2、
(日顕上人の御指南に対する見当違いの言い掛かりを破す。)
貴殿の学会批判は、知性も宗教性も感じられないオカルトまがいの話を中心とする、感情むき出しの狂乱説法に終始し、当然、教学的にも見るべきものは何もない。頭破作七分さながらの貴殿の悩乱説法は今さらながら驚くことではないが、その中で、創価学会が日精に対して罵詈讒謗している≠ネどと繰り返しつつ、学会は僧に背いているから謗法である≠ニ主張している点は見過ごすことができない。 |
貴殿があわてふためいて事実無根の言い掛かりを付ける、平成十六年一月一日の唱題行の砌における御法主上人猊下の御指南とは、次のごとくである。 創価学会などは昭和五(一九三〇)年の発祥でありますが、昭和五年というと宗門では総本山第六十世日開上人の時でありまして、彼らはその時に初めてこの日蓮正宗の仏法を知ることができたのです。そこから、彼らは日蓮正宗の教えが正しいと思って信仰してきたのでありますけれども、いつの間にか「自分達のほうが偉いのだ」というような、実にふざけた考えを持つに至ったのであります。このような本末転倒の話はないでしょう。彼らは総本山第六十世日開上人の時に初めて日蓮正宗を知ったわけで、それまで正しい仏法を知らなかったのです。その時まで日蓮正宗の仏法を伝えられたのは、彼らが口を極めて誹謗しておるところの総本山第十七世日精上人その他の御歴代の方々であって、その方々の仏法守護の伝承の功徳によって昭和五年まで伝わってきたのであります。ですから、彼らがこの仏法を知り得たということは、仏と法のみでなく、僧としての御歴代の仏法の伝持があったからこそ、これを知ることができたのです。これを忘れて「大聖人様だけは尊いけれども、その下の法主などはちっとも偉くないし尊くもない」という考えをもって誹謗しておるのであります。これこそ三宝破壊であり、正法に背くところの元凶であります。すなわち大聖人様が『立正安国論』に仰せになった「此の一凶を禁ぜんには」というところの一凶こそ、まさに創価学会であります。(大日蓮 平成十六年二月号二九頁) この正鵠を射た御指南の何処が狂乱説法≠ネのか。貴殿には邪教の毒気がよほど深く入り込んでいるのであろう。これほどの明解な御説法が狂乱説法≠ノみえるとは哀れな失本心である。 ところで、知性や宗教性が感じられない∞オカルトまがいの話を中心とする∞感情むき出し∞狂乱∞教学的にも見るべきものは何もない∞頭破作七分∞悩乱≠ニは、 んもー、イトマン平和会館なんて、名前変えた方がいいんじゃないか、うまく、ダメか、ウーマンぽい、ウーマンぽい、イトマンなんてウーマンぽい、ダメか、ダメか、もっといいねー、もっといいその、キンマン、イトマン、キン○○コだよ。(池田大作スピーチ 平成五年七月七日・第六十六回本部幹部会) 等の支離滅裂な発言に代表される池田大作センセーの本性丸出しの下劣講演にその全てが当てはまると思うが、どうか。 さて、貴殿は、先の日顕上人の御指南に対して、「創価学会が日精に対して罵詈讒謗している」などと繰り返しつつ、「学会は僧に背いているから謗法である」と主張している点は見過ごすことができない≠ニ難癖を付けているが、ここで再度貴殿に確認しておく。いかなる理由を付けるにせよ、創価学会が日精上人を誹謗中傷している事は紛れもない事実である。この行為は、創価学会のかつての存在意義をも否定し去る愚挙ではないのか。なぜなら創価学会は昭和五年の発祥であるが、それは宗開両祖以来、総本山第十七世日精上人も含めた御歴代上人が、時の法主総本山第六十世日開上人まで、一器より一器への血脈相承により正しく仏法を伝持されたからこそ、創価学会初代会長牧口常三郎氏と二代会長戸田城聖氏が日蓮正宗に縁し、昭和三年に、晴れて本宗の信仰を受持することができたのであり、それによって昭和五年に創価学会を創設することができたのではないのか。その広大深遠なる御恩を忘れ、時の法主日開上人をはじめ、住持の僧宝たる御歴代上人に対して口を極めて誹謗することは、まさに天に唾する如き不知恩極まりない所業であると深く反省懺悔すべきではないかと思うが、どうか。 |
学会による大石寺十七世・日精法主への批判は、貴殿らが掲げる法主絶対論を破折して、貴殿らの蒙を啓(ひら)くためのものであり、日興上人が「遺誡置文」で仰せのとおり、法主も己義を構え謗法を犯すことがあることを示す典型的な例として指摘してきたのである。これをもって学会は、貴殿が言うごとく僧に背いた≠フではなく、法に背く僧を破折した≠フである。 |
