対決を逃避した阿部日顕管長に 「最後に申すべき事」 冨士大石寺顕正会 会長浅井昭衞        目   次 序――これまでの経緯 5 第一章  「法主絶対論」等の欺瞞を破す 9    (一)「法主は大御本尊と不二の尊体」の欺瞞 9    (二)「顕正会もすでに広宣流布≠ニ言った」の嘘 15    (三)「顕正会も正本堂に賛同した」の嘘 17 第二章  「御遺命破壊」についての反論を破す 26     一、「二冊の悪書」についての釈明の欺瞞 27     二、「国立戒壇」に対する誹謗 35      (一)「三大秘法抄」を拝し奉る 37      (二)歴代先師上人の文証 42     三、「国主立戒壇」の誑惑 44 第三章 「戒壇の大御本尊」に対し奉る誹謗を破す 54       「Gは話にならない」  61 第四章 謗法与同を破す 69        布教師会一行の件 69        田中日淳一行の件 71        山崎正友の大謗法 72 結章  最後に申すべき事 79    一、直ちに不敬冒涜の御開扉を中止せよ 80    二、速やかに退座し謹慎せよ 84    序――これまでの経緯  小生は平成十七年三月二十五日、貴殿に対し「対決申し入れ書」を送附した。  その趣旨は――  御本仏日蓮大聖人の御法魂まします唯一の正系門家・富士大石寺において仏法が濁乱すれば、「仏法は体のごとし世間は影のごとし、体曲れば影ななめなり」の御金言のまま、日本は必ず亡びる。しかるに貴殿は、三大謗法を犯して大聖人の仏法を破壊している。その三大謗法とは  一には御遺命の破壊――大聖人の一期の御遺命が、広宣流布の暁の国立戒壇建立であることは御付嘱状・三大秘法抄に明々白々であるにもかかわらず、貴殿は池田大作に諂って、「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」の二冊の悪書を著わして国立戒壇の正義を抹殺し、今日なおも「国主立戒壇」なるたばかりを主張して、国立戒壇を否定し続けている。  二には戒壇の大御本尊に対し奉る誹謗――昭和五十三年二月七日、貴殿は河辺慈篤との面談において、あろうことか戒壇の大御本尊を「偽物」と断ずる重大な悪言を吐いている。  三には謗法与同――貴殿は身延派の謗法僧を、再三にわたり大石寺に招き入れた。  この三大謗法に加え、貴殿は法華講員に登山を強要し、営利を目的とした御開扉を強行している。この濫りの御開扉は、戒壇の大御本尊に対し奉る不敬冒涜のみならず、大御本尊に害意を懐く悪人にその隙を与えるものである。  以上の重大なる仏法違背を見ながら知りながらこれを黙止すれば、大聖人への不忠これに過ぎたるはない。その上、小生の貴殿に対する諫暁はすでに三十五年の長きに及んでいる。ここに事を切らんがため、公開の対決を申し入れたものである。  ゆえにこの対決においては、勝負決着後の双方の責務として、「小生が敗れた時は、直ちに顕正会を解散する」「貴殿が敗れた時は、直ちに御開扉を中止し、猊座を退き謹慎する」とし、またもし貴殿不都合の場合は代人をも可とした。  この「対決申し入れ書」に対し四月二日、「日蓮正宗青年僧侶邪義破折班」名儀で、返書が送られて来た。しかしその内容たるや、三大謗法を隠さんとして嘘に嘘を重ね、その余は下劣な悪口のみというものであった。  しかも肝心の対決の応否については  「貴殿ごとき大謗法の痴れ者が、宗開両祖以来、唯授一人の血脈を承継遊ばされる御法主日顕上人猊下に対決を申し入れるなど言語道断である。身の程を知れ」  と居丈高に罵った上で  「貴殿および顕正会は、すでに除名・解散処分に付されたのであるから、謗法の徒・謗法の団体である。よってかかる者の対決申し入れに応ずる道理はない」(取意)  として対決を逃避した。  しかしこの除名・解散処分こそ、御遺命に背く学会・宗門が、諫める顕正会(当時妙信講)を抹殺するために下した不当・理不尽の処分であれば、これを以て対決回避の理由とするは、あまりに卑劣かつ無慚である。  よって小生は「重ねての対決申し入れ書」を四月二十七日に送附した。  貴殿は前回同様の名儀で五月四日、返書を送って来た。だがその内容は前にもまして支離滅裂で下劣、ただ追いつめられた苦しまぎれに虚言と悪口を並べただけという代物であった。  そして肝要の対決については、小生を「驕慢の凡夫」「謗法の一在家」と罵り、顕正会を「謗法の一在家団体に過ぎぬ顕正会」「日蓮正宗の仏法の猿マネしている集団」と嘲った上で、顕正会の命運を賭してのこの護法の対決申し入れを、なんと「大悪謗法の謀略に過ぎない」と決めつけた。そして結論として  「かかる貴殿の非道極まる申し入れ≠ネどに対し、責任あるお立場の御法主上人がお受け遊ばされることなど、絶対に有り得る筈のない道理であり、また本宗僧俗もそのような馬鹿げた申し出をお受けされることには絶対に反対申し上げる。さらにまた本宗僧俗の誰人にせよ、そのような非道な申し入れ≠、御法主上人に代って責任をもって受けることなど出来よう筈もない」  として、完全に逃げた。  貴殿にもし確信あるならば、この対決は貴殿の障りとなる顕正会を除く無二の好機であったはずである。しかるにこれを逃避した事実こそ、すべてを物語ってあまりある。所詮、御遺命に背き奉る者が、命かけての護法者と、眼あわせての対決など為し得るはずもないのである。  ただし、これでは事は済まない――。  御本仏大聖人の御心に背く貫首によって唯一の正系門家が濁乱するならば、日本が亡んでしまうからである。  さればここに、貴殿の返書における嘘とたばかりを粉砕すると共に、三大謗法を犯して一分の改悔なき貴殿の、天魔その身に入った正体を白日に晒し、以て大聖人の御裁断を仰ぎ奉るものである。  以下、返書の虚偽と欺瞞を粉砕するが、返書は「日蓮正宗青年僧侶邪義破折班」の名儀になっている。しかし小生は、貴殿が当該名儀を装って書いたものと看做して論を進める。また貴殿はすでに御本仏に背き奉ったこと決定の人なれば、以下、二人称を「汝」とする――。    第一章「法主絶対論」等の欺瞞を破す  返書において汝は、己れの三大謗法の疵を隠すため、初めに「法主絶対論」を振りかざして問答無用と威し、さらに小生の過去の発言を歪曲しては誣言を並べている。よってこのたばかりを、まず打ち砕いておかねばならない。   (一)「法主は大御本尊と不二の尊体」の欺瞞  古来、偽者ほど己れを荘厳り箔づけをするものであるが、汝はいま「法主絶対論」をふりかざし、問答無用の姿勢を取り続けている。  されば返書に云く  「御当代法主上人の御内証は、本門戒壇の大御本尊の御内証と而二不二にてまします」と。  つまり阿部日顕は戒壇の大御本尊と不二の尊体≠ニいうわけである。だが、このたばかりを打ち摧くのに、難しい理屈はいらぬ。「一切は現証には如かず」(教行証御書)と。汝の所行を見れば、たばかりは一目瞭然となるではないか。  よいか――。  戒壇の大御本尊と「不二の尊体」という者が――どうして御本仏一期の御遺命を破壊せんとするのか。戒壇の大御本尊を「偽物」などと言うのか。身延の謗法僧を大石寺に招くのか。これらはまさしく魔の所行ではないか。  また「不二の尊体」が、どうして芸者あそびなどに現をぬかそうか。信徒の血のにじむ供養を三十億円も浪費して都内の一等地に超豪邸を二つも造ろうか。これらは「法師の皮を著たる畜生」の所行ではないか。  涅槃経には  「もし仏の所説に随順せざる者あらば、是れ魔の眷属なり」とある。御本仏の御遺命に随順しない者は、魔の眷属なのである。  また摩耶経には  「なお猟師の外に袈裟を披て、内に殺害を懐くが如く、魔も亦た是くの如し。外には聖の像を為し、内には邪謀を挟む」と。  魔は尊げなる姿で身をかざり、内心に仏法破壊をたくらむとある。  ゆえに大聖人は最蓮房御返事に  「第六天の魔王、智者の身に入りて正師を邪師となす」  と仰せあそばす。まさに知るべし。「戒壇の大御本尊と一体不二」と嘯く汝の正体こそ、第六天の魔王その身に入る醜体以外の何者でもない。  しかるに汝は、さらに己れの身をかざらんとして、御本尊七箇之相承の「代代の聖人云々」の御文、および百六箇抄末文の「日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」の御文を引いて  「そこに本宗僧俗が御当代の御法主上人を合掌礼をもって拝し奉り、御指南に信伏随従し奉る所以がある」  などという。つまり「法主」は即大聖人であるから合掌礼をし、かつその御指南を絶対として信伏随従せよ――と言っているのだ。これでは「法主本仏論」ではないか。  御本尊書写に関わる「七箇之相承」の金文を歪曲悪用して、阿部日顕即大聖人≠ネどとたばかってはいけない。このたばかりを打ち摧くのに深秘の御法門を論ずる必要がないことは、前と同様である。  また百六箇抄の御文は「嫡々付法の上人」についての仰せであって、汝ごとき詐称「法主」はこれに当らない。  汝ごとき三大謗法を犯した詐称「法主」がこれらの金文を振りかざすは、あたかも弓削道鏡が三種の神器の貴重を論じ、万世一系の権威を誇るようなものである。  さらに返書に云く  「そもそも戒壇建立とは唯我与我の日興上人への御遺命である。そしてまた日目上人以来、代々の御法主上人に受け継がれている重大なる御使命なのである。すなわち広宣流布の進展の上に、その一切は御法主上人が御仏意を拝され、御決定遊ばされる専権事項であられる。貴殿ら謗法者が容喙できる事柄ではない」  前には「不二の尊体」「法主即大聖人」といい、ここには戒壇建立は「法主の専権事項」という。  恐るべきことは、このような法主絶対論を振りかざす者が、もし大聖人の御遺命に背いて己義を構えたら、そのとき仏法は破壊されてしまうのである。広布前夜には、魔の働きによりこのようなことも必ず起こる。  ゆえに二祖・日興上人は  「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事」  と厳重の御遺誡を遺し給うたのである。  しかし汝はこの誡文を前にしても、なお「法主が己義を構えることなどあり得ない」と強弁するであろう。  だが、もし起こり得ないことならば、二祖上人のこの一条は無用の贅言となるではないか。これまた「現証には如かず」である。中古の精師の「随宜論」等はさて置く。六十六、七の二代にわたる物狂わしき誑惑こそ、まさしく広布前夜のそれに当るではないか。  まず六十六世・細井日達管長がいかに己義を構えたかを見てみよう。  それは、天を地というごとき自語相違を見れば明らかである。同管長は登座直後には、御遺命のままに正義を述べていたが、池田大作に諂うや忽ちに誑言を吐いている。  例せば「国立戒壇」においても  「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが日蓮正宗の使命である」(大白蓮華 昭和35年1月号)と。これは正論である。ところが忽ちに  「国立戒壇は本宗の教義ではない」(大日蓮 昭和50年9月号)となる。  また「事の戒壇」についても  「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は、広宣流布の時の国立の戒壇であります」(大日蓮 昭和36年5月号)  と正論を述べていたのが、後には  「この(戒壇の)御本尊在すところは事の戒壇でございます。だからその御本尊が、たとえ御宝蔵にあっても、あるいは唯今奉安殿に安置し奉ってあっても、あるいは今正に出来んとする正本堂に安置し奉っても、その御本尊在すところは何処・何方でも、そのところは即ち事の戒壇であります」(昭和45・4・27・教師補任式)  と変わる。これでは、いったいどちらを信じたらいいのだ。このように、「法主」であっても魔が入れば仏法相違の己義を構えるのである。  よって、かかる非常事態においては、大聖人の御金言を本として仏法を守護しなければいけない。この誡めを日興上人は  「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事」  とお示し下されたのである。  だが、己義を構える貫首にとっては、この一条ほど痛く邪魔なものはない。そこで細井管長は、この文意を改変して宗内に押しつけている。  そのさまを見よ。登座直後の「遺誡置文」の講義録では、次のごとく述べていた。  「後世の総本山の代表たる貫主であっても大聖人の仏法に違背して自分勝手な説を立てて固執するならば、その説は勿論、その貫主を用いてはならない。日興上人は大聖人の仏法を守るためには、かくの如く実に厳格であったのである」と。  ところが顕正会の諫暁によって自身の己義が露見するや、次のように文意を改変した。  「時の貫主とは、その宗の頭、即ち現在の管長であり法主である。管長であるから宗門を運営するに当って、誰を採用し、任用してもよいのであるが、大聖人の仏法に違背して自分勝手な説を立て、しかも注意されても改めない人を用いてはならない。つまり、時の貫主の権限を示されているのである」(同講義録 昭和47・7・20版)  何とも恥しらずな二枚舌ではないか。