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   顔から火が出るほど
     恥ずかしくはないのか!
             ─正信会─

    「宗門余話」なる物語

 自称正信会が発行する『継命』に「宗門余話」なるコラムが連載されていた。
 その内容は、自称正信会に与する僧侶らが自らの体験を回想する形式をもって、日達上人が御遷化されるに当たり、前御法主日顕上人猊下には御相承されていなかったように思わせる記述を並べたものだ。
 およそ三十年も前のことを持ち出し、ありとあらゆることをこじつけて、想像たくましく、なんとか日顕上人への御相承を否定せんと躍起なのである。
 しかもその内容は、既に亡くなった方の証言などを多用するものもあり、具体的根拠に乏しいものばかり。しかし、かつては自称正信会の中心人物だった荻原某が、二回にわたって記述したものは、今も御健在な方々が登場しており、安易に見過ごすことはできない。
 今回、その方々に直接お話をうかがったが、あまりの事実の違いに、あきれ果てる。

    観妙院日慈上人と
     吉田義誠師(現常健院日勇能化)との会話


 本年三月十五日付『継命』の 「宗門余話(三)」で荻原は、昭和五十四年七月二十二日早暁、日達上人御危篤の際の話を事細かに回想している。その内容は、入院加療されていた病院へ、
  「早瀬能化は『ご相承箱は待って行ったのか』と聞かれ、吉田師は『突然のことで意識もありませんのでお待ちしませんでした』と答えた」
というもの。さらに「宗門余話(四)」(本年四月十五日付同紙)では、
  やがて三十分程して阿部信雄師(後の日顕師)が到着」と続けている。
 要は「ご相承箱」が、入院中の日達上人のお手元には無く、日顕上人へ御相承する時間は無かったと言いたいのであろう。
 しかし、この会話の当の御本人である常健院日勇能化(当時吉田義誠師)は、「ご相承箱」をめぐるそのような会話は、全く無かったと明言されている。

    菅野慈雲師の発言

 続いて、御遷化された日達上人が大坊大奥へお帰りになるに当たって、菅野慈雲師(現常観院日龍能化)がお供された際、荻原も一緒に搬送車両に乗り込み、その車中で、
  「『ご相承はどうなっているんですか』と私は聞いた。菅野師は『いや、知らない。何もお聞きしていない』と言われた」(前同)
と回想している。
 しかし、これも、菅野能化は明確に否定されている。
 そもそも、親族でもない者が、御遺体と同じ車で大坊へ戻ること自体、不自然極まる。
 また御相承について、菅野能化が日達上人から、何らかを漏れ伺うことが仮にあったとしても、第三者の平僧へと軽々に話されるはずがないではないか。
 日顕上人は、日達上人からの御相承は昭和五十三年四月の内付が中心であられたことを御指南あそばされている。
 それは、吉田・菅野両能化も、また宗門の全僧俗が、日顕上人の御登座に信伏随従し、御奉公を誓ったことが証明しているのだ。
 昭和五十四年の檀徒総会で荻原は、血脈相承を問題とした某檀徒の発言に対し、「師敵対大謗法の者」と正論を述べている。荻原よ、「顔から火が出るほど恥ずかし」かろう!

    四分五裂の様相

 現在、自称正信会は、包括宗教団体設立を模索している。
 既に彼らが、日蓮正宗とは無関係な邪教団であることは言うまでもないが、別個の包括宗教団体、すなわち別宗派を立ち上げるならば、それは彼ら自身が、日蓮正宗とは名実共に無関係となっていることを自ら宣言したようなものである。
 別の宗派でありながら口を開けば「富士の清流」だの、総本山を守るだのと、片腹痛い戯言を言い続けているのが正信会なのである。

大白法749(h20.9.16)号より転載



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