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   御本尊を「物体」と見下す
    池田の浅知恵  ―創価学会―



   大作の大莫迦ぶり


 池田大作に、真摯な信仰心など望むべくもないことは周知であるが、とりわけ、
「漫荼羅それ自体は、物体という側面からいえば永遠不滅ではありえない。(中略)大聖人の仏法の真髄である『久遠元初の法』を根本としてこそ、永遠の妙法流布の道が開ける」(平成五年五月五日付聖教新聞)
「御本仏・日蓮大聖人の御生命は宇宙大であられる。小さな寺院や本山にしか大聖人の御生命はないなどというのは、御本仏への冒涜であろう」(平成五年十月二四日付聖教新聞)
との言は、その無信心ぶりを露呈して余りある。口では「御本尊根本」と言いながら、本門戒壇の大御本尊を「物体」と見下す姿は、自語相違も甚だしい。
 これを見て創価学会員は何とも思わないのであろうか。思わないことそれ自体が、魔に魅入られた大莫迦者である。


    大作らは「妙法の当体」ではない


 大作の浅知恵は、ついに「己心本尊」に行き着く。
「『御本尊』は、自身の『信心』のなかにこそあると大聖人は仰せです。妙法の当体である自分自身、人間自身が大事なのです。その胸中の妙法を顕すためにこそ、御本尊が、こよなく大切なのです」(平成四年七月五日付聖教新聞)
 こんな愚かな大作はもちろんながら、これに盲従する学会員も、「妙法の当体」となるはずがないではないか。なぜなら、根本となる御本尊に迷い、「物体」と見下しているからだ。
 所詮、これらの妄言は、日蓮正宗から放逐されて総本山大石寺に参詣できない者の遠吠えであり、その姿こそが三悪道を輪廻する一闡提の迷走である。


    大作らは「迂愚の骨頂」


 日淳上人は、大作の「漫荼羅物体説」を、
「日蓮正宗では御本尊の板や紙に執われているから唯物的思想だといっておるが、事此にいたっては開いた口がふさがらない。彼等には草木成仏・非情成仏等・仏法の重大法門は少しも解っていない。それでは法華を学んだとは到底いえないことである」(日淳上人全集 下―一四一一頁)
と、にべもなく一蹴されている。まさに大作らは「少しも解っていない」のである。
 さらに日淳上人は、
「此の頃信心相承を振り廻す人があるが御笑ひ草である。仏家付嘱の儀が信心の有無によるなんどは世の末の議論である」(同一二〇九頁)
「経文や御書そのものを手にすればそれによって相承があるといふのではない。御書には此経は相伝に非ずんば知りがたしと仰せられて居る」(同一四四四頁)
「大聖人が仏法―最大深秘の正法と仰せ給ふ秘法、また末法には持ち難しと仰せ給ふ大法を唯信心だけで付嘱相承し給ふと考へるのは迂愚の骨頂ではないか」(前同)
と仰せになり、大作らの妄言を「御笑ひ草」「迂愚の骨頂」と痛快に破折されている。


    大作らは「増上慢」


 加えて、御先師日達上人も、
「自分自身が御本尊だなどと考える時は、すでに増上慢に陥って地獄の苦を受けるということになるのであります。そこで日蓮大聖人様はご自身の当体を戒壇の御本尊として、我ら末法の衆生の依止の本尊と顕わされておるのでございます」(日達上人全集 二―五―五二六・)
と厳しく指弾されている。首魁の魔王・大作も、これに魅入られた学会員も、目を見開いてこれらの御指南を篤と拝せ!
 日淳上人には「迂愚の骨頂」と言われ、日達上人にも「増上慢」と言われながら、「少しも解っていない」狂学で「妙法の当体」と思い込んでいるさまは、むしろ滑稽であり、まさに「御笑ひ草」である。


大白法648(h16.7.1)号より転載


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