この姿こそ、「時の貫首」でも魔が入れば、仏法相違の己義を構えるという一例である。だが細井管長の誑惑は粗雑であり、汝のたばかりは深く巧みである。よってその罪はより深い。   (二)「顕正会もすでに広宣流布≠ニ言った」の嘘  汝は顕正会を貶めるため、血眼になって小生の過去の発言を調べたものと見える。昭和四十年当時の一文を切り文して、次のごとく文意を歪曲する。  返書に云く  「まずはじめに、貴殿が昭和四十年には、『すでに広宣流布の時はきております』(富士 昭和四〇年八月号)と、当時が、すでに広宣流布の時である、との認識を示していることを挙げておこう。貴殿は口癖のように日達上人・日顕上人に対し、『広宣流布以前に立てた正本堂を御遺命の戒壇≠ニいうためには、広宣流布の定義を変えなくてはならぬ。そこでさまざまなたばかりが行われた』(正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む)等との邪難をするが、貴殿にこのような発言があることを、顕正会員は知らないに違いない」  さらに次の返書にも重ねて  「なぜなら貴殿も昭和四十年には、『すでに広宣流布の時はきております』(富士 昭和四〇年八月号)と、当時が、すでに広宣流布の時である、との認識を示していたからである。貴殿にこのような発言があることを知ったら顕正会員はさぞ驚くに違いない」と。  鬼の首でも取ったようなはしゃぎぶりである。よほど嬉しかったと見え、二度の返書に引用している。小生のこの発言が、池田大作や細井管長が正本堂を建てるに当って「すでに広宣流布している」と言った誑惑と同じ、と嗤っているのである。  馬鹿も休み休みいうがよい――。  昭和四十年といえば、顕正会(当時妙信講)にとっては「試練と忍従」の真っ只中であった。池田大作は手先の法華講連合会を使って、学会に平伏せぬ顕正会を潰そうとしていたのだ。その暗闇のトンネルのような中での死身弘法が、昭和四十年にやっと四千に達した。そしてこれを機に、一万めざしての幹部大会を開いた時の小生の決意が、この  「すでに広宣流布の時は来ております」  の発言である。  この意は、当時、世の中は大不況のただ中にあり災害も続いていた。よって大衆は悩みの中に御本尊を待っている。すでに広宣流布すべき時は来ている。一万めざし死身弘法をしよう≠ニ、全幹部を励ましたものである。  前後の文を読めばこの意は了々ではないか。だいいち、風前の灯のような状況下での四千達成で、どうして「広布達成」などという理由があろうか。馬鹿もほどほどにせよと言いたい。    (三)「顕正会も正本堂に賛同した」の嘘  さらに返書は  「つぎに、貴殿が正本堂の意義に賛同し、正本堂御供養にも参加していたという証拠を示そう」  として、小生の昭和四十年五月二十五日の総幹部会における発言を引く。これもよほど嬉しかったと見え、二度も繰り返している。顕正会だって我々と同じだったのだ≠ニ貶めたいのであろう。  顕正会が正本堂の供養に参加したのは事実である。  だがそれは――正本堂を奉安殿の延長として、国立戒壇建立の日まで戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し奉る堂宇、すなわち「大御宝蔵」「大奉安殿」として供養に参加したのである。  事実、正本堂の建立寄進を細井日達管長に申し出た池田大作も、最初は正本堂と広布の暁に立てられるべき本門戒壇とを、明確に区別していた。彼が始めて正本堂建立寄進を発表したのは、昭和三十九年五月三日の学会総会においてである。  「総本山日達上人猊下に、正本堂を建立、ご寄進申し上げたい。(中略)正本堂の建立は、事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれが最後なのであります。したがって、あとは本門戒壇堂の建立を待つばかりとなります」(聖教新聞 昭和39・5・3)と。  この時点では、明らかに正本堂は奉安殿の延長、すなわち「大奉安殿」の意が明瞭であった。  だが、これより九ヶ月後、池田はこの正本堂を「御遺命の戒壇」とすり替えるため、これを細井管長の口から言わせようとした。それが昭和四十年二月十六日の第一回正本堂建設委員会における細井管長の説法となる。  池田はこの説法を以て「正本堂建立は実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成である」と宣伝した。  しかしこの時の細井管長の説法は趣旨きわめて曖昧にして玉虫色、与えて論ずれば正本堂を奉安殿の延長としているごとくであり、奪ってこれを論ずれば池田の誑惑に同ずるというものであった。  なぜこのような曖昧な説法になったのかといえば、一方に池田の要請があり、一方に御本仏の御遺命に背くことの恐ろしさを感じていたゆえと思われる。  そして細井管長は、この曖昧な説法のあとも池田の宣伝とは関わりなく、同年の学会総会、また法華講集会においても、正本堂の意義については、ただ  「戒壇の大御本尊を安置し奉るところの正本堂」(昭和40・5・3学会総会)  「大客殿の奥深く戒壇の大御本尊を安置し奉ることは、本宗の相伝であります」(昭和40・8法華講連合会大会)  とのみ述べている。この「大客殿の奥深く」とは、紛れもなく広布の暁を待つ御宝蔵の意なのである。  さらに、昭和四十年九月に発布された正本堂の供養勧募の「訓諭」においてさえ、正本堂を御遺命の戒壇とは一言もいわず、ただ  「日達、此の正本堂に本門戒壇の大本尊を安置して、末法一切衆生の帰命依止、即身成仏の根源となさんと欲するなり。宗内の僧俗は、一結して今生に再度となき此の大事業に随喜して自ら資力の限りを尽して供養し奉り、信心の一端を抽んでられんことを望む」  とだけ宣していたのである。  このように、正本堂が広宣流布のその日まで、国立戒壇建立のその日まで、戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し奉る堂宇であれば、供養の赤誠を尽くすのは信徒として当然である。ゆえに顕正会はこの供養に参加したのである。  一方、学会においては前述のごとく、細井管長の最初の説法以来、正本堂を御遺命の戒壇≠ニ、しきりと宣伝した。  しかし小生は「然るべき時に、必ずや猊下がこの誑惑を打ち摧いて下さる」と期待していた。  それは日興上人の御遺誡に  「衆議たりと雖も仏法に相違有らば、貫首之を摧くべき事」  とあるからである。ことは宗門の一大事たる戒壇建立に関わること、しかも細井管長の説法を根拠として池田の誑惑が進められているのであれば、この「仏法相違」を打ち摧くのは、貫首一人の責務であり権能でもあった。  だが細井管長は、その後もただ黙しているだけであった。  そして、顕正会のこの供養参加に対し、池田の傀儡となっていた法華講連合会が、「妙信講にはさせない」と騒ぎ出し、本山をも動かした。  かくて顕正会の赤誠の供養は、無残にも本山から突き返されたのである。この背後に池田の意志があったことはいうまでもない。彼の目には、全宗門僧俗が己れの威を恐れ随う中に、ひとり正本堂を事の戒壇といわぬ顕正会の存在が目障りに映ったに違いない。そこで「法主の意」として供養金を突き返し、その衝撃で顕正会を窒息死させようとしたのである。  時の総監・柿沼広澄が法華講連合会の平沢益吉委員長に「これで妙信講は空中分解する」と伝えたのも、この時であった。  一方、全僧侶の諂いに意を強くした池田大作は、誑惑の悪言をいよいよエスカレートさせた。  昭和四十二年五月の学会総会では、三大秘法抄を引用した上で  「この戒壇建立を、日蓮大聖人は『時を待つ可きのみ』とおおせられて、滅後に託されたのであります。以来、七百年、この時機到来のきざしはなく、日蓮大聖人のご遺命は、いたずらに虚妄となるところでありました。だが『仏語は虚しからず』のご金言どおり、(中略)七百年来の宿願である正本堂建立のはこびとなったのであります」  さらに同年十月の正本堂発願式では  「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年史上空前の偉業なり」  と発誓願文を読み上げた。  これを承けて学会発行の書籍も一斉に、正本堂を御遺命の戒壇と断定するようになった。折伏教典には  「戒壇とは、広宣流布の暁に本門戒壇の大御本尊を正式に御安置申し上げる本門の戒壇、これを事の戒壇という。それまでは大御本尊の住するところが義の戒壇である。(中略)昭和四十七年には、事の戒壇たる正本堂が建立される」  仏教哲学大辞典には  「日蓮大聖人は本門の題目流布と、本門の本尊を建立され、本門事の戒壇の建立は日興上人をはじめ後世の弟子檀那にたくされた。(中略)時来って、日蓮大聖人大御本尊建立以来六百九十三年目(昭和四十七年)にして、宗門においては第六十六世日達上人、創価学会においては第三代池田大作会長の時代に、本門の戒壇建立が実現せんとしている」  「正本堂建立により、日蓮大聖人が三大秘法抄に予言されたとおりの相貌を具えた戒壇が建てられる。これこそ化儀の広宣流布実現である」と。  まことに天を地といい、白を黒といいくるめるほどの欺瞞、誑惑、たばかりである。  これを見て、宗門高僧らも、先を争うようにこの大誑惑に双手を挙げて賛同した。彼らは、大聖人の御眼よりも、池田大作に睨まれるのを恐れていた。池田の寵を得て栄達することを願っていたのである。  その最右翼が、教学部長・阿部信雄であった。汝の正本堂発願式における諛言を引こう。  「宗祖大聖人の御遺命である正法広布・事の戒壇建立は、御本懐成就より六百八十数年を経て、現御法主日達上人と仏法守護の頭領・総講頭池田先生により、始めてその実現の大光明を顕わさんとしている」(大日蓮 昭和42年11月号)  御遺命の事の戒壇が昭和四十七年に実現する、と言い切っているではないか。宗門の教学部長の発言であれば重大である。  これに続いて高僧らの阿諛が続く。  佐藤慈英宗会議長は  「この正本堂建立こそは、三大秘法抄に示されたところの『事の戒壇』の実現であり、百六箇抄に『日興嫡々相承の曼荼羅をもって本堂の正本尊となすべきなり』と御遺命遊ばされた大御本尊を御安置申し上げる最も重要な本門戒壇堂となるので御座居ます」(同前)  椎名法英宗会議員は  「『富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ』との宗祖日蓮大聖人の御遺命が、いま正に実現されるのである。何たる歓喜、何たる法悦であろうか」(同前)  菅野慈雲宗会議員は  「正本堂建立は即ち事の戒壇であり、広宣流布を意味するものであります。この偉業こそ、宗門有史以来の念願であり、大聖人の御遺命であり、日興上人より代々の御法主上人の御祈念せられて来た重大なる念願であります」(同前)と。  そして翌昭和四十三年一月には、細井管長までもが露わな誑言を述べるようになる。  「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華昭和43年1月号)と。  昭和四十七年の正本堂完成時を以て「御遺命は成就」「広布は達成」と、ついに言い放ったのである。  そのような空気の中、顕正会を嫉視する法華講連合会委員長・平沢益吉から、四箇条の詰問状が、妙信講・指導教師の松本日仁住職を通して、小生に突きつけられた。この詰問は、宗務院・連合会連絡会議の席に松本住職を呼びつけてなされ、平沢の発言を阿部教学部長が筆記して手渡したものである。その詰問状はいま小生の手許にある。  このうち三ヶ条は取るに足らぬ言いがかりであったが、一ヶ条は重大であった。  それは、小生が正本堂を事の戒壇と認めぬことを詰り、返答を求めたものである。詰問状には  「今の正本堂は事の戒壇ではない。奉安殿が狭くなったので、広い処へ移すためだけのものである、と妙信講では指導している」  とあり、回答を迫っている。このとき平沢は「許しがたい。返答の次第では池田大作総講頭に伝え、妙信講を取り潰して見せる」と凄んだという。  この一事を見れば、「顕正会も正本堂の意義に賛同していた」などのたばかりは、消し飛ぶであろう。  このとき私は、この「詰問」に大聖人の厳たる御命令を感じた。  「法を壊る者を見て責めざる者は、仏法の中の怨なり」(滝泉寺申状)  「もし正法尽きんと欲すること有らん時、まさに是くの如く受持し擁護すべし」(立正安国論)  「むしろ身命を喪うとも教を匿さざれ」(撰時抄)  この御金言が耳朶を打った。もしこのまま放置すれば、昭和四十七年の正本堂落成の日に、御本仏の御遺命は完全に破壊されてしまうではないか。この重大事を見ながら知りながら、黙止すれば最大の不忠となる。――この思いが込み上げたとき、それまで心の片隅にあった「いつか猊下が誑惑を摧いてくれるであろう」の期待も、「本門戒壇という重大法義に口出しは恐れあり」との逡巡も、一時に霧消した。  「黙っていたら大聖人様に申しわけない。大聖人様のお叱りを受ける。