まず始めに断っておく、日蓮正宗に貴殿らの言う法主絶対論≠ネるものは存在しない。貴殿は何の意をもって法主絶対論≠ニ虚言するのか。もし唯授一人の御法主上人に対する信伏随従を法主絶対論≠ニ言うのであれば、かつて池田大作は、 日蓮正宗の根幹をなすものは血脈である。大御本尊を根本とし、代々の御法主上人が、唯授一人でこれを受け継ぎ、令法久住をされてこられた。御本尊を御認めあそばすのは、御法主上人御一人であられる。(中略)いくら広宣流布といっても、御本尊の御認めがなければできない。われわれは、あくまでも総本山根本、御法主上人厳護の信心で進んでまいりたい(広布と人生を語る三―二五六頁) と、唯授一人の血脈こそ信仰の根幹であると本宗の正義を述べており、また、 本宗における厳粛なる法水瀉瓶唯授一人の血脈は、法灯連綿と、代々の御法主上人に受け継がれて、今日に至っております。あくまでも、御本仏は、日蓮大聖人様であらせられ、唯我与我の御法主上人のご内証を、大聖人と拝すべきなのであります。(聖教新聞 昭和五十四年五月四日付) と述べて、日蓮正宗の正しい血脈観の上から御法主上人の御内証を正しく理解していた時期もある。特にこの発言は、御先師日達上人が御臨席された最後の本部総会における講演であり、池田大作が昭和五十二年路線の謗法逸脱について総括懺悔し、御先師日達上人に対し、創価学会が日蓮正宗の教義に正しく則り活動することをお誓いした重要な意義をもつものであったはずだ。貴殿は、この発言について、どう説明するのか。この池田大作の発言はまさに法主絶対論≠ナあると思うが、どうか。ならばまず始めに貴殿が破折すべきは、かつての池田大作発言となる。これを破折しないで、宗門に対する法主絶対論≠ネる邪難は成立しない。これについてはっきり返答せよ。 さて、貴殿は、『日興遺誡置文』の、 時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事。(新編一八八五頁) の御文について、日興上人が「遺誡置文」で仰せのとおり、法主も己義を構え謗法を犯すことがある≠ニ言うが、それは大いなる欺瞞(ぎまん)である。 では反対に聞くが、その『日興遺誡置文』の次の、 衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事。(同頁) との御文を、どのように拝するのか。摧く主体を貫首とお示しではないか。数を頼んで血脈を冒涜(ぼうとく)する創価学会こそ、「摧くべき衆義」に当たるのである。 この『日興遺誡置文』は、その最後に、 右の条目大略此くの如し、万年救護の為に二十六箇条を置く。後代の学侶、敢へて疑惑を生ずること勿れ。(同頁) と仰せのごとく、総じては末代の弟子一同に賜った御遺誡であるが、別しては唯授一人の御法主上人に宛てられた御遺誡である。故に、邪教徒にして門外漢の貴殿にはそもそも『日興遺誡置文』の御真意など拝せるはずがないのである。 要するに、外用僧宝・内証三宝一体の意義より拝しても、貫首たる御法主上人こそが仏法伝持の主体者なのである。その仏法伝持の主体者である御法主上人に、本来己義など存在するはずがない。仮に、万万が一、貫首が己義を構えたとすれば、それが仏法に相違した己義であるか否かを誰が判定するのか。それを判定できるのは貫首以外にはいないのである。故に、法主も己義を構え謗法を犯す≠ネどということは、絶対にあり得ないことである。御先師日達上人は、 「日蓮正宗宗規」に、管長は法門の正邪を決定する≠ニいう意味のことが明らかに載っております。そのとおりであります。血脈を受けてその法門に従って、そして法門の正邪を決めるのは貫首ではないですか。だから、貫首が己義を構えると考える人はとんでもない考えの人です。それでは血脈相承を受けていない人ということになってしまいます。血脈相承によってご法門を解釈していくのでありますから、少しも己義を構えるということはないわけであります。大聖人の教えのとおりにやっていくのでありますから。(日達上人全集第二輯七―三四二頁) と、貴殿の邪義とは真反対の御正意を仰せであるが、貴殿はこの日達上人の「貫首が己義を構えると考える人はとんでもない考えの人です」との御指南を否定するのか。