4、
(造像家・寿円日仁(要法寺31代日舒)等の日精上人に対する疑難について。)

一、日精は京都・要法寺の出身で、要法寺流の教義であるいわゆる造仏読誦論、すなわち釈迦仏像を造立し、法華経一部八巻二十八品を全部読誦するという教義を強く主張している。特に釈迦仏像は、実際に大石寺の末寺に安置されるに至っている。日興上人が厳しく禁じられた釈迦仏像の造立・安置という大謗法を犯したわけであるが、このことを貴殿はどのように理解しているのか。
 ことは、謗法であるのか謗法ではないのか、という重大問題である。是非、貴殿の認識を明言してほしい。
 もし謗法ではないと認識しているのならば、その理由を明示せよ。また、謗法であると認識していながらの発言ならば、どうして日精を擁護するのか。行き詰まりを打開するために、日精とともに除歴を覚悟しての一か八かの賭けなのか。あるいは、それほどの覚悟もない迂闊な発言に過ぎないのか。

 貴殿らは日精上人が造仏読誦論を強く主張している≠ニ言うが、日精上人はけっして造仏家ではない。それどころか、当家の不造不読の化儀を大いに発揚なされていたことが明らかなのである。
 すなわち御影堂をはじめ六壺、客殿等、総本山の諸堂に板御本尊や大聖人・日興上人の御影を造立され、大いに富士の正義を発揚された。この一事からも、日精上人が大曼荼羅を正意とされ、宗祖大聖人を根本の仏と拝されていたことが明らかではないか。
 たしかに敬台院の造仏を一時的に容認されたことはあるが、それは暫用還廃の意義における化導であって、のちに厳しく造仏を廃されようとした時には、敬台院と不仲になることをも恐れずに折伏をなされたのである。
 貴殿が日精上人に造像ありと強く誹謗する根拠は『随宜論』であるが、どこに目をつけているのか。貴殿の読解力は実に乏しい。それは『随宜論』が著述された背景をまったく無視しているからである。なぜならば『随宜論』には、その奥書に、法詔寺に仏像を造立したことにより門徒の真俗が疑難を致す故に本書を著した、とある。すなわち日精上人が積極的に造像を勧められた論ではなく、むしろ造像に関する門下の疑難を会通するために書かれた論だからである。よって、造仏読誦論を強く主張≠ニの誹謗は誣言(ぶげん)である。
 次に、貴殿は釈迦仏像は、実際に大石寺の末寺に安置されるに至っている≠ニ言うが、ではその場所は何処で何時のことなのか。寺名を挙げて明確に論証してみよ。まさか『随宜論』の奥書の末尾に列挙されている寺名を挙げるつもりではあるまい。当該箇所には仏像安置などという記述はどこにもなく、全く根拠とはなり得ないと教えておく。
 次に、寿円日仁の『百六箇対見記』が根拠だと主張するなら、『百六箇対見記』の記述内容は、全く信用できないものであることも教えておこう。もしそれが分かっていて、しかも宗門からの指摘を顧みることなく大石寺末寺に造像あり≠フ根拠として主張しているのなら、それは貴殿の狡猾(こうかつ)極まりないスリカエ戦法であるから、貴殿は実に卑怯者である。なぜなら、『百六箇対見記』の記述を悪用して、元々からの要法寺の末寺を、大石寺の末寺であるかのようにスリカエて邪難することになるからである。元来、要法寺の末寺であるならば、そこに造像があったとしても不思議はなく、日精上人の造像と誣言することはできないのである。
 後にも述べるが、そもそも寿円日仁の記述には、造読家なりの計算が働いており、その言を鵜呑みにすることは危険極まりない。それともさては貴殿ら創価学会の者たちは造読家の言の方を信用するようになったのか。
 また、貴殿は、日興上人が厳しく禁じられた釈迦仏像の造立≠ニ言うが、日興上人は『五人所破抄』において、強執の機に対しては猶予の御指南を遊ばされている。これは末法万年に及ぶ未来広布の長時に比せば、御在世および封建体制の時代などは、広布の黎明期に当たるとの御判断の上から、たとえ仏像に執着を持つ者ではあっても、正法に対する一分の信心があれば、その信心を大切にされ、誘引教導の道を残されたものであり、これは宗祖日蓮大聖人にも拝される大慈悲の御化導なのである。
 かく宗門上古の御化導を拝して見れば、むしろ厳しく禁≠クべきなのは、正法正師の正義の上における大慈悲の善巧方便の御化導に対して、我賢しの慢心の故に、全く信心を失い、反逆誹謗を繰り返す貴殿らのような大謗法者であると告げおくものである。
 また、当該箇所における貴殿らの疑難の論拠が日亨上人の御指南であると主張するならば、その御指南を悪用しての疑難は当たらない。なぜなら、日亨上人は、日精上人の御化導について、ある面、誤解なされているからである。そのことについては、後に述べる。
 次に、一部読誦に関して一言すれば、日精上人は『日蓮聖人年譜』において、
本迹一致と立る門人、一部修行本勝迹劣と立る門人、八品所顕と立つる門人は思慮有る可きなり、其ノ故は一致と云ふ人は開山日昭日朗日向の義をたすけん為に爾か云ふか、されども御書に違する故に師敵対となる、一部修行の人は難行道に落ち正行を遊ばさるゝ御書に背く、八品の衆は観心下山等の御書に違する故に慎みあるべし(富要五―一〇三頁)
と述べられて、一部読誦は難行道に落ち、正行の題目を勧める御書に背くと、一部読誦を明確に否定されている。さらに「延宝九年(一六八一)五月日」の日精上人の御本尊には、
授与之 浜田五郎左衛門法号立行院日進 以自我偈首題法華経一千部成就之故為褒美也
と、浜田五郎左衛門が唱題を一千万遍成就した褒賞として授与する旨の脇書がある。このような脇書があることからも判るように、日精上人が信徒達に実際に指導しておられた行法は、法華経一部読誦ではなく、自我偈つまり要品読誦と唱題行であったことが明らかなのである。
 以上、日精上人には、根本的に貴殿らが誹謗するごとき謗法は全くないと教えておく。


