座談会
仏法破壊の池田創価学会を徹底破折


謗法厳誡、正法を護持し続ける清浄な総本山大石寺

  創価学会・憂宗護法同盟を破折するA


   血脈誹謗の卑劣な謀略
     狙いは総本山支配か?


  ・日達上人より日顕上人への御相承は様々な関係者の証言により明らか

  ・昭和五十三年四月十五日の御相承内付の裏付けを明確に証明

  ・自称正信会の嘘を嘘と知りながら悪書『法主詐称』に載せる創価学会

  ・この世に存在しない昭和五十三年の「奥番日誌」を証拠に持ち出すお粗末な嘘



 十月一日号では、池田創価学会、及びその走狗憂宗護法同盟が、悪書『法主詐称』や「創価新報」などを用いて行った、本宗の血脈相承に関する悪質な捏造の誹謗報道に対して、日蓮正宗総監・藤本日潤御尊能化、並びにこれらの大嘘の報道に実名を挙げられた早瀬日如、八木日照、菅野日龍の各御尊能化、及び阿部信彰御尊師に、当時の実情をもとに、これらの誹謗中傷が真っ赤な大嘘であることを明快に語っていただきました。
 前回に引き続き今回も、池田創価学会と走狗憂宗護法同盟による血脈誹謗・三宝破壊の捏造の悪言について、徹底して破折された座談内容を掲載させていただきます。
 法華講員読者各位には、創価学会と離脱僧破折に際し、当座談会の内容を積極的に活用されるよう願います。


座 談 会 出 席 者

日蓮正宗総監・常泉寺住職
  藤本日潤御尊能化

宗務院庶務部長・法道院主管
   早瀬日如御尊能化

大石寺主任理事・妙泉坊住職
   八木日照御尊能化

大宣寺住職
   菅野日龍御尊能化

宗務院庶務部副部長・妙國寺住職
   阿部信彰御尊師



   池田創価学会による
  血脈誹謗の狙いは宗門支配か



 司会
 前回のお話で、彼ら池田創価学会と憂宗護法同盟の発言が真っ赤な大嘘であることが明確となりましたが、彼らは一体、一見して嘘と判るこんなことを、なぜ行うのでしょうか。

 藤本 
私はそれは、彼らの最終の目的が何かということと関係があると思う。『法主詐称』で彼らが日顕上人猊下の血脈相承を誹謗中傷するのは、宗内に疑心暗鬼を起こさせ、最終的に宗門を創価学会の支配下に置こうという野望があるからで、そのためにはかえって荒唐無稽な話のほうがインパクトがあり、浸透しやすいとの考えから行っている狡猾なまやかし戦術だろうね。

 早瀬
 今、全国の布教区で開催中の指導教師指導会においても、藤本総監殿は根無し草のごとき彼ら創価学会が、未だに宗門支配の邪念を懐いているが故の執拗な誹謗であると話されています。まったく彼らの発言は、嘘も百遍言えば本当になるという、いわゆる池田創価学会式の邪悪な欺瞞戦術というほかないね。

 八木
 嘘で塗り固めた内容を反復し、次第次第に本当のことのように思わせ、血脈法水の尊厳を貶めようとするなど、まったく、三宝破壊の大悪行というほかないと思う。その上、仏法に暗い世間の人々をも誹謗正法の悪業に引き込もうとする許せぬ所業だね。

 阿部
 これでよく理解できました。不可解に思えたことが、実は不可解ではなく、三宝破壊の仏敵である池田創価学会とその走狗たちの、邪悪な想念に基づく卑劣な体質そのものを示していたわけですね。



   悪書『法主詐称』の大嘘


 司会
 『法主詐称』の内容はそのほとんどが、昨年、当『大白法』にも掲載させていただきましたが、「日蓮正宗青年僧侶邪義破折班」によって破折されています。それを再び持ち出し、いくらか目先を変えて、誹謗中傷を繰り返すのは、いつもながらの呆れたやり口です。

