力する以前は、正しく国立戒壇を主張していた。  「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華35年1月号)  「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の時の国立の戒壇であります」(大日蓮36年5月号)  いや、池田大作すら  「『時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり』の御予言こそ残された唯一つの大偉業であり、事の戒壇の建立につきる。これを化儀の広宣流布と称し、国立戒壇の建立というのである」 (大白蓮華31年1月号)  「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」(大白蓮華31年4月号)等と述べていたのである。  このように昭和三十年代までの本宗は、貫首上人以下全僧俗一人も残らず、御遺命の戒壇とは国立戒壇であるとし、これを唯一の宿願・目的としてきたのである。  では、この正系門家において、どうして貴殿が国立戒壇を否定する二冊の悪書を書くにいたったのか。その経緯を以下に略述する。  それは池田大作に始まる──。政治野心に燃え選挙に狂奔する池田にとって、国立戒壇は次第に邪魔な存在となる。世間に「国立戒壇は政教分離を規定した憲法に違反する」との批判が喧しくなってきたからである。  そして昭和四十年、彼はついに国立戒壇放棄を実行に移す。この姿はまさに、第六天の魔王が池田大作の身に入って、御本仏の御遺命を壊乱するの図に他ならない。  池田は国立戒壇を否定するのに、正本堂という誑惑を思いついた。それは、俄に建てた正本堂を「御遺命の戒壇」と偽るというものであった。  しかしこのたばかりには、どうしても「法主」の権威が必要となる。そこで池田は細井日達管長の籠絡にかかる。本来ならば、貫首の責務としてかかる大誑惑は打ち摧くべきなのに、池田の権力をへつらい怖じる細井管長は、唯唯として正本堂を御遺命の戒壇と認めてしまった。  喜んだ池田は、さっそく学会員に次のごとく大宣伝した。  「いまの評論家どもは『創価学会は国立戒壇を目標にしているからけしからん』といいますが、私はなにをいうかといいたい。そんなことは御書にはありません。彼らはなにもその本義を知らないのです。猊下が、正本堂が本門戒壇の戒壇堂であると断定されたのであります」(聖教新聞40・9・22)と。  誰人も背けぬ「法主」と、最高権力者・池田大作の言うところであれば、全僧俗がこの誑惑に靡いた。高僧らは先を争って口々に正本堂を称えた。かくて正系門家から「国立戒壇」は完全に消え去ったのである。  これを見て小生は、大事の御遺命が破壊されるを見ながら知りながら、黙止するは大聖人への最大の不忠なりと恐れ、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の一書を認め、宗門・学会の首脳に送付した。  細井管長は大いに驚き、小生を総本山大奥に召し説得せんとした。しかし問い詰めまいらせる小生に対し、理に詰まった細井管長はついに、「正本堂は御遺命の戒壇ではない」「広布の時は国立戒壇で、天母山に建てられる」と、その本心を吐露された。  そして小生との約を違えず、三日後の昭和四十五年四月六日の虫払法要において、本意を述べたのであった。  これを見て池田大作はさらに圧力を強めた。その翌月の学会総会において細井管長に、宗門としての「国立戒壇放棄」を公式に発表させたのである。  小生はこの圧力から猊座を守らんとして、学会代表と論判を重ね、ついに昭和四十五年九月十一日、「正本堂を御遺命の戒壇とは言わない」旨の確認書を作り、学会代表に署名させ、これを細井管長のもとに収めた。  このとき立ち会った宗務役僧は早瀬道応総監以下の三名。貴殿もその中にいたではないか。  しかるに細井管長はまたも池田の圧力に屈し、昭和四十七年四月、「正本堂は広布の暁に御遺命の戒壇たるべき殿堂」(取意)との訓諭を発布したのであった。  