たとえ一命に及ぶとも、妙信講が潰されようと、何の悔いがあろう」  ただこの一念で、昭和四十五年三月、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の一書を認め、細井管長および宗務役僧、さらに学会首脳にこれを送附したのである。  以来、連々の諫訴・呵責は今日まで三十五年。その間、宗門あげての悪口も、理不尽なる解散処分をも耐え忍んだ。これ偏えに、大聖人の御心に叶い奉らんの一念以外にはない。  かかる一筋の忠誠を貫く顕正会を、汝ごとき阿諛の売僧が仮初にも毀るは、まさに「糞犬が師子王をほへ、癡猿が帝釈を笑う」にも似ている。    第二章 御遺命破壊についての反論を破す  すべての犯罪に動機があることは、世法・仏法ともに同じである。  では、宗門教学部長の要職にあった汝が、なぜに御本仏の一期の御遺命を破壊せんとするほどの大罪を犯したのかといえば、それは名利である。宗門を牛耳る権力者・池田大作の寵を得れば、宗門の最高位にも登れると夢見たのであろう。  当時、選挙に狂奔する池田にとって、評論家たちの「学会が目的とする国立戒壇は、政教分離を規定した憲法に違反する」との批判はもっとも痛かった。ここに彼は国立戒壇を否定するのに「民衆立の戒壇・正本堂」という誑惑を思いついた。そして汝に「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」という二冊の悪書を書かせ、あたかも正本堂が御遺命の戒壇に当るかのごときたばかりをさせたのである。  汝はもとより、大聖人の御遺命が国立戒壇であることはよくよく知っている。にもかかわらず、自身の栄達のため、この恐るべき大罪に与したのであった。  そして今、御遺命に背いた罰によって、汝と池田大作との間に自界叛逆ともいうべき仲間割れが生ずると、汝は卑怯にも一切の罪を池田に着せ、己れは被害者のような顔をして二冊の悪書の幕引きを図っている。  だがその中にも、「国立戒壇」についてだけはあくまでも否定を続けている。そしてさらに今、「国主立戒壇」なる新たなたばかりを言い出していることは、断じて許されない。  御遺命破壊についての汝の釈明・反論は、まさに支離滅裂ですべてがごまかしであるが、まず二冊の悪書についての釈明からこれを破する。    一、「二冊の悪書」についての釈明の欺瞞  汝は二冊の悪書を書いた理由について、返書に  「当時、教学部長をしていたものだから、結局、日達上人の御指南を承りつつ、私が書くことになってしまった」(取意)  などと、あたかも被害者のような顔をしているが、これは真っ赤な嘘。実は池田の特命を受け、チャンス到来とばかり、この大悪事を引き受けたのである。  学会の内部文書「妙信講作戦」によれば、「国立戒壇論の誤りについて」を書く三ヶ月も前に、汝はすでに池田大作の下での対妙信講「教義論争」の担当となっていたではないか。その初仕事が、この悪書執筆だったのである。  また同じく「妙信講作戦」には、汝の担当がもう一つ「宗門対策」と記されている。これは、小生の諫暁に揺れ動く細井管長および宗門僧侶の動静を監視・報告することを任務としていた。  これら当時の状況を見れば、「日達上人の御指南を承りつつ」の何と白々しいことか。悪書執筆に当って、汝の指南役を務めたのは細井管長ではなく、池田が差し向けた学会の弁護士・検事グループだったことが、何よりこれを雄弁に物語っている。  さらに汝は悪書執筆について、次のようにたばかる。  「日達上人は御本意としては、御遺命の戒壇は未来のことであり、正本堂は三大秘法抄の戒壇ではないと考えておられた。ゆえに昭和四十五年四月六日の虫払大法会における御説法があった。しかし日達上人は、僧俗一同が戒壇を建立せんとの願望をもって建てるのであり、僧俗一同を慰撫教導されるべく、正本堂の意義を御指南された。それが昭和四十七年四月二十八日の訓諭である。この日達上人の御意を体し、私は『国立戒壇諭の誤りについて』を著した」(取意)と。  何もかも知りながら、細井管長の昭和四十五年四月六日の虫払法会における説法を、あたかも細井管長が自発的信念で本意を述べたごとく言うのは、いかにも狡猾である。この説法が、その三日前に小生が細井管長と対面した際の強き諫めによって実現したものであることは、汝こそよくよく知っているではないか。  自発的な信念でなかったからこそ、池田に巻き返されれば、またすぐ元の誑惑に戻ってしまったのである。  見よ。その十一日後の四月十七日には、池田に強要されたのであろう、小生に対し電話で、次の事項に随うよう唐突に言って来た。  「@日蓮正宗を国教にする事はしない。A国立戒壇とは云わない、民衆立である。B正本堂を以て最終の事の戒壇とする。C今日はすでに広言流布である。よって事の戒壇も立つのである」  これを小生にメモさせ、何としてもこれに随ってほしいと、震える声で伝えて来られたのである。  以来、細井管長は、小生の諫めに値えば本心を取り戻し、池田に会えばまた誑惑に協力するという変節を繰り返したのであった。  そのような中で、池田の強き圧力と小生の諫めに挟まれながら、ついに池田に屈して出してしまったのが、あの訓諭だったのである。  だから、虫払法会の説法を細井管長の信念にもとずく「御本意」のごとくいうのも、訓諭が「僧俗一同を慰撫教導するため」に出されたというのも、またこの意を体して汝が「国立戒壇諭の誤りについて」を書いたというのも、すべては真っ赤な嘘である。  大事なことであるから、当時の事実経過を示しておく――。  細井管長が前述の四ヶ条を電話で伝えて来たとき、小生は、学会の圧力から猊座を守るには、学会を抑えて確認書を作らせる以外にはないと決意した。  その戦いの手始めが、細井管長の面前で学会代表と論判することであった。この論判は、早瀬日慈総監の斡旋で、昭和四十五年五月二十九日に実現した。学会代表は秋谷現会長ら三人。勝負が決したとき、細井管長は秋谷らに  「正本堂は三大秘法抄に御遺命された戒壇ではないのです。まだ広宣流布は達成されてません。どうか学会は訂正して下さい」  と頼むようにいわれた。これを聞いた秋谷らは、「今さら何を」という面持ちで、憤然として席を立った。  その後、小生は秋谷らに再三にわたって面談を求め、会うたびに理を以て追いつめては、執拗に「確認書」を求めた。  そしてついに昭和四十五年九月十一日、「正本堂を、三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命された戒壇とは言わない」旨の確認書を学会に作らせ、宗務役僧立ち合いのもとこれに署名させ、細井管長のもとに収めたのである。  この確認書により、学会のあらゆる書籍から誑惑の文言は一時に消えた。もちろん宗門からも消えた。汝が拙宅を訪れ、「妙信講のいうところ、大聖人の御意に叶えばこそ、宗門の大勢も変った。宗門がここまで立ち直れたのも、妙信講のおかげ……」等と神妙に挨拶したのも、この時であった。  これで、御遺命は辛じて守られた。もう正本堂の落成時に「御遺命の戒壇成就」ということはあり得ない、と小生は思った――。  だが、池田の執念は凄まじかった。正本堂の落成を前にして、細井管長に正本堂の意義を示す訓諭を出さしめたのである。その訓諭には  「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」  とあった。  これは、さきの「確認書」を意識するゆえ、落成時の正本堂を直ちに御遺命の戒壇とは言わなかったものの、広布の暁には正本堂がそのまま「本門寺の戒壇」となる≠ニ定義したもの。つまり御遺命の戒壇となる建物を前もって建てておいたというものであった。  この訓諭により、正本堂以外に将来国立戒壇が建立されることは否定された。――これが、この訓諭に込められた池田大作の狙いであった。  しかし、広布以前に戒壇の建物を建てておくこと自体が、重大なる御遺命違背である。ゆえにこのたばかりを成功させるためには、どうしても三大秘法抄の文意をねじ曲げなければならない。そこで池田は、この大役を、汝にやらせたのである。池田は汝の白を黒といいくるめる詭弁の特才と、諂いと、出世欲を見抜いていたのだ。  しかるにいま汝が二冊の悪書について  「当時、教学部長をしていたものだから、結局、日達上人の御指南を承りつつ、私が書くことになってしまった」  などと云っているのは、いかにも見えすいている。さらに  「当時においては慰撫教導の為のものであったが、時間が経過し、状況が変化した現在では、言い過ぎにも思える」  などと言いわけしているが、もしこれが「慰撫教導」に当るなら、暴力団に便宜を与えた警察署長も慰撫教導となるではないか。まさしく二冊の悪書は、池田に阿諛追従して三大秘法抄の心を死し奉った、大謗法の書なのである。  どのように三大秘法抄の御心を死したか、具体的に挙げよう。汝は同抄の文々句々を切り刻んで次のごとく文意を曲げた。すなわち  「王法」は「政治をふくむあらゆる生活の原理」とし  「王臣一同」は「民衆一同」とし  「有徳王」は「池田先生」とし、「したがって現在も王仏冥合の時と云える」と云い  「勅宜・御教書」を「建築許可証」とし  「時を待つべきのみ」を「前もって建ててよい」  とたばかったのである。そしてこの曲会の結論として  「三大秘法抄の戒壇の文全体に対し、今迄述べ来たった拝し方において当然いえることは、現在戒壇建立の意義を持つ建物を建てるべき時であるという事である。(中略)これに反対し誹謗する者は、猊下に反し、また三大秘法抄の文意に背くものとなる」と言い切った。  大聖人御入滅後七百年、宗の内外を問わず、三大秘法抄の御聖意をここまで破壊した悪比丘は一人もない。まさしく正系門家における「師子身中の虫」とは、教学部長・阿部信雄その人であった。  そして昨年、小生が著した「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」が大規模に配布され、宗門全僧俗の耳目にふれるや、黙っていられなくなった汝は、八月の全国教師講習会で、二冊の悪書の言いわけをする。  「昭和四十七年の『国立戒壇論の誤りについて』と五十一年の『本門事の戒壇の本義』は、先程から言っているように私が書いたけれども、そこにはたしかに、戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまで正本堂の意義を『三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかったのです。つまり、あの二書は正本堂が出来る時と出来たあとだったが、浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで、強いて言えば全部、正本堂そのものに関してのことなのであります。そういうことですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論である」  これを見れば、「妙信講作戦」における「教義論争」の担当として書いたことが、行間に現われているではないか。それにしても、いまになって責任のすべてを池田に転嫁しているのはまことに卑劣。また「今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども……正本堂がなくなった現在、全くの空論である」とは、何たる無道心、無責任の言であろうか。  御本仏を欺き奉った大罪、また数百万信徒をたぶらかした罪禍は、世親・馬鳴のごとき命をかけた懺悔なくしては、永劫に消えない。  しかるに今回の返書では、この大謗法を責める小生に反論できぬ腹癒せか、かえって悪態をつく。  「これらの貴殿の長たらしい愚論は、まさに愚癡の論なのである。(中略)すでに消滅した正本堂について何を言っても、それは不毛の論である。いつまでも、うじうじと過去に執着する貴殿の愚痴の論に対し、宗門は何の痛痒も感じるものではない」と。  「何の痛痒も感じない」のは「酔えるが如く狂えるが如く」の無道心だからだ。後生を恐れぬ提婆が、阿鼻の炎に身を焼かれるまでは何の痛痒も感じなかったのと同じである。  そもそも正本堂は、国立戒壇を否定するために建てた誑惑の戒壇である。これが大聖人の御威徳によって崩壊した今、厳たる仏意を恐れて直ちに「国立戒壇」の正義に立ち返るべきなのに、汝は、国立戒壇についてだけは、なお頑強に誹謗を続けている。  この飽くなき固執こそ、天魔その身に入るの姿なのであろう。    二、「国立戒壇」に対する誹謗  まず汝の国立戒壇否定の執念を示そう。  昨年の教師講習会においては  「道理から言っても国立戒壇は誤りですから、『国立戒壇論の誤りについて』のなかにおいて、国立戒壇が間違いだと言ったことは正しかったと思っております。ただ王法の解釈と、正本堂の建物についてのことでは書き過ぎがあった」といった。  そして今回の返書では  「今日貴殿が主張する『国立戒壇』はどこまでも己義であり、邪義なのである」  さらに小生が「御本仏一期の御遺命が広宣流布の暁に国家意志の表明を以て建立される『国立戒壇』であることは、三大秘法抄の金文に赫々、歴代上人の遺文に明々である」と述べたことに対して  「三大秘法抄の御文をもって『国立戒壇』の依拠とするなどは、まったくの己義我見の誑惑である」といい  「未だ広宣流布達成のはるか以前に、●慢の凡夫の分際で、かつ謗法の一在家に過ぎぬ貴殿が、『国立戒壇』でなければならぬなどと、仏法の大事に口をさし挿むこと自体がおこがましい限りである」  と悪態をついた。  