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       「本流」の意義に迷う頑迷
       事実の前に正邪は歴然!
                ─正信会─



   反論が遅い!しかも稚拙


 本年二月十六日号の本紙第六六三号「異流義破折」で、自称正信会を破折した。
 これに対し、彼らは、ようやく六月十五日付の継命紙に、
「その内容は的はずれなものであり、すり替えと自己矛盾、そして信仰観の過ちを露呈したものとなっている」
と、お粗末な反論を掲載している。
 しかし、その内容は稚拙で、全く反論の体をなしていない。数カ月も要してこの程度の反論しかできぬとは…。そのレベルの低さには呆れるばかりだ。
 自称正信会が「我等こそ富士の本流」と言い張ってやまない「本流」とは、いったい何が根拠なのか。その中心・基本に全く触れないまま、何とかの一つ覚えのように「本流、本流」とさえずってみても、何の説得力も持たない。
 その基本にさえ思い至らないとは、何とも愚かで情けないかぎりである。


     「本流」の意義


 宗祖日蓮大聖人は、
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり」(御書 一六七五・)
と示され、これを日寛上人は、
「応に知るべし、『日蓮一期の弘法』とは、即ち是れ本門の本尊なり」(六巻抄 一〇四・)
と明かされる。すなわち、御本尊こそ付嘱の法体である。
 さらに、その中心とは、畢竟、一大秘法たる本門戒壇の大御本尊に収まることを、よもや正信会といえども否定はすまい。
 今、この戒壇の大御本尊はいずこにましますか。それは総本山大石寺をおいてほかにはないではないか。故に日寛上人は、
「富士山は是れ広宣流布の根源」(同 六八・)
と、本門戒壇の大御本尊まします大石寺が、常に広宣流布の根源であると御教示なのである。
 しかるに、この根源たる本門戒壇の大御本尊から離れて、なぜ正信会が「本流」なのか、正信会は何を広宣流布しようというのか。できるものなら、その道理を明確に説明してみよ!


     血脈相承の証拠


 この筋道を知らない正信会は、我ら日蓮正宗僧俗について、
「戒壇本尊の唯物的信仰」(前出の継命紙)
と誹謗するが、これこそ的外れな狂論である。日寛上人は、
「本門の大本尊、其の体何物ぞや。謂わく、蓮祖大聖人是れなり」(六巻抄 二〇〇・)
と、本門戒壇の大御本尊こそ、即大聖人の御当体であると御教示である。その御法体を蔑ろにして、どうして大聖人の末弟と言えようか。
 また、日応上人は、
「唯授一人嫡々血脈相承にも別付惣付の二箇あり(中略)而して別付の法体とは則ち吾山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊是れなり」(弁惑観心抄二一一・)
と、唯授一人の血脈相承の中心は、本門戒壇の大御本尊にましますことを示されている。そして、この血脈付法の御歴代上人の御内証には、本門戒壇の大御本尊と二而不二の御法体がましますことも当然である。
 今、戒壇の大御本尊は、御法主日顕上人猊下が厳護されている。この歴然たる事実は、日顕上人猊下こそが、血脈付法の御法主上人であられることの動かぬ証拠ではないか。
 その分別も弁えず、
「猊座を簒奪して以来、二十六年間にわたってこれだけ疑惑を指摘されながら、阿部師は一つとして証明することができない」(前出の継命紙)
と、邪教創価学会と同じ世迷い言で茶を濁す正信会の頑迷さは、もはや救いがたい。
 恐れ多くも宗旨の根幹にかかわる大事に対して「簒奪」なる語を用いること自体、その広大無辺な御仏智を拝信していない証左である。この姿こそ、自称正信会が「富士の本流」から離れ、悩乱している現証と言うべきである。

大白法673(h17.7.16)号より転載



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