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(日精上人に対しての批判は本来存在せず。)
一、また、奇妙なことに貴殿の配下の時局班は、日精の登座前の謗法については、あっさりその非を是認した。すなわち、日精が造仏読誦義を説いた「随宜論」を書いたのは登座前だからいいのだ、という極めて安易にして姑息な論を強弁している。 それによって、むしろ、法主になる前にどのような謗法を犯しても、相承を受ければ何の問題にもならない≠ニいう貴殿の珍説を補強しているつもりのようである。 貴殿は、つねづね、学があろうと、なかろうが、どんな僧でも相承を受けた以上は「生身の釈迦日蓮」である≠ニ謬説を唱えている。日精の登座前の謗法を認めることで、たとえどんな謗法を犯した僧でも相承を受けることができる、という論を構築する意図がみえみえである。 先にも述べたように「随宜論」は日精登座後の書であるから、そもそも貴殿らの強弁は成り立たないのであるが、仮に百歩譲って、登座前の書であるという前提に立っても、だから何をやってもいいんだというのは貴殿を弁護するための詭弁にすぎない。 法主の座とは、大聖人の正法を護持し、一宗を統括し、門下を教導する立場である。それに相応しい人格・識見・信心の人物こそ、登座すべきであることは言うまでもない。 さらに、「随宜論」を書いたのは登座前で、法主になってからは「清書」したにすぎないという珍論を唱えている。あまりにも稚拙な弁明であろう。 仮に日精が登座後、富士の正義に目覚めて、自身の過去の誤りに気づいたならば、かつての邪論は破棄し人目にふれさせないようにするのが穏当ではないか。 またあえて後学のために前車の轍とするというなら、その内容を自ら徹底的に破折して宗内に開示すべきであり、せめて邪義の文書であることを当人が明記するのが最低限の配慮ではないか。日精が自らの誤りを改めると誓った文証があれば、後学の参照のために清書して残したというのもうなずけるが、あるなら出してみよ。 |
先にも述べるように、日精上人には造像を本意とする思想など、そもそも存在しないのである。 始めに貴殿の悪言を破折しておく。貴殿は御法主日顕上人に対し、貴殿は、つねづね、「学があろうと、なかろうが、どんな僧でも相承を受けた以上は『生身の釈迦日蓮』である」と謬説を唱えている≠ネどと言うが、御法主上人が何時どこでどんな僧でも相承を受けた以上は「生身の釈迦日蓮である」≠ニ述べたのか。「生身の釈迦日蓮」との文言があるのは、『続家中抄』日舜上人伝の法詔寺日感の書状中である。しかし、たとえ法詔寺日感の言葉ではあっても、『御本尊七箇相承』の、 代代の聖人悉く日蓮なり(聖典三七九頁) との御相伝の意を体せば、御法主上人の御内証を大聖人と拝することはむしろ当然であり、日蓮正宗の伝統法義なのである。故に日量上人も『続家中抄』に引用されたのであり、かつての池田大作も会員にそのように指導していたのではないのか。このような邪難が生ずること自体、創価学会が変節したことの明証なのである。 さて、要法寺では大曼荼羅正意の貫首と、造像家とが入り乱れているが、不思議なことに要法寺から大石寺に登られた御法主上人は、大曼荼羅正意の方と深縁なのである。大曼荼羅正意を受け継がれた方が大石寺に登られ、さらに相伝の深義による下種三宝義を学ばれて、御法主上人になられたのである。そのような方が造像家であろうはずがない。 つまり、日辰の造像義を完膚無きまでに破折された日寛上人におかれても、総本山寂日坊、及び久成坊安置の御本尊として、それぞれ日精上人筆の御本尊を板御本尊に造立・開眼されている。何より日寛上人の初発心の師匠は日精上人であり、直接文献に記されない事情なども承り、その御化導を納得・了承されていたと思われる。このように、日寛上人は、日精上人を初発心の師匠として、血脈付法の御先師として敬愛の念をもって拝されており、直接、日精上人の謦咳(けいがい)に接した歴代の御法主上人に批判の言が全くないことも、日精上人に誤りが無かったことの証である。 よって、貴殿の言う日精が登座後、富士の正義に目覚めて、自身の過去の誤りに気づいたならば、かつての邪論は破棄し人目にふれさせないようにするのが穏当ではないか≠ニの疑難は全く当たらない。 日精上人はそもそも造読義を持たれていないどころか、『日蓮聖人年譜』に見られる、五老僧系への破折といい、日辰に対する破折といい、日蓮大聖人・日興上人そのままの破邪顕正の御精神が顕然とされたお方である。日寛上人が渇仰恋慕したほどの方であり、門下僧俗にも血脈付法の御法主上人として絶大な尊信を受けておられたのである。 さらに言えば、『随宜論』の扱いも、正信会や貴殿らのように宗門のあら探しをして邪難しようとする逆賊以外には、全く依用された経緯は無い。故に人目にふれさせないようにするのが穏当≠ネどとの言も大きなお世話である。『随宜論』を奇貨として血脈を誹謗し、それを公開しているのは貴殿らではないか。 しかも日精上人が造読家の寿円日仁や北山日要から快く思われていないことも造読家ではないことの傍証である。寿円日仁はしばらく常在寺の日精上人の膝下で勉学していたことがある。その折日精上人より自らが信奉する造読義ではなくて、当家の正義を聞かされたために、反感を懐くようになったと思われる。 以上述べたとおり、日精上人は大聖人の正法を護持し、一宗を統括し、門下を教導する立場である。それに相応しい人格・識見・信心の人物≠ナあられたから御登座されたのであり、日精(上人)が自らの誤りを改める&K要など微塵もないのである。 |
一、日精が生涯にわたり造仏義を捨てていなかったことは、彼が亡くなってはじめて、関係諸寺の造仏の撤廃が始まったことからも分かるのである。 謗法の執情は、登座した途端にすぐに消え去るようなものではなかろう。 |
関係諸寺の造仏の撤廃≠ネどと邪推きわまることを言うものではない。日精上人が造仏義をお持ちで、それを正義として発揚したいとお考えになられたなら、方々の関係諸寺≠ネどよりもまず、総本山大石寺に仏像を安置されたはずである。しかし大石寺にはどこにも仏像があった形跡はない。むしろ、日精上人は御影堂安置の大聖人筆の御本尊、六壺の日興上人筆の御本尊、客殿の宗開両祖の御影、了性坊の大聖人御影等を造立され、下種の本尊義を諸堂宇の整備と共に大いに発揚されているのである。これらのことから「日精上人の影響で仏像が安置されていた寺院」などあるべくもないのである。 |