重ねての対決申し入れ書    一、再申し入れの趣旨  三月二十五日付を以て貴殿に宛てた「対決申し入れ書」に対し、「日蓮正宗青年僧侶邪義破折班」(以下邪義班)と名乗る者から、返書らしき文書が四月二日に到来した。  その後、貴殿の正式の返報を待つに一向に沙汰がない。よって四月二日の文書は貴殿が「邪義班」を装って書いたものと看做し、以下、論を進める。  顕正会の命運を賭しての対決申し入れに対し、匿名文書による返報とは、いかにも無責任そして臆病な振舞いではあるまいか。しかもその内容たるや、よくもこれほどまでに嘘がつけるもの よというほどの、虚偽と欺瞞と悪口で満ちている。恐らくは提婆の虚誑も瞿伽利の欺誑もこれには及ぶまい。  かかる見えすいた虚言は、無責任な匿名文書だからこそ書けるのである。果して貴殿はこのような嘘を、小生の眼を見つめて言えるか。公場の対決が必要な所以はここにある。  逃げてはいけない。早く対決を実現せよ──。貴殿が並べた虚偽の一々、その席において、ただ一指を下してこれを劈くであろう。  だが貴殿は、邪正を決するこの大事な公開対決を、回避せんとしているごとくである。すなわち「邪義班」文書に云く  「貴殿ごとき大謗法の痴れ者が、宗開両祖以来、唯授一人の血脈を承継遊ばされる御法主日顕上人猊下に対決を申し入れるなど言語道断である。身の程を知れ」と力んでいる。  笑止千万とはこのことだ。趙高・王莽・道鏡の例を見るまでもない、古来よりニセ者ほど虚仮威しの物言いをするというが、貴殿もその例外ではない。  胸に手を当てて考えてみよ──。  御本仏の一期の御遺命を破壊せんとし、身延の邪僧を大石寺に招き入れ、そのうえ戒壇の大御本尊を偽物呼ばわりしている汝が、どうして「宗開両祖以来、唯授一人の血脈を承継遊ばされる御法主」などといえるのか。汝こそ「宗開両祖」に叛逆・敵対し奉る「大謗法の痴れ者」であり、「唯授一人の血脈」を詐称するニセ「法主」ではないのか。  また汝がいう「身の程を知れ」とは如何なることかと、稚拙の悪文を見れば  「そもそも貴殿は、すでに昭和四十九年十一月八日に本宗より除名処分に付され、貴会(元妙信講)もまた、これに先立つ昭和四十九年八月十二日に解散処分に付されているのであって、いわゆる謗法者・謗法団体である」とある。  なんと、己れの非を隠すためになした卑劣の除名・解散処分を以て、小生および顕正会を「謗法者・謗法団体」と決めつけているのである。この手口は、皇位を簒奪せんとした道鏡が、己れに随わぬ清廉忠節の士・清麿を、「穢麿」と罵って大隅に流したのとまことよく似ている。  しかも貴殿は、処分に付された「謗怯者」なるがゆえに身の程を知れ、対決など以ての外、と言いたいようである。  重ねて言う──。逃げてはいけない。確信あらば堂々と出て来て、三十五年来貴殿を諫め続けて来た小生の面前で、堂々と物をいうべきではないか。  よってここに、重ねての対決を申し入れるものである。    二、解散処分理由の欺瞞  貴殿は、小生がさきの「対決申し入れ書」において、解散処分理由について「国立戒壇を主張し、正本堂を御遺命の戒壇と認めないゆえ(取意)」と述べたことに対し、「欺瞞である」とし、次のように言っている。  「処分理由の第一は国立戒壇を主張≠オたことであって、正本堂を御遺命の戒壇と認めないゆえ≠ネどではない。なぜならば、日達上人が訓諭において、正本堂を『正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり』と御指南遊ばされたことは、願望として述べられたものであって、直ちに『御遺命の戒壇』になることを決定遊ばされたのではないからである。(中略) 日達上人御自身が、正本堂を直ちに御遺命の戒壇と認め≠トおられないのに、何故に貴殿に対して正本堂を御遺命の戒壇と認めないゆえ≠理由に処分することがあろうか」と。  耳を掩うて鈴を盗むとはこのことである。この言い分こそ「欺瞞」そのものではないか。「邪義班」文書のすべてはこのていの見えすいた嘘である。その一々は対決のとき粉砕するが、この処分理由の欺瞞だけは、小生および顕正会を「謗法者・謗法団体」と決めつけた根拠でもあり、かつ他のすべての虚偽の挙一例諸ともなるから、ここに打ち砕いておく。  