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    「忘恩」とはだれのこと
     低俗・稚拙な泣き言
           ─創価学会


     「恩知らず」?


「ずる賢い畜生の如き恩知らずの反逆者を許すな!叩き破れ!恩師の遺訓」
 非常に激越な口調であるが、これは本年五月十四日付聖教新聞の「寸鉄」である。さらに、同月十九日には、
「『忘恩』という人間として最大の悪徳に対して、正義の叫びを貫いてこそ、日蓮大聖人の御遺命を継ぐ真の弟子といえよう」
との社説まで掲載している。
 これらの煽動を受けて、愚かな創価学会員が、脱会して正信に戻ろうとする者へ「創価学会の恩を忘れたのか」という趣旨の言葉を浴びせることは珍しくない。なかでも、御法主日顕上人猊下をはじめとする宗門には、「恩知らず」の筆頭として、常に誹謗中傷の矛先を向けている。
 要するに、狂信者の目には、創価学会を離れ、あるいは創価学会の独善体質や謗法を指弾することは、即「忘恩」「恩知らず」と映るらしい。


     日蓮宗もビックリ


 宗門への「忘恩」との讒言は、創価学会の宗門外護を感謝しろ、大恩ある創価学会を誹謗するとは何事だという筋書きである。自らの謗法を棚に上げ、バカげた理屈をよくもぬけぬけと言えるものだ。
 大聖人御在世中、かの波木井実長は、大聖人のお住まいを御供養申し上げ、当初は外護の任を果たしていた。しかし、大聖人御入滅後、民部日向の誑惑もあって、謗法に手を染めた。大聖人より血脈相承を授けられた日興上人は、再三にわたって波木井の謗法を諌められたが、一向に聞き入れないために、謗法と決別され大石寺を開創されたのである。よもや創価学会も、この歴史を知らぬはずはない。
 外護を受けたにもかかわらず、その外護者の謗法を呵責することが「忘恩」「恩知らず」であるならば、日興上人はどうなのであろうか。
 長い歴史上、日蓮宗ですら、そのような低俗かつ稚拙な宗門批判をしていない。
 まさに、日蓮宗もビックリ!の全くお粗末な泣き言である。

     知恩報恩の意義

 もとより、恩を知り、恩を報ずることの大切さは、創価学会に指摘されるまでもない。『四恩抄』には、
「仏法を習ふ身には、必ず四恩を報ずべきに候か」(御書二六七頁)
とされ、一切衆生の恩、父母の恩、国王の恩、三宝の恩の四つを大聖人は示されている。
 しかして、創価学会はこの四恩のいずれに当てはまるというのであろうか。
 創価学会が我らの父母でないことは明らかであるし、そこには正しい三宝もない。よって、父母の恩や三宝の恩の意義は微塵もない。もし、彼らに恩があるとすれば、折伏の対象者であるということから、一切衆生の恩があるという程度であろう。
 だからこそ、我らは創価学会の謗法を破折しているのである。すなわち、我らの折伏は「忘恩」でも「恩知らず」でもなく、知恩報恩の行業にほかならない。まさに、社説子が言う「日蓮大聖人の御遺命を継ぐ真の弟子」としての振る舞いこそ、学会破折なのである。
 むしろ、宗門に反逆する現在の創価学会こそ、
「末代の凡夫、三宝の恩を蒙りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん」(同二六八頁)
との御金言を拝し、自らの「忘恩」を恥じるがよい。
 加えて『報恩抄』の冒頭には、
「此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきわめ、智者とならで叶ふべきか」(同九九九・)
とも御教示である。すなわち、正しい信仰にこそ、知恩報恩の根源となる意義がある。
 「ずる賢い畜生の如き恩知らずの反逆者を許すな!叩き破れ!」とは、創価学会をより厳しく破折せよとの叱咤激励と心得て、彼らの願いどおりに「叩き破れ!」。

大白法671(h17.6.16)号より転載



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