小生が三大秘法抄の御意に基づき正義を述べたことが「おこがましい限り」なら、同じく「広宣流布達成のはるか以前」に、勅宣・御教書を建築許可証などとたばかった汝はどういうことになるのか。天に唾してはいけない。  およそ三大秘法抄は、広布前夜に魔障出来して本門戒壇について異議が生ずることを慮られ、敢えて留め置き給うた重書である。  そしていま、聖慮のごとく、御遺命の戒壇について、門家に重大な異議が生じている。このとき、もし三大秘法抄の御聖意を拝して強盛に正義を立てなかったら、かえって不忠となるのである。  「おこがましい」どころか、聖意を立てて破法の悪人を呵責しなければ、仏弟子ではないのである。    (一)三大秘法抄を拝し奉る  汝は「三大秘法抄の御文をもって『国立戒壇』の依拠とするなどは、まったくの己義我見の誑惑」と言ったが、果してそうか。  何よりも、三大秘法抄の御聖意を本としてこれを判じなければならぬ。二冊の悪書で曲会の限りを尽くした汝には、これは忌しいことであろうが、すべからく御金言を本とすべきである。  三大秘法抄に云く  「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つべきのみ」と。  「王法」とは、広義には国家、狭義には国家に具わる統治主権・国家権力、さらに人に約して国主・国主の威光勢力等を意味する。つまりすべて国家統治にかかわる概念である。御書四百余篇における用例、ことごとくこの意であられる。汝のいう「あらゆる生活の原理」などの意は微塵もない。往いてこれを検べよ。  そしてこの「王法」に通・別がある。通じては時の統治権力あるいは国主はいずれも王法である。  「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」(四条抄)  「当世の学者等は畜生の如し、智者の弱きをあなずり、王法の邪をおそる」(佐渡御書)  等がこれである。  しかし日本は三大秘法有縁の妙国であれば、仏法守護の本有の王法が久遠より存する。これが皇室であり、別しての「王法」である。  「日本国に代始まりてより已に謀叛の者二十六人、第一は大山の王子、第二は大山の山丸、乃至、第二十五人は頼朝、第二十六人は義時なり。二十四人は朝に責められ奉り獄門に首を懸けられ山野に骸を曝す。二人は王位を傾け奉り国中を手に拳る。王法既に尽きぬ」(秋元御書)と。  時の政治権力者となった頼朝・義時をなお謀叛の者とされ、皇室のみを別しての「王法」とされていること、御文に明らかである。  さらに大聖人の御遺命を奉じ給う日興上人は  「仏法と王法とは本源躰一なり、居処随って相離るべからざるか。乃至、尤も本門寺と王城と一所なるべき由、且つは往古の佳例なり、且つは日蓮大聖人の本願の所なり」(富士一跡門徒存知事)と。  この御指南を拝見すれば、別しての「王法」、および王仏冥合の究極の事相は、炳呼として明らかである。但し、無道心の汝にこれを論じても詮ないことであれば、いまは且くこれを置く。  では、謹んで本文を拝し奉る。  「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して」とは、国家が宗教の正邪にめざめ、日蓮大聖人の三大秘法こそ唯一の衆生成仏の大法・国家安泰の秘法と認識決裁し、これを尊崇守護することである。  およそ国家・国政の目的は、国土の安全と国民の安寧にある。そしてこれを実現する秘法が仏法である。ここに王法と仏法が冥合すべき所以がある。ゆえにもし国家が日蓮大聖人の正法にめざめれば、これを国家の根本の指導原理、すなわち国教として用いるのは当然である。ゆえに四十九院申状には  「夫れ仏法は王法の崇尊に依って威を増し、王法は仏法の擁護に依って長久す」  と仰せられるのである。  では、王法と仏法が冥合した時の、国家の具体的な姿相はどのようなものか。それを示されたのが次文の  「王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」  である。すなわち日本国本来の国主たる天皇も、国政の衝にある各大臣、そして全国民も、一同に本門戒壇の大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉り、この大御本尊を守護するにおいては、有徳王・覚徳比丘の故事のごとくの身命をも惜しまぬという護法心が一国にみなぎった時──と仰せられる。  大聖人はかかる国家状況が、末法濁悪の未来日本国に必ず現出することをここに予言・断言され、かかる時を、戒壇建立の「時」と定め給うておられるのである。  しかるに汝は、未だこの「時」も到来しないのに、俄に建てた正本堂を御遺命の戒壇と偽り、池田大作を「有徳王」、細井管長を「覚徳比丘」などとたばかった。恥ずかしくないか、恐ろしくないか。  さて、上述のごとき王仏冥合・王臣受持の「時」が到来しても、なお直ちに戒壇を建立することは許されない。ここに大聖人は建立に当っての必要手続≠、厳重に定め給うておられる。それが  「勅宣並びに御教書を申し下して」である。「勅宣」とは天皇の詔勅。「御教書」とは当時幕府の令書、今日においては国会の議決、閣議決定等がそれに当る。すなわち「勅宣・御教書」とは、まさしく国家意志の公式表明なのである。  この手続こそ、日蓮大聖人が全人類に授与された「本門戒壇の大御本尊」を、日本国が国家の命運を賭しても守護し奉るとの意志表明であり、これは取りも直さず、日本国の王臣が「守護付嘱」に応え奉った姿でもある。  では、なぜ大聖人は「国家意志の公式表明」を戒壇建立の必要手続と定められたのであろうか。  謹んで聖意を案ずるに、戒壇建立の目的は偏えに仏国の実現にある。仏国の実現は、国家レベルでの三大秘法受持がなくては叶わない。その国家受持の具体的姿相こそ「王仏冥合」「王臣受持」の上になされる「勅宣・御教書」の発布なのである。  かくて国家意志の表明により建立された本門戒壇に、御本仏日蓮大聖人の御法魂たる「本門戒壇の大御本尊」が奉安されるとき、日本国の魂は即日蓮大聖人となる。御本仏を魂とする国は、まさしく仏国なのである。  しかるに汝はこの大事の「勅宣・御教書」を、「建築許可証に過ぎない」と誑った。この罪科はどれほどであろうか。  次に「霊山浄土に似たらん最勝の地」とは、場所についての御指示である。ここには地名の特定が略されているが、日興上人への御付嘱状を拝見すれば「富士山」たることは言を俟たない。そして日興上人は広漠たる富士山麓の中には、南麓の「天生原」を戒壇建立の地と定めておられる。天生原は大石寺の東方四キロに位置する昿々たる勝地である。  ゆえに日興上人の「大石寺大坊棟札」には  「国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於て、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」 と記され、この相伝にもとずいて第二十六世・日寛上人は  「事の戒壇とは、すなわち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり。御相承を引いて云く『日蓮一期の弘法 乃至 国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』と云々」(報恩抄文段)とお示し下されている。  「時を待つべきのみ」とは、広宣流布以前に建立することを堅く禁じた御制誡であり、同時に、広宣流布は大地を的として必ずや到来するとの御確信を示し給うたものである。  かくのごとく三大秘法抄の御聖意を拝し奉れば、御遺命の戒壇とは、まさしく王仏冥合・王臣受持の時、国家意志の公式表明を以て建立される「国立戒壇」であること、天日のごとく明らかではないか。  ゆえに歴代先師上人は異口同音に「国立戒壇」を熱称されて来たのである。    (二)歴代先師上人の文証  血脈付法の正師の御指南は重要であるから、煩を厭わず重ねてこれを示す。  第六十五世日淳上人は  「大聖人は、広く此の妙法が受持されまして国家的に戒壇が建立せられる、その戒壇を本門戒壇と仰せられましたことは、三大秘法抄によって明白であります」(日蓮大聖人の教義)  第六十四世日昇上人は  「国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年、今日に至れり。国立戒壇こそ本宗の宿願なり。三大秘法抄に『戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に三大秘密の法を持ちて、乃至、勅宣並に御教書を申し下して建立する所の戒壇なり』と。之れは是れ、宗祖の妙法蓮華経が一天四海に広宣流布の時こそ之の時なり」(奉安殿落成慶讃文)  日淳・日昇両上人ともに、三大秘法抄を以て「国立戒壇」の依拠とされていること、明々ではないか。  たとえ本抄の引用を略すとも、その意は同じである。  されば日淳上人は  「この元朝勤行とても(中略)二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての、広宣流布祈願の勤行を伝えたものであります」(大日蓮 昭和34年1月号)  第五十九世日亨上人は  「宗祖・開山出世の大事たる政仏冥合・一天広布・国立戒壇の完成を待たんのみ」(大白蓮華11号)  「唯一の国立戒壇、すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する」(富士日興上人詳伝)  さらに云く  「本門戒壇には、むろん本門の大曼荼羅を安置すべきことが当然であるので、未来勅建国立戒壇のために、とくに硬質の楠樹をえらんで、大きく四尺七寸に大聖が書き残されたのが、いまの本門戒壇大御本尊である」(富士日興上人詳伝)  「本門戒壇大本尊。(中略)戒壇国立の時、安置すべき本尊にして、彫刻は日法上人なり。宗祖より開山日興上人に遺属せられし唯一の重宝、今宝蔵に安置す」(堀ノート・大石寺誌)  以上のごとく三大秘法抄および先師の御指南を拝すれば、まさしく「国立戒壇は三大秘法抄の金言に赫々、歴代上人の遺文に明々」である。これを否定するのは、三大秘法抄の御聖意を蹂躙し死した、汝以外にはないのである。   三、「国主立戒壇」の誑惑  正本堂が崩壊してもなお国立戒壇を否定する汝は、「では、いったい御遺命の戒壇とはどういうものか」と問われれば詰まる。そこで次のようにごまかしている。  「未来における広布の上からの『三大秘法抄』『一期弘法抄』の事の戒壇の目標と、その戒壇の建物というのはいったい、どういうものかと言うと、これは今、論ずるべきことではありません。それこそ本当に不毛の論であります。(中略)要するに、御遺命の戒壇は『一期弘法抄』の『本門寺の戒壇』ということであります。だから未来の戒壇については『御遺命の戒壇である』ということでよいと思うのです」(大日蓮 平成16・12月号)  「御遺命の戒壇とは御付嘱状の『本門寺の戒壇』だ」では、答えになってない。その「本門寺の戒壇」とは、いかなる時、いかなる手続で、どこに建てられるべきかを、明らかにしなければいけない。  そのことは三大秘法抄に赫々明々ではないか。しかるに汝は、「今、論ずるべきことではない」「不毛の論である」という。なぜいま論ずべきことではないのか。これ、三大秘法抄を曲会した罪人には今さら言えぬ≠ニいうことなのであろう。  しかしそれでは「法主」の沽券にかかわる。そこでおずおずと打ち出したのが、「国主立戒壇」である。  思いつきのまやかしだから、全く信念がない。  「御遺命の戒壇とは、すなわち本門寺の戒壇である。さらに本門寺の戒壇ということについて、浅井達は『国立戒壇』と言っているけれども、御遺命という上からの一つの考え方として『国主立戒壇』という呼称は、意義を論ずるときに、ある程度言ってもよいのではなかろうかと思うのです」(同前)  大事の御遺命を論ずるのに、「ある程度言ってもよいのではなかろうか」とは何事か。さらに自信なげに続ける。  「しかし、私は『国主立ということを言いなさい』と言っているわけではありません。ただ私は、国主立という言い方もできるのではなかろうかという意味で言っているだけで、正規に大聖人が我々に示され、命令された御戒壇は何かと言えば御遺命の戒壇、いわゆる本門寺の戒壇であります」(同前)  この確信のなさこそ、御遺命に背いた者の惨めな姿である。これでは、対決を逃げるのも無理はない。  しかし、何とか格好をつけねばならぬから、幼稚きわまる論を展開する。  「大聖人の御金言に照らせば、あくまで『国主此の法を立てらるれば』なのであり、『国主』つまり『人』が信仰の主体者なのである。『国』とは人が生活する『国土』であり、非情なものであるから『国』が信仰を受持することはあり得ない。