 阿部
 御登座の時の日号の件にしてもですね、御法主上人猊下がそれまでの「日慈」のお名前を改め、「日顕」とお名乗りあそばされたことについての『法主詐称』の誹謗は、故観妙院日慈上人に御配慮あそばされた御法主上人猊下の御心を愚弄する許せぬ内容です。

 早瀬
 「御相承をお受けしているのなら、日号の変更は日達上人の御生前中に行っておくべきだ」などという彼らの言い分は、まったく勝手な言いがかりというほかはないね。「内付」という御相承の性格上からも、日達上人がその必要をお認めになられなかったことは当然でしょう。時が来てその必要があれば、日顕上人はいつでも御自身で日号をお名乗りできる御立場なのだから。

 菅野
 彼らは、御相承箱の中に御当代の御法主上人が次の御方の名前をお書きして入れておくことが通例のようなことを言っている。しかし、御相承箱の内容を、血脈相承も受けていない者共が知っているはずがないわけで、口からでまかせの言いたい放題の妄言というほかはない。まったく許せないね。

 藤本
 総本山第十七世日精上人についての堀日亨上人の要山流との御言葉は、たしかに『富士宗学要集』に載っているが、御当代日顕上人は日亨上人の御見解について、日精上人の御事跡について多少誤解せられた面があられたことによると御指南されています。総本山第二十六世日寛上人をはじめ、御歴代上人、さらには日亨上人も、日精上人を総本山御歴代上人と拝されていたことは、当然ながら明白な事実なのです。

 阿部
 要するに彼らは、日寛上人や日亨上人を尊敬するふりをして、その御指南はまったく無視するわけで、これは彼らには師弟相対の信仰など微塵もなく、自己の我欲のために利用できるものは何でも利用する、言わば我利我利亡者の外道集団であることを証明していますね。



  許せぬ
   日達上人・日顕上人への誹謗



 司会
 悪書『法主詐称』の内容はそのすべてが信用できませんが、特に御先師日達上人が血脈相承をなさらずに御遷化されたという彼らの誹謗は、日蓮正宗の信仰の根本に対する悪質な中傷であり、断じて許せません。

 藤本
 御先師日達上人が御当代日顕上人猊下に法を付されたことは微塵も疑いようのない厳然たる事実です。だからこそあの当時、全宗門を挙げて日顕上人猊下に信伏随従を誓っていたし、また池田大作や創価学会をはじめ、自称正信会の者たちも同様だったね。

 阿部
 はい、そのとおりです。ところで彼らは今回、昭和五十四年七月の日達上人の御遷化に際し、御法主日顕上人が日達上人の関係者に後継のことを確認されたとし、もし血脈相承を受けているのであれば確認などするはずがない。よってこの時に、日達上人の遺族によって後継と指名されたのだ、などと莫迦なことを言っております。

 早瀬
 そうだね、この西奥番部屋での対話の件はすでに宗門側から破折されているとおりで、たしか菅野能化は、彼らが言うような「総監さんじゃないですぅ?」などという曖昧な言い方ではなくて、「阿部さんと伺っています」とはっきり返事をされたんでしたね。

 菅野
 たしかに、後継の件について、日顕上人猊下(当時総監)から御確認がありました。それに対して、かねがね日達上人は日顕上人を後継にとお考えになられており、そのことを日顕上人御本人にもお伝えされていたことは遺族一同も承知しており、別の方へというお話は一切伺っておりませんから、遺族を代表して、その場におられた日顕上人や藤本総監(当時庶務部長)に、「次は阿部さんがなると日達上人より伺っております」とお答えしたのです。それを創価学会や憂宗護法同盟の者が、日達上人は誰にも血脈相承をされずに御遷化あそばされたので、我々遺族が日達上人の後継として日顕上人を指名したなどと言うのは、とんでもない虚偽の言いがかりであり、まったく迷惑千万な話です。