まず解散処分の「宣告書」を見よ。  「右妙信講は、数年来『国立戒壇の名称を使用しない』旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年の四月二十八日付『訓諭』に対し異議を唱え……」  とある。これを見れば、宗門が禁止した「国立戒壇」を主張し、さらにまた、正本堂を御遺命の戒壇と定めた訓諭に異議を唱えたゆえに処分したということ、誰の目にも明らかではないか。  ところが貴殿は国立戒壇の主張だけが処分理由であって、正本堂は関わりない。そのわけは、訓諭は、正本堂が御遺命の戒壇になることを決定したものではないからだ≠ニいう。  よくもまあ、白々しい嘘がつけることよ──。こういう嘘をつかねばならぬ、よほど深い事情があるとみえる。  では、元となる「訓諭」の文を見てみよう。  「さきに法華講総講頭池田大作発願主となって、宗内僧俗一同の純信の供養により、昭和四十二年総本山に建立の工を起せる正本堂はこゝに五箇年を経て、その壮大なる雄姿を顕わし、本年十月落成慶讃の大法要を迎うるに至る。  日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす。  正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」とある。  この訓諭はそもそもが誑惑の正本堂を荘厳しようとするものだから、文意は支離滅裂。矛盾に満ちている。しかしその言わんとしていることは、「正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂」というところにある。すなわち御遺命の戒壇となる建物を前もって建てておいたのだ≠ニいうものだ。──この信じ難いたばかりを、「法主」の権威で宗門の公式決定としたのが、この訓諭なのである。  だから今となって、貴殿が「(日達上人は)願望として述べられたのであって、直ちに『御遺命の戒壇』になることを決定遊ばされたのではない」などというのは、何とも白々しい嘘なのだ。  だいいち訓諭には「後代の誠証となす」とあるではないか。「誠証」とは真実の証明の意である。「願望」しただけならこの語は不要であろう、「決定」したからこそ「後代の誠証」としたのではないか。だからこそ当時、宗門・学会とも挙って、この訓諭を指して「宗門の公式決定」と言っていたのである。嘘もほどほどにしなければいけない。  このことをより明白にするため、訓諭が発布されるに至る経緯および解散処分に至るまでの経過を簡略に述べよう。  細井日達管長が正本堂の意義について初めて言及したのは、昭和四十年二月十六日に行われた第一回正本堂建設委員会においてである。  席上、細井管長は、正本堂が御遺命の戒壇に当るような当らないような、きわめて曖昧な説法をした。この曖昧さこそ、池田大作に諂いながらも、なお御遺命に背くことの恐ろしさを心の底で意識していたゆえといえよう。  しかし池田はこの説法を、「猊下が、正本堂が本門戒壇の戒壇堂であると断定された」(聖教 昭和40・9・22)と大宣伝した。  これを承けて、池田に諂う宗門の高僧らは先を争って、正本堂を直に御遺命の戒壇≠ニ、筆に口に讃え始めた。  昭和四十二年十月の正本堂発願式における貴殿の諛言などは、その典型といえよう。云く  「宗祖大聖人の御遺命である正法広布・事の戒壇建立は、御本懐成就より六百八十数年を経て、現御法主日達上人と仏法守護の頭梁総講頭池田先生により、始めてその実現の大光明を顕わさんとしている」(大日蓮 昭和42・11)と。  まさに昭和四十七年完成の正本堂を指して直に御遺命の戒壇≠ニいっているではないか。  そしてついには細井管長も、曖昧さを捨てて大それた表現をするに至る。それが昭和四十三年一月の  「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華 昭和43・1) の文である。まさしく昭和四十七年完成の正本堂を、直に御遺命の戒壇≠サして広宣流布達成≠ニ言い切っている。  