信仰を受持するのは『国土』に生活する『国主』であり、言うならば『国主立戒壇』となるのである」(返書)  御付嘱状に「国主此の法を立てらるれば」とあるから「国主立」だという。また「国」とは国土で非情世間だから、「国」が信仰を受持することはあり得ないとして、国立戒壇を否定する。  反詰する。  「国」とは果して非情の国土か。いま石綿禍が社会問題となって、連日新聞紙上には「国の不作為」「国が調査」「国を訴える」「国が救済」等の言葉が飛び交っているが、この「国」とは、果して非情国土の意か。ことごとく国家を指しているではないか。  仏法においても然り。御書を拝見すれば  「仏法に付きて国も盛へ人の寿も長く、又仏法に付きて国もほろび人の寿も短かかるべし」(神国王御書)  「一切の大事の中に国の亡びるが第一の大事にて候なり」(蒙古使御書)  等と仰せられているが、この「国」が果して非情の国土か。  また立正安国論には  「国は法に依って昌え、法は人に因って貴し。国亡び人滅せば、乃至、先づ国家を祈りて須く仏法を立つべし」  「帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。而るに他方の賊来たりて其の国を侵逼し、乃至、国を失ひ家を滅せば、何れの所にか世を遁れん」と。  まさしく「国」を即「国家」と仰せられているではないか。幼稚な論で国立戒壇を否定しては、世間の人にも笑われよう。  また汝は「国主此の法を立てらるれば」の御文を以て「国主立」と短絡しているが、これもごまかしである。  御付嘱状のこの御文は、実に三大秘法抄における「王仏冥合、王臣受持、勅宣・御教書」等、戒壇建立に関わる「時」および「手続」を、一言に要約し給うた金文である。すなわちご付嘱に際しての「以要言之」の鳳詔であられる。ゆえにその御意、全く三秘抄と全同である。  しかるに汝は、まやかしの「国主立戒壇」を指して「一期弘法抄の御文のそのものずばり」と自讃する。ではその内容はどのようなものかといえば  「その内容を考えてみたとき、今は主権在民だから国主は国民としたならば、こういう主旨のことは日達上人も仰せになっているし、学会も国立戒壇に対する意味において色々と言ってはいたわけです。だから国主が国民であるならば、国民が総意において戒壇を建立するということになり、国民の総意でもって造るのだから、そういう時は憲法改正も何もなく行われることもありうるでしょう。ところが、国立戒壇ということにこだわるから、あくまで国が造るということになり、国が造るとなると直ちに国の法律に抵触するから、どうしても憲法改正ということを言わなければならないような意味が出て、事実、浅井もそのように言っているわけです。だから国主立、いわゆる人格的な意味において国民全体の総意で行うということであるならば、憲法はどうであろうと、みんながその気持ちをもって、あらゆる面からの協力によって造ればよいことになります。(中略)しかし、私は『国主立ということを言いなさい』と言っているわけではありません。ただ私は、国主立という言い方もできるのではなかろうかという意味で言っているだけで……」(大日蓮 平成16・12月号)  と歯切れが悪い。なんとも確信のない、逃げ腰の説明である。  それもそのはず──。言わんとしている「国主立戒壇」とは、国家と無関係に建立することにおいて、全く正本堂と同じだからだ。池田はこれを「民衆立」と言い、汝はこれを「国主立」と云ったが、ただの言い換えに過ぎない。そして共に現憲法を至上とし違憲を恐れていることも通底している。  池田と仲間割れをした現在もなお、正本堂と同じたばかりを以て国立戒壇を抹殺せんとしているこの姿に、魔の執念を見る思いである。  ついでに言っておく。  汝は憲法改正をあたかも悪事のごとく忌避しているが、マッカーサーが占領政策の一環として日本に与えた憲法が、それほど至上にして不磨の大典のごとくに見えるのか。いまや世間においてすら、日本国憲法はさまざまな矛盾を抱えているとして、改憲論者はすでに国民の過半に及んでいるではないか。  いわんや仏法の眼を以て見れば、未だ国家安泰の秘法の存在も、王仏冥合の深意も知らない蒙昧の中に生まれたのが現憲法であれば、やがて広宣流布した暁には、仏法に準じて憲法が改正されるのは、当然の理といわねばならない。  しかるに憲法に準じて仏法を曲げるとは、まさに靴に合わせて足指を切るに等しい。このような愚かさにいつまでも囚われているのは、定めて二冊の悪書執筆の際、学会の検事・弁護士グループに特訓を受けたトラウマのゆえであろう。  また汝は、改憲を忌避する理由の一つに、その困難さを挙げている。  「浅井に言わせれば、憲法を改正すればよいのだと言うのですが、現実問題として今日の日本乃至世界の実情を見るに、簡単に憲法を改正することはできない」(同前)と。  これは本末顛倒の論理である。困難なのは、憲法改正よりも広宣流布なのだ。もし一国が日蓮大聖人に帰依し奉る広宣流布が実現したら、憲法改正に誰人が異を唱えよう。まさに憲法改正などは、広布に付随して実現する事柄なのである。  また「国主とは国民」というのも、たばかりだ。──このたばかりは、すでに二冊の悪書で汝が述べた趣旨そのままであれば、まさに病膏肓というべきである。  もし国民が国主であるとすれば、日本には一億二千万人の国主がいることになる。国主は一人でなければ、国家は成り立たない。  ゆえに報恩抄には  「国主は但一人なり、二人となれば国土をだやかならず」とある。  政治学では、国家を成立させる三要素として「領土と人民と主権」を挙げているが、この中の主権こそ、仏法にいう王法である。この主権とは、対外的には独立性を、国内的には国民および領土を支配する最高普遍の権力を意味する。そしてこれを人に約せば国主・国王・統治者・政治権力者となる。  ゆえに内房女房御返事には  「王と申すは三の字を横に書きて一の字を竪さまに立てたり。横の三の字は天・地・人なり、竪の一文字は王なり。乃至、天・地・人を貫きて少しも傾かざるを王とは名けたり」と。  仰せの「天・地」とは領土に当り、「人」とは人民に当る。これを貫き支配するのが「王」すなわち主権である。ここに国家が成り立つ。このように国家というものの本質を見れば、国民はあくまでも被治者なのである。  では「主権在民」とはいかに、ということになるが、これは言葉が正確さを欠いているのであって、その本質は、民意を政治権力に反映し得る仕組みというに過ぎない。  ゆえに「国民を国主」と言うのは、未だ国家の本質を知らぬ無智のゆえか、あるいは為にするたばかりなのである。  そこにいま、汝は国家と無関係に国民総意で建てる戒壇を「国主立」と称し、これなら「憲法改正も必要なし」と述べているが、ここにこそ、隠された重大な違背がある。  それは、「勅宣・御教書」の厳重の御定めを無視していることである。  繰り返し述べているように「勅宣・御教書」とは、日蓮大聖人の仏法を国家が守護し奉るとの、国家意志の公式表明である。  謹んで案ずるに、本門戒壇の建立とは、戒壇の大御本尊の妙用により、日本を仏国となすの一大秘術である。そしてこれを実現するには、一個人・一団体・一宗門、あるいは漠然たる国民の総意などによる建立では叶わない。実に国家受持がなくては叶わないのである。  ゆえにこの国家受持の具体的姿相を三大秘法抄に、「王仏冥合、王臣受持」と定めた上に「勅宣並びに御教書を申し下して」と仰せられているのである。  まさしくこの「勅宣・御教書」すなわち国家意志の表明こそ、国家受持の決め手なのである。  およそ国家意志というのは、政治形態の如何に関わらず、国家ある限り必ず存在する。さもなければ国家の統営はなし得ない。そして専制政治においては、国家意志は一人の国主によって決せられる。  ゆえに大聖人は、時の国主に正法護持の国家意志の表明を促し給うたのである。しかし鎌倉覇府はこれを用いなかった。  されば下山抄には  「国主の用い給わざらんに、其れ已下に法門申して何かせん。申したりとも国もたすかるまじ、人も又仏になるべしともおぼへず」  と仰せられている。この御聖意、深く拝すべきである。そして末法濁悪の未来日本国には、一国同帰の上に国家意志の表明が必ず実現するとして、ご予言・遺命あそばされたのが三大秘法抄である。  しかるに広宣流布近きを迎えた今、汝は「国民の総意で」といいながら、敢えて国家意志の表明という厳重の御定めを無視している。これが大謗法なのである。  よいか──。たとえ「国民の総意」というとも、そのような漠然たる状態では未だ「国家意志」は成立しない。国民の総意が国会の議決となり、閣議決定となり、天皇の詔勅となって表われてこそ、始めて国家意志は成立するのである。  もし天皇の国事行為は制限されているというなら、改憲すべきではないか。広布の暁なら、これに異を唱える誰人がいようか。  しかるに汝は、池田と同じく現憲法を至上として、御本仏の御遺命を蔑っている。これこそ広布前夜、第六天の魔王が正系門家を壊乱している姿に他ならない。  日蓮大聖人の究竟の大願たる「国立戒壇」を否定するは、その罪まさに御本仏の御眼を抉るに当るのである。深くこれを恐れよ。    第三章 「戒壇の大御本尊」に対し奉る誹謗を破す  あるべからざるこの大謗法がなぜに起きたのか。──その動機は、栄達の道が閉されたと思い込んだ汝の憤懣である。  当時、細井管長は池田大作との不和に身心を労していた。このとき汝は教学部長の要職にありながら、池田に内通していた。これを知った細井管長は汝を疎外し、いわゆる反学会活動家僧侶(後の正信会)を多数身辺に集めて事に当らせた。このため宗務院は事実上機能停止に陥ったのであった。  この反学会活動家僧侶は細井管長の弟子を中心とした若手僧侶で、この中には「次期法主」と目されるような有力僧侶もいた。  ここに出世の芽がなくなったと思い込んだ汝の憤懣が、細井管長への批判だけに止どまらず、恐れ多くも戒壇の大御本尊への八つ当りとなって現われたのである。  信心うすく名利の強い者は、不遇に陥れば反逆の心を懐く。熱原の大法難のときの三位房、また幕末の久遠院日騰等はその先例である。  汝は、昭和五十三年二月七日、腹心の参謀・河辺慈篤と帝国ホテルで会い、その二日後に総本山で開かれることになっていた「時事懇談会」について情報交換をした。  この時事懇談会とは、総本山に反学会活動家僧侶が二百名ほど結集し、学会と手を切るかどうかについて討論するという、容易ならざる集会であった。この緊迫した状況下で、河辺との会談が持たれたわけである。  このとき汝は、反学会僧侶を偏重して宗務院を疎外している細井管長への憤りを吐露すると共に、あろうことか、戒壇の大御本尊に対し奉り八つ当たり的な大それた誹謗をしたのである。  余りのことに仰天した河辺は、汝の発言を記録した。これがいわゆる「河辺メモ」(昭和五十三年二月七日付)である。  メモにはこうある。  S53・2・7、A(阿部)面談 帝国H(ホテル) 一、戒旦之御本尊之件  戒壇の御本尊のは偽物である。  (以下、荒唐無稽の作り話を並べてその理由を説明しているが、口にするさえ恐れ多く、穢らわしいので、ここには略す) 一、G(猊下)は話にならない。人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の事ではGでは不可能だ。 一、Gは学会と手を切っても又二三年したら元に戻るだらうと云う安易な考へを持っている。  ( )内は小生 注  汝は恐れ多くも──  御本仏大聖人の出世の御本懐、全人類成仏の大法、唯授一人血脈付嘱の法体、そして二祖上人が「日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊……」と仰せられ、日寛上人が「就中 弘安二年の本門戒壇の御本尊は究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり」と言い置かれた、最極無上・尊無過上の戒壇の大御本尊を、あろうことか「偽物」と断じたのである。  この「河辺メモ」が流出したのが、二十一年後の平成十一年七月七日。  二人だけの密談であれば、まさかと思っていたことが白日に晒されたのである。驚愕狼狽した汝は二日後の九日、宗務院から通達を発せしめた。  この院達は、事実を全面否定する内容かと思われたが、そうではなかった。汝は「河辺メモ」の存在と面談の事実を認めたのである。ただ発言内容についてだけ  「当時は外部からの戒壇の大御本尊に対する疑難もあり、それらの疑難について、教学部長として河辺師に説明したもの」  として訂正せしめた。  しかし、汝が挙げた荒唐無稽の理由を挙げて戒壇の大御本尊を疑難した者は、七百年来「外部」にはー人もいなかった。  この矛盾に気づいた汝は翌十日、あわてて次の院達を出す。この院達には、河辺に書かせた「お詫びと証言」なる一文が載せられていた。河辺はこの中で  「宗内においても(中略)妄説が生じる可能性と、その場合の破折について話を伺ったものであります。