(90)
総本山への登山を 『地獄』と称する呆れた心根 ―創価学会― 呆れた創価学会の難癖 近頃、創価学会は、様々な言い掛かりをつけて、総本山への登山を妨害することに躍起だ。 創価新報(本年六月三日付)でも「日顕宗の登山地獄」なるタイトルのもとに、 「想像絶す灼熱の大石寺」 「ずさん極まりない計画」 などと、七万五千名大結集総会を揶揄している。 また、慶祝登山に対しては、 「呆れた邪義で信者だまし」 などと見出しを付けて、お得意の邪義を並べている。 平成六年の六万大総会の時も、同じような誹謗中傷を並べていたが、あいも変わらぬ浅薄な難癖に、彼らの浅はかさ、成長の無さが滲み出ている。 謗法の徒輩が何を言っても痛痒は感じないが、これを読んで納得する学会員が哀れである。 総本山への登山参詣を称して「登山地獄」と言うことに、何の躊躇いも無いのであろうか。 創価学会の自慢話の一つに、総本山への登山会は、戦後に戸田第二代会長が提唱したというのがあったはずだが、だとすれば、戸田会長は、創価学会員に地獄の苦しみを味わうよう奨励したことになるではないか。 創価学会は、いつもこの手で、場当たり的な誹謗中傷をするから、自分達の過去の言によっていとも簡単に破折されてしまうのだ。全くお粗末極まる。 創価学会の邪義 この創価新報では、 「信心こそ成仏の直通」 と言い立てるが、すでに創価学会は信心が無いのであるから、成仏への道など残らず閉ざされている。また、 「登山しなければ罪障消滅できない≠ネどというのは、大聖人の真意をネジ曲げた筋違いも甚だしい邪義なのだ」 という非難こそ、「筋違いも甚だしい邪義」である。 宗門では「登山しなければ罪障消滅できない」などとは言っていない。大聖人御在世当時、あるいはその後の封建時代にあって、種々の事情から一度も登山参詣できなかった方がいても不思議ではなく、そのような御信徒も、正直にして純粋一途な篤信によって、成仏の大果報を得たことであろう。 しかし、現代社会にあって、登山参詣できるにもかかわらず、詭弁を弄してこれを否定せんとする輩に対しては、敢えて登山参詣の絶大な功徳を示して、その不純にして邪な考えを破折するのは当然である。 その区別も付かないのなら愚かこの上ないし、知りながら言っているなら不正直極まる。 総本山参詣の功徳 創価学会版御書全集にも載っているが、知らないようなので刮目して拝するがよい。 大聖人は正法を信行する絶大な功力を示された上で、さらに、 「然るを毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか」(御書一五〇二n) と御教示されている。加えて、 「此の砌に望まん輩は無始の罪障忽ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん」(同 一五六九n) 「彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり。参詣遥かに中絶せり。急ぎ急ぎに来臨を企つべし。是にて待ち入って候べし」(同n) とも御教示である。 ここに「此の砌」「此の身延」と示されるのは、大聖人御在所の故にほかならず、今その御魂魄は本門戒壇の大御本尊と在す故に、畢竟、総本山大石寺を指すことは指摘するまでもない。 大聖人自ら「是にて待ち入って候」と御教示されているにもかかわらず、「登山地獄」などと誹謗中傷する創価学会に、「信心こそ成仏の直道」などと騙る資格が全く無いことは、火を見るより明らかではないか。 意義深き本年、五十万総登山と七万五千名大結集総会に全力を傾注することこそ、大聖人仏法を正直に信行する姿であり、これを妨害せんとするのは、魔の所為にほかならない。 創価学会よ、仏罰を恐れよ! 大白法768(h21.07.01)号より転載 |