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    的外れな言いがかり
          ―正信会

    「根源」に迷う難癖

 自称正信会は、めったやたらに宗門を批難する。的外れな難癖は、創価学会と何も変わらない。
 最近の『継命』にも、
 「貫首が大聖人の身代わり、不二の尊体であって、その貫首がひかえている大石寺には妙法の功徳があふれているから、大石寺に登山すればするほど罪障が消える、功徳が積めると主張している」(二月一五日付 同紙)
と、宗門の登山啓蒙を批判している。
 しかし全く意味不明だ。
 宗門が、一体いつ、本門戒壇の大御本尊から離れて、「御法主上人猊下がいらっしゃるから、大石寺には功徳があふれている」と言ったというのか?
 勝手な妄想で宗門を批判するとは全く噴飯ものだ。
 宗門が登山を啓蒙する理由は、ひとえに本門戒壇の大御本尊在す故である。このことは、日寛上人が「富士山を以て本山と仰ぐべきこと」の理由として、
 「富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり」(六巻抄 六八n)
と教示されていることからも明白である。
 因みに、日寛上人は、
 「須く根源を討ぬべし、若し根源に迷う則んば増上して真証を濫さん」(同六九n)
との文を引かれている。
 広宣流布の根源たる本門戒壇の大御本尊へ詣でることに難癖を付けるとは、まさに「増上して真証を濫」す所為である。

    変節する教義

 かつて正信会僧侶は、
 「御法主上人を師と仰ぎ我々は弟子檀那として師弟相対して事行の信心を取って行くのが正しい信心の筋目で御座屈ます。もし、この信心の筋目を踏み誤りますならばすでに堕地獄であります」(第一回全国檀徒総決起大会紀要 五三n)
と講演していた。
 また、事ある毎に、
 「血脈相承はいらないといえば、僧を謗る事になり大きな謗法です」(第二回全国檀徒総会紀要二八n)
 「時の御法主上人猊下を、現時における大聖人・日興上人・日目上人と拝して、その御指南のままに信心に精進する、ここに日蓮正宗の信心は存在するのでございます」(第三回全国檀徒総会紀要 四〇n)
などと指導していた。
 正信会の諸氏よ。的外れな言いがかりで宗門を批判する前に、まずは、これらの発言が正しいのか、端的にイエスかノーで答えてみよ。その上で、宗教者なら責任ある行動を示せ
 御法主上人猊下や血脈相承の意義につき、時に正しく、時に誤りなどと変節することは、ご都合主義以外の何ものでもない。
 何より、創価学会同様に正信会も、コロコロ教義を変えるその姿こそが、謗法集団である証左である。

    「大謗法」の定義

 「宗門で謗法と云ふのは、折角御大法に入りても又は信心の家に生れても又は僧侶と成っても、兎角信念が弱い処から遂に信 仰の決定も出来ず、知らず知らず非宗教に成ったり非仏教に成ったり、他宗門に信を寄せようと思ふたり寄せたり、後には其為に明に反対の態度を取りて宗門の人法を批難攻撃する事になる、此を度々訓誡せられても、頑として改心せぬのが、即ち大謗法である」(日蓮正宗綱要 一六七n)
 これは、第五十九世日亨上人が示された「大謗法」の定義であるが、正信会への痛烈な破折でもある。
 「明に反対の態度を取りて宗門の人法を批難攻撃」している自らの所業を省みて、言い訳できるものなら、してみるがよい。この変節こそが、大謗法であることを如実に示されている。
 口を開けば「富士の本流」だの、
 「『いずくにても』の日興上人のご精神を……」(二月一五日付 継命)
だのと、もっともらしく自らの正統性を言い張るが、根源に迷う以上は根なし草、所詮は虚言に過ぎない。
 正信会は、自らの「この信心の筋目を踏み誤りますならばすでに堕地獄であります」との言葉通り、地獄へ転げ堕ちている。
 これまでの謗法の数々を、直ちに反省懺悔せよ!

大白法788(h22.05.01)号より転載



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