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(日亨上人に対する慇懃無礼。頭注を悪用した日精上人誹謗の魂胆。)
日亨上人は貴殿に先ずる法主であり、貴殿の父・日開に相承を授けた当人である。その日亨上人を脆弱な根拠による支離滅裂な愚論によって非難中傷することは、全く以って先師違背、不知恩の極みではないか。このことを貴殿はどのように感じているのか。 |
そもそも学会による一連の日精上人に対する疑難の目的は、「唯授一人の血脈」の存在自体を否定するための誑惑であることは言うまでもない。最近の『聖教新聞』では、 法主は民主的にきめるべき(取意・聖教新聞 平成十五年九月四日付) 等と完全に大聖人以来の血脈相承を冒涜した記事が紙面に踊っている有様であるが、その貴殿らが日亨上人を利用する理屈に貴殿の父・日開に相承を授けた当人%凾ニ論じるとは、実に脆弱な根拠による支離滅裂な愚論≠ニしか言いようがない。 まして血脈を否定する貴殿には先師違背、不知恩の極み≠ネどと言う資格はまったくないのである。 ことに貴殿の最大の誑惑は、「唯授一人の血脈」の存在を陥れるための手段として、しかも「唯授一人の血脈」をお受けになった日亨上人のお立場を悪用するところに存する。なんたる自己矛盾であろうか。ここまで来ると開いた口が塞がらない。ただただ呆れかえるばかりである。 宗門は今まで、日亨上人の御意見を最大限尊重しながらも、さらなる研究の結果で、日亨上人の見解を訂正してきたことも度々存するのである。一例を挙げれば、熱原法難で三烈士が命を落とした年月日を、『富士日興上人詳伝』には、 神四郎等兄弟三人の斬首および他の十七人の追放は、弘安三年四月八日と定むるのが当然であらねばならぬことを主張する。(同書九一頁) とあり、日亨上人は弘安三年四月としている。しかし『富士年表』では種々検討した結果、弘安二年十月十五日としてきた。かくいう貴殿が編集委員長を務める創価学会の『仏教哲学大辞典』(第三版)の「熱原法難」の項にも、 十月十五日※、神四郎・弥五郎・弥六郎の三人は事件の発頭人というかどで斬罪に処せられ(※弘安二年・同書三三頁) と、日亨上人の説ではない、その後の宗門の説を踏襲しているではないか。こう言うと姑息な貴殿らのことである「宗門の受け売りで知らなかった」と逃げをうつであろう。しかしそれは通用しない。なぜなら日亨上人の弘安三年四月説が紹介されている『富士日興上人詳伝』は創価学会から刊行されているし、『仏哲』(初版)ではご丁寧にも、 処刑の日は、弘安二年十月十五日と、翌三年四月八日の両説がある。(同書一―六二頁) とわざわざ両説あることを紹介しているのである。 さらに『大白蓮華』昭和五十三年十二月号には池田大作の言として、 かつての堀日亨上人の文献によれば、三烈士の刑死の日は、熱原法難の翌年にあたる弘安三年四月八日であるとの説であったが、猊下※の御説法によって示された弘安二年十月十五日というのが、私達も本当にその通りであると思う。(※日達上人・同書九五頁) との記事が掲載されている。つまり、たとえ日亨上人の説であってもとらわれずに妥当な見解を導き出された日達上人の御意見に池田大作自らが賛同しているのである。 何が何でも日亨上人のお言葉が絶対であるとし、宗門が指摘した妥当な見解、すなわち、日精上人が造像家でなく正法正義の正師であるという事実に目をつぶって、血脈の御法主上人を誹謗する貴殿の主張は、貴殿らの巨魁池田大作の言によって既に退けられているのである。貴殿は今まで日亨上人の説ではなく、その後の宗門の説を踏襲しながら、なぜこのことを問題にせず、日精上人のことだけを取り上げて問題にしてきたのか。日亨上人の眼光紙背に徹する識見≠ネどという歯の浮くようなお世辞は一体どうしたのだ。 答えは一つしかない。貴殿らは血脈の尊厳を貶めるために、日亨上人をことさら慇懃(いんぎん)無礼に扱って、利用しているだけに過ぎないのだ。 「日精上人に謗法がなかった」という、この喜ぶべき訂正に日亨上人が御賛同なさらないはずはないのである。 御当代日顕上人は、 法主が無謬(むびゅう)とか無謬でないとか、そんな子供のけんかのようなことを言うのがおかしいのです。たとえ血脈相承を受けた法主であっても、思い違いや多少の間違いがあるようなことは、当たり前なのです。 大聖人様にも『観心本尊抄』に「章」という余分な一字をお書きになっている所があります。同様に、それ以下の法主だからといって、そういう思い違いやちょっとした間違いぐらい、だれもないなどとは言っていません。