まさか大恩ある御先師日達上人まで愚弄(ぐろう)することはないと思うが、どうか。 ところで、貴殿に聞きたいのだが、貴殿ら創価学会は、あたかも日顕上人が法に背く僧≠ナあり、仏法に相違して己義を構えたかのように言うが、では日顕上人は仏法上どのような誤りを犯し、己義を構えたと言うのか。よもや異流義と化した池田創価学会の邪義を、正法正義の上から徹底して破折遊ばされたのが仏法上の誤り、己義だと言うのではあるまい。もしそうであれば、貴殿の頭は既に救いようのない毒気に犯されており、まさに「頭破作七分」と言うほかはないが、どうやら貴殿は確実に顛倒(てんどう)しているように見受けられるから教えよう。法に背く僧≠ニは、創価学会の大謗法を破折することもできず、貴殿らに諂(へつら)い、その走狗となっている離脱僧らのことを言うのである。 日顕上人が創価学会の謗法を大慈悲の上から折伏遊ばされる御姿こそ、真の護法の僧の姿であり、真正なる血脈付法の大導師すなわち僧宝であらせられることの証拠である。したがって、御歴代上人を誹謗し、御当代日顕上人へのあくなき誹謗を行う創価学会は、三宝一体の御法主上人の御内証を拝すれば、まさしく「文底下種三宝」に背く仏法破壊の大謗法であり、無間大城、疑いなしと告げておく。 |
貴殿の言い振りから見て、貴殿が日精の誤りを認めていないことは明らかであるが、もし、これほど明確な日精の謗法が分からないのだとすれば、それは貴殿の脳中にある唯一の教義といってよい法主絶対論・僧俗差別義の毒に貴殿の精神が狂わされているからであると忠告する。 |
何度も言うが、日精上人には貴殿らの言うような明確な謗法≠ネどない。 貴殿らが、日精上人を謗法呼ばわりする根拠の一つに『随宜論』の仏像造立についての記述がある。それについては、後に詳述するが、ここで一言だけ述べるならば、日精上人が唯一、造像された時期は、御登座前、法詔寺建立の翌年である。ということは法詔寺建立時には仏像は無かったのであり、当然、安置の御本尊は大曼荼羅本尊であったわけである。しかるに、法詔寺の大檀那である敬台院が仏像にどうにもならないほどの執着があった故に、方便誘引の一時的手段として、法詔寺建立の翌年、寛永元年に仏像造立を許されたのである。剰(あまつさ)え造像の責任を御自分とされることによって、仏像造立によって起こった門徒真俗の疑難を御自身が被り、信長と家康を曾祖父とする宗門の大檀那であった敬台院を守られたのである。故に、この日精上人の造像はもとより御本意ではなく、あくまでも大檀那の「強執の機」に対する善巧方便の御化導であったことが明らかであり、そこには特殊な状況が存したのである。 この大慈悲の御化導に対して、貴殿はこれほど明確な日精の謗法≠ニ言うが、では反対に聞く。『五人所破抄』の、 次に随身所持の俗難は只是継子一旦の寵愛、月を待つ片時の蛍光か。執する者は尚強ひて帰依を致さんと欲せば、須く四菩薩を加ふべし、敢へて一仏を用ふること勿れ云云。(新編一八七九頁) との日興上人の御指南についても、貴殿は明確な謗法≠ニ言うのか。どうなのか。誤魔化さずに、はっきりと答えてみよ。この日興上人の御指南も日精上人の御化導も、ともに底下の衆生を文底下種仏法に導く上での大慈悲の善巧方便の御化導である。日興上人に許されて、日精上人には許されないと言うなら、その理由を明示せよ。 また、貴殿は、僧俗差別義の毒≠ニ言うが、日蓮大聖人は一切衆生に差別なく即身成仏を認めておられるのであり、日蓮正宗には基本的に僧俗差別義≠ネどというものはない。『日有師化儀抄』に、 貴賤道俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等なり(聖典九七三頁) と仰せのとおりである。 ただし『日興遺誡置文』に、 若輩たりと雖も高位の檀那より末座に居くべからざる事。(新編一八八五頁) と仰せられ、また、『日有師化儀抄』に、先程の「貴賤……同等なり」の次に、 然れども竹に上下の節の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか(聖典九七三頁) とのお示しがある。貴殿らはこれらの御遺誡も僧俗差別義の毒≠ニ言うのか。貴殿らは、「差別」という用語を悪用して、如何にも宗門の僧侶が宗教的権威をもって、御信徒を蔑視(べっし)しているように言っているが、全くの虚偽である。