一、因みに堀日亨上人の日精評価は次のように実に厳しい。
 日亨上人は日精について、「日精に至りては……遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり」とし、更に「日精の如きは私権の利用せらるる限りの末寺に仏像を造立して富士の旧儀を破壊せる」とまで記されている。日精は、まさに要法寺の邪義、謗法を宗内に持ち込んだ張本人であるという認識である。
 これら、日亨上人の日精に対する厳しい認識と評価には、教義を守るべき法主がとるはずの厳然たる姿勢が感じられるが、貴殿はどのように考えているか。

 貴殿は、『富士宗学要集』第九巻における日亨上人の記述を持ち出し、堀日亨上人の日精評価は次のように実に厳しい日精は、まさに要法寺の邪義、謗法を宗内に持ち込んだ張本人であるという認識である≠ネどと述べている。
 たしかに『富士宗学要集』には、貴殿が引くような日亨上人の記述が見られる。しかしこれらの記述は日亨上人が、寿円日仁の『百六箇対見記』や北山日要の記録と『随宜論』の内容等を重ね合わせることにより、日精上人が造読家であると思い込まれたからである。その詳細については以降において述べるが、『随宜論』は、仏像に執着があった敬台院という大檀那を誘引し開覚せしめるという特殊な状況においての書である。また『富士宗学要集』掲載の『日蓮聖人年譜』には、日精上人に対して批判的な日亨上人の頭注が付されているが、『日蓮聖人年譜』において日精上人は、要法寺日辰の義を批判し破折されている。日精上人が自ら『日蓮聖人年譜』で日辰の三大秘法義を破折されていることは、日精上人が造読家ではないことの明証である。さらに寿円日仁は、日精上人に対して批判的であり、また『百六箇対見記』の記述には日精上人の大曼荼羅御本尊造立を隠していることが明白であるから、その心理からも造像の記述をそのまま信用することはできない。
 日亨上人の、
日精に至りては……遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり(富要九―六九頁)
日精の如きは私権の利用せらるる限りの末寺に仏像を造立して富士の旧儀を破壊せる(富要九―五九頁)
との見解も、『百六箇対見記』等の記述から、日精上人が末寺に仏像を造立されたと判断されたのである。しかし、日亨上人の御見解の根拠となった日仁の『百六箇対見記』は、次に検証するが、記述内容に数々の欺瞞が存在し、信憑性のないことが明らかである。また、それに類する内容の北山日要の寺社奉行所への訴状も、正式な訴状として採用されていないことや、日要の造像家としての魂胆が当然あるだろうことを考える時、その記述が信用に値するとは到底言えず、日精上人が造像家であるとの根拠になりえない。
 要するに、日亨上人が『富士宗学要集』において日精上人を批判されたのは、恐れ多いことであるが、これらの書の記述によって日精上人が造読家であると誤解されたからであり、無論大石寺の末寺における仏像造立などは全くなかったのである。
 したがって、日精上人が謗法であるなどと言うべきでない。また、日亨上人が日精上人を批判なされたといっても、それは貴殿らが認めるとおり、仏法久住のために見解を述べられたのである。「よしの髄から天井をのぞく」というように、貴殿らの狭い料簡(りょうけん)では物事を正しく見ることはできないのである。


