6 自作自演の教条主義≠糺す


 ここで松岡は、
区別主義、愚民思想、衒学趣味──ここで、阿部の様々な教学的病理の背景にある思惟様式を示してみたい。教条主義(dogmatism)である。筆者はこれを、特定の組織が公認する教義(dogma)を無批判に肯定し主張する態度、という意味で用いる。現日蓮正宗という特定の組織が固執するドグマとは、法主の内証(内面の悟り)が本仏大聖人と一体不二である、とする「法主信仰」に他ならない。法主信仰のドグマは、十五世紀の大石寺に『百六箇抄』等を伝えたと推定される京都・日尊門流の左京日教の諸説を淵源とする。しかし宗門では、伝統的に日寛教学が正系で、左京日教の諸説は傍系と見られてきた。阿部自身も以前、そう発言している。ところが自ら「法主」と名乗って創価学会と対立する事態に至るや、阿部は一転して日教流の法主信仰が宗門古来の伝統教義であると吹聴し始めた。しかも、そうして規定された法主信仰のドグマを理由に、宗祖の御書の明文を一つも示さずに創価学会を「破門」した教条主義者もまた、阿部であった。「自作自演の教条主義」という構図が、ここに透けて見える。一般に、教条主義には恣意性が付き物であるが、自作自演となると、もはや恣意性しか残らない=i悪書二六五頁)
と疑難を呈する。
 左京日教云云に関する件は、すでに我ら破折班が『松岡雄茂の「法主信仰の打破」なる邪論を破す』と題して、松岡が反論できないほど完膚無きまでに破折しているから、それを再度熟読せよ、と呵しておく。
 大聖人から日興上人に相承されて以来、七百年もの間、唯授一人の血脈により、御本仏日蓮大聖人の御魂魄が代々の御法主上人の御内証に相伝される日蓮正宗の信仰を信じて昭和三年に入信したのが牧口初代会長と戸田二代会長である。その二人が創価教育学会を興し、戦後に戸田二代会長が創価学会として再建し、今日に至るが、創価学会においては、平成三年の破門に至るまでの約六十年の間、基本的に正しく御法主上人の御内証を拝してきたといえる。その経緯を無視して、松岡は今になって、日蓮正宗における御法主上人への拝信を法主信仰≠セと言い、まるで日蓮正宗が大聖人の教えに反しているかのように誑惑しているのである。かつて、牧口初代会長は、

大善生活がいかにして吾々の如きものに百発百中の法則として実証されるに到つたか。それには、仏教の極意たる妙法の日蓮正宗大石寺にのみ正しく伝はる唯一の秘法があることを知らねばならぬ。(大善生活実証録・第四回総会報告一三頁)

と述べ、また戸田二代会長も、

りっぱな僧侶と名づくべき百数十人の小さな教団がある。この教団こそ日本の宝であり、仏のおおせの僧宝であると、万人の尊敬すべきところで、まことにめずらしい教団である。日蓮正宗の僧侶の教団こそ、これである。(戸田城聖全集第一巻四三頁)
日蓮正宗だけが大聖人より嫡々相伝の家であって、いかに日蓮宗を名のるとも、日蓮正宗以外は、大聖人の相伝の宗ではなく、不相伝家と称する宗で、大聖人の極理を知らないがゆえである。(戸田城聖全集第三巻一六一頁)
先代牧口先生当時から、学会は猊座のことには、いっさい関知せぬ大精神で通してきたし、今後も、この精神で一貫する。これを破る者は、たとえ大幹部といえども即座に除名する。(戸田城聖全集第三巻二三五頁)
御法主上人は唯授一人、六十四代のあいだを、私どもに、もったいなくも師匠として大聖人様そのままの御内証を伝えておられるのです。ですから、御法主上人猊下をとおして大御本尊様を拝しますれば、かならず功徳がでてくる。(戸田城聖全集第四巻三九九頁)

と、御法主上人猊下への絶対なる信仰を説いていた。
 また、池田もかつては、

遣使還告であられる御法主上人猊下は、日蓮大聖人様であります。(会長講演集第第十巻四三頁)
現代においては、いかなる理由があれ、御本仏日蓮大聖人の「遣使還告」であられる血脈付法の御法主日顕上人猊下を非難することは、これらの徒と同じであるといわなければならない。批判する者は、正法正義の日蓮正宗に対する異流であり、反逆者であるからである。(広布と人生を語る第一巻二三〇頁)