ここに小生は、もしこの御遺命破壊の大悪を黙止すれば大聖人の御叱りを受けると恐れ、必死の諫訴に立ち上がった。  この諫訴状「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を見た細井管長は大いに驚き、直ちに小生を本山に招き説得せんとした。しかし小生の問い詰めにより、かえって「本当は国立戒壇が正しい」旨の本心を吐露したうえ、小生との約束を違えず、三日後の昭和四十五年四月六日の虫払法会において、「正本堂は御遺命の戒壇ではない」旨の説法をしたのであった。  しかし、正本堂の誑惑を承認し協力して来たそれまでの経緯から、もし池田が巻き返したとき、細井管長がこれに抵抗することは難しく見えた。  そこで小生は、学会の圧力から猊座を守るべく、学会代表と論判を重ね、ついに昭和四十五年九月十一日、「正本堂を御遺命の戒壇とは言わない」旨の確認書を学会に作らせ、貴殿ら宗務役僧立ち合いのもと学会代表に署名させ、これを細井管長のもとに収めたことは、先般の「対決申し入れ書」にも述べた。  この確認書により、学会・宗門から、正本堂を御遺命の戒壇とする誑惑の言辞は、一時にそして完全に消えた。このような状況下の昭和四十六年八月二十日、小生宅を訪れた貴殿は顔色を革め居住まいを正し、「妙信講の言うところ大聖人の御意に叶えばこそ、宗門の大勢も変わった。宗門がここまで立ち直れたのも妙信講のおかげ……」と神妙の挨拶をしたこと、よもお忘れではあるまい。  だが宗門は、またしても学会の圧力に屈してしまったのである。――それは、正本堂完成を前にして、池田大作がいよいよ正本堂の意義を闡明することを、強く宗門に求めたからである。  かくて発布されたのが、昭和四十七年四月二十八日付の「訓諭」なのである。  この訓諭は、さきの「確認書」を強く意識しているから、正本堂の完成時を以て御遺命成就・広布達成≠ニいう表現こそ避けているものの、広布の暁には御遺命の戒壇となるべき建物≠ニ決定していることは、前述のごとくである。  この訓諭により、未来にわたって正本堂以外に御遺命の戒壇はないということになり、したがって国立戒壇は抹殺される。――これが、この訓諭を発布させた池田の魂胆、そして彼が守るべき最後の一線であった。  だが、広宣流布以前に「本門寺の戒壇」を前もって建てておくなどということ自体が、御本仏の御遺命を蹂躙するの甚しきものである。  よって小生は訓諭発布のその日に、これを出さしめた池田大作に書状を以て公場対決を申し入れた。  このとき貴殿は池田の走狗よろしく、宗務院文書を以て「訓諭に従い、公場対決を撤回せよ」と命令してきた。この「訓諭に従い」とは、正本堂を御遺命の戒壇と認めよ、という意味ではなかったのか。この自語相違、どうする。  貴殿はこのときすでに、池田大作が「総指揮」を執る、学会の首脳幹部だけで構成された「妙信講作戦」グループの一員に特別に用いられていた。  そして「教義論争」担当として池田に命ぜられるまま、訓諭に準じて書いたのが、かの「国立戒壇論の誤りについて」の悪書であった。この書中、貴殿は訓諭を引き、文意を次のように解釈している。 「右文中『一期弘法抄、三大秘法抄の意義を含む―』とは、正本堂が広宣流布の暁が来たとき、本門寺の戒壇となるべき大殿堂である、という意味である。従って正本堂は現在直ちに一期弘法抄、三大秘法抄に仰せの戒壇ではないが、将来その条件が整ったとき、本門寺の戒壇となる建物で、それを今建てるのであると、日達上人が明鑑あそばされ、示されたのが此の度の訓諭であろう」と。  宗門全僧俗も訓諭をこのように理解していた。当時宗会議員・参議会議長であった高野永済(現日海)は、宗門僧侶を代表する形で、訓諭に対する領解を宗門機関誌「大日蓮」に次のごとく発表している。 「私などは法門未熟で、かつては遠い未来の慶事として、戒壇建立を待望し夢見て来たのであります。然るに、御法主日達上人猊下は、時を鑑み、機を観ぜられて、今私達が大石寺に建立するこの雄大壮麗な正本堂そのものが、そのまま広布の暁に、本門寺の戒壇となる大殿堂なりと御訓諭遊ばされ、現実化されたのであります」と。  