一、また、日亨上人が「日俊已来此を撤廃して粛清に努めたる」と述べられているように、日精の謗法は後の日俊法主になってから撤廃されていくわけであるが、この事実を貴殿はどのように思うのか。日精自身に謗法撤廃の意志がなかったのではないか。あるいは、日精在任中には日精の圧力で謗法の撤廃ができない状況が続いたからではないのか。

 貴殿は日精の謗法は後の日俊法主になってから撤廃されていく≠ニいうが、日精上人には謗法などなかったのであるから、撤廃≠フ事実はない。日亨上人は、日精上人に対して処々に厳しい批判の文言を残されているが、謗法とまで仰せられた箇所はない。
 日亨上人の日精上人批判は、先にも述べたが一往、要法寺寿円日仁の『百六箇対見記』の付録の記述によられたのである。しかし、寿円日仁は造読家であって、しかもその記述は元禄十一年(日精上人御遷化後十五年)の頃、大石寺の僧侶が要法寺の造読を破折したことについて、大石寺および富士各山にも造読があったとして反論し、大石寺には造読を破折する正当性はないと主張するものである。
 問題はかかる状況の中で著されたこの文書が果して信用に値するものか。たとえ大石寺に批判的な反論の文書であっても、正直な人物の記述であれば、その主張を無下にはできない。しかるに日仁のこの文書には次のように記されている。
一、付たり寛永年中江戸法詔寺の造仏千部あり、時の大石の住持は日盈上人後会津実成寺に移りて遷化す法詔寺の住寺は日精上人、鎌倉鏡台寺の両尊四菩薩御高祖の影、後に細草檀林本堂の像なり、牛島常泉寺久米原等の五箇寺並に造仏す、又下谷常在寺の造仏は日精上人造立主、実成寺両尊の後響、精師御施主、又京要法寺本堂再興の時日精上人度々の助力有り、然るに日俊上の時下谷の諸木像両尊等土蔵に隠し常泉寺の両尊を持仏堂へかくし(隠)たり、日俊上は予が法兄なれども曽て其所以を聞かず、元禄第十一の比大石寺門流僧要法の造仏を破す一笑々々。(富要九―七〇頁)
 まず最初の「寛永年中江戸法詔寺の造仏千部あり」との記述は『随宜論』に述べられた法詔寺での造仏を裏付けるかのようである。しかし、次の細草檀林については、延宝六年十月に日精上人が、日蓮大聖人の御本尊を細草遠霑寺の常住板御本尊として造立されているにもかかわらず、これについては書かれていない。常在寺については、延宝八年八月に日精上人が、日蓮大聖人の御本尊を本堂の板御本尊として造立され、しかも日蓮大聖人の御影が日精上人によって御開眼されているが、この御本尊のことも御影のことも書かれていない。御影が安置されていれば仏像は存在し得ないから、この点は嘘であることが明白である。つまり常在寺に仏像があったなどという根拠はどこにもないのである。日精上人の御存生中である延宝八年に大曼荼羅と御影の安置が確実なのであるから、万が一、それ以前に仏像撤去の事実があったと仮定しても、それは日精上人御自身がされたのであって第二十二世日俊上人が撤廃したというのはあり得ないことである。
 このように寿円日仁の記述は一見すると様々な事例を丁寧に挙げているかのようであるが、実際には日精上人の大曼荼羅や御影安置という正しい化儀を隠して書いていないのである。
 この二件の間に書かれている常泉寺久米原の箇所も、久米原妙本寺の信徒が、延宝九年五月に自我偈を助行として一千万遍の唱題行を成就した褒賞として、日精上人から大曼荼羅御本尊を頂戴しており、この御本尊も現存しているから、当時日精上人は一部読誦ではなく要品読誦であり、しかも盛んに唱題行を奨励されていたことが明らかである。このことを常在寺で日精上人の謦咳に接した日仁が知らないはずはない。しかし、そのようなことは当然書いていない。一千万遍の唱題行を実行したことが確認できる信徒は金沢の信徒にもいるから、これらは氷山の一角であって、その底辺には信徒がこぞって唱題につぐ唱題と、その歓喜をもって折伏に励んだ姿が隠れているのである。
 このように大曼荼羅中心で唱題・折伏第一という現在でも確認できる日精上人の御本尊ならびに修行という化儀の事実と、『日蓮聖人年譜』で要法寺日辰の間違った三大秘法義を破折しておられる日精上人の教義理解の甚深なることを考え合わせるとき、そこから浮かび上がる日精上人像は、日蓮大聖人、日興上人以来の血脈法水を禀けられ、甚深の御内証を所持された崇高なお姿なのである。
 では日仁は、なぜこのような事実に反する記述を残したのであろうか。その理由は日仁が造読家だからである。日仁の執筆の動機は、大石寺から要法寺の造仏読誦を破折されたために、なんとか造仏読誦を正当化したい、というところにあり、そのために事実を曲げて書き記しているのである。一見正直そうに書いているが、じつは狡猾である。日仁は『百六箇対見記』等を著すなど博学なのであるが、それだけになおさら罪深いといえよう。