小生は細井管長と対面し、そのあまりにも情けない無節操と背信を責めまいらせた。窮した細井管長は訓諭の訂正文を宗門機関誌「大日蓮」に発表すると約し、後日その訂正文を小生に手渡された。  池田大作はこの細井管長の揺れを見て、同管長への不信を強めるとともに、正本堂の誑惑の破れるを恐れ、顕正会(当時妙信講)を解散処分に付せしめた。その処分理由は「国立戒壇を主張し、正本堂を御遺命の戒壇と認めないゆえ」(取意)というものであった。  このような状況下で、池田はいよいよ貴殿に「二冊の悪書」を書かしめるのである。  貴殿は池田の寵を得て宗内での栄達を得んと、諾諾としてこの大謗法の書を造った。そのさまは、かの一行阿闍梨が善無畏に嗾されて「やすう候」と法華経誹謗の大日経の疏を造ったさまと、まことに酷似している。  この二冊の悪書の所詮は──日本国憲法のもとでは国立戒壇は成立し得ないから、国家と無関係に建てられた正本堂こそ時代に即した御遺命の戒壇に当る──というものである。  しかし、国家と無関係に建てた正本堂を御遺命の戒壇と偽るには、国家的建立を定めた三大秘法抄の文意をどうしてもねじ曲げなければならない。ここにこそ池田が貴殿を用いる所以があった。貴殿の白を黒といいくるめる詭弁の特才と、名利と、諂いを、池田は見抜いていたのである。  貴殿は池田の期待に応え、恐れげもなく三大秘法抄の聖文を切り刻み、ほしいままに曲会した。それは  「王法」を「あらゆる社会生活の原理」とし  「王臣一同」を「民衆一同」とし  「有徳王」を「池田先生」とし  「勅宣・御教書」を「建築許可証」とし  「時を待つべきのみ」を「前以て建ててよい」等とねじ曲げるという大それた欺誑であった。しかもその上で貴殿は  「三大秘法抄の戒壇の文全体に対し、今迄述べ来たった拝し方において当然いえることは、現在戒壇建立の意義を持つ建物を建てるべき時であるという事である。(中略)これに反対し誹謗する者は、猊下に反し、また三大秘法抄の文意に背くものとなる」と言い切っている。  およそ宗の内外を問わず、過去にも現在にも、三大秘法抄の御聖意をここまで破壊した悪比丘は未だ曽てない。佐渡御書に云く  「外道悪人は如来の正法を破りがたし、仏弟子等必ず仏法を破るべし、師子身中の虫の師子を食む」と。  正系門家における「師子身中の虫」とは、まさしく教学部長・阿部信雄その人であった。  そしていま貴殿は、顕正会の呵責にいたたまれず、この二冊の悪書の幕引きを図らんとしている。  昨年八月二十六日の全国教師講習会において、貴殿は次のごとく嘯いた。  「昭和四十七年の『国立戒壇論の誤りについて』と五十一年の『本門事の戒壇の本義』は、先程から言っているように私が書いたけれども、そこにはたしかに、戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまで正本堂の意義を『三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかったのです。つまり、あの二書は正本堂が出来る時と出来たあとだったが、浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで、強いて言えば全部、正本堂そのものに関してのことなのであります。そういうことですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論である」と。  何という卑怯そして無慚か──。罪をすべて池田大作になすり付けているではないか。  さらに二書の内容について「今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども……正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、全くの空論である」と言い逃れている。  およそ謗法とは、違背の義である。