これらを見れば、訓諭の意はまことに明々白々、誰の目にも明らかではないか。これでもなお汝は、大道香具師のいかさま博打よろしく「たるべき」などの小道具を用いて文意をごまかし、訓諭は正本堂を御遺命の戒壇になることを決定していない≠ネどと嘘をいうつもりか。  この御遺命違背の訓諭が広く滲透するを見て、小生は多くの学会員を御遺命の正義にめざめさせるべく、組織的な活動を起こした。  このとき貴殿はまたも学会の走狗のごとくして、宗務院文書を以て妙信講の護法の活動を「猊下の訓諭に敵対し、宗門ならびに創価学会を誹謗中傷する所為」と決めつけ、処分を前提とした弁疎を求めて来た。  これに対し小生は返書の中で「最近配布された阿部教学部長の曲論(国立戒壇論の誤りについて)のごとき、邪智にまかせて一を三と読む。まさに御金言に弓を引く者、これをこそ師虫と申すべきである。……あくまで正本堂は御遺命の最終の戒壇と云い切る所存なりや。もし訂正の意志あらば、速かにその意を示し給え。妙信講の小を以てその言を卑しむならば、後に悔ゆること必定である」と、貴殿の無節操と無道心を強く呵責した。  その直後、貴殿は細井管長に辞表を提出し、有馬温泉に長く身を潜めたのであった。これ、訓諭が御遺命違背なることをよくよく知るゆえに、心に怖畏を生じたゆえの所作であろう。  かくて池田大作は、妙信講が宗門に在る限り、いずれ正本堂の誑惑は崩れ、国立戒壇の正義も蘇ってしまうと恐れ、妙信講を抹殺すべく、宗門に解散処分をなさしめた。  その宣告書が  「『国立戒壇の名称は使用しない』旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付『訓諭』に対して異議を唱え……」であった。  まさしく国立戒壇を主張したことと、正本堂を御遺命の戒壇と定めた訓諭に随わなかったとの二つを処分理由にしていること、一目瞭然ではないか。また道理から言っても、国立戒壇の否定と正本堂の誑惑は表裏一体の関係であるから、この二つに随わぬことが処分理由になっていることは、理の当然なのである。  しかるに汝は  「日達上人御自身が、正本堂を直ちに御遺命の戒壇と認め≠トおられないのに、何故に貴殿に対して正本堂を御遺命の戒壇と認めないゆえ≠理由に処分することがあろうか」  などと見えすいた嘘をつく。  では、どうしてこのような、三歳の童にもわかる嘘をつかねばならぬのであろうか。――その理由はただ一つ。それは、肝心の正本堂が消滅してしまったからである。  大聖人は誑惑不久の実例を報恩抄に  「糞を集めて栴檀となせども、焼く時は但糞の香なり。大妄語を集めて仏とがうすれども、但無間大城なり。尼●が塔は数年が間利生広大なりしかども、馬鳴菩薩の礼をうけて忽ちにくづれぬ。鬼弁婆羅門がとばりは多年人をたぼらかせしかども、阿湿縛窶沙菩薩にせめられてやぶれぬ」  と仰せあそばす。  大聖人の御法魂まします唯一の正系門家において、正本堂のごとき大それた誑惑を、どうしていつまでも許し給うか。ゆえに大聖人は顕正会をして立たしめ諫暁せしめ、諸天をして自界叛逆を起こさしめ、ついに正本堂を崩壊せしめ給うたのである。まさに誑惑は不久、正本堂の誑惑はわずか二十七年であった。  この厳然たる御本仏の仏意・力用、汝ごとき無道心の者にはとうていわかるまい。  よいか――。あれほど癒着していた汝と池田の間に疑心暗鬼が生じて「修羅と悪竜の合戦」が始まったのも、また池田が汝をシアトル裁判の法廷に引きずり出してその醜行を学会弁護団に嬲らせたのも、さらに汝がこれに憤激して池田の誇る正本堂を打ち壊わしてしまったのも――すべてはこれ、御本仏が為さしめ給うたこと、仏力の所作なのである。この不思議、汝にわかるか。  かくて正本堂が消滅したいま、正本堂は御遺命の戒壇となるべき殿堂≠ニ定めた訓諭などは、どうしても反故にしなければならない。それが、この見えすいた嘘となったのである。またこの訓諭に基づいて書いた二冊の悪書も、今となっては幕引きをしなければならない。それが昨年八月の全国教師講習会における「正本堂がなくなった現在、その意義を論ずることは全くの空論」との破廉恥発言となったのである。  