(中略)創価学会の者どもは、日寛上人と日亨上人をこれ以上ないほど持ち上げますが、日亨上人がどんなに学匠だからといっても、絶対に無謬ということでもないのです。 今、日蓮正宗に『富士年表』というのがあります。これはずいぶん苦労したのです。日達上人の御指南で私どもが作りましたが、全部を作り上げるのに二十年ぐらいかかりました。そのときに、史料の上の難問は山積しており、今までの説を改めるべき色々な問題が出てくる。そうすると、やはり「日亨上人がこうおっしゃっているけれども、ここは違うから、このようにしよう」ということで訂正した箇所もありました。何もそれは日亨上人の研究を否定するということでなく、新たな資料の発見などによって当初の考えから、より真実に近づいた結論が出たからです。また、膨大な資料をお一人で見る場合に、やはりどうしても色々な意味でちょっとした思い違いなどもありうるのです。 要するに、宗門は何も、始めからしまいまで「法主に誤謬は絶対にない」などとは言ってないのです。彼等が勝手に誣告しているだけであって、私をも含め、ちょっとした間違い、思い違いぐらいはどこにでもあり、それは正直に訂正すればよいのです。ただし、血脈の法体に関する根本的な意義については、けっして誤りはありません。(創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す六二頁) と御指南されているとおりである。 確かに、日亨上人は近代における大学匠であり、宗門史の解明においては、その御功績に依るところが大きいことは紛れもない事実である。しかし、創価学会がこれまで意識するしないにかかわらず、恐れ多くも日亨上人を都合よく利用する理由は、上人が唯授一人の血脈を伝持された御法主上人であられたからであろう。ある時は血脈を否定し、ある時はその血脈を利用する。貴殿らの都合に合わせ、血脈の御法主上人を悪用することは断じて許されない大謗法である。以下の文章をこころして見るがよい。 日蓮正宗の根幹をなすものは血脈である。大御本尊を根本とし、代々の御法主上人が、唯授一人でこれを受け継ぎ、令法久住をされてこられた。御本尊を御認めあそばすのは、御法主上人御一人であられる。われわれは、令法久住のための信心を根幹として、広宣流布に邁進しているのである。しかし、いくら広宣流布といっても、御本尊の御認めがなければできない。われわれは、あくまでも総本山根本、御法主上人厳護の信心で進んでまいりたい。(広布と人生を語る三―二五六頁) これは貴殿の尊敬する池田大作が以前述べた言葉である。貴殿が自語相違を繰り返す習性は、貴殿の属する団体の宿習であるから、致し方ないことなのであろう。貴殿らの現状たる「総本山違背、御法主上人非難」は道理に反した師敵対の大謗法であると断じておく。 |
一、それにもかかわらず、貴殿は時局班を使って、日亨上人が日精と日辰の文章を混同していると何度も言わせている。それ自体が全くのいいがかりであることを示す証拠はさらにある。 すなわち「富士日興上人詳伝」には、「家中抄」の日尊、日印、日大の伝記について、次のように仰せである。 「家中抄のこの下の記事の長句、まったく祖師伝の直写なれば、ここに重複を避けて贅記せず」 「長文はほとんど祖師伝の引文なれども、多少の補修がある分だけを記しておく」 「これらは、文長けれども、貴重の文献なれば掲げたが、祖師伝の文とは多少の相違がある」 このように、日亨上人は、明らかにこれら要法寺の三人の伝記が祖師伝の引用であると厳然と御存知なのである。しかも、両方の文に多少の相違があることまで熟知されているのである。 このように見てくると、時局班の考察の甘さが一段と浮き彫りになってくる。古文書を読解・分析する能力、論を組み立てる構成力、そして正法護持せんとの信心態度のいずれをとっても、力量の著しい不足が露呈している。 それを貴殿は「時局対策の文書班の一人偉いのがいますよ。よく勉強してね。ワシもあれ感心した」などと大層な評価をしている。この程度の稚拙な論に感心するとは、所詮、貴殿も同程度の幼稚なレベルにあると思うがどうか。 少しでも宗学を修める者であれば、日亨上人が日辰の書からの引用であるとわかったうえで頭注を付されていることは自明の理である。それをいまさら、日辰の引用部分を批判している≠ネどと鬼の首をとったかのように云々する。あまつさえ、堀上人を「失念」呼ばわりするなどというのは、時局班、すなわち貴殿の程度の低さを如実に物語るものではないのか。 |