もし「勅宣・御教書」を「建築許可証」とたばかった重大違背が、「言い過ぎ、はみ出し」で許されるならば、法然の「捨・閉・閣・抛」も、弘法の「第三戯論」も、慈覚・智証の「理同事勝」も、言い過ぎ・はみ出しで済んでしまうではないか。世親・馬鳴のごとき懺悔がなければ、どうして後生の大苦を逃れることができようか。  だが、これよりさらに許しがたきことがある──。  それは、同教師講習会において、正本堂の誑惑については「全くの空論」といいながら、なおも国立戒壇だけは重ねて否定していることである。云く  「道理から言っても国立戒壇は誤りですから、『国立戒壇論の誤りについて』のなかにおいて、国立戒壇が間違いだと言ったことは正しかったと思っております」と。  国立戒壇だけはあくまで憎嫉するこの執念、まさに天魔その身に入るゆえと断ぜざるを得ない。  そのうえ貴殿はこの席上、恥知らずにも、将来建てらるべき御遺命の戒壇として「国主立戒壇」などという妄語を言い出した。その内容は如何なるものかといえば  「国主が国民であるならば、国民が総意において戒壇を建立するということになり、国民の総意でもって造るのだから、そういう時は憲法改正も何もなく行われることもありうるでしょう。ところが、国立戒壇ということにこだわるから、あくまで国が造るということになり、国が造るとなると直ちに国の法律に抵触するから、どうしても憲法改正ということを言わなければならないような意味が出て、事実、浅井もそのように言っているわけです。だから国主立、いわゆる人格的な意味において国民全体の総意で行うということであるならば、憲法はどうであろうと、みんながその気持ちをもって、あらゆる面からの協力によって造ればよいことになります」と。  つまり憲法改正を避けるために、国家とは関わりのない、国民の総意の戒壇を建てればよい──と言っているのである。  これでは正本堂と全く同じではないか。正本堂の誑惑の本質は「国家と無関係の民衆立」にある。このことは、学会が昭和四十五年四月に国会に提出した「国立戒壇について」の照会に対する、次の回答文書に明らかである。  「一、本門戒壇とは、本尊をまつり、信仰の中心とする場所のことで、これは民衆の中に仏法が広まり、一つの時代の潮流となったとき、信者の総意と供養によって建てられるべきものである。  二、既に現在、信徒八百万人の参加によって、富士大石寺境内に、正本堂の建設が行なわれており、昭和四十七年十月十二日には完成の予定である。これが本門戒壇にあたる。  三、一時、本門戒壇を国立戒壇≠ニ呼称したことがあったが、本意は一で述べた通りである。建立の当事者は信徒であり、宗門の事業として行うのであって、国家権力とは無関係である」と。  見よ。貴殿のいう「国主立戒壇」なるものは、国家と無関係の民衆立ということにおいて、この正本堂と全く同一轍ではないか。  なぜ貴殿は憲法改正をかくも忌避するのか。広宣流布が成就すれば、仏法に準じて憲法が改正されるのは自明の理ではないか。しかるに貴殿は頑なに憲法改正を忌避する。これは、未だに二冊の悪書の邪見を心の底に引きずっているからに他ならない。  そしてこのことは、まさしく「勅宣並びに御教書を申し下して」の御定め、すなわち仏法守護の国家意志の表明を建立手続とせよとの、重き仏勅を否定せんとの魔心から発しているのである。  謹んで拝し奉るに──本門戒壇の建立とは、戒壇の大御本尊の妙用により日本を仏国とし、さらに地球上を事の寂光土と化するための一大秘術であられる。  而して日本を仏国とするには、一個人・一団体・一宗門、あるいは漠然たる民衆の帰依などではとうてい叶わない。それは、一国同帰の上に、日本国の国家意志を表明しての国立戒壇を建立してこそ、始めて御本仏を魂とする仏国が顕現するのである。  ゆえに三大秘法抄には戒壇建立について、時は「王仏冥合、王臣受持、捨身護法」の時と定め、手続を「勅宣・御教書」すなわち国家意志の公式表明と定め、さらにこの条件整わざる前に建て ることを「時を待つべきのみ」と厳重に制誡し給うておられるのである。  