は じ め に


 昨年十月、松岡幹夫が『破綻した阿部日顕の教学 公開問答10の破折』という本を出版した。しかし、宗門の誰も相手にしない状況に焦った松岡は、なんとか取り合って貰いたいのか、昨年の暮れ、わざわざ大石寺関係者に、「青年僧侶改革同盟」の名前で該書を送りつけてきた。
 その内容たるや、かつて我ら「日蓮正宗青年僧侶邪義破折班」(以下「破折班」とする)が、過去数度に亘り、松岡に対して破折を加えたことに対する反論の体裁をとっているが、実はそこに一般常識では考えられない重大な欺瞞・信義則違反がある。それは松岡の主張する反論阿部日顕の教学に対する十の学術的批判≠ノついては、既に、「破折班」が『松岡雄茂の邪智極まる十項目の誑言を破す』と題して、完膚無きまでに破折し尽くした内容だからである。
 その後、松岡は遂に、「破折班」の反駁書に反論不能となり、それを創価学会員に悟られまいとして、学術的論争を放棄して、七十項目に亘るストーカーまがいの質問状にすり替えたので、「破折班」は学術的論争で勝利した事を宣言し、下卑た質問をする負け犬の遠吠えの類は捨て置く事としたのである。
 しかる処、なんと松岡は、既に反論がなされているにも関わらず、それを隠して、自分の主張だけを載せた自著を出版したのである。この不誠実極まりない態度は、学問的良心にもとる著しい背信行為であり、実に松岡が狡猾にして卑劣な人間であることを証明するものである。
 以上のことから、今回の本も無視するのが当然の三百頁ほどの書であるが、後半の百頁弱ほどに阿部日顕著『百六箇種脱対見拝述記』の考察≠ニ題する部分がある。この内容は総本山第六十七世日顕上人が御著述遊ばされた『百六箇種脱対見拝述記』(以下『拝述記』とする)に対する批判だが、悪意に満ちた悪口と難癖と中傷の羅列が多く、法門上の批判も、居丈高な文調とは対照的に未熟低級な内容ばかりだ。
 宗内僧俗がこの悪書に惑わされる心配は皆無と思われるが、前御法主日顕上人猊下の御著述に対し、
 参考文献の再調査を命じた上で、当然のように全体の書き直しを求めるだろう=i悪書二六一頁)
と述べるくだりは、大慢婆羅門の再来かと見まがうばかりの高慢ぶりを示している。その狂乱ぶりには、もはや付ける薬はない。
 末法の一切衆生救済の大仏法を継承され、今は血脈不断に備えられる御正師の日顕上人が、血脈御所持の甚深の御境界の上から、血脈の重書である『百六箇抄』の講義書を、令法久住・広宣流布の為に、門弟の信行学解の増進を願われ、心血を注がれて御述作遊ばされたのが『拝述記』であるが、その重書に対し、牛羊にも劣る愚眼の一瞥をもって論断し、侮蔑軽賤の劣情に任せて乱発する悪口雑言を放置するわけにはいかない。
 しかしながら、七十項目の下卑た内容同様、松岡の嫉妬と憎悪の言にいちいち取り合う必要はない。そこで感情的な言辞は捨て置き、松岡の学解未熟により表れた教義的な誤謬や邪義に的を絞って指摘する。
 そもそも『草木成仏口決』の、

一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり。天台・妙楽・伝教、内にはかがみさせ給へどもひろめ給はず。(新編五二三頁)

との御金言に照せば、松岡の仏法曲解の原因は、要するに松岡の「習い損ない」にある。
 たとえ短い日々であったとしても大石寺の蘭室に学びながら、わずかの妙香を聞くこともなく去った松岡の邪義邪説を摘出し、その間違いを糺して正義を顕揚するものである。
 それが日顕上人への御恩徳を報じ奉る道だと信ずるからである。


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