四、日寛教学にみる三大秘法義の理論的開示の諸相≠破す

 では、日寛が金口相承の三大秘法義をどのように理論的に開示したのか、について、いくつかの項目を立てて具体的にみていくことにしよう。
 相承法門としての文底下種法門や日蓮本仏義などは、日寛の興学以前にも、歴代法主や門流内の学僧たちによって断片的に取り上げられてきた。けれども、そうした門流秘伝の教義信条を、大石寺の金口相承の核心にあたる三大秘法義に関連づけて体系的に理論化する試みは、二四世・日永、二五世・日宥、二六世・日寛の三法主によって始められたと言ってよい。日永や日宥は、日寛の影響を受けたのか、あるいは日寛に影響を与えたのか、体系的ではないものの、文底下種の三大秘法の意義を説示し、人法体一の本尊義を所々で論じている。そして日寛は、日永や日宥の所説をさらに広く展開しつつ、宗門独自の三大秘法義を理論的に開示していくのである。
 
(1)寿量文底の事の一念三千論
 日寛は、日蓮の「開目抄」における「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、竜樹天親知つてしかもいまだひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり」(全集189)との文を引いて「三重秘伝」の教義を立てている。三重秘伝とは権実・本迹・種脱という三種の相対判を通じて法華経寿量品の文底に事の一念三千が秘沈されていることを明かし、その事の一念三千を仏法中の最勝とするものである。日寛の「三重秘伝抄」では、「開目抄」に示唆される文底秘沈の法門こそが「当流深秘の大事」であり、「先哲尚分明に之を判ぜず」と言われるがごとき門流の秘伝であるとされる(要3―6)。
 寿量文底の事の一念三千については、「本因妙抄」に「問うて云く寿量品文底の大事と云う秘法如何、答えて云く唯密の正法なり秘す可し秘す可し一代応仏のいきをひかえたる方は理の上の法相なれば一部共に理の一念三千迹の上の本門寿量ぞと得意せしむる事を脱益の文の上と申すなり、文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」(全集877)とその意義が説かれているが、「唯密の正法なり秘す可し秘す可し」とあるように、大石寺門流では古来より極秘法門とされている。それゆえ日寛以前の諸師は、「本因妙抄」を公然と引用して文底の事の一念三千の意義を詳細に説明することなどなかったのである。
 また寿量文底の一念三千が「事」とされるゆえんに関しても、門流独自の秘伝があったものと推察される。そのことは、「三重秘伝抄」の中で「文底独一本門を事の一念三千と名づくる意」が「唯密の義」とされるところに表れている(要3―53)。したがってこの点に関しても、日寛以前には誰人も踏み込んだ説明を行っていない。あえて言えば、日寛の師である二四世・日永が、「口決」の中で「此は文底法門一念三千事行五七字也。是は五百塵点劫当初我身五大即妙法蓮華経と悟り云云」(歴全3―318)と述べている。これは、文底の一念三千が事である理由として久遠元初の境智冥合の観点を示唆したものと思われるが、あくまで暗示的言説にすぎない。
 要するに日寛以前の諸師は、寿量文底の事の一念三千の意義も、またそれが「事」とされるゆえんも、いまだ十分には説明しなかったのである。しかるに日寛は、日永の死の二年前に「三重秘伝抄」の草稿を著し、自らの晩年にはそれを再治したうえで、「文底秘沈」の法門を「講次に因みて」理論的に開示していった。それは、先の「開目抄」の文を標・釈・結の三段に分かつとともに、十項目にわたる説明を通じて段階的に議論を深めていくという詳細な論法であった。これによって、寿量文底の事の一念三千が理論的に「文底独一本門」として選択され、その「事」たるゆえんは「人法体一」にあることが諸々の相伝書を引きながら説明され、文底の一念三千が正像未弘・末法流布の法門であることも宣せされたのである。「三重秘伝抄」は、「本因妙抄」「御本尊七箇相承」等の当時は門外不出とされた相伝書を引用しながら、文底の事の一念三千について初めて詳細に論じた教義書であった。
 そしてこの「三重秘伝抄」の論述は、当然のことながら、金口相承の三大秘法義の理論的開示にもつながっていく。同抄が理論的に説き示した文底の事の一念三千とは、「文底秘沈抄」で明かされるごとく三大秘法中の法の本尊であり、所詮は唯授一人相承の法体たる戒壇本尊のことに他ならないからである。文底の事の一念三千に関する詳細な説明は、日寛が三大秘法義を理論的に開示するうえで、第一に必要となる作業だったと言えよう。
 松岡は懲りることなく、当項の随所に、日寛上人によって金口相承のすべてが開示されたかのごとく繰り返している。すなわち、金口相承の内容の究極が三大秘法義であると決めつけ、日寛上人がそれをすべて公開されたかのごとく誤解せしめようとしているのであるが、何度も述べたようにそれはまったくの欺瞞である。なぜなら、日寛上人が『六巻抄』等に示された三大秘法義は、血脈の深義に基づく重要法門ではあっても、けっして唯授一人血脈相承の全貌を明かされたものではないからである。
 また悪書では、日寛の「三重秘伝抄」では、「開目抄」に示唆される文底秘沈の法門こそが「当流深秘の大事」であり、「先哲尚分明に之を判ぜず」と言われるがごとき門流の秘伝であるとされる「唯密の正法なり秘す可し秘す可し」とあるように、大石寺門流では古来より極秘法門とされている≠ニ述べ、「深秘」や「秘す可し」とのお示しを直ちに、唯授一人の血脈相承により伝承されてきた最極秘の法門であると勝手に断定するが、それも欺瞞である。「当流深秘」「唯密の正法」「秘す可し秘す可し」などの御教示は、甚深の御法門であることを御指南せられたものであり、またそれらの深義を大切に伝承せよと命じられたものである。
 また悪書では寿量文底の事の一念三千≠ノつき、「本因妙抄」の御文を根拠として、その御法門が大石寺門流では古来より極秘法門とされている。それゆえ日寛以前の諸師は、「本因妙抄」を公然と引用して文底の事の一念三千の意義を詳細に説明することなどなかったのである≠ネどと述べている。しかし、この寿量文底事の一念三千について、既に日寛上人を遡ること三百五十年の昔、重須談所第二代学頭、三位日順師の『本因妙口決』には、
  内証の寿量品・事行の一念三千・末法当時の久成の正法なるべし。(富要二―七〇頁)
  天真独朗の事行一念三千を不思議実理の妙観と申すなり。(富要二―七二頁)
と明確に説明がなされている。つまり『本因妙抄』は重要書であり、事の一念三千の法門も重要法門であるが、松岡の言うような意味で古来より極秘法門とされて≠ォたのではない。三位日順師が、『本因妙抄』を解釈して『本因妙口決』を著わされていることからも明らかなように、「本因妙抄」を公然と引用して文底の事の一念三千の意義を詳細に説明することなどなかった≠ネどという主張は、事実と相違する偽言なのである。
(2)戒壇本尊を中心とする三大秘法論
 日寛は「文底秘沈抄」の冒頭に「法華取要抄に云く問て曰く如来の滅後二千余年、竜樹、天親、天台、伝教の残したまふ所の秘法何物ぞや、答て云く本門の本尊と戒壇と題目の五字となり云云」と記し、そこに説かれた三大秘法の意義を明かすことについて次のように述べている。