これも貴殿ら創価学会による宗門陥れ作戦の一つである。しかし、宗門には、そのような偏見は存在しない。先の日興上人と日有上人の御指南にも明らかなように、妙法の御本尊に向かって唱題する上では僧俗は平等であるが、信仰上・化儀の上においては僧と俗の差別は厳然と存する。故に涅槃経には、 内には弟子有って甚深の義を解り、外には清浄の檀越有って仏法久住せん(新編七九〇頁) と、内護の僧侶と外護の信徒が、それぞれの立場においてそれぞれの使命・役目を自覚し全うするところに、仏法が久住することを説かれているのである。 親が子を育み、子が親を背負って一族が相続繁栄するごとく、僧侶が信徒を育み、信徒が僧侶を外護してこそ仏法は相続興隆するのである。 貴殿を含む創価学会員は、池田大作の邪義誑惑により、まさに『寿量品』に説かれる「失本心故」の如き、正信を見失っている衆生である。その邪義誑惑とは何かと言えば、下種の御本仏たる日蓮大聖人の正しい仏法の筋道を覆い隠し、池田大作の我意我見による邪道を立て、そこに貴殿ら学会員を導き入れていることである。極悪非道とはまさに池田大作のためにある言葉であると思うが、どうか。誠にもって仏天の厳罰を恐れよ、と呵すものである。 |
実は、貴殿はこれまでも、日精の弁明に異常な執着を見せてきた。私の知るところでも、平成三年以来、三回にわたり、配下の坊主に書かせた稚拙な論文を「大日蓮」「大白法」などの機関誌・紙に正式に掲載させている。まさか、それらの作文で日精が正しいと証明されたと考えているわけではあるまいと思っていたが、今回も懲りずに日精擁護を繰り返しているところを見ると、もはや貴殿には、謗法の毒気が余りに深く入りすぎて、正しい判断力が失せ果てている可能性が大きいと考える。とすれば、今後も日精をめぐる貴殿の愚論が繰り返されることが予想される。 それを予め遮するために、日精の謗法、および日精擁護への異常な執着に見られる貴殿の精神的・教学的破綻をめぐって、ここに質問状を起こし、貴殿を糺しておきたい。 |
貴殿は、日顕上人に対して、日精の弁明に異常な執着を見せてきた≠ニして、自らの執着を覆い隠すため、日顕上人に事実無根の言い掛かりをつけるが、むしろ日精上人への誹謗に異常に執着しているのは、ほかならぬ貴殿ら創価学会である。なぜなら、それこそが血脈の尊厳を隠し、御当代日顕上人に対する誹謗を正当化するという、大誑惑の論拠となるからである。 貴殿らは、総本山第五十九世日亨上人の御指南に、たまたま日精上人に対する御見解があったこと、さらに日精上人の『随宜論』に「法詔寺造仏」との記述があったこと等を奇貨として、「法主も謗法を犯すことがある」という血脈誹謗の邪義を提唱し、それをもって、現在に当てはめ、創価学会を破折する御当代日顕上人は謗法である、と末端の創価学会員に邪義を浸透させている。貴殿らの日精上人誹謗の狙いはまさにここにある。要するに、貴殿らは組織防衛のために、邪教創価学会存続のためだけに、血脈付法の日精上人・日顕上人を誹毀讒謗したのである。これほど恐ろしい謀略があろうか。まさに大謗法ここに極まれりである。 また、貴殿は、平成三年以来、三回にわたり、配下の坊主に書かせた稚拙な論文≠ニ、日顕上人に言い掛かりをつけている。これは宗門からの日精上人に対する疑難破折と正義顕揚によって、血脈否定の最大の論拠を失った貴殿らが、内容に正面切って反論することができず、稚拙≠セなどと負け惜しみを言っているに過ぎない。 一連の日精上人に対する疑難への破折は、時局協議会・法義研鑚委員会によって行われたが、それはあくまで御法主日顕上人の御指南が中心にあって、さらにこれまでの先人諸師の研究の成果の上に解明された正義なのである。 さらに、貴殿は、日顕上人に対して、貴殿の精神的・教学的破綻をめぐって、ここに質問状を起こし、貴殿を糺しておきたい≠ニ言うが、何を血迷っているのか。悩乱の愚問この上なしと呵しておく。 宗祖大聖人・日興上人以来の金口嫡々の血脈をお受けになられた日精上人を謗法の法主と誹謗し、さらに御当代日顕上人を誹謗する極大謗法の貴殿らこそ精神的・教学的破綻℃メである。要するに、日精上人への誹謗に異常に執着している貴殿らは、まさに「心破作七分」であり精神的に破綻しているのだ。そして本宗の信仰の根幹である血脈相伝を蔑視し、下種三宝を破壊するその所業は、すでに教学的にも完全に破綻しているのである。 |