と述べ、唯授一人の血脈を御所持遊ばされる日顕上人に信伏随従していた。
 松岡の主張を当てはめれば、牧口初代会長、戸田二代会長、三代会長の池田大作こそ、法主信仰≠フ最たるものではないか。唯授一人の血脈を奉戴する日蓮正宗を法主信仰≠ニ悪しく罵る松岡こそ、先の池田のいう如き、「異流」「反逆者」である。
 要するに、創価学会は創立以来、初代・二代会長の篤き信心により、約六十年の間変わらず御法体を相承される御法主上人を正しく拝信してきたが、大慢心の池田大作の指導により平成三年以降、その信仰姿勢を変えたのである。つまり、信仰の対象を変えたのは、日蓮正宗ではなく、他ならぬ創価学会ではないか。宗門は、何度も、唯授一人の血脈への背信は大聖人の仏法への背信であり、相伝書等の御書に明らかなように大聖人の御正意に背くものであると諭したが、まったく聞く耳を持たず、それを無視し、これまでの信仰姿勢を反故にして、いよいよ血脈を誹毀讒謗している状況が、破門寸前の創価学会の状態であった。そのような状況であるから、破門の時は、もはや、彼らは冷静に御書の深意を拝せるような状態ではなかったのだ。
 民衆、民衆と、自己を宣揚する民衆中心という仮面をかぶった池田大作こそ、深い教学に到達できない浅識の教条主義者≠フ最たるものではないか。それに追随する松岡も同轍である。
 池田大作率いる創価学会こそ、迷いの凡夫を本仏視するという偏見の民衆仏法に固執するまさしく教条主義≠フ教団であることが明らかである。

 また松岡は、
阿部の説くドグマが、どれほど恣意的か。学会破門に関する阿部の口癖の一つに、「創価学会は、その日蓮正宗より出た単なる派生団体であり、派生団体である以上、常に、いかなることがあろうと、広布根源の宗旨・宗団に従わなければならない」といったものがある。宗門古来の本末制度をドグマ化して学会に適用したのだろうが、日蓮仏法の正しい見解とは言えない。日蓮大聖人は、ある面で天台宗から派生した身であろう。にもかかわらず「設い天台の釈なりとも釈尊の金言に背き法華経に背かば全く之を用ゆ可からざるなり」(『立正観抄』、全集五二八〜五二九頁)と断言され、自らも出家の師たる道善房の誤りを容赦なく責められたのはなぜか。阿部の〈派生=服従〉説は、明確に宗祖からの正統的合理性を欠く。また階級秩序を定めるのはよいが、それに執着するのは自由自在という仏教的合理性に反する。ゆえに二祖・日興上人は、その遺誡において、宗門の貫首(法主)に一定の権限を認めつつも「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」「時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦の犯有りと雖も衆徒に差置く可き事」(全集一六一八、一六一九頁)と定め、法主の権威を固定化することを禁じている。さらに一般的合理性の上からも、阿部のごとく、信仰の内実よりも過去の経緯にこだわって是非を判定する態度は不合理である。〈派生=服従〉説は、三つの合理性に照らして認めがたい。阿部による、自作自演の教条主義の一例と言えよう=i悪書二六六頁)
という。
 牧口初代会長も、また今でも総本山大石寺の五重塔の横にあるお墓に眠る戸田二代会長も、生涯を通じて、本門戒壇の大御本尊と、唯授一人の血脈への信心を全うした。その意に反して、現在の創価学会は、池田大作の指導により、本門戒壇の大御本尊を放棄し、唯授一人の血脈への拝信を止めたのである。これこそ日蓮大聖人の仏法への背逆であり、近くは牧口・戸田両会長に背く所業である。
 さて、日寛上人が『文底秘沈抄』に、

本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり。(六巻抄四九頁)