しかるに汝は、二冊の悪書をもって国立戒壇を否定した上に、今また「国主立戒壇」などの妄語を吐き、正系門家を誑惑している。  およそ広布の暁の国立戒壇建立こそ、御本仏日蓮大聖人の究極の大願であられる。もしこれを破壊せんとする者あれば、その大罪はまさに、大聖人の流罪・死罪を忍び給うての一代三十年の御化導を水泡に帰せしめ、その御眼を抉るに当る。  これを苦治するは、対決以外にはないのである。   (二)謗法与同  大聖人は謗法与同を厳しく誡め給うて  「何に信ずるやうなれども、法華経の御かたきにも知れ知らざれ交りぬれば、無間地獄は疑いなし」(妙法比丘尼御返事)と。  また日興上人は  「謗法と同座すべからず、与同罪を恐るべき事」(遺誡置文)  とご遺誡されている。  しかるに貴殿は、戒壇の大御本尊の敵たる身延の謗法僧を、しばしば大石寺に招いている。  その一は、身延山久遠寺・志摩坊住職にして山梨県第一部布教師会長の地位にある佐藤順映以下八人の身延派布教師を平成六年十一月五日、大石寺に招いたことである。  この一行の大石寺参拝は、同布教師会の名を以て文書でなされた参拝申請に、大石寺内事部が正式に応諾したものと、佐藤順映は記している。  当日、一行を案内したのは大石寺内事部理事・小川只道。しかもこの小川は、帰着した佐藤順映に礼状まで送っている。  「みなさまの温かなお心に触れ、外はめっきり寒くなっていたにもかかわらず、温かな気持ちで御案内申し上げることができましたことを感謝しております」(布教師会報・第20号)と。  この礼状は、貴殿の指示なくしてはあり得ない。  その二は、平成七年六月六日、身延派管長に就任する直前の田中日淳(当時・池上本門寺住職) 一行を大石寺に招き、高野日海をして蓮葉庵において饗応せしめたことである。  顧みれば、日興上人が身延を離山し給うたのは、いつに地頭の謗法に由る。すなわち地頭謗法の汚濁の地に、御本仏のご法魂たる戒壇の大御本尊を居しまいらせるは聖意に叶わずとして、身延の沢を下り給うたのである。  しかるにいま貴殿は、戒壇の大御本尊を悪口誹謗している仏敵を、大御本尊の御許に招き入れて平然としている。どうして日興上人がお許しあそばそうか。  では、このような謗法与同をした動機は何なのであろうか。それは、貴殿のもとで身延派への働きかけを行った元学会顧問弁護士・山崎正友の言動に明らかである。  山崎は平成六年十一月二十四日に身延派山梨連合布教会に出席して講演し、次いで同年十二月六日に同派京浜教区教化研究会議において講演、さらに平成九年九月十六日には久遠寺内の身延山大学において講演を行なっている。  これらの講演は、いずれも「反学会活動に共に立ち上がろう」と身延僧に呼びかけているもので、かくて身延僧の大石寺参拝が実現したのである。まさしく貴殿は、学会との抗争のために、仏敵と手を組んだのである。  さらに許されざることは、前記京浜教区教化研究会議における山崎正友の発言である。彼は言い放った。  「『板本尊偽作論』もその後の掘り下げがありません。これから本腰を入れて取り組んでほしいと思います」と。  身延僧・安永弁哲の「板本尊偽作論」は昭和三十年代における最も悪質な誹謗文書であるが、山崎はあろうことか、この邪悪の論をさらに発展させて戒壇の大御本尊を攻撃せよと、身延僧にけしかけているのである。  この事実は、身延派機関紙「日蓮宗新聞」の所載であれば、貴殿が知らぬはずがない。しかるに貴殿は、昨年八月の全国教師講習会において山崎を称えて、こう述べた。  「今は宗門の信徒となり、学会破折の急先鋒となってやっている」と。  これは一体なにごとか。貴殿は、戒壇の大御本尊への攻撃を身延僧にけしかけた山崎の大謗法を知りながら、称えているのである。詮ずるところ、汝もまた山崎と同じく、戒壇の大御本尊への信なき者と断ぜざるを得ない。   (三)「河辺メモ」における大御本尊誹謗のこと  貴殿は昭和五十三年二月七日、帝国ホテルにおいて腹心の河辺慈篤と密かに面談し、二日後に反学会活動家僧侶が総本山に集結して開催することになっていた「時事懇談会」を臨んで、細井管長への積もる鬱憤を吐露している。  