但しこの話は強烈に意識に残りましたので、話の前後を抜いて記録してしまい、あたかも御法主上人猊下が御自らの意見として、本門戒壇の大御本尊を偽物と断じたかのごとき内容のメモとなってしまいましたことは、明らかに私の記録ミスであります。このような私の不注意による事実とは異なる不適切な内容のメモが外部に流出致し、本門戒壇の大御本尊の御威光を傷つけ奉り、更には御法主上人猊下の御宸襟を悩ませ……」等と述べている。  先の院達の「外部からの疑難」が、ここでは「宗内においても生じる可能性のある疑難」と言い変えられている。  しかし宗内においても、汝が挙げた荒唐無稽のヨタ話で戒壇の大御本尊を誹謗した者は一人もない。またその「可能性」すらないのである。  まさに知るべし。大御本尊を偽物呼ばわりしたのは、外部の者でもない、宗内の者でもない、またその可能性があったわけでもない。ただ一人汝が、この大それた悪言を吐いたのである。  宗門の教学部長がとんでもない事を言い出したから、河辺は飛び上がらんばかりに驚いたのだ。だから、頼まれて書いた「お詫びと証言」にも、明らかに矛盾が表われている。  「この話は強烈に意識に残りましたので、話の前後を抜いて記録してしまい、あたかも御法主上人猊下が御自らの意見として、本門戒壇の大御本尊を偽物と断じたごとき内容となってしまいました」と。  「強烈に意識に残った」ことを記録するのに、たとえ話の前後を省略しようとも、「偽物と断じた」のは誰かという主語を間違えることがあり得ようか。だから  「あたかも御法主上人猊下が御自らの意見として、本門戒壇の大御本尊を偽物と断じたごとき内容となってしまいました」  とは、実は間違いでなく、その通りだったのである。  まして「河辺メモ」には、「鑑定の結果解った」とあるではないか。宗内で将来生ずるかも知れぬことを想定しての破折ならば、この一語は平仄が合わない。いったい誰が「鑑定」をしたのか。教学部長・阿部信雄以外にはないではないか。  またもしこれが「記録ミス」であったならば、事はあまりに重大。このような「お詫びと証言」などで済む問題ではない。擯斥処分があって然るべきである。  しかるに河辺は処分どころか、このあと早早に、東京新宿の大寺院・大願寺の住職に「栄転」しているのである。何とも不可解な処置ではないか。  汝はすべてを知っているのだ。「河辺メモ」が極めて正確であることも、そしてこのメモを流出させたのが河辺自身であることも――。ゆえに汝は河辺の口を封ずるため、「大願寺栄転」で取引したのであろう。  だから取引が決着したのち、汝が宗内に送付した「御指南」(平成11・9・18)なる文書には、このメモ流出について、「本人の承諾なく、盗人の手によって」等と述べて、ことさら盗み出されたことを強調している。このことは、もし流出が河辺の意志で行われたとしたら、メモの内容を否定できなくなってしまうからである。  しかし盗まれたのなら、騒ぐのは被害者の河辺自身であるはずだ。ところが河辺は「お詫びと証言」においても「外部に流出し」というだけで、盗まれたとは一言もいってない。そのはずである。メモは盗まれたのではなく、河辺自身が流出させたのだ。  その証拠が、第二弾の「河辺メモ」の流出である。  この第二弾メモは、「お詫びと証言」が載った宗務院通達が出た前日七月九日付の、河辺の直筆メモである。それには メモの件  1、当局の云う通りやるか。  2、還俗を決意して思い通りでるか。  3、相談の結論とするか。   7/9   自坊TeL   宗務院より「河辺の感違い」とのFAX(宗内一般)  とある。この日の夜、河辺は藤本総監ら宗務役僧三人と面談するため、北九州のホテルに投宿している。そこで今後の自身の身の処し方をシミユレーションしたのが、このメモである。  そしてこのメモが、これみよがしに、なんと学会系僧侶が発行している情報紙「同盟通信」に掲載されていた。――ということは、河辺自身がこれを渡した以外にはないのである。  これを見れば、二月七日付の極秘メモも、河辺が流出させたことは一点の疑いもない。  策士・河辺はこのメモで汝を脅し、自身の思惑を達せんとしたのであろう。しかしいま問われているのは、河辺の人格ではない。このメモ流出によって、白日のもとに晒された汝の正体そのものなのである。  少しく二月七日付の「河辺メモ」に触れるが、これによれば、汝は「日禅授与の本尊云々」「模写の形跡云々」等と述べている。  この大それたたばかりを見たとき、小生は、かの善無畏が「法華経と大日経とは天竺にては一経」といって一行をたばかった故事が胸に浮んだ。汝は河辺の無智につけ込み、己が博識を自慢げに、「日禅授与の本尊」を引き合いに出してたばかったのであろう。  弘安三年五月九日の「比丘日禅」授与の御本尊については、小生は法道院において十余回にわたって眼のあたりに拝観している。そして当時の早瀬道応主管より、この御本尊が北山から流出した状況、同日付の御本尊が北山に現存する理由、また応師が明治四十一年にこれを買い取り法道会に奉蔵されたときの状況等、再三にわたり克明にこれを聞いている。  これを以て判ずるに、汝の「模写の形跡云々」の思わせぶりのたばかりなど、裏の裏まで見透せる。  但しここには、これ以上は言わぬ。もし対面の機会あらば、必ずや一刀両断して大御本尊の御宝前に五体投地の懺悔をさせること、小生の不変の決意である。   「Gは話にならない」  この「Gは話にならない」について、汝は返書において  「日達上人に対する不遜の言も、間違いなく活動家僧侶(後の正信会)の発言である」  と見えすいた嘘をついているが、正信会僧侶が、どうしてこのような発言をする必要があるのか。当時の宗門と学会の関係、学会と阿部教学部長の関係、細井管長と活動家僧侶との関係等を知れば、この嘘は即座に崩れる――。  少しくこれを説明しよう。  宗門と学会の癒着に亀裂が入ったのは、顕正会の必死の諫暁による。正本堂落成の翌昭和四十八年十月十四日、池田は正本堂から退出する細井管長を待ち受け、大勢の学会員の前で同管長を面罵した上、学会に十憶円の寄附をするよう要求した。  池田はこの面罵について、後日、側近の原島嵩にこう語っている。  「あのときなぜ怒ったかといえば、妙信講のとき、猊下はあっちについたり、こっちについたりしたからだ。覚えておけ!」(原島嵩「池田大作先生への手紙」)と。  これで、両者の亀裂は決定的となった。  細井管長も反撃した。翌四十九年七月二十七日の「宗門の現況と指導会」では  「おととしの秋ぐらいから、去年を通じ今年の春にかけて、学会の宗門に対する態度と申しますか、色々僧侶に対して批判的であり、また教義的にも逸脱していることが多々ある」  「また、会計を、大石寺の会計を調べるという。……その時に北条さんが云うには、もし調べさせなければ手をわかつ、おさらばする、とはっきり云ったのです。私はびっくりしました。こういう根性じゃ、これは駄目だと。会計を見せなければ、自分ら正宗から手を切ると云うのである」  さらに  「これはもう、このままじゃ話にもならない。もしどこまでも学会が来なければ――それは正本堂を造ってもらって有難いけれども、正本堂はその時の、日蓮正宗を少なくとも信心する人の集まりによって、その供養によって出来た建物であるから、もし学会が来なくて、こっちの生活が立たないというならば、御本尊は御宝蔵へおしまいして、特別な人が来たならば、御開帳願う人があったら、御開帳してよいという、覚悟を私は決めたわけです」  なんと醜い仲間割れか。「こっちの生活が立たない」とならば「御本尊は御宝蔵へおしまい」するという。訓諭の「後代の誠証」とは、この程度のものだったのである。  そして、いわゆる「五十二年路線」を迎える。この年の元旦、池田は宗門を痛烈に批判した上で  「大聖人の御遺命の戒壇建立は創価学会がした。私がしたんです」「もはや御本尊は全部同じです。どの御本尊も同じです」  といって、暗に戒壇の大御本尊を否定蔑如するような発言をした。  池田は正本堂落成以前にすでに「板曼荼羅に偏狭にこだわらない」とも放言している。池田べったりの汝が、この影響を受けないはずがない。河辺への大それた「謗言」も、あるいはこの延長線上にあったのかも知れない。  そして同年一月二日には、学会批判の論文を書いた菅野憲道が学会本部に呼びつけられ、吊し上げられるという事件がおきる。同行した阿部教学部長は、ただ学会の側に立って菅野をたしなめるだけであったという。この菅野憲道への恫喝は、細井管長への威しでもあった。細井管長は憤激した。  さらに同年八月四日、学会は副会長会議を開いて宗門の動きに対する戦略を討議している。その記録によれば  「阿部教学部長が次(次期「法主」)を狙っているので、相対して(連携して)やっていく」「作戦は密を要す」(副会長会議記録)  等と語られている。学会は汝の野心を知り、それを利用して宗門対策を進めようとしていたのである。  この一ヶ月後の九月二日、宗務役僧と学会首脳が学寮で会談しているが、席上、汝は池田大作に対し  「創価学会は末法にあって、今後も出ない団体だと思います」(学寮記録文書)  と諂った上で、僧侶の練成についての伺いを立てている。このとき池田が自身の教学について  「阿部教学部長はどう思われますか。間違っていますか」  と質したのに対し、汝は  「社会に開いた先生の教学はよくわかります。完璧であると思います」  と答えている。細井管長が「学会は教義的に逸脱している」(前掲)と言っているのに、汝は「完璧である」と追従していたのである。次期を狙っての野心がここにも見える。  同年十一月十四日、学会は「僧俗一致の原則(五ヶ条)」「僧俗一致のために(七ヶ条)」「反学会僧侶十一名の処分要求書」を宗務院に提出してきた。これらの案文は学会に都合のいいように作られていた。  これを見た細井管長は憤り、同二十八日に活動家僧侶有志を集めてこう述べた。  「(五ヶ条)は粉砕じゃない。これはもう(学会と)手を切んなきゃだめだと思う」「若い者が結束して、わしを突き上げてくれ。とにかく若い者は結束しなきゃだめだ。バラバラじゃだめなんだ」  ここに細井管長は、学会と手を切ることを決意し明言したのである。  明けて昭和五十三年一月十九日、活動家僧侶一四七名が本山に結集した。そのときの質疑において細井管長は  「(学会を)堂々と大いに破祈せよ。……必ずしっぺ返しが来る。より以上のケンカ、その時こそ腹を決めなけりゃいかんと、私は考えている。だから諸君もそのつもりで、いざ今度何かあれば、手を切らなきゃならん頭でいてもらいたい。檀徒名簿も作っておきなさい」と述べている。  翌二月五日、池田は「宗学友人会」で次のように語っている。この宗学友人会というのは、学会べったりの僧侶が宗門情報を池田の耳に入れる秘密機関である。その記録には池田の発言を  「人が変わればまた変わると思う。新しい人が台頭していただいて、先は明かるいと思う。一番心配しているのは、阿部さんではないか」としている。  池田は細井管長の退座と、阿部教学部長への期待をにじませているのだ。しかし当時阿部教学部長の立場は、学会への内通が細井管長の不興を買って閉塞状態にあり、次期法主の芽は消えていた。  このような状況下で、細井管長は、学会と手を切るかどうかの討議を反学会活動家僧侶にさせるべく、「時事懇談会」を二月九日と決定したのである。  汝が帝国ホテルで河辺と密談をしたのは、実にこの時事懇談会の二日前であった。かくて汝は  「Gは話にならない。人材登用、秩序回復等、全て今後の宗門の事ではGでは不可能だ。Gは学会と手を切っても、又二・三年したら元に戻るだらうと云う安易な考へを持っている」  と細井管長への憤懣を河辺にぶちまけたのである。  しかも汝は時事懇談会の翌日、学会本部近くの料亭「光亭」で池田と会い、細井管長と活動家僧侶の動向を報告しているではないか。(山崎裁判における池田大作証言、昭和58・10・31)  このような当時の状況を見れば、「Gは話にならない」が汝の発言であることは一点の疑いもない。しかるに「間違いなく活動家僧侶(後の正信会)の発言である」などと見えすいた嘘をつくのは、汝にとってもう一つの重大問題を隠すためである。  それは――「相承疑惑」である。  細井管長は昭和五十四年七月二十二日、御相承をすることも叶わず、急死した。この現証こそ御遺命に違背した罰であるが、このとき汝は通夜の席において  「昨年四月十五日、総本山大奥において、猊下と自分と二人きりの場において、すでに内々に相承を受けていた」(取意)  と自己申告して、猊座に登った。  ところが、この「昨年四月十五日」とは、「Gは話にならない」発言の、わずか二ヶ月後のことである。このような相互不信の関係において、御相承のあり得るはずがない。だから、もし「Gは……」が汝の発言となれば、「四月十五日相承」の欺瞞が発覚してしまう。これが「活動家僧侶の発言」とせざるを得ない最大の理由である。  しかしながら、嘘はどうしても露見する。――相承があったという「四月十五日」の二ヶ月後の六月二十九日に、総本山大講堂で全国教師指導会が開かれた。席上、細井管長は活動家僧侶に対し、学会員を折伏して末寺の檀徒とする、いわゆる「檀徒運動」を公然と支持し激励した。  