 八木
 彼らは御法主上人猊下が御登座後、大奥へお入りになり、塔中・山内の教師一同に対する初めての御目通りの場で、「ワシの血脈のことでガタガタ言っているようだが、じゃあ、ほかに相承を受けた者がいるのか。いたら手を挙げてみろ!」とタンカを切ったなどと誹謗しているが、そんな話もまったくデタラメです。当時の宗門は御登座あそばされた日顕上人に全僧俗が信伏随従しており、誰一人異議を申し立てる者などいませんでした。だから日顕上人猊下がそんなことを言われるはずがないんです。

 藤本
 そのとおりだね。当時、私は総本山塔中の蓮成坊の住職を務めており、宗務院庶務部長を拝命していたから、当然、御当代日顕上人猊下の山内教師への最初の御目通りの場にも列席していたが、そんな乱暴な御言葉など一言もなかったね。むしろ厳粛な雰囲気の中にも、山内教師一同に丁重な御挨拶をいただき、一同も謹んでお祝いを言上申し上げたと記憶しています。

 八木
 私も御登座の折、日顕上人のお供として総本山に登り、その場に同席しておりましたが、たしか、塔中代表の御祝辞を受けられたあと、宗開両祖をはじめ御歴代上人、御先師日達上人の御遺志を体し奉り務めたい、と御丁重な挨拶をされたと記憶します。

 阿部
 本当に『法主詐称』は何から何まで捏造だらけですね。また彼らは日顕上人猊下が、「観妙院さんにしばらくやってもらってもいいんですがね」と言われたとか、「どなたかがお受けしているかも分からない。それで、みんなに相承のことを伺ったら、どなたも自分では言い出されなかった」とか、本当にまことしやかに述べていますね。

 八木
 まったく、捏造を何とも思わぬ彼らでなければできない誣言だね。御法主上人猊下は、たとえどなたに対しても、尊い本宗の血脈相承を愚弄するような、いい加減な言葉を述べた覚えは決してないと仰せです。

 早瀬
 ともかく日蓮正宗は、唯授一人の血脈相承をお受けあそばされたお方を中心に、異体同心の団結を計ることが最重要事であり、日顕上人猊下がすでに法を内付された御立場からなされた御振る舞いに信伏随従することが日蓮正宗の信心なのです。流言蜚語の類をもって、血脈法水の尊厳を誹謗することは許されざる行為です。

 藤本
 そのとおりです。菅野師(現菅野日龍御尊能化)に対して、お側におられた御遺族として、御先師日達上人からどのように聞いているかを御確認されたのも、日顕上人への御付嘱が一年以上前の内付という形で、一般にあまり知られていなかったことから、突然の御遷化に際して、御自身がお一人で宣明されるだけでなく、御遺族が聞いておられることも確認することによって、宗門万代の団結への御配慮をされたものと有り難く拝すべきと思います。

 菅野
 まったく同感です。すでに法を付された御法主上人でいらっしゃいますから、当然のことであり、このように申し上げるのはまことに失礼ですが、あの西奥番部屋での確認のお尋ねの折、創価学会や憂宗護法同盟の者たちが誹謗するような「猊座への執念」など少しも感じられませんでした。ただただ、法をお護りあそばされるための配慮というか、そういう大きな御立場から御確認なされたと感じています。

 司会
 次に『法主詐称』では、御先師日達上人が京都市平安寺へ妙修尊尼を見舞いに御下向されたときのことも誹謗しています。

 八木
 昭和四十九年一月の光久能化(当時御仲居・現妙縁寺御住職)が同席した平安寺での妙修尼見舞いの折のことですね。日達上人が妙修尼に「あなたの息子さんに後をやってもらうのですからね、早くよくなって下さいよ」と言われたことは、その場にいた関係者の証言なのだから否定できないと思います。

 菅野
 野村慈尊師(当時大石寺理事・現清涼寺御住職)もこの件について何か述べていたね。たしか日達上人が京都からお帰りになり、総本山でお出迎えした時に直々に御言葉をいただいたということだったかな。

 阿部
 はい。昨年の創価学会と離脱僧に対する「青年僧侶邪義破折班」の破折にも掲載されていますが、京都から総本山へ戻られた日達上人が野村慈尊師に対して、「妙修さんにな、あなたの息子さんに後を譲るから安心しなさいと言って励ましてきたよ」とお話しになられたとのことです。このことは都合が悪いのか、『法主詐称』ではまったく触れていません。