 この寿円日仁の記述は、約八十数年以前よりの大石寺と要法寺との通用という特殊な状況の中で、日精上人が要法寺系の僧俗を包容しつつ造仏廃棄へと慈折善導されていた御化導を歪曲して、あたかも日精上人が造仏読誦を唱導していたかのように表現することによって、要法寺の造仏読誦を正当化しているのである。
 日亨上人は、唯授一人の血脈伝承というお立場から、日精上人を根本的には信じておられたことは言うまでもない。しかし『日蓮聖人年譜』等の誤解があられたために、不可解な思いは残されつつも、こうした日仁の記述を否定し、諸人を納得させるだけの資料が揃わず、やむなく学問的立場の上から注意批判の言を残されたと拝される。
 次に貴殿は日精自身に謗法撤廃の意志がなかったのではないか。あるいは、日精在任中には日精の圧力で謗法の撤廃ができない状況が続いたからではないのか≠ニ言うが、日精上人の化儀はまぎれもなく当家のものであり、貴殿の考えは妄想に過ぎないと言っておく。
 したがって日亨上人の日精上人に対する批判は、そもそも誤解に基づくものであるから、この説は日亨上人におかれては取り消しを希望されていると拝すべきである。かの日寛上人におかれてさえ『三重秘伝抄』の冒頭において、
敢えて未治の本を留むること莫かれ。(六巻抄三頁)
と仰せになり、自著に未校正にして不本意・不完全な本が存れば、保存することのないよう念記しておられる。この日寛上人の御意は、令法久住の本意にそぐわないものが残れば、その本や、一文によって後の者が迷うことを懸念されたものと拝せられる。令法久住のために執筆活動を専一にせられた日亨上人におかれても同様と拝察申し上げる。『富士宗学要集』は決して未治の本ではないが、後世の研究により真実が明らかになったならば、学的研究の正確さを尊ばれた日亨上人である、その部分については、必ずや訂正を希望されていると拝する。それを貴殿たちが邪意に染まった醜い野望のために、血脈否定の道具として乱用していることに対して、日亨上人の御嘆きとお憤りは如何ばかりかと拝察するものである。
 そもそも要法寺の寿円日仁は、日精上人の御事について、『当今現証録』に、
大石寺日精は当寺日瑶師の弟子なりしが、学を志し関東に下る。資縁不如意にして紙子にて一夜の寒を凌ぐ程の貧僧なり、常に紙子を着す、仍って沼田・宮谷の所化は紙子了賢と呼ぶ。故子賢謂ふ、当宗は易行なり十一日より十七日迄、或は失念せば十二日より十八日迄、身行清浄小読誦三年の間これを行じたり、此年阿州太守の母儀敬台院の資助有って相応過分の所化となりぬ。医師・小姓侍迄勤檀節召遣ふたり(本宗史綱六一三頁)
と記している。この「紙子(かみこ)」というのは、和紙でつくられた着物である。日精上人の御事を布ではなく紙子を着るような貧僧であったのが、敬台院の帰依を得て分に過ぎた所化となったと軽侮しているのである。
 このように寿円日仁は、『百六箇対見記』の記述もそうであるが、大石寺と日精上人を快く思っていなかったのである。
 この原因は、第一に、寿円日仁が大石寺の唯授一人の血脈を尊信できなかったことによる。
 第二に、そのために『百六箇対見記』に見られるように、文上に拘泥する日辰摺りの邪義に酔い、大石寺の文底の正義が信解できなかったのである。
 第三に、日精上人が要法寺の末寺であった妙縁寺を大石寺の末寺分として公儀へ書き付けを提出したことに、大いに不満を懐いたためと思われる。つまり大石寺と要法寺が親密であったときは問題はなかったが、要法寺は造読家が貫首として台頭するのに伴って、化儀化法に大石寺と摩擦を生ずるようになった。妙縁寺の籍が大石寺になっていることは、要法寺からすれば江戸の拠点を大石寺に支配されてしまったわけで、造読の化儀を布教しようにも、その足がかりを失ってしまったことになる。このことは造読家の寿円日仁にとって一大痛恨事であり、その不便さが恨みとなったのであろう。このように日精上人が妙縁寺を大石寺末として公儀に届けられていたことは、その後の江戸の布教において、要法寺の造読義の影響を遮する上で実に大きな意義があったと思われる。
 このようなわけで寿円日仁は大石寺に背反していたのであるが、日精上人等の御法主上人方は、その造読義と、なによりも大聖人の血脈に対する不遜な邪念を哀れみ、慈折善導されたことであろう。しかし寿円日仁はついに信伏随従することができなかったのである。
 貴殿らの日亨上人を利用した日精上人に対する史実曲解の疑難誹謗は、寿円日仁をはるかに越える大謗法であると知れ。