ところが、この集会終了後、汝は直ちにこれを学会に通報した。これを知った細井管長は憤り、内事部において大勢の僧侶を前にして  「こちらから通報するなんて、阿部はとんでもない。学会べったりでどうしようもない奴だ。向こうが聞いてくるまで、放っておけばいいんだ」(時事懇談会記録)  と声を荒げたという。もし二ヶ月前に御相承が済んでいたら、汝の学会通報もあり得ないし、細井管長の「どうしようもない奴だ」もあり得るはずがない。  ここに「河辺メモ」は、汝が戒壇の大御本尊を「偽物」と断じたことと、詐称法主であることを、克明に立証したのである。  仏法の眼を以てこれを見れば、この一枚のメモ流出こそ、まさしく諸天が河辺にこれをなさしめ、尊げなる姿を装った「阿部日顕」の醜悪なる正体を、白日に晒したものである。    第四章 謗法与同を破す  大聖人は謗法与同を厳しく誡め給うて  「法華経の敵を見ながら置いて責めずんば、師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし。乃至、何に法華経を信じ給うとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし」(曽谷抄)  と仰せられている。  しかるに汝は、戒壇の大御本尊の敵たる身延の謗法僧を幾たびも大石寺に招いている。その動機は保身にある。細井管長と同じく、汝も御遺命違背の罰により池田と不和になり抗争に陥った。池田はあらゆる手段を使って汝を猊座から引きずり降さんとした。ここに不安を感じた汝は、身延派とも手を結び、反学会共闘を策したのである。   布教師会一行の件 この謗法与同について、汝は嘘を重ねて言い逃れんとしている。  まず身延派布教師会一行を招いた件についていえば――  平成六年十一月五日に、身延山久遠寺・志摩坊住職にして山梨県布教師会長である佐藤順映以下、八人の身延派布教師が招かれているが、この際、大石寺内事部理事の小川只道が一行を懇切に案内したうえ、佐藤順映に礼状まで送っている。  ところが汝は次のような言い逃れをする。  「小川理事が日蓮宗(身延派)の僧侶を案内した経緯はなく、内事部職員が案内したのである」  何と姑息な言い逃れか。誰が案内したのかが問題なのではない。身延の謗法僧を招いたかどうかこそが問題なのである。しかるに汝はこの事実は認めたうえで、案内人が違う≠ネどと、はぐらかしているのである。  その案内人の特定だが、仮に「内事部職員」だとしても、上司の指示なくして一職員が案内をするわけがない。その上司とは内事部理事の小川只道であり、さらにその小川に指示したのは汝ということになる。  しかし「内事部職員」というのも苦しまぎれの嘘である。小川只道の礼状を受け取った佐藤順映は次のように記している。  「懇切なる案内をしてくれた教師から、ほどなく一通の礼状が届いた」(大石寺研修参拝記)と。  これを見れば、「礼状」を出した小川が「案内してくれた教師」であることは紛れもない。  礼状の内容についても汝は嘘をつく。  「それは礼状でも何でもない。謝礼として届けられたものを断るためだったのである」と。  しかし佐藤順映は「礼状」と称して、その内容を次のごとく紹介している。  「みなさまの温かなお心に触れ、外はめっきり寒くなっていたにもかかわらず、温かな気持ちで御案内申し上げることができましたことを感謝しております」(同参拝記)  なんと小川は、身延の謗法僧どもを「温かな気持ちで御案内申し上げることができたことを感謝して」いるのだ。まさに礼状ではないか。もしそうではないと言うのなら、「礼状」の全文を公開してみよ。   田中日淳一行の件  次に平成七年六月六日には、身延派管長に就任する直前の田中日淳およびその一行が招かれているが、このとき汝は、能化の高野日海に命じ、蓮葉庵において饗応せしめている。  この件についても、返書ではこう言い逃れる。  「日蓮宗の僧侶の中には、高野尊能化の大学の同窓生が居たのである。そこで特に高野尊能化が見学者に対応され、蓮葉庵にてお茶を出したという程度のことである」  高野の出身校は身延系の立正大学であるが、同校で田中日淳と同窓生であったから接待役を務めたのだという。  これが言いわけになるか。汝には  「法華経の敵を見ながら置いて責めずんば、師檀ともに無間地獄は疑いながるべし」(曽谷抄)  との御本仏の厳誡、また日興上人の  「謗法と同座すべからず、与同罪を恐るべき事」  の御遺誡が恐ろしくないのか。  まもなく身延派管長に就任するという謗法の高僧を、あろうことか本宗の能化であり参議会議長の要職にある者が、袈裟衣を着けた正装で出迎えた上、総門から広布坊・三門・大客殿・御影堂、さらに正本堂、五重塔までくまなく案内し、そのあげく蓮葉庵において饗応しているのである。  「お茶を出したという程度」かどうかが問題なのではない。なぜ、戒壇の大御本尊の敵を見ながらこれを責めないのか、ということが重大なのだ。  大聖人の仰せのごとくんば、まさしく「師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし」そのものではないか。   山崎正友の大謗法  前述の身延僧らの大石寺参拝を、蔭でお膳立てしたのが山崎正友である。  山崎は学会の顧問弁護士在任中、当時総監代行であった汝と心を合わせ、顕正会の解散処分を実行した当事者でもあったが、ほどなく学会を恐喝して実刑判決を受けた男である。汝は学会との抗争にこの男を利用しようと誘い、対学会の謀略活動に従事させた。  かくて山崎は、汝から身延との仲介役を任され、平成六年ごろから積極的に身延派と接触し、各地の同派集会に出席しては、反学会運動を呼びかけたのである。すなわち  平成六年十一月二十四日には身延派山梨県連合布教会に講師として出席し、「今こそ日蓮宗から論争を提起して頂きたい」と煽動している。  次いで同年十二月六日には同派京浜教区教化会議で講演、その中であろうことか  「『板本尊偽作論』もその後の掘り下げがありません。これから本腰を入れて取り組んでほしい」  と、身延僧に戒壇の大御本尊への攻撃を嗾けたのである。  さらに平成九年九月十六日には久遠寺内の身延山大学で講演し、その夜、下部温泉で身延僧の歓待を受けている。  山崎のこのような画策により、一連の身延僧大石寺参拝が実現されたのである。しかし汝はこの山崎の裏工作を隠して、ぬけぬけと次のようにたばかる。  「身延派の僧侶に大石寺見学を許可したのは古来の慣例通り対応したまでであり、山崎氏の講演とは全く無関係である」  身延謗法僧の大石寺参拝を許したのが「古来の慣例」とは何ごとか。富士大石寺は、日興上人の  「檀那の社参物詣でを禁ずべし。何に況んや其の器にして、一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣づべけんや。返す返すも口惜しき次第なり。是れ全く己義に非ず、経文御抄等に任す云々」  の御遺誡を堅く守って来た唯一の正系門家である。信徒の社参物詣ですら禁じて来た宗門が、どうして謗法僧などの参拝を許そうか。  だからこそ、公式参拝を許された佐藤順映が驚いたのである。その「参拝記」には  「時の推移とは云え、過去頑迷なまでに他宗には門戸を開かなかった大石寺が、堂内外の案内に応じたという変化を我々は機敏にとらえ、柔軟な姿勢に最大限の評価を下し、更に日蓮門下の一員と云う連帯感の醸成に陰に陽に働きかける絶好の機と思う」  とある。佐藤ですら「過去頑迷なまでに他宗に門戸を開かなかった大石寺」といっているではないか。これが大石寺の清浄な伝統だったのである。しかるに汝の堕落は、身延の謗法僧にまで「連帯感」を懐かせたのだ。  さらに汝が最も強く否定しているのが、山崎が京浜教区教化会議で述べた「『板本尊偽作論』もその後の掘り下げがありません。これから本腰を入れて取り組んでほしい」の発言である。  汝は山崎本人に確認したとして、次のごとく釈明する。  「山崎氏は当日、教義的見解を交えないで、学会がいかに反社会的であるかについて講演を行う約束になっていた。ところが講演の後に、『板本尊偽作論』等について質問があったので、山崎氏は『〔板本尊偽作論〕は、日蓮正宗からさんざんに破折されたばかりか、名誉毀損でも訴えられて安永弁哲が破れ、以来、日蓮宗においてもタブー視されています。そのことに触れた上で、私はなぜ名誉毀損となったのか、なぜ日蓮正宗側の破折でぼろぼろにされたのか、そのことをあらためて、きちんと掘り下げて研究するべきだ、と苦言を呈したのです』『宗旨の根本に関わる御本尊の問題について、浅はかな議論をふっかけて返り討ちに遭いながら、それを何とも思わず放置していることに対して、宗教者として怠慢ではないかと、指摘をしたのです』『あくまでも私の信ずる法義までも述べることは、場が違いますので、彼らが真の求道者ではないことだけを、彼らにも判るように指摘するに止めました。しかし、むろん真の求道者として、道を求めれば、必ず真実の大御本尊に行き着く、という確信を心に持って、話したつもりであります』との存念、表現をもって日蓮宗の謗法を指摘したのである」と。  これは真っ赤な嘘である。当日の山崎講演を大きく報じた身延派機関紙「日蓮宗新聞」(平成7・3・20付)を見れば、欺瞞は明白となる。  この日の講演で山崎は、まず「反創価学会派が一つにまとまって被害者の会≠結成することになった」と、反学会運動の高まりを宣伝した上で  「日蓮宗(身延派)の皆さんに期待したいことは、教義の上で創価学会が主張していることに対して論争を提起して欲しいということです」  と、教義論争をけしかけているのだ。そして引き続き行われた質疑応答において、問題の発言をしているのである。「日蓮宗新聞」に掲載されたその全文を引こう。  質問 日蓮宗と創価学会が法論をした北海道の小樽問答についてどうお考えでしょうか。  答 小樽問答は創価学会が勝っています。日蓮宗は油断していたと思います。在家に僧侶が負けるはずはないと思っていたのではないでしょうか。思い込みでは戦えない。もう少しキチッと対応されれば良かったのでしょう。当時の日蓮宗のまとまりのなさもあったと思います。会場の情況、司会を相手にさせたことも失敗です。この問題について、その後も先訓として生かすべきです、臭い物に蓋ではいけません。「板本尊偽作論」もその後の掘り下げがありません。これから本腰を入れて取り組んでほしいと思います。創価学会を解散させるためにお互いに頑張りましょう。(拍手)  これを読めば、嘘がよくわかろう。汝はまず質問内容をごまかしている。質問は「小樽問答」についてであって、安永弁哲の「板本尊偽作論」についてではない。  山崎は「小樽問答」について得々として身延派に油断があった等の敗因を挙げたのち  「『板本尊偽作論』もその後の掘り下げがありません。これから本腰を入れて取り組んでほしいと思います。創価学会を解散させるためにお互いに頑張りましょう。(拍手)」  と述べているのである。まさしく安永弁哲の「板本尊偽作論」をさらに発展させ、戒壇の大御本尊を攻撃せよ≠ニ嗾けているのだ。だから身延僧の「拍手」を受けているのではないか。  また「彼らが真の求道者ではないことだけを、彼らにも判るように指摘した」と山崎が述べたとのことだが、笑わせてはいけない。  山崎はこの講演の翌平成七年の六月六日、大石寺で汝と会って謀議を巡らせたのち、同月二十四日には「国際正法協会」なる邪教の講演会に出席し  「私は教団組織にとらわれず、自由な立場で活動している。日蓮正宗に対しても同様。正法協会に入会はしていない。ただし園頭先生は師匠で、私は弟子だ」と発言しているのだ。  この一事を見てわかるように、山崎には一分の信心もない。そのうえ生まれついての虚言癖がある。このことは汝も骨身にしみて知っているはずだ。昭和六十年三月の非教師指導会では、こう述べているではないか。  「山崎正友の行ったすべての考え方なり、その行為・行動というものは、仏様の眼から見るならば絶対に許されるべきでない、もっと大きな罪が──地獄へ何回堕ちても足りないほどの罪が存するのであります。(中略)私は登座以来、特に昭和五十四年の九月に、山崎正友が実にインチキ極まる悪辣な策略家であるということを見抜いて『あなたは大嘘つきである』ということをはっきりと言いました」大日蓮 昭和60・5月号)  ところが汝は池田との抗争に陥るや、この「大嘘つき」に対し、「あの時はウソツキと言って悪かった」と詫び、身延派との仲介までさせたのである。  そして断じて許しがたいことは、「戒壇の大御本尊を攻撃せよ」と身延の邪僧に嗾けた大謗法者を、今もなお汝が重く用いていることである。この事実は、汝もまた戒壇の大御本尊に対し奉り、全く信のないことを物語って余りある──。  以上、汝が犯した三大謗法およびその反論、ここに破折し畢った。    結章 最後に申すべき事  翻ってこの三大謗法を見るに、そこに通底しているのは、戒壇の大御本尊に対し奉る不敬冒涜と、汝の大御本尊への信の無さである。  汝は、国立戒壇に安置し奉るべき戒壇の大御本尊を、国立戒壇を抹殺するための正本堂に長きにわたって居え奉ったが、これはどの不敬冒涜があろうか。