そしてこの時、あろうことか、荒唐無稽な理由を挙げて、恐れ多くも戒壇の大御本尊を「偽物」と誹謗したのであった。──この事実は、河辺慈篤の記録いわゆる「河辺メモ」に明らかである。  北山・要山。身延等の不相伝家が戒壇の大御本尊を怨嫉するのは、権宗の輩が法華経を誹謗するのと同様であれば驚くには当らない。しかし正系門家において、かかる謗言をなしたのはただ二人、幕末の久遠院日騰と貴殿のみである。共に魔心・愚心出来のゆえである。  そして二人はそれぞれ、この悪言の他に洩れることのなきを確信していたが、諸天はこれを許さず、共に二十余年を経て、この大謗法が発覚している。  日霑上人はかの日騰が横死を遂げたとき、一紙を留められている。すなわち  「博学彊記絶倫の師、天之を縦さずして殃死を示す。是れ宿業ならんや、現報ならんや。後生胆に銘じ、其の濁を慎むべし」と。  この厳しき御誡め、いままた貴殿に当るか。  貴殿は「河辺メモ」が宗内に流出したとき、周章狼狽し嘘に嘘を重ねて発言内容を否定した。しかしこの悪事露見は諸天のなすところであれば、隠蔽することは不可能である。証拠はすでに明々白々となっている。対決によって、汝の正体を白日の下に晒すのみである。  以上、貴殿の犯した三大謗法について少しく論述した。そしていまこれを凝視するに、謗法は三つに分れるとも、その根底に横たわるものはただ一つ。それは、戒壇の大御本尊に対し奉る冒涜である。  まさに知るべし──。  国立戒壇に安置し奉るべしとて留められた戒壇の大御本尊を、国立戒壇否定のための正本堂に居えまいらせたことも、また仏敵・身延僧を大御本尊のお傍近くに招いたことも、さらに河辺慈篤への悪言も、すべてこれ戒壇の大御本尊に対し奉る冒涜そのものである。  そのうえ貴殿はいま、奉安堂という大規模な礼拝施設を作り、各末寺・法華講に登山を強要しては収入の増大を図っている。これ戒壇の大御本尊を営利の具とする以外の何ものでもない。  ここに最も憂うべきは、大御本尊のご安危である。このような濫りの御開扉であれば、悪心を懐く者が紛れ込むことは極めて容易である。もし奉安堂内に爆発物等が持ち込まれたら、いかなる事態が生ずるであろうか。いま時に当って、大御本尊のご安危こそ一閻浮提第一の大事である。  およそ戒壇の大御本尊は、広布の日まで秘蔵し奉るべき秘仏にてまします。されば濫りの御開扉を直ちに中止し、日興上人の御心のままに、もっぱら秘蔵厳護し奉るべきである。  かくて思う──。かくのごとく戒壇の大御本尊を冒涜してなお平然たる汝は、その正体そも何者ぞや。御書に云く「第六天の魔王智者の身に入りて正師を邪師となす」と。かかる者が「法主」を自称して正系門家に君臨していることこそ、仏法濁乱の根源なのである。  御本仏大聖人はかかる濁乱を断じて許し給わず。恐れながら仏意を拝推し奉るに、いかに御悲しみ、いかに御慎りあそばしますか。ここに小生 仏弟子の一分として、ただ身を捨てて仏恩に報ぜんと、邪正決断の対決を求めるものである。    三、約定  対決は、左の約定に基づいて行うものとする。   @場所 大石寺大客殿。   A日時 対決の応諾あり次第、双方の委員協議して速かに決定する。   B聴衆人数 双方各二千五百名。   C勝負の判定 回答不能に陥った者を敗者とする。   D勝負決着後の責務    ○小生が敗れた時は、直ちに顕正会を解散する。    ○貴殿が敗れた時は、直ちに御開扉を中止し、貴殿は猊座を退き謹慎する。  なお対決は貴殿と小生の一対一で行うものとするが、万一にも貴殿不都合の場合は、貴殿と同等の責務(D項所定)を負うことを條件として、僧侶・信徒を問わず代人を立てることを認める。諾否の返報は本書面到達後、七日以内とする。  以上の定めを以て、対決を申し入れる。       平成十七年三月二十五日                     冨士大石寺顕正会会長                             浅井昭衞     日蓮正宗管長       阿部日顕殿