  四月十五日の御相承
    周囲の状況からも明らか



 司会
 次に彼らは、昭和五十三年四月十五日の御相承の日についても疑惑があると騒いでいます。

 藤本
 これも、血脈否定の反逆者がこれまでさんざん言い古してきた誹謗だね。当日は日目上人の御講日に当たっており、日達上人は午前七時から御影堂で御講を勤められ、午前八時前には大奥へ戻られたと思います。

 阿部
 はい。そこで彼らの言い分は、午前九時半に故山口範道師ほか二名の僧侶の御目通り、午前十時頃、原田篤道師一行の御目通りがあり、午前十一時頃には日達上人は東京へ向けて出発された。どこにも御相承を受ける時間はなかったというものです。

 八木
 その言い分は、今回の創価学会・憂宗護法同盟による『法主詐称』だけではなく、かつて自称正信会の者たちが行った主張だね。だが、こと御相承に関しては、第三者が外側から見て、どのくらいの時間が必要であるとかないとか、判断できる問題ではない。まったく窺い知ることなどできないのだから。当事者であられる日達上人が、十分その目的を達することができると御判断の上、この日と決めて日顕上人をお呼びになったのだから、その日に何があった、かにがあったと部外者がいくら言いつのっても、所詮それは的外れの言いがかりでしかないと思うよ。

 藤本
 たしかに、何よりも、この日、大奥に参上した日顕上人が、「内々に御相承の儀に関する御言葉があり、これについての甚深の御法門の御指南を賜った」とおっしゃっているわけだから、他人が時間の余裕の有無などを論ずるのはナンセンスというほかないね。

 早瀬
 この四月十五日の件については、当日、楠美慈調大学科事務局長が総本山で日顕上人猊下をお見かけしたという証言があったね。楠美君はこの頃、常灯坊の住職で、宗務院の書記として富士学林の仕事をしていたはずだが。

 阿部
 はい。学会側は盛んに楠美事務局長の証言を根拠がないと誹謗していますが、宗内においても誠実で人望のある楠美師の証言だけに、学会側にとっては相当痛かったのだと思います。それで否定にやっきになっているのでしょう。

 藤本
 塔中の住職であれば当然この日の御講にも出席したはずだね。

 阿部
 はい。私も確認のために直接、楠美師にお話を聞きましたが、この日のことは、御講終了後、大坊でけんちん汁の朝食をいただき、常灯坊には戻らずに、そのまま大講堂三階の宗務院で仕事をはじめたので、特に印象に残っており、日付の記憶に間違いはないとのことでした。

 八木
 そして宗務院の東端にあった印刷室で仕事をしていた時に、たまたま内事部玄関のほうを眺めたところ、事務衣に小袈裟を着けられた日顕上人(当時教学部長)が、内事部玄関へお入りになるところだったという証言だったね。

 早瀬
 それと、当時、総監さんや宗務院の方々が登院される時は、通常大講堂東側にある宗務院の入口を使われるが、その日、日顕上人が内事部玄関から入られたということは、何かのご用で日達上人に御目通りをされ、その後で宗務院のほうへ見えるのだろうと、楠美君は思っていたが、結局、その日は宗務院へは来られなかったという話だったね。

 阿部
 はい、そのとおりです。

 藤本
 そもそも宗務院の部長が、宗務院玄関ではなく、遠回りの内事部玄関から、それも小袈裟を着けて入られたということは、その目的はただ一つ。御先師日達上人猊下への御目通りしかないね。学会側は、楠美君は近眼だが、普段眼鏡をかけていないから、大講堂三階の宗務院から内事部玄関は見えなかったはずなどと、何とか楠美君の証言を潰そうとやっきになっているがそのあたりはどうかね。

 阿部
 それも楠美師に聞きましたが、新説免許の折に作って以来、ずっと眼鏡をかけていたそうです。ただし、それほどひどい近眼ではないので、眼鏡がなくてもどなたかを見分けることはできたとのことでした。

