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   御相承の証拠は厳然
     禿人の浅智はもはや破綻
     一創価学会・憂宗護法同盟一



  荒唐無稽の「物語」

 創価学会に媚を売る離脱僧(以下「禿人」)らは、創価学会への忠誠心の表れか、「御相承箱が大宣寺にあった」と言い張り、あたかも日達上人は日顕上人へ御相承なされていないかの如き邪難を繰り返している。
 平成二年まで御法主日顕上人猊下の御指南に随順していた(ように見せかけていた)くせに、このように変節するとは、まことに無節操極まる。
 しかも、その内容たるや、一台の乗用車に日顕上人以下五名の方が乗車されて大宣寺に向かったというのであるから、全くお粗末な「物語」である。
 乗用車に五名乗車となれば、日顕上人は一体どこに座られたというのか。助手席であろうか、はたまた後ろに三名座っていただいたというのであろうか。まさか運転されていたとは言うまい。
 これ一つ見ても、「御相承箱」に関する禿人らの稚拙な難癖は、荒唐無稽の「作り話」に過ぎないことが明らかである。


   禿人らの自己矛盾

 そもそも憂宗護法同盟なる団体に属する十三名のうち、なんと十一名の禿人は、日顕上人に任命されて住職になったのではないか。これは日顕上人が唯授一人の御法主であるからこそ、その命に従って赴任したのではないのか。
 自分が住職に赴任する時は日顕上人を御法主と仰いでいたくせに、今や「夢物語」まで作り上げて日顕上人の血脈を否定せんとする浅ましさは、自己矛盾もはなはだしい。邪教創価学会に諂い、保身に腐心する売僧の面目躍如といったところであろう。


  血脈相承の証拠

 信なく学もないこれら一闡提には詮ないことかも知れないが、日蓮大聖人の大慈大悲を体し、正しい血脈観を教えてあげるから、篤と拝するがよい。
 御本仏大聖人の血脈とは、
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり」(御書 一六七五・)
との『日蓮一期弘法付嘱書』にその濫觴を拝する。
 しかして、この「日蓮一期の弘法」を何と拝するか。禿人および創価学会の言い分では、これを「御相承箱」と言い張らねば理が通るまい。しかしながら、そんなことはない。
 日寛上人は、
「応に知るべし、『日蓮一期の弘法』とは、即ち是れ本門の本尊なり」(六巻抄 一〇四・)
と『依義判文抄』に明快に明かされ、さらに日応上人も、
「唯授一人嫡々血脈相承にも別付、総付の二箇あり。その別付とは則ち法体相承にして、総付とは法門相承なり。而して法体別付を受けたまいたる師を真の唯授一人正嫡血脈付法の大導師と云うべし(中略)而して別付の法体とは則ち吾山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊是なり」(弁惑観心抄 二一一・)
と端的に示されている。
 本門戒壇の大御本尊が厳然と総本山大石寺にましまし、これを御当代御法主日顕上人猊下が格護されている現実こそ、日顕上人が大聖人以来の唯授一人血脈相承を御所持あそばす、最たる証拠である。


  「浅智の覃(およ)ぶ所に非ず」 

 日興上人は謗法者の稚拙な論難を、『五人所破抄』に
「若し知らんと欲せば以前の如く富山に詣で、尤も習学の為宮仕へを致すべきなり」(御書 一八八二・)
と一蹴されるとともに、
「此等の深義は聖人の高意にして浅智の覃ぶ所に非ず」(同)
と、その浅知恵をたしなめられている。
 この御制誡を刮目して拝し、自らの浅智をもって「物語」を作り出す暇があったら、早々に懺悔して総本山大石寺へ詣で、「習学の為宮仕へ」せよ。
 さもなくば、堕地獄は必定であると覚悟せよ。

大白法634(h15.12.1)号より転載



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