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      「勤行」の方式を改変
                    ―創価学会―


   あやしげな改変理由


 創価学会は、平成十六年九月十日付の聖教新聞紙上において「創価学会の『勤行』および『御祈念文』の制定」と題する発表を行った。勤行を、方便品と自我偈だけ、それも一回だけでよい、としてしまったのである。
 その理由は「日本においても、本格的な世界広宣流布の時代の到来という『時』のうえから、『方便品・自我偈の読誦と唱題』による勤行について正式な制定を要望する声が強く寄せられた」から、としている。
 プンプンと邪宗くささの漂う、あやしげな内容である。勤行を短くし、さらに先に改変していた「御観念文」を「御祈念文」と変質させてしまったのである。
 「貧すれば鈍す」「策士、策に溺れる」とは、よく言ったものである。日蓮正宗から破門されて邪教となり、仏の智水が流れ通わなくなってしまった創価学会幹部達の邪智ぶりがうかがえる。次から次へと打ち出す方策のすべてが邪義を構成して大謗法の所業となり、自らの首を締め上げているのである。
 ついては、今般の「勤行」の改変がどういう異流義であるかを摘示しておこう。


   どうあがいても 「ものまね勤行」


 まず、今回の改変の大きな特徴は、前回のような観念文だけの改変ではなく、勤行式そのものの改変にある。破門以降もそのまま続けてきた五座三座の勤行は、所詮は日蓮正宗の「ものまね」である。正義から脱却できないことは、彼らの邪義徹底にとり大きな弱点であった。
 そこで今回は、恐れ気もなく、浅識謗法丸出しで、創価学会としての「勤行」を制定してみたのである。
 これには日蓮正宗と一線を画すのみならず、ずいぶん楽もできるという、一石二鳥のねらいがある。発案者をはじめ、勤行大嫌い人間の池田大作の期待は限りなく大きいことだろう。
 しかし、どんなにあがいても、ニセモノは本物になることはできないのであって、「ものまね勤行」に変わりはないのだ。


    『ニセ本尊』にふさわしい「インチキ勤行」


 もう一つの大きな特徴は、寿量品の長行の読誦を廃止して、方便品と自我偈だけの略式にしたことである。これは教学的には最大級の邪義である。
 まず、略式について致命的欠陥がある。略式には「存略」と「欠略」の二通りがあるが、前者の「存略」とは正しい略式で、本式の意義が存在していることを言う。ところが「欠略」は間違った略式のために、本式の意義が欠落して邪義となることを言うのである。
 しかるに創価学会の「方便品・自我偈」は、略するも何も、最初から長行を廃止しているのであるから、欠略というより欠落であって、見事な「インチキ勤行」である。
 これに対し、日蓮正宗で読む自我偈は、寿量品の長行の略式である。すなわち根本の勤行である、総本山の丑寅勤行の意義を円具する略式であって、本体のある略式である。したがって「存略」であり、功徳において全く欠けるところがないのである。
 要するに、外見は似ていても、正邪・賞罰には天地の異なりがあるのだ。
 また、寿量品読誦の意義は日寛上人の『当流行事抄』に詳しく、所破・所用が明かされている。特に所用とは、寿量品の文底である「内証の寿量品」を読むことであり、正行の妙法五字の功徳を顕すとされている。
 しかし、創価学会の「インチキ勤行」では、この「内証の寿量品」の長行、特に文底本因妙の究極的所在を示す「我本行菩薩道」等の十八字を読まないのであるから、正行の題目の功徳が顕れることは絶対にないのである。
 『ニセ本尊』を拝む邪教創価学会の勤行が「インチキ勤行」となったことは、けだし当然の成り行きと言えよう。


大白法654(h16.10.1)号より転載



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