 菅野
 それと学会側は、昭和五十三年四月十五日、血脈内付の当日、楠美君が総本山で阿部教学部長を目撃したのなら、正信会裁判の折に何故出廷させなかったのかと難癖をつけているようだが。

 阿部
 それについて楠美師は、特に隠していたわけではないと述べています。正信会裁判が盛んだった頃、何名かの僧侶に、自分は昭和五十三年四月十五日に内事部に入られる日顕上人猊下をお見かけした、もし上から命じられればいつでも証言しますと話したそうです。ただ誰からもそれについての話がこなかったので、自分からしゃしゃり出るのもどうかと思い、それ以上話さなかっただけと言っております。たしか、当時の正信会裁判は創価学会弁護士が担当していましたね。

 早瀬
 そうだね。当時は今のように宗務院渉外部の人たちが活躍する状況ではなく、裁判の進行は創価学会の弁護士に任せていたと思う。その意味では、学会側が楠美君について、「正信会裁判の証人になぜ出さなかった」などと非難するのはあたらないね。

 藤本
 それから『法主詐称』では、光久能化が内付の日時に関して、「四月十五日にしていいのですか。あの日は達師が忙しい日だが」と日顕上人猊下に質問したと誹謗しているが。

 早瀬
 それについては、光久能化にはかなり明確な記憶があるんですね。それは「四月十五日」の御相承の件で、御法主日顕上人に「あの日は日達上人の御誕生日で、お忙しい日でしたですね」と申し上げたのだそうです。それに対して、御法主上人は「私もそういう特別な日と記憶している。むしろだからこそ、あの日のことをはっきりと覚えているのだ」と仰せられたとのことです。また「四月十五日にしていいのですか」などという疑うような不遜なことを言うはずがないと明確に否定されています。

 阿部
 それともう一つ、これは日達上人の御長男で現常在寺御住職の細井珪道師から伺った話ですが、細井師夫妻は四月十五日の当日、総本山で媒酌人として原田篤道師の結納の儀に立ち会われ、富士宮市内の店で祝いの宴席にも出席されたそうです。ここまでのことは『法主詐称』もそのように書いていますが、続いて日達上人が午前十一時頃には総本山を発たれたとか、細井珪道師が日達上人を追って、宴席を早々に切り上げて東京へ向かったなどという記述はまったく事実と異なるもので、実際は日達上人が総本山を御出発されたのは午後三時過ぎであり、また細井師夫妻も宴席を早々に切り上げる理由もなく、富士宮の店を出発したのは、宴席の終了した後の午後一時少し前だったとのことです。

 早瀬
 そうだね。このことは正信会裁判の折、昭和六十二年頃に裁判所へ提出した細井珪道師の報告書にも述べられていることだね。この日、御先師日達上人と御当代日顕上人が御相承のために充てられることができた時間は、優に六時間以上もあったんだよ。創価学会弁護士はこの件についての自称正信会の大嘘を見抜いていたからこそ、この報告書を作成したはずだね。創価学会は、そのことにほっ被りして、正信会の大嘘をそのまま用いた『法主詐称』を新聞で大々的に報道するとは、道義も何もあったもんじゃないね。

 阿部
 本当にそうですね。細井珪道師夫妻は午後三時をちょっと過ぎた頃には文京区西片の大石寺出張所に着き、その時点でまだ日達上人は西片には着かれていなかったので、当時、建ったばかりだったサンシャインヘ見物に行き、四時半頃に西片に戻ったのですが、日達上人はまだお着きではなく、夫妻は日達上人の奥様をお乗せして午後五時前に西片を発ち、グランドホテルに向かったそうです。結局、日達上人は午後三時過ぎに総本山をお発ちになり、ホテルに直行され、祝宴の開始予定時刻は午後五時半か六時でしたが、それよりも、四十分ほど遅れて御到着されたそうです。

 菅野
 確かにそうだったね。だから『法主詐称』の中に書かれている「東京に向かった日達上人は、まず文京区西片の大石寺東京出張所に入って休憩することになった云云」との記述はまったくのデタラメだよ。