と示されるように、大聖人の御内証は元初本仏であるが、仏法弘通の方軌としての付嘱に則り、外用上行として霊山にて結要付嘱を受けられて末法に出現され、適時の妙法を弘宣されたのである。
 ただし、末法に入り、はじめて下種仏法を弘通されるのであるから、宗旨御建立、つまり下種仏法が開顕されるまでは、印度の釈尊の施化による熟脱仏法が流布していたことは当然である。
 そのような状況の中、大聖人は、台密寺院であった清澄寺で出家され、生知の妙悟が具わっておられたが、具体的方途を決せられる意味より、諸宗の義を学ばれるなど御修行せられ、遂に宗旨を御建立なされたのである。当時の天台宗は、像法過時の失のみならず、理同事勝の密教の邪義が染み込んでおり、『三大秘法稟承事』等に示される如く、清浄無染のはずの円頓戒壇も土泥にまみれた状況であった。
 そのように釈尊の熟脱仏法は時機を失い、さらには法華経迹門による衆生救済もならない末法の時機にあたり、まず権実相対判による法華実勝の本義の上より権経に依る諸宗を破折され、末法の適時の大法たる妙法蓮華経を弘通されたのである。熟脱仏法の範疇である天台宗も、当然破折の対象であった。宗祖の御出現による妙法の開示こそ、まさしく熟脱仏法から下種仏法への一大転換である。宗祖得度の宗派である天台宗の破折は、その中における御化導である。
 それに対して、日顕上人の創価学会破折は、下種仏法が開顕されて以来七百年の時が経過し、下種仏法中より派生した集団に対する教導である。
 大聖人は、末法万年に亘る法体伝持の方途として、その御魂魄を人法一箇の本門戒壇の大御本尊と建立され、その御法体を、唯授一人の血脈により二祖日興上人に相伝された。爾来、代々の上人が伝持遊ばされるところである。
 その中で、総本山第六十世日開上人の代に、牧口初代会長と戸田二代会長が池袋常在寺において入信し、その後、創立したのが創価教育学会であるが、戦後に戸田二代会長が、本門戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈への拝信を絶対的根本信条とし、その上から三原則を厳守することを誓って発足したのが宗教法人としての創価学会である。このような状況で出発した創価学会は、戸田二代会長の「我々学会の使命は本門戒壇の大御本尊への車引きである」という大精神のもとに飛躍的大発展を遂げ、遂に七十五万世帯に垂んとする信徒団体になり、そのレールに乗った三代会長池田大作の時代には公称八百万信徒という巨大な組織へと成長した。
 ところで、創価学会を設立した牧口初代会長と戸田二代会長の目的は何処にあったのだろうか。創立以来、破門に至るまで、「(牧口初代会長)妙法の日蓮正宗大石寺にのみ正しく伝はる唯一の秘法」「(戸田二代会長)御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない」との信心により、本門戒壇の大御本尊を帰命依止の対境とし、唯授一人の血脈に随順し、総本山を外護してきたのである。それが創立以来不変の学会の使命であり、そこにこそ創価学会の原点があり、牧口初代会長と戸田二代会長が創価学会を作った目的がある。
 その流れを受け、当初は恭順な態度を示した池田大作であったが、正本堂建立以後、広布第二章という己義我見の大慢心に陥り、昭和五十二年路線といわれる教義逸脱問題を起こしたが、総本山六十六世日達上人から破折された池田大作が謝罪して、創価学会の会長を辞任し、法華講総講頭の職も辞したのである。そのような経過もあったが、日達上人は、池田大作の反省を容れられ、創価学会を許されたのが、昭和五十四年五月三日の本部総会であった。
 その年の七月二十二日、日達上人が御遷化遊ばされ、その跡を受けて御登座遊ばされた日顕上人は、池田大作を総講頭再任という大温情の措置をとられたのである。そのような経過もあり、池田は表面的には引き続き恭順の姿勢を示したが、内心は全くの無反省で背反の機会を窺うという、仏法破壊の策謀を練っていたのである。
 つまり、今回の平成二年以降の第二次教義逸脱問題の根本原因は、ひとえに池田大作の我尊しとの大慢心と、血脈御所持の日顕上人に対する嫉妬にある。池田は自分にひれ伏さない日顕上人を憎み、特に平成二年の大石寺開創七百年の時に内心期待していた「本門寺への改称」との野望が潰えたとみたのか、遂にはっきりと唯授一人の血脈を所持される日顕上人への誹毀讒謗に転じたのである。
 その発言に始まる創価学会破門に至る経緯の全ては、あきらかに創価学会を作った牧口初代会長と戸田二代会長の信条から大きく外れたものであり、あるいはまた唯授一人の血脈の上人を誹謗するのであるから、大聖人の下種三宝を破壊せんとする魔の所業以外の何ものでもない。
 このように見てくると、日顕上人を非難するために松岡が逆説的に挙げた創価学会は、その日蓮正宗より出た単なる派生団体であり、派生団体である以上、常に、いかなることがあろうと、広布根源の宗旨・宗団に従わなければならない≠ニは、まことに的を射た大聖人の文底下種仏法の正しい見解ではないか。さらにまた牧口初代会長と戸田二代会長の真意に合致するものであろう。
 下種仏法の本義は、あくまで本門戒壇の大御本尊と日興上人以来の唯授一人の血脈にあり、そこに信仰の根源・広布の根源が存する。松岡は、日顕上人が、派生の経緯から服従を強いているような牽強附会の説を述べるが、そうではない。下種仏法の本体・根源より、そこより外れた非道義の学会を破折されているである。
 以上のことから、大聖人が出家寺院の脱益仏法を破折された種脱相対の御化導と、日顕上人が下種仏法の内より派生した団体の退転脱落に対してなされた異流義破折の御教導とは、そもそも意義が異なるのである。まさにこれは松岡の悪辣な議論のスリカエであることが明らかである。
 また、松岡は、日興上人の一部の御指南を引用して、法主の権威を固定化することを禁じ≠スと述べるが、これも狡猾な欺瞞である。大聖人・日興上人の御真意は決して権威の固定化を特に禁じられてはいない。なぜなら、大聖人は、『百六箇抄』に、

直授結要付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。(新編一七〇二頁)

と示され、また日興上人は、『御本尊七箇之相承』に、

師の曰わく、深秘なり、代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。(日蓮正宗聖典三七九頁)

と仰せられるように、仏法上の権威を定められているからである。
 また『日興遺誡置文』に、

衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事。(新編一八八五頁)

と述べられているように、大勢の義であっても、仏法に相違があれば御法主上人がそれを挫き破折することを定められているからである。片方で大衆は「用いない」とされ、片方で貫首は「摧くべし」と仰せられているのは、どちらに主体があるのかと言えば、貫首の摧く方にあることは明らかではないか。ゆえに、ここでも、松岡の主張は破綻していることが明らかである。