また戒壇の大御本尊の敵である身延派悪侶を霊地に招き入れた。これも不敬冒涜の一語に尽きる。さらに河辺慈篤への大悪言は申すまでもない。  このような悪事を平然となし得るのは、偏えに戒壇の大御本尊に対し奉る信なきゆえではないか。  そして今、信なき汝が強行しているのが、営利を目的とした御開扉である。    一、直ちに不敬冒涜の御開扉を中止せよ  御開扉について、本宗近年の碩学・第五十九世日亨上人は「富士日興上人詳伝」において次のごとく述べておられる。  「開山上人は、これ(本門戒壇の大御本尊)を弘安二年に密附せられて、正しき広布の時まで苦心して秘蔵せられたのであるが、上代にはこのことが自他に喧伝せられなかったが、いずれの時代(中古)からか、遠き広布を待ちかねて特縁により強信により内拝のやむなきにいたり、ついに今日のごとき常例となったのは、もったいない限りである……」と。  この御指南に見るごとく、本門戒壇の大御本尊は、広布の暁の国立戒壇に始めてお出ましになる大御本尊であれば、それまでは秘蔵厳護し奉るというのが、本宗の伝統であった。ゆえに日興上人・日目上人の上代には御開扉などはあり得ない。まさしく仰せのごとく「弘安二年に密附せられて、正しき広布の時まで苦心して秘蔵せられた」のであった。しかし途中から、遠き広布を待ちかねての、特縁・強信による「内拝」がやむなきにいたったのである。  しかしこの「内拝」と、汝がいま強行している「御開扉」とは、その精神において天地の差がある。汝が行なっている「御開扉」とは、戒壇の大御本尊を利用し奉っての金儲けである。  日寛上人は  「名利の僧等の、仏法を以て渡世の橋と為すが如し」(撰時抄文段)  と仰せられているが、いま汝は、恐れ多くも戒壇の大御本尊を収入の手段としているのである。  このことは汝の日頃の言動が、何より雄弁にこれを物語っている。  昭和五十四年、猊座についたばかりの汝が西片で、「猊座についたら、途端にカネがゴロゴロ転がり込んでくるようになった」と述べていたことは、宗内で広く知られている。  また同年十月十日の全国宗務支院長会議では、こうも言った。  「毎日何千人と来る登山会の、その内の、九十パーセント以上が学会員です。本山をお守りし、そして総本山の灯燭をお守りしていてくれるのは、実質的に学会員なのです」  学会員こそ本山にとって大切な上得意だから疎略に扱ってはいけないと、訓辞しているのである。  ところが御遺命違背の罰により仲間割れが始まり、学会が登山会を中止した。すると汝は、恥も外聞もかなぐり捨て、観光案内よろしく、一般紙(平成3・6・5日付)に登山勧誘の広告を載せて全学会員に呼びかけた。だが、学会員は登山に応じなかった。  そして大聖人の厳たる御仏意により、正本堂が打ち砕かれる。  無慚の汝はこんどは、正本堂の基礎の上に大規模な御開扉施設の「奉安堂」を建てた。  そして現在、わずかの法華講員を鞭打つようにして登山させては収入を図っている。先年の「三十万総登山」では、実数わずか五万人前後の法華講員を期間内に数回も登山させ、さらに員数合わせのため、「御開扉料」だけを出せば員数に加えるという「付け願い」まで奨励した。──これを「御開扉料稼ぎ」といわずして何か。  このような濫りの御開扉は、大御本尊を冒涜し奉るだけではない、恐るべきは、戒壇の大御本尊に害意を懐く悪人に、その隙を与えることである。  魔は仏の化導を阻止せんと、常に仏の御命を狙っている。されば提婆は大石を飛ばして釈尊を殺害せんとし、景信は大聖人の眉間に三寸の傷を負わせ、平左衛門は御本仏の御頸さえ刎ね奉らんとしたのである。  そしていま広布の前夜、第六天の魔王が最も忌み嫌うのは、戒壇の大御本尊の御存在である。ゆえに魔は悪人どもの身に入って大御本尊を疑難中傷せしめ、それで事が叶わなければ、ついには直接大御本尊に危害を加えんとするのである。  今日、高性能の爆発物を入手することはさして困難ではない。また悪人が油断だらけの登山会に、法華講員を装って紛れ込むことはさらに容易い。  もし万一の事態が惹起したら、汝はいかように責任を取るのか。これは汝の万死を以ても償えるようなことではない。  もとより戒壇の大御本尊は金剛不壊の仏身にてまします。しかしながら、あらゆる事態を想定し厳護し奉ることこそ、仏弟子の最大の責務ではないか。  安普請の奉安堂では、大規模な天災地夭あるいは核爆発から、大御本尊を守護し奉ることは難しい。  早く、科学技術の粋を集め、瞬時にして地下深く格納し奉ることも可能な、堅牢の「新御宝蔵」を建設し、いかなる事態にも備えなければいけない。  そしていま直ちに為すべきことは、悪人に隙を与えている御開扉の中止である。  日寛上人の仰せに云く  「問う、文底深秘の大法その体如何。答う、即ち是れ天台未弘の大法・三大秘法の随一、本門戒壇の御本尊の御事なり。乃至、此の本尊は広布の根源なり」と。  かかる、かけがえのない最極無上・尊無過上の法体たる戒壇の大御本尊のご安危こそ、まさしく一閻浮提第一の大事である。  されば直ちに濫りの御開扉を中止し、近き広布のその日まで、日興上人・日目上人の御心のまま、もっぱら秘蔵厳護し奉るべきである。   二、速やかに退座し謹慎せよ  汝の犯した三大謗法の罪業が、いかに深く重いものか。重ねて言う──御本仏一期の御遺命を破壊せんとし、大御本尊を偽物と断じ、謗法僧を大石寺に招いたのである。  もし現身の改悔がなければ、後生の大苦は断じて免れない。而して真の懺悔とは世親のごとく、馬鳴のごとく、吉蔵のごとくでなくてはならない。  世親は大乗を誹謗したが無著菩薩に値って忽ちに邪見を翻し、その罪を滅せんがために舌を切らんとし、無著に止められて五百部の大乗論を造ったという。  また馬鳴は外道の長であったとき、勒比丘と内外の邪正を論じて改悔し、重科を償わんと自ら頭を刎ねんとした。しかし勒比丘に「その頭と口を以て大乗を讃歎せよ」と諫められ、直ちに起信論を造ったという。  また吉蔵は天台大師に邪執を打ち摧かれるや、謗法の重罪を滅せんがため、身を肉橋として仕えたという。  これらの賢人は、後生の堕獄を恐れるがゆえにこの改悔を示したのである。ゆえに富木殿御書には  「智人は恐怖すべし、大乗を謗ずる故に。天親(世親)菩薩は舌を切らんと云い、馬鳴菩薩は頭を刎ねんと願い、吉蔵大師は身を肉橋と為す」と。  汝の謗法は御本仏に対し奉るものであれば、この三人の謗法に過ぎること百千万億倍である。しかも小生の諫暁はすでに三十五年に及んでいる。  なぜに改悔をしないのか。なぜに世親・馬鳴が大乗論・起信論を造ったごとく、国立戒壇を讃歎して罪を滅しようとしないのか。  現世の罰を見て、後生を恐れよ──  前車の覆るは後車の誡めである。まず細井前管長の臨終を見よ。同管長は正本堂が完成するや、忽ちに池田と不和を生じ、その鬩ぎ合いに性心を労したあげく、臨終思うようにならずして急死を遂げているではないか。  貫首の最大の責務たる御相承もなし得なかったこの頓死は、何を示しているのか。  たとえ時の貫首であっても、御遺命に背くなら忽ちに貫首の徳を失う。ゆえに御相承の「授」が叶わなかったのである。  また汝は、より深く御遺命に背いている。ゆえに「受」が許されなかった。御付嘱状を拝見すれば  「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と。  この御付嘱状の骨目は、まさしく戒壇の大御本尊の付嘱と、国立戒壇建立の御遺命にあられる。汝はこの二つ共に否定しているのである。どうして付嘱が許されようか。厳然の御仏意、深く恐れなくてはいけない。  しかるに汝は池田大作と心を合わせ、恐れげもなく猊座を簒奪した。池田は汝を通して宗門支配を実現せんと、これを後押したのであろう。これは置く。  この登座の四ヶ月後(昭和五十四年十一月)、小生は汝に「諫状」を送附した。その末文に云く  「ここに日顕上人たとえ管長職に即くとも、もしこの大科を改悔しなければ、仏法の道理の指すところ、一身に罰を招くは必定であります」と。  果して、その後の罰はどうであったか──  わずか一年数ヶ月後、正信会僧侶から「相承疑惑」が噴出し、その争いは法廷闘争にまで発展した。業を煮やした汝は、反抗する正信会僧侶を次々に宗門追放し、その数、実に二百余名に及んだ。これほど大量の僧侶が「時の貫首」の相承を疑い、処分されたということは、宗門史上未だ曽てない。  そして正信会騒動の次には、さらに深刻な学会との抗争が待っていた。平成二年四月、小生は「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」の諫暁書を汝と池田に送附した。この諫暁書は、一枚岩のごとくに見えた宗門・学会の間に亀裂を生ぜしめた。池田は、曽て細井管長が揺れ動いたように、汝もまたこの諫暁書に怖畏を生じて、「本門寺改称」を躊躇するのではないかと疑念を懐き、経済封鎖をもって威し従属させようとした。汝はこれに反発し、大石寺開創七百年法要における「本門寺改称宣言」の約束を反故にした。  ここに凄まじい抗争が勃発したのである。それはまさに報恩抄に仰せの「修羅と悪竜の合戦」そのものであった。  まず平成二年末、汝は池田の総講頭職を剥奪する。これより悪罵の応酬が始まる。池田が「法滅の妖怪」「三毒強盛の極悪日顕」と罵れば、汝も「顛狂の大謗法者」「●慢無類の莫迦者」と罵る。  また平成三年十一月に汝が学会を破門すれば、池田はその翌月に一千六二五万人の署名を以て「退座要求書」を突きつけた。  平成四年には、多くの僧侶が汝に叛旗を翻し池田のもとに走った。彼らは「改革同盟」あるいは「憂宗護法同盟」なるグループを結成して、池田を助けた。  その中に同年十一月、細井管長の二男で実修寺住職・細井琢道が宗門離脱をしたことは、一つの意味で、看過し得ぬ重大問題を孕んでいる。  学会はさらに汝の醜行を暴く。「シアトル事件」「芸者遊興写真」が相次いで公表された。汝は名誉毀損の提訴を以てこれに対抗した。ただし自身の出廷を避けるため、原告は「日蓮正宗」とする。  そして平成六年十二月にいたって、学会は始めて相承疑惑を暴いた。何もかも知っていながら、池田は周到に時を待っていたのである。これを見て汝は身を守るため、山崎正友を味方に引き入れた。これより身延派との交流が始まったことは前に述べた。  ここに思いもかけぬことが起こった。それは、汝自身が「シアトル事件」裁判の法廷に引き出される羽目に陥ったことである。出廷は平成九年十二月二十二日、翌年二月二日、五月十八日の三回にわたった。手ぐすね引いて待っていた学会弁護団は、嬲るように汝の醜行を克明にあばき、耐えがたき恥辱を与えた。  怒り心頭に発した汝は、池田が最大の誇りとしていた正本堂をついに打ち壊わしてしまった。池田が「末法事の戒壇にして宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年史上空前の偉業」と誇り、宗門全僧侶も「御遺命の戒壇」と諂い讃えた正本堂は、ここに地上からその姿を消したのであった。  この不思議を何と見る─―  無慚の汝にはわかるまいが、すべてはこれ大聖人の厳然の仏意、仏力の所作であられる。  大聖人様は、かかる大それた御遺命違背を断じて許し給わぬのである。ゆえに顕正会をして諫暁せしめ、諸天をして自界叛逆せしめ、ついに正本堂を崩壊せしめ給うたのである。  翌十一年七月には、諸天はさらに河辺慈篤をして「メモ」を流出せしめる。ここに汝の隠された正体は、余すところなく白日の下に晒された。すべては、仏意の所作と拝し奉る以外にはない。  さらに平成十四年には、池田のもとに走った離脱僧の寺院明け渡し裁判で、相承を受けた証拠を示すことが出来なかったことにより、敗訴が確定した。また醜行をめぐって自ら起こした裁判も、相次いで敗訴あるいは自ら訴えを取り下げ、世間に恥をさらした。  かくのごとく汝の登座以後の二十六年を見れば、現罰は歴然である。すなわち前半は正信会の叛乱に懊悩し、後半は学会との「修羅と悪竜の合戦」に嘖まれて満身創痍。一日として心安き日はなかったであろう。  このように二十六年もの間、「詐称法主」といわれ続け、醜行を暴かれ続け、一国にその恥辱をさらした「貫首」が何処にあろうか。これが、御本仏に背き奉った現罰なのである。  だが、後生の大苦はこれとは比較にならない。佐渡御書に云く  「是れは華報なるべし、実果の成ぜん時、いかが歎かはしからんずらん」と。  もしこの大苦を免れんと願うならば、世親・馬鳴が大乗論・起信論を造って大乗を讃歎したごとく、汝もまた国立戒壇を讃歎して大罪を滅せよ。  もしそれが為し得ぬのなら、せめて早く猊座を退き、謹慎せよ。  これが小生の最後の諫めである。もしこの言を卑んで一分の改悔もなければ、後生の大苦こそまさに恐るべし。  顕立正意抄の仰せに云く  「我が弟子等の中にも信心薄淡き者は、臨終の時、阿鼻獄の相を現ずべし。其の時我を恨むべからず」と。  以上、用捨は貴殿に任す。小生はただ謹んで 御本仏日蓮大聖人に言上し奉り、御裁断を仰ぎ奉るのみである。   平成十七年八月二十七日 冨士大石寺顕正会会長  浅井昭衞 日蓮正宗管長  阿部日顕殿