一、また教学的には、二十六世日寛上人に至ってようやく日精導入の要法寺流邪義を清算できたのではないのか。
 日亨上人は「日寛の出世に依りて富士の宗義は一層の鮮明を加へたるを以って要山本末に不造不読の影響甚だしく通用に動揺を生ぜり」と言われている。日寛上人が造仏読誦論を破折する「末法相応抄」を著すに至って、要法寺の影響は教学的にも完全に払拭されたわけだが、この間、約四十年を要している。
貴殿は日精が宗門史に残した悪影響についてどのように考えているのか。

 貴殿は、二十六世日寛上人に至ってようやく日精導入の要法寺流邪義を清算できた≠ネどと、あたかも日精上人が要法寺流の邪義を導入したかのごとく言っているが、それはまったくの虚言である。『日蓮聖人年譜』において日辰の邪義が破折されているように、日精上人にはもとより邪義≠ヘない。この疑難は、貴殿らの完全な作り話である。
 日亨上人の記述の御意は、
「日寛上人の『末法相応抄』等に代表される造仏・一部読誦の破折により、要山本末、つまり要法寺の本寺末寺において造読家の反発を招くほど、その影響が著しく、大石寺との通用に動揺を生ぜしめた」
というものである。これは、大石寺の本末について述べられたものではない。貴殿は、それを故意に混同せしめて、まるで大石寺の本末において、要法寺の影響≠ェ教学的に払拭≠ウれるのに四十年も要したかのように仕立て上げているのである。貴殿らは、どこまで腐っているのか。しかも最後に、厚顔無恥にも、日精が宗門史に残した悪影響についてどのように考えているのか≠ニ邪難するとは何たる言い草か。狡猾にも程があると言っておく。

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