 さらにまた松岡は、
彼の教条主義の自作自演性は、『拝述記』の中にも見てとれる。例えば、「種の自他不二門」を論じた箇所で「教相・観心、摂受・折伏、三重秘伝、宗旨三箇、宗教の五箇等に於て誤りを生ぜる者、今に絶えず。これ日蓮日興の相伝血脈に背反せる諸門流或いは当門より出でたる僧俗中の怨嫉偏見による血脈否定の者なり」(四八四頁)と述べている。ここで、阿部は「相伝血脈」というドグマを振りかざし、恐らく暗に創価学会の非を指弾している。しかし「諸門流」はともかく、「当門より出でたる僧俗」の創価学会が「教相・観心、摂受・折伏、三重秘伝、宗旨三箇、宗教の五箇等」を踏み外したという、正統的・仏教的・一般的な合理性の根拠はどこにあるのか。阿部はそれを何も示さず、彼の一特徴である曖昧論法を使って身延日蓮宗等の他門流と学会を巧みに同列化し、創価学会は日蓮日興の相伝血脈に反する者と言外に決めつけている。学会が三重秘伝や宗教の五箇等から逸脱したと断定できる合理的理由は、何一つ示していない。結局、阿部の言う「相伝血脈に背反」「血脈否定」とは、彼が恣意的に信仰の根本と定めた法主信仰のドグマへの背反を指すと解する以外になかろう。ここでも“阿部の、阿部による、阿部のためのドグマ”と言うべき、自作自演の教条主義が見て取れる=i悪書二六六頁)
と主張する。
 そもそも、身延派等の日蓮門下を名乗る他門の宗派が宗祖大聖人を上行菩薩の再誕の意より菩薩と見なし、あくまで釈尊を本仏と立てる中、大聖人を下種本仏とする正しい宗祖の拝し方を、創価学会は何処から教わったのか。
 すなわち、江戸布教開闢の寺院である常在寺信徒の三谷素啓氏が教育者として仲間であった牧口初代会長と戸田二代会長を折伏し、それによって両人は初めて大聖人こそ末法下種の御本仏であられることを知り、大聖人の仏法を伝持した唯一の宗団である日蓮正宗の正義を学ぶことが出来たのである。それは、紛れもなく総本山大石寺に七百年来唯授一人の血脈により大聖人の下種仏法が正しく伝承されたからであろう。ゆえに今日、創価学会に、大聖人を御本仏と拝する思想が存するのである。しかし、たとえ大聖人を御本仏と拝する思想を持っていたとしても、その仏法の末法万年の為の御用意を信じないで、大聖人の御法体に背けば、功徳を成じないことは明らかである。
 大聖人から日興上人に与えられた相伝書や二十六世日寛上人・五十六世日應上人の御指南によれば、大聖人の御法体は、唯授一人の血脈により、代々の御法主上人の御内証に相伝されるのである。
 したがって、日顕上人の御指南における「相伝血脈」とは、決して松岡のいう如き法主信仰のドグマ∞阿部のためのドグマ≠ネどでないことは当然である。その血脈付法の御法主上人を誹謗し続ける創価学会は、大聖人の御法体、いわゆる下種の人法に背逆しているのであり、つまり下種仏法の根源において大きな誤謬を生じているのであるから、御法体の本に迷えば、迹の教義に迷うことはまた当然である。故に、大聖人の教義である教相・観心、摂受・折伏、三重秘伝の実義、宗旨三箇である三大秘法、宗教の五綱教判などにおいて、それらの真実義に到達できないことは明らかではないか。
 そもそも宗教の五綱により鮮明なる本門三大秘法、就中一大秘法の本門戒壇の大御本尊に参詣しないという大御本尊否定の現証こそ、現在における謗法の最たるものである。
 ゆえに、日顕上人の御指南の如く、唯授一人の血脈に背反する身延派などの他宗他門の者達と同様に、血脈付法の上人を始め、下種仏法の本体である日蓮正宗を誹謗中傷する創価学会の者達が、下種仏法の種々の教義において誤りを生じていることは明白である。

 また松岡は、
阿部が「仏法は必ず付属によって伝承する鉄則」(同前一〇頁)と言って宗門の唯授一人相承を永遠視するのは、いかにも日蓮仏法の伝統的信念に則っているように見えるが、実はそうではない。私が過去に述べたように、釈尊の仏教も、天台智の仏教も、伝教大師の仏教も、すべて途中で正統な付属が途絶えたというのが、日蓮大聖人の見方である(本書七四頁を参照)。また、大聖人の下種仏法は末法万年にわたるはずだと言っても、それが必ず大石寺の法主間の相承を中心とするという正統的根拠はない。宗祖の『観心本尊抄』に上行等の地涌の四菩薩が折伏を現ずる時に在家の「賢王」として現れると教示されていることや、二祖が『遺誡置文』で仏法違背あるいは破戒の貫首(法主)の出現に言及したことを踏まえるなら、法主間の仏法承継という教団の形式が別のあり方にとって代わったとしても不思議ではないからである=i悪書二六七頁)
という。
 松岡は、唯授一人の血脈の永遠性を否定するために、釈尊の仏教も、天台智の仏教も、伝教大師の仏教も、すべて途中で正統な付属が途絶えたというのが、日蓮大聖人の見方である≠ネどと自分勝手な謬義をのべるが、大聖人は『報恩抄』に、