 八木
 要するに『法主詐称』に記述されていることは、何から何までデタラメということだよ。

 藤本
 本当だね。『法主詐称』中に裁判記録として記載されているのは正信会側の証言だが、こんな大嘘の証言を、嘘と判っていながら資料として平気で使うのだから呆れるしかないね。何れにせよ、御法主日顕上人が御先師日達上人から血脈相承を内付あそばされた日が、昭和五十三年四月十五日であったことを否定する彼らの言い分は、何の根拠もないことが明白なわけだ。



  存在しなかった「奥番日誌」
    彼らの大嘘は明白



 阿部
 それと他にも『法主詐称』での彼らの主張がまったくの虚偽捏造である証拠があります。彼らは知ったかぶりをして、当日の「奥番日誌」に日顕上人の御名前が見当たらないなどとしていますが、昭和五十三・四年当時の奥番であった早川検道師(現法貴寺御住職)と磯村如道師(現要行寺御住職)に、確認したところ、両師ともその頃は「奥番日誌」はつけていなかったと明確に証言しています。もし、彼らが当時の「奥番日誌」があったと言い張るのなら、その日誌をはっきり示すべきですね。

 八木
 現存する「奥番日誌」は、昭和五十六年頃に日顕上人が常備を命ぜられた以降のものなのだね。もし日達上人の代からの「奥番日誌」が存在していれば、同じ両名の奥番が日顕上人の代にも、引き続き勤務していたのだから、当然、昭和五十三年の「奥番日誌」も保管されているはずだからね。

 藤本
 それが昭和五十六年以前の日誌は存在せず、当時の奥番を務めた両師が、明確にその存在を否定しているということは、昭和五十三年の「奥番日誌」など、もともと存在しないわけだ。それでは日顕上人の御名前が見当たらないのは当然ではないか。彼らの狡いやり方には呆れるばかりだね。

 阿部
 ところで『法主詐称』では昭和五十三年六月二十五日に、御先師日達上人がある信者に、次期御法主の座を日顕上人に「譲るつもり」だと言われたことを取り上げ、すでに四月十五日に御相承がなされていたのなら、なぜ六月二十五日の時点で、「譲るつもり」と言われたのかと難癖をつけていますね。

 早瀬
 それが創価学会と憂宗護法同盟の愚かなところだね。すでに四月十五日には日達上人から日顕上人への御相承は済んでいるが、こと血脈相承に関しては、たとえ相手がいかに有力な信徒であろうと、正式に宗内へ公表する以前の内付の段階で、一信徒に対してすでに血脈相承を行ったなどと明かされるはずもなく、だからこそ「譲るつもり」と仰せられたのだと拝します。

 菅野
 私はむしろ、その信徒に対して、「次は阿部(日顕上人)に譲るつもりでおりますので、よろしくお願いします」と言われたこと自体が重大な意味を持っていると思います。この件については私も正信会裁判のときに報告書に書きましたが、六月二十五日の日達上人のこの御言葉により、私はすでに日顕上人に御相承なされているのだなと確信しましたし、それが昭和五十三年四月十五日の御相承であったと固く信じております。

 司会
 いろいろとたいへんに心強い証言が出てまいりまして、より一層勇気が涌く思いです。たいへんに失礼かもしれませんが、最後に大宣寺様にお伺いしたいと存じます。『法主詐称』には大宣寺様が、「日達上人は相承をしていないんだよ。もし、していたら私が知っているよ」と述べたとしていますが、このような御発言は事実とは思えませんが。

 菅野
 当り前です。彼らは日達上人が日顕上人に対して、人前で平気で、「オイ、お前」と呼んでいたなどと述べていますが、これも捏造です。事実は全く反対で、私はこの頃、日達上人の日顕上人に対する御振る舞いが変わられたことからも、日達上人から日顕上人へ御相承がなされたことを確信しておりました。ですから、私がそのようなことを言うわけがありません。捏造です。まったく卑劣な者たちです。

 司会
 皆様、本日は御多忙の中をたいへんにありがとうございました。
(つづく)