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      “五座三座、やーめた”
      勤行略式化計画のねらい
                 ―創価学会―


     略式化の本音と建て前


 創価学会では、従来行ってきた「五座三座」の勤行形式を、このたび「方便品・自我偈の読誦と唱題」のみで結構――と略式化することを正式決定した。
 学会では、その理由を、
  「本格的な世界広宣流布の時代の到来という『時』のうえから……」(九月十日付聖教新聞)
と、おおぼらを吹いている。
 これは昨年九月から、既に海外の会員においては、実験的に略式化したものを実践させ、反発の声も上がらないことから、このたびの国内での実施にこぎ着けたものと言える。
 “世界百九十カ国にSGI会員がいる”と豪語しても、宗門から破門されて以降、世界的な脱会者の続出により、会員数は激減している。とても「世界広宣流布の時代の到来」などと言えた状況でないことは、だれの目にも明らかである。
 しかるに、側近幹部たちは、その本音をのぞかせている。まず、略式は、
  「宗門と決別した功徳」(九月二十四日付聖教新聞・以下の引用は同紙)
と強がり、
  「五座は大変だった。それで信心をやめてしまった人もいます」
と言い繕っている。略式勤行は、
  「清々しい」
とうそぶく聖教新聞だが、実際は「あー、楽になった!」との会員の生の声で、本音がうかがい知れる。


      略式勤行の強制


 学会では、
  「五座三座というのは、大聖人の時代には、なかった」
  「御書にも、日興上人が書かれた文献にも、一言もない」
などと言うほか、今まで自分たちも行ってきたにもかかわらず、自らの主張を正当化するために、我見で他を批難するやり方、いわゆる学会の常套手段で略式化を説明している。
 そして、笑えるのは、
  「今まで以上に題目を、たくさん、あげられます」
などと簡略化した点を言い繕ったり、第二代会長の戸田城聖氏が、かつて最高幹部とやらに、
  「学会は方便、自我偈でいいじゃないか」
と言ったとしている点である。
 ここまで聞かされて、いくら会長の秋谷が、
  「ただし、五座三座をやりたい人は自由です」
と言っても、所詮、それは詭弁にしか聞こえない。
 学会が、勤行略式化を正式に決めたということは、“五座三座を行うな”と受け取ったほうが、信心強盛で賢明な?学会員と言えるのである。
 略式勤行は、強制と言える。


      略式化のねらい


 つまり、五座三座の略式化の意図は、第一に、五座三座を行っている限り、日蓮正宗色を払拭しきれないからである。
学会において「勤行」といっても、それは所詮、宗門からの借り物に過ぎない修行(活動)と見なされる。そこで、従来の形式を変えることによって、勤行が、学会独自のものであるかのように錯覚させ、宗門とは異なった形式であることを早急に定着させたいのであろう。
 第二には、入会させやすいように、勤行をもゆるがせにして、会員獲得の手段とするため。
 第三に、会員の学会離れ対策。
「楽になった」との会員の声の裏には「今まで苦痛だった」との思いが込められている。選挙のF取りや新聞啓蒙、財務など、とかく会員にとっては難行苦行が多いが、“どうでもいい勤行で楽にさせよう”とのねらいからか。宗教団体としての根本の修行法にもかかわらず、勤行を軽視し、その短縮化を功利的に他より優先させたのである。
 大作の勤行は「0分」と伝えられる。信仰心を失った会員も、いずれ、そんな略式勤行ですら、センセーゆずりで面倒くさくなることは時間の問題だ。
 所詮、血脈の切れた教団が、『ニセ本尊』に、何をどのように唱えようと、堕地獄は免れない。

大白法655(h16.11.1)号より転載



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