付法蔵の人々は四依の菩薩、仏の御使ひなり。(中略)此等は正法一千年の内なり。(新編一〇〇四頁)

と示され、また『観心本尊抄』に、

問うて曰く、此の経文の「遣使還告」は如何。答へて曰く、四依なり。四依に四類有り。小乗の四依は多分は正法の前の五百年に出現す。大乗の四依は多分は正法の後の五百年に出現す。三に迹門の四依は多分は像法一千年、少分は末法の初めなり。四に本門の四依は地涌千界、末法の始めに必ず出現すべし。(新編六五八頁)
正法一千年の間は小乗・権大乗なり、機時共に之無し。四依の大士小権を以て縁と為して在世の下種之を脱せしむ。謗多くして熟益を破るべき故に之を説かず、例せば在世の前四味の機根の如し。像法の中末に観音・薬王、南岳・天台等と示現し出現して、迹門を以て面と為し本門を以て裏と為して、百界千如、一念三千其の義を尽くせり。但理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊、未だ広く之を行ぜず。所詮円機有って円時無き故なり。今末法の初め、小を以て大を打ち権を以て実を破し、東西共に之を失し天地顛倒せり。迹化の四依は隠れて現前せず、諸天其の国を棄て之を守護せず。此の時地涌の菩薩始めて世に出現し、但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ。(新編六六〇頁)

等と仰せられる三時弘教の次第からみても、正法・像法・末法のその時々における弘通は、釈尊よりの付嘱により行われたことが明らかである。
 正法の先の五百年には付法蔵の付嘱により弘通され、後の五百年には龍樹・天親が出現して弘教し、像法には、嘱累品の法華一経付嘱により薬王の再誕たる天台大師が法華経迹門を弘通され、その後身を日本に伝教大師と示され叡山に弘宣された。末法においては、神力品の結要付嘱により外用上行菩薩の再誕である御本仏日蓮大聖人が御出現になられ、その付嘱の法体たる妙法蓮華経を弘通せられたのである。また、その付嘱の法体を二祖日興上人に付嘱せられ、爾来代々の上人が伝持遊ばされ今日に至っている。
 つまり、弘通の人師は、仏の付嘱により各時代に出現して弘通され、その使命を全うされるのであるから、釈尊の仏教も、天台智の仏教も、伝教大師の仏教も、すべて途中で正統な付属が途絶えた≠ネどと規定することは、大いなる勘違いである。
 なおまた、大聖人は、『顕仏未来記』に、

伝教大師云はく「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり、浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦に敷揚し、叡山の一家は天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通す」等云云。安州の日蓮は恐らくは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通せん。三に一を加へて三国四師と号づく。(新編六七九頁)

と三国四師の相承を示されていることからも、その相承が途絶え≠トいないことが明らかではないか。
 また松岡は、唯授一人の血脈の永遠性を否定するが、大聖人は『百六箇抄』に、

右此の血脈は本迹勝劣其の数一百六箇之を注す。数量に就いて表事有り。之を覚知すべし。釈迦諸仏の出世の本懐、真実真実唯為一大事の秘密なり。然る間万年救護の為に之を記し留む。(新編一七〇二頁)
直授結要付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。(同)
日本乃至一閻浮提の外万国までも之を流布せしむと雖も、日興が嫡々相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為すべきなり。所以は何、在世・滅後殊なりと雖も付嘱の儀式之同じ。譬へば四大六万の直弟の本眷属有りと雖も、上行薩を以て結要付嘱の大導師と定むるが如し。今以て是くの如し。六人已下数輩の弟子有りと雖も、日興を以て結要付嘱の大将と定むる者なり。(同)

等と示されている。この中の「万年救護の為に之を記し留む」「尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」との御指南こそ、下種仏法の付嘱である唯授一人の血脈相承が末法万年尽未来際に亘るとの永遠性を説いたものではないか。松岡の主張は悉く破綻しているのだ。
 なお、『観心本尊抄』に示される在家の「賢王」≠ノ関する件は、松岡が反論できずに我らとの教義論争から遁走した元となった破折書『松岡雄茂の邪智極まる十項目の誑言を破す』に詳述しているから、再度熟読せよと呵しておく。