それにしても、処分理由に「国立戒壇」だけは残していることに、改めて第六天の魔王の影を感ずる。  以上、解散処分理由についての欺瞞のみをここに粉砕したが、一事が万事、「邪義班」文書の虚偽とたばかりはすべてこのていである。ぜひとも対決の場において、眼と眼を合わせて汝の三大謗法についての欺瞞の一々を、断固として打ち砕かなければいけない。    三、対決回避の謂れなき事  だが「邪義班」文書は、文末にいたって対決逃避を明確にする。云く  「貴殿は、勝手な約定≠定め対決を申し入れているが、当方は『狂人走って不狂人走る』の愚を犯すつもりは毛頭ない。また御法主上人におかれては、貴殿の『対決せよ』などという、身勝手極まる要求を受け入れられるべき道理は微塵もないのである。すなわち貴殿がいかなる分際か。身の程をしれ。そもそも貴殿は(中略)宗規に照らして日蓮正宗信徒を除名されたものである。つまり貴殿は名実共に謗法の徒なのであり、勝手に『富士大石寺』を詐称し、徒党を組んで、その会長なるものを名乗っているが、その組織も、その会長である貴殿も、日蓮正宗及び大石寺とは全く無関係であることを念告する」と。  これがどうやら、対決を逃避する理由らしい。冒頭の文と同じくここでも「身の程をしれ」といっている。よほど「身の程」が気になるようだ。――つまり小生および顕正会に対し、除名・解散処分に付されたのだから「謗法の徒」「謗法団体」である。よって対決に応ずる道理はないと言っているわけである。  では尋ねよう。  もし身延派や念仏宗等が貴殿に対決を申し入れてきたら、「謗法の徒だから応じられぬ」というつもりか。謗法の徒なればこそ責めなければならぬのではないか。謗法を責めぬ者は仏弟子ではないのである。  大聖人は仰せあそばす。  「謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明かし暮さん者は、法師の皮を著たる畜生なり。法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども、法師となる義は一もなし。法師と云う名字をぬすめる盗人なり。恥づべし、恐るべし」(松野抄)と。  もし対決を回避すれば、貴殿は「法師の皮を著たる畜生」「法師と云う名字をぬすめる盗人」となってしまうが、それでもよいか。それとも、「すでにそうなっているから今さら驚かぬ」とでもいうか。  詮ずるところ、三大謗法を犯している汝こそが「大謗法の痴れ者」なのである。だからこそ御遺命を守り奉る者に対し、眼を合わせられぬのであろう。  また貴殿の所行を宗規に照らせば、第二三四条の「教義上の異説を唱え又は信仰の改変を企て、訓誡を受けても改めない者」に相当するではないか。  そのゆえは、御本仏一期の御遺命が広宣流布の暁に国家意志の表明を以て建立される「国立戒壇」であることは、三大秘法抄の金文に赫々、歴代上人の遺文に明々である。しかるにこの御遺命に背き、また謗法与同し、さらに大御本尊を偽物呼ばわりした行為は、まさしく「教義上の異説を唱え又は信仰の改変を企て」に当るのである。そしてこれを犯した罰則は、「本宗より擯斥し僧籍を削除する」とある。  これを逃れんとして「邪義班」文書は、三大謗法について嘘に嘘を重ねているが、すべては対決によって白日の下に晒される。早くこれを実現しなければいけない。  同時に、小生の脳裡から寸時も離れぬ憂いは、戒壇の大御本尊のご安危である。濫りの御開扉は必ず大御本尊への危害を招く。これを防ぎ奉ることは刻下の急務である。  御開扉について堀日亨上人は  「開山上人は、これ(私注・本門戒壇の大御本尊)を弘安二年に密附せられて、正しき広布の時まで苦心して秘蔵せられたのであるが、上代にはこのことが自他に喧伝せられなかったが、いずれの時代(中古)からか、遠き広布を待ちかねて特縁により強信により内拝のやむなきにいたり、ついに今日のごとき常例となったのは、もったいない限りである……」(富士日興上人詳伝)  と述べられているが、ここに言われる遠き広布を待ちかねてのやむなき内拝≠ニ、いま貴殿が強行している「御開扉」とは、その精神において天地の相違がある。  