(62)


  いよいよ加速する悩乱ぶり
    聖教新聞も手に負えず?
             ─創価学会─

   大作の支離滅裂なスピーチ


 周知のとおり、創価学会問題の発端は、平成二年十一月十六日、本部幹部会における池田大作のスピーチにある。
 聖教新聞に掲載された内容とは全く異なるスピーチを行っていた事実が露見した当初、筆者は何度も大作のスピーチを聴き、宗門を蔑視し、御法主上人を軽視する大作の無信心に心底、あきれるとともに、その支離滅裂な内容に大作の悩乱を垣間見た気がした。加えて、これを平然と聞き入る学会幹部をはじめ、末端会員の姿にも驚いた。
 当時、藤本総監は、
「あのスピーチを聞いて、おかしいなと思わない、ということ、それ自体がおかしい」(平成三年一月二十五日付大日蓮号外 一二頁)
と指摘されたが、大作の破仏法のスピーチが学会員にすり込まれ、「おかしいなと思わな」くなっている現実を考えたとき、創価学会の大謗法の根深さを痛感したことを記憶する。
 あれから十五年以上経った今も、相変わらず大作の放埒な世迷い言が、そのまま聖教新聞に掲載されてはいないようだ。


   聖教新聞での自認


 実際の大作のスピーチと、聖教新聞に掲載された内容とが、全く違う事実を、かねて読者から訝しがられていたものか、大作のスピーチ内容を掲載した最近の聖教新聞に、次のようなおもしろい註が加えられている。
「※編集部として、名誉会長の了承のもと、時間の都合で省略された内容を加えて掲載しました」(平成十九年一月十日付)
 ??? …大作が喋っていないものを記事として加えた?
  大作が喋ってもいないのに、さもスピーチしたかのように付け加えたとなれば、これは立派な「改竄」ではないか。なんのことはない、大作のスピーチは、改竄して掲載していると、聖教新聞自身が認めたのである。
 そもそも新聞とは、真実を公正に読者へ伝えることが、その使命ではないのか。にもかかわらず、写真は偽造するわ、スピーチは改竄するわ…。
 これはもはや、報道としての存在意義を自ら放棄したことを宣言したものである。


   聖教新聞も手に負えず


 あるいは、ありのままに報道すると、大作の悩乱が浮き彫りとなるため、これを綺麗に仕立て上げていくうちに、全く別物に仕上がってしまったので、やむなく註記を加えたものか。
 聖教新聞の立場をこちらで斟酌する必要はないが、いずれにせよ、編集部諸氏の苦労を思うと、哀れと言うほかはない。
 理由はどうあれ、今や聖教新聞は大作を守ることだけに腐心していることは間違いない。人々を正しい仏法へ導くどころか、邪義・魔説を広く頒布しているのが実態である。
 その一翼を編集諸氏が担っている事実を考えれば、労多くして罪障を積んでいるだけ、文字どおりの徒労に終わっている。


   「頭破作七分」の現証


 『種々御振舞御書』に、
「頭破作七分と申すは或は心破作七分とも申して、頂の皮の底にある骨のひゞたぶるなり。死ぬる時はわるゝ事もあり(中略)これは法華経の行者をそしりしゆへにあたりし罰とはしらずや」(御書 一〇七一頁)
と御教示のとおり、正法誹謗の現証は「頭破作七分」「心破作七分」の罰として現れる。
 スピーチをそのまま掲載できないほど悩乱する、今の大作の姿こそ、この罰の現証である。
 この事実を読者へ伝え、創価学会がいかに邪教であるかを報道し、読者を正法へと導くことが、聖教新聞の使命であろう。
 右の註記こそ、聖教新聞が真実を伝えていない証左である。

大白法711(h19.2.16)号より転載



ホーム   目 次   前 頁   次 頁