 次に松岡は、
由来、付属の核心は授受の手続きよりも「心」の継承にこそあると言わねばならない。実には言葉にできない十界互具・一念三千の真理の深みにおいて、心と心で通じ合い、わかり合う。『御義口伝』に「戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり」(全集七六〇頁)と、また『三大秘法抄』に「此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり」(全集一〇二三頁)とあるのは、歴史的事実というよりも生命的事実と受けとるべきである。そうでないと、空想的な儀式ゆえに一般的合理性を無視することになろう。創価学会では、戸田城聖・第二代会長以来、法華経の会座を釈尊己心の儀式と見ており、霊山付属に関してもそうした視座に立って解釈する。池田会長は「儀式といい、所伝と称しても、それは、単なる形式ではない」とし、「宇宙の源泉たる久遠元初の自受用身の体内に激しく鼓動する妙法それ自体──久遠の所伝は、まぎれもなく、そのすべてが、上行と言う生命の中核に流れこんだ事実をさす」と論じている(『会長講義』六二頁)。教条主義はもとより、非合理的な原理主義にも陥らず、生命的事実としての仏法付属の本質を正しく捉えた言であろう=i悪書二六八頁)
と主張する。
 習い損ないの松岡に言われずとも、本宗僧侶はよく判っているが、大聖人は『御義口伝』に、

御義口伝に云はく、此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり。戒定慧の三学、寿量品の事の三大秘法是なり。日蓮慥かに霊山に於て面授口決せしなり。本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。(新編一七七三頁)

と示されているように、本来大聖人は本法所持の人であるが、外用上行菩薩として、霊山の面授口決により宗祖の御当体に本門事の三大秘法が相承されたのである。
 つまり御当体そのものの御身御命に刻み給う御法体であるがゆえに、松岡如きが云々する心と心で通じ合い、わかり合う≠ネどという軽々しい次元の御相承ではない。摧尊入卑甚だしい悪言である。
 また、信心が全く欠如しているから空想的な儀式ゆえに一般的合理性を無視する≠ネどというが、歴史的事実≠ナあろうが、生命的事実≠ナあろうが、無限の時間と空間を悟られた仏の面授による口決という授受の手続きをもって御相承されたことに変わりはないのであるから、歴史的事実というよりも生命的事実と受けとるべき≠ネどと考えるよりも、それを「仏法的事実」として絶対信をもって拝すことが肝要である。
 また松岡は付属の核心は授受の手続きよりも「心」の継承にこそあると言わねばならない。実には言葉にできない十界互具・一念三千の真理≠ネどと判ったような言辞を述べるが、全く判っていない。面授口決相承がなぜ実には言葉にできない≠フか。経文、並びに、大聖人の御指南に明らかではないか。また松岡も自ら十界互具・一念三千の真理≠ニ言葉にしているではないか。呵々。
 教主釈尊より上行日蓮(本地自受用・外用上行・顕本日蓮大聖人)への相承に対して、己義我見をもって種々論じること自体が大増上慢の極みであり、未得已得・未証已証の慢言と破しておく。
 さて、ここで、池田の会長講義を挙げているが、池田の発言が大聖人の本地元初における即座開悟のことを述べたものなのか、それとも外用上行としての霊山の結要付嘱を述べたものなのか、論旨不明である。これは、池田が、大聖人の本地である久遠元初の法相と、釈尊より上行への結要付嘱の法相について、その法門の筋道や立て分けを正しく理解できていないところから生ずる不適切な摧尊入卑の漫言である。このような論旨不明の発言こそ、まさに曖昧論法≠ナはないか。久遠元初の御本仏実修実証の仏法、すなわち三大秘法こそ、寿量文底に秘沈された大法である。教主釈尊は、滅後末法の弘通、最初下種の導師を定めるため、その方途として、内証の寿量を神力品において四句の要法として、上首上行に付嘱されたのである。
 末法に御出現遊ばされた日蓮大聖人は、『三大秘法稟承事』に、

此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承なり。今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に介爾計りの相違なき、色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり。(新編一五九五頁)

と示されているように、外用上行として付嘱を受けられた大法御所持のお立場より、霊山結要付嘱の法体たる三大秘法を弘宣されたのである。しかして、その三大秘法とは、『三大秘法稟承事』に、

所説の要言の法とは何物ぞや。答ふ、夫釈尊初成道より、四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて、略開近顕遠を説かせ給ひし涌出品まで秘せさせ給ひし処の、実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり。(新編一五九三頁)

と示されるように、実には、実相証得の当初である久遠元初本仏の実修実証の即座開悟の法体であることが明らかである。ゆえに、大聖人は本来本法所持の人であると拝されるのである。
 池田が、その三大秘法の法体相承である唯授一人の血脈に関しては全く知り得ず、まして唯授一人の血脈を徹底して誹毀讒謗した大謗法の池田が仏法付属の本質を正しく捉え≠驍アとなど、金輪際出来るわけがないではないか。 