貴殿がいま為しているのは「内拝」ではない、恐れ多くも戒壇の大御本尊を利用し奉っての「御開扉料稼ぎ」である。  だから貴殿は常に法華講員に対し「登山せよ、登山せよ」と鞭を打つ。その実態は例の「三十万総登山」を見ればよくわかる。実数五、六万人に過ぎぬ法華講員に、三十万人登山を強要すること自体が無理・無謀なことである。だが貴殿はこれを強行した。ために、期間内に同一人が何回も登山させられ、それでも足りずに「付け願い」による員数合わせが行われた。  「付け願い」とは、実際に登山しなくとも「御開扉料」だけ出せば員数に加えるという制度らしいが、三十万登山が始まる直前の平成十四年三月末に、宗務院はこれを「新たな措置」(大日蓮平成14・5)として打ち出したではないか。  これを「御開扉料稼ぎ」といわずして何か。日寛上人の御指南には「名利の僧等の仏法を以て渡世の橋と為すが如し」(撰時抄文段)とあるが、いま転その思いを強くする。  このような濫りの御開扉が続行されれば、必ずや近き将来、恐るべき事態が起ころう。第六天の魔王が、どうしてこのような隙を狙わぬ道理があろうか。  すでに今は広布の前夜・末法濁悪の直中であれば、戒壇の大御本尊を憎嫉し敵意を懐く集団・個人は無数である。汝の「河辺メモ」の謗言によって、どれほどの魑魅魍魎が勢いづき、大御本尊に対し奉り軽賎憎嫉の悪言を谺させていることか。汝は知るや――。そしてこれらの悪人あるいはその手先が、法華講員を装って奉安堂に入ることはきわめて容易である。かくてもし爆発物等が仕掛けられたら、いかなる事態が惹起するであろうか。この大禍、汝の万死を以てしても償えるものではない。  もちろん、戒壇の大御本尊は金剛不壊の仏身にしてまします。しかしながら、あらゆる事態を想定して厳護し奉るは、仏弟子の最大の責務である。ゆえに日有上人の、あるいは幕末より維新にかけての日霑上人・日胤上人の、時に際しての必死の処置を拝見するのである。  日寛上人の仰せに云く  「問う、文底深秘の大法その体如何。答う、即ち是れ天台未弘の大法・三大秘法の随一、本門戒壇の御本尊の御事なり。乃至、此の本尊は広布の根源なり」と。  かかる、かけがえのない最極無上・尊無過上の法体たる戒壇の大御本尊のご安危こそ、まさしく一閻浮提第一の大事なのである。  されば、直ちに濫りの御開扉を中止し、近き広布のその日まで、日興上人の御心のまま、もっぱら秘蔵厳護し奉るべきである。  しかしながら怖畏懺悔の心なき貴殿には、この憂いも通じまい。よって一気に勝負を決し、御本仏大聖人の御意に応え奉るの方は、対決以外にはない。  ゆえにここに重ねて対決を申し入れるものである。    四、約定  約定はすでに提示してあるが、小生が場所を「大石寺大客殿」と特定したのを見て、その後、「破門した者を総本山大石寺客殿に招くことなどできぬから、対決はあり得ぬ」などとする怪文書が出廻わっており、あたかも「大石寺大客殿」としたことが対決回避の正当理由になっているごとくにも見えるので、客殿以外の場所をも当方で契約した。この追加箇所を含めて、念のため約定を再度ここに示す。  @場所 大石寺客殿、もしくは国立横浜国際会議場(ただし国際会議場の場合は、期日を平成十七年六月八日、同二十七日のいずれかとする)。  A日時 対決の応諾あり次第、双方の委員協議して速かに決定する。  B聴衆人数 双方各二千五百名。  C勝負の判定 回答不能に陥った者を敗者とする。  D勝負決着後の責務   ○小生が敗れた時は、直ちに顕正会を解散する。   ○貴殿が敗れた時は、直ちに御開扉を中止し、貴殿は猊座を退き謹慎する。  なお対決は貴殿と小生の一対一で行うものとするが、万一にも貴殿不都合の場合は、貴殿と同等の責務(D項所定)を負うことを條件として、僧侶・信徒を問わず代人を立てることを認める。諾否の返報は本書面到達後、七日以内とする。 以上の定めを以て、重ねて対決を申し入れる。      平成十七年四月二十七日                         冨士大石寺顕正会会長                                浅井昭●   日蓮正宗管長      阿部日顕殿