日亨上人が『家中抄』の「日印伝」を『祖師伝』の引用であるとの認識をもたれていたことは、貴殿らに言われるまでもないことである。 しかしながら繰り返し言うが、日亨上人は日精上人を造像家であると誤解されていたのであり、これがはっきりすれば、日精上人の正義が証明されるのである。誤解であられたことを明らかにさせていただくことは、むしろ日亨上人も御嘉納遊ばされるところと拝するものである。 また少しでも宗学を修める者であれば、日亨上人が日辰の書からの引用であるとわかったうえで頭注を付されていることは自明の理である≠ネどとは呆れた逆言である。宗旨の根幹に迷い、正しい宗門史を理解することもできず、支離滅裂な愚論を展開する貴殿が宗学を修める者≠ネどと述べる資格など微塵もなく、増上慢も甚だしいものであることを念告しておく。 |
一、さらに言えば、「家中抄」に対する日亨上人の頭注は、「祖師伝」の引用の部分だけでなく、日精本人が書いた文章の上にも及ぶ。 「本師造読家ノ故ニ誇大セルガ如シ 惑フナカレ」 「本師造像家ナル故ニ此ノ疑文ヲ依拠トスルカ」等々。 貴殿ならびに時局班は、これらの個所では一体、日亨上人が何を失念≠オたと言いわけするのであろうか。 日亨上人は、積年の精力的な研鑽による該博な知識を裏付けとし、類希な眼力によって文献を解読し宗史を明らかにされた。 そして、鍛え抜かれた本物の学者としての見識と、何よりも信仰者として大聖人・日興上人に対する真正の信仰に基づくがゆえに、途中の法主の邪義を冷静に批評できるのである。 それも分からないで時局班に論じさせ、「日亨上人の失念である」などという結論に悦にいる貴殿は、それによって日亨上人とは正反対の無見識・無信仰を暴露していることに気が付かないのか。 |
先にも述べたように、日亨上人は、『富士宗学要集』編纂時に現存した文献から「日精上人が造像家である」と思い込まれていた。そのため、日精上人が述べられた造読に関連すると思われる事項はもちろんのこと、『祖師伝』等の日辰の文章が引用された部分を読まれても、それが日精上人のお考えであると誤解されていたと拝せられるのである。 ここに日亨上人が『家中抄』の頭注に、「本師造仏ノ底意ヲ顕ス」と記された所以が存するのである。すなわち、この頭注の「本師」とは日精上人の御事であり、貴殿が挙げた他の頭注についても同様である。 まず、「本師造読家ノ故ニ誇大セルガ如シ 惑フナカレ」の頭注は、『家中抄』の日興上人伝にある、 師存生の間常に兜率の生を願ひ給へり、之に依て御自筆の法華経の巻毎に其ノ趣を書き給ふ(富要五―一七六頁) にある傍点の箇所に付された頭注であり、全文は、 蓋経ノ末巻ニ此意ナキニアラズ蓋シ本師造読家ノ故ニ誇大セルガ如シ 惑フナカレ(同頁) との御記述である。 これは日亨上人が「本師造読家」という先入観より、このような頭注を加えられたものと思われ、さらに、 当宗嫡々法門相承どもを日道に付嘱す、其ノ外高開両師よりの相伝の切紙等目録を以て日道に示す、其ノ目録に云ハく。日興御さくの釈迦一そん一ふく(富要五―二一三頁) の箇所に付された、 本師造像家ナル故ニ此ノ疑文ヲ依拠トスルカ(同頁) の頭注も同様のものと拝せられる。 しかし、これは先述のごとく、日亨上人が日精上人を造像家であると誤解されていたために付された頭注なのである。 しかし日亨上人は『化儀抄註解』に次のように仰せである。 此仏と云ふも此菩薩と云ふも(中略)末法出現宗祖日蓮大聖の本体なり、猶一層端的に之を云へば・宗祖開山已来血脈相承の法主是れなり、是即血脈の直系なり(富要一―一一七頁) この御教示を拝すれば、日亨上人が日精上人を含む「血脈相承の法主」に対し、絶対的な信を持たれていたことが明らかであろう。もし日亨上人が日精上人の血脈に対して疑念を持たれていたのであれば、このような御教示はなされるはずがないのであり、むしろ根底では日精上人を「血脈相承の法主」として尊敬されていたのである。 日亨上人は、『富士宗学要集』に『日蓮聖人年譜』や『家中抄』を収録するにあたり、その中には、初心者や他門の衆徒が内容を理解する上において、特に誤謬伝説や法義的な問題の取り扱いに関して、誤解を生じやすい部分もあることから、批判や特記事項を頭注として付されたのである。これは、いわば後学への御配慮である。この日亨上人の慈悲のお心を悪用し、日亨上人が途中の法主の邪義を冷静に批評≠オたなどとの言をもって歪曲し、その御心を踏みにじる貴殿ら創価学会の振る舞いに対し、日亨上人がどれほどお嘆き遊ばされているか、察するに余りある。日精上人に対する日亨上人の御見解を訂正申し上げて、貴殿らの邪義を粉砕することこそ、日亨上人の令法久住の御本意と知れ。 |