 また松岡は、日蓮大聖人の正義を伝承する日蓮正宗に対して、またその大聖人の御法魂を御胸中に隠し持たれる日顕上人に対して、教条主義≠ニいう根拠として、
日寛上人が開示した、文底下種・久遠元初の人法体一・事の一念三千・三大秘法の南無妙法蓮華経という究極中心の義を超え出ることはない。結局、文底下種の三大秘法義が公開されている以上、御本尊の基本的な体相を、正統的・仏教的な合理性を基準に意義づけることは、宗門の法主でなくとも可能なのである=i悪書二六九頁)
という。しかし、それ自体が日寛上人の教学に無知なことを露呈しているといえよう。
 日寛上人の『六巻抄』『御書文段』等に拝される教学は、日蓮大聖人の五重三段の構格を鏡として、御書全般の記述に会通を加えて下種仏法の深義に及び、その主旨を鮮明にされているのであるが、拝読すれば分かるように、随所に「ここに深秘の相伝有り」とか「人に向かって説かじ」とか「未だ曾て人に向かって此くの如きの事を説かじ」とか述べられており、このことから深義の全てを顕説されていないことが明らかである。答える場合でも「所謂」とか「秘事なりと雖も一言之れを示さん」と述べられているから、これもすべての顕説とはいいきれない。このように、日寛上人御自身が『六巻抄』の中で未公開の法門があることを述べられているのであるから、松岡が『六巻抄』等を正確に拝読していないこと、また理解できていないことが明らかである。
 日寛上人の『六巻抄』に開示された法門は、当時の檀林における天台教学に精通した者を中心として、また日辰・日講等の本迹の勝劣・一致は違えども、同じく文上熟脱の釈尊を本尊と仰ぐ者やその教義を破折される上に、当家の深義を示されたもので、器量の人のみがよくその奥底に達しうるのである。
 そこに示される法門は、現今の仏教学の土壌に耽溺した者や下種仏法の中で異流義となった者には難信難解の法門といえる。
 松岡は文底下種の三大秘法義が公開されている≠ニいうが、松岡の学解はこれまで指摘・破折してきたように、「横待・縦待」「相待妙・絶待妙」の意義の理解程度に見られる天台教学の浅識不解、御本尊顕示は御化導の上であること等々、当家の教義が何も理解できていないのであるから、日寛上人の教学が判ったようなことをいうのは、増上慢の極みである。また松岡は、
「南無妙法蓮華経 日蓮」の実義や、それと左右の十界との関係、あるいは四天王、不動・愛染の意味等については、日寛教学を基に法華経や御書、『百六箇抄』等の各種相伝書を拝せば、合理的な日蓮仏法者が十分に論じうるものである=i悪書二六九頁)
などと、御本尊の御事の全てが分かっているようなことをいうが、次に述べるように、実際は全く判っていないのである。

 すなわち松岡は、御本尊讃文に示される日顕上人の二千二百二十余年と三十余年の、報身中心の三身相即、応身中心の三身相即の意義について、
もしそうであるなら、日蓮大聖人が、出世の本懐たる弘安二(一二七九)年の大御本尊の讃文に、応身中心の意義の上から「二十余年」と書かれた理由は何なのか。大聖人はなぜ、報身中心の意義を、究竟中の究竟たる大御本尊の讃文に込められなかったのか。日寛上人の『依義判文抄』に「久遠元初の自受用身、報中論三、無作三身」等とあるごとく、久遠元初の自受用報身を中心に法身・報身・応身の三身を論ずる「報中論三」もしくは「正在報身」の観点こそ、日蓮仏法の正統であろう。なのに、大御本尊以外の御本尊の讃文に報身中心の意である「三十余年」を記されたとするのは、一体何を主張したいのか=i悪書二七六頁)
などと愚問を露呈している。
 右のように松岡は、日顕上人の二十余年の讃文が応身中心の三身相即、三十余年の讃文が報身中心の三身相即という御指南を誤りと考える上から、本門戒壇の大御本尊の讃文においても、報身正意が日蓮仏法の正説とする。この松岡の愚問愚難の所以は、要するに御本尊の仏滅讃文の意義が全く解っていないところにある。則ち二十余年とか三十余年の数字や仏滅度後の文に執われて、その本質趣意を見抜けず無知無解である。仏滅讃文全体の趣旨帰結は一体何か。
 一言を以て示せば、讃文の最後の「大曼荼羅」の文である。仏滅讃文は短いが、要するに釈尊仏法との関係から法華本門の深甚の意義を込めつつ、それが末法出現の下種の本尊であることを示される。二十余年、或は三十余年の文は、その結論結示の意義を助顕するのであり、その実体は「大曼荼羅也」の文に存する。
 然らば大曼荼羅とは一体何か。則ち人即法・法即人の末法下種の御本尊である。その人本尊とは日蓮大聖人にあらせられる。
 日寛上人の御会通に依り、弘安元年以降が本懐究竟とされたのも大聖人の御化導の御境地を正しく拝されたのであり、弘安元年以降二千二百三十余年と御本尊に示されたのを、寿量品よりの起算とされるのも大聖人の御境地の拝考である。
 そして「大曼荼羅也」と書示される、法即人・人即法中の人本尊も大聖人の御当体であると共に、更に仏滅讃文全体が「大曼荼羅」にかかるのであり、それはまさに末法下種の仏身に関する文意である。
 故に讃文の内容は法即人の意より、末法下種の仏身に尽きるのである。それ以外の底下の法相法理を挟む余地は全くありえないが、但し人即法の御本尊の法中にはあらゆる経文教理、八万法藏のすべてを包含する。
 宗祖大聖人が弘安元年より仝三年の間の御本尊に、三十余年・二十余年の讃文をお示しになったのも下種の仏身の御意にておわしますことが明らかである。そして弘安元・二・三年の三十余年の御本尊は、その讃文が寿量品よりの起算として久遠の仏身を顕す義より、その正在報身の意において報身に即する円融相即の三身であり、またその三年間の二十余年の御本尊は宗祖大聖人の基本算定により釈尊の肉身の入滅よりの算出となるから、肉身即応身の上の円融相即の三身である。但し前述の如く、一往これは釈尊に関する仏身であるが、再往はその意義が二千二百二十余年、仝三十余年の意義を通じて、所顕の大曼荼羅に直到する。即ち末法出現の仏、大曼荼羅所具所顕の法即人の下種本仏大聖人の具え給う三身相即である。そこに讃文の最後に「大曼荼羅也」と示される意義がある。
 その上で大聖人は二十余年と三十余年の違いを夫々寿量品よりの起算と、釈尊肉身よりの起算によって立て分けられた。しかもその意義は前述の意により、終局的に御自身の仏身に関する立て分けとなる。しかもそれは大聖人御自身の仏身としての立て分けであるから、意義において二十余年と三十余年の立て分けを示し給うも、それはそのまま大聖人の御一身に具わる三身相即である。
 然らばその上で大聖人が立て分けられた両面の仏身とは何であろうか。
 『本因妙抄』二十四番勝劣の最後の文に、

此は久遠元初の自受用報身無作本有の妙法を直ちに唱ふ。(新編一六八二頁)

とあり、また『御義口伝』に、

無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり。(新編一七六五頁)

と説かれる。則ち大聖人御自身の仏格に右の両身がましますこと明らかである。しかして宗祖の三十余年の讃文より、寿量の久遠開顕の意を含む寿量品よりの起算は、右『本因妙抄』の文意に正しく適合する故に、三十余年の御本尊は、寿量品を拝される意義の上から久遠元初自受用身の末法出現の御意であることが拝せられる。また二十余年の讃文は、釈尊肉身入滅よりの起算の故に、末法の仏格では『開目抄』の「日蓮」の御名に相当する応身に即し、それは法華経の行者としての御身の御振舞である。即ち二十余年の讃文の御本尊は、右『御義口伝』の文の如く、無作三身、末法法華経の行者の御意と拝される。これは宗祖の仏身証悟の二面である故に、自受用身も無作三身も共に宗祖の御一身である。故に御化導の上、三十余年の讃文における自受用報身の三身相即も、二十余年の讃文における応身たる無作三身の相即も、深い御仏意の上に自在に御本尊を顕し給う処である。究竟中の究竟たる戒壇の大御本尊も右の中の深い御境地による顕示である。
 松岡が何で三十余年と書かなかったのかと勿体なくも宗祖大聖人に抗議をしても始まらないし、明確な御本尊の二十余年と三十余年の御行蹟の前では通用しない。それとも松岡に戒壇の大御本尊の讃文が何故二十余年であるか、又弘安元年以降三年迄の間、何故二十余年と三十余年の両様の御本尊があるのかの理由について何らかの解釈があるのか。あるなら堂々と示すべきである。
 それができないのなら、知ったか振りの迷論を吐く勿れと云っておく。
 それとも松岡は、大聖人のお示しの弘安元年より三年までに至る二十余年と三十余年の讃文の違いについて、何等理由を考える必要なく、唯仰いで大聖人の御本尊を拝すればよいと云うのか。
 それなら馬鹿につける薬はないから、その考えに固執したらよいであろう。
 しかし日寛上人が、弘安元年に二千二百三十余年の御本尊と御書がある上から弘安已後本懐究竟と云われ、その本懐究竟中の本門戒壇の御本尊が二十余年であることを合理的にどう拝するのか。弘安已後の他の二十余年の諸御本尊も本懐究竟の中に入るのだが、弘安元年より三年の間、他に二十余年の御本尊も多い。この間に三十余年と二十余年と両様を示される理由をどう拝したらよいか。
 一応、仏滅讃文の文言の比較より云えば、二千二百二十余年が良ければ三十余年とは書かれず、三十余年が良ければ二十余年とは書かれないはずである。しかし宗祖大聖人は両様に用い分けられている。ならばその理由がなければならない。則ち先に示す如く「大曼荼羅也」の讃文帰結の文意と大聖人の下種仏身に於て両様の明確な意義が拝される以上、賢者はその意を取るべきである。この道理、文証、現証に眼をつぶるならば、正しく愚人であるといえよう。
 また松岡は続いて、
『御本尊七箇相承』に「三十余年」と書くべしというのも、報身中心の意が込められているのか=i悪書二七六頁)
と疑問を呈する。蓋し御本尊については宗祖大聖人御一代の御化導の上の深義と、末法万年正義伝承の血脈相承による御本尊に関する化儀化法が存する。『御本尊七箇相承』の文も、これらの中の深い意義である。これらの本義は富士の蘭室に入らねば到底不明である。従って松岡如き我見無懺な者に改めて教える必要もない事である。



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