此は是文底秘沈の大事、正像未弘の秘法、蓮祖出世の本懐、末法下種の正体にして宗門の奥義此に過ぎたるは莫し。故に前代の諸師尚顕に之を宣べず況や末学の短才何ぞ輙く之を解せん、然りと雖も今講次に臨んで遂に已むことを獲ず粗大旨を撮りて以て之を示さん。初に本門の本尊を釈し次に本門の戒壇を釈し三に本門の題目を明すなり(要3―70)

 三大秘法こそ「文底秘沈の大事」にして「蓮祖出世の本懐」であり、「宗門の奥義此に過ぎたるは莫し」と言うべき究極の秘伝である。ゆえに前代の諸師はこれを秘してきたが、日寛はその秘中の秘を「講次に臨んで遂に已むことを獲ず」理論的に開示する、というのである。同文は、これから論ぜられる「文底秘沈抄」の内容が、金口相承の秘義の理論的開示であることを明瞭に予告している。ちなみに相承を受ける前の日寛は、文底秘沈の三大秘法について「宗祖云く『此の経は相伝に非ずんば知り難し』等云云『塔中及び蓮・興・目』等云云。これ知る所に非ざるなり。問う、若し爾らばその謂は如何。答う、『蒼蝿・碧羅云云』」(「撰時抄愚記上」、文段集271)などと述べ、唯授一人相承の法主以外には知り得ない事柄であるとしていた。それを思えば、晩年の日寛が再治本の「文底秘沈抄」で「遂に已むことを獲ず粗大旨を撮りて以て之を示さん」との態度を示したことは、唯授一人相承を受けた当事者として文底秘沈の三大秘法を初めて理論的に開示せん、との決意の表れに他ならないと言えよう。
 しかして「文底秘沈抄」は、第一の本尊篇で人・法・人法体一の本尊の意義を論じ、第二の戒壇篇で事義の戒壇と富士戒壇を論じ、第三の題目篇では信行具足を本門の題目と名づける旨を説いている。その一々が唯授一人相承の根幹部分の理論化に他ならないと言えるが、ここではまず、三大秘法の総体にかかわる相伝信条の理論的開示をみておきたい。
 それは、大石寺の戒壇本尊をもって三大秘法の正体とする、という相伝信条の理論的開示である。先にみたように、本尊付嘱を標榜する大石寺門流は、戒壇本尊中心の三大秘法観を伝承してきた。しかし他門流の題目中心の三秘論と対立する、この大石寺独自の見解は、日寛以前には単に門流内の相伝信条として表明されるにとどまっていた。そこに日寛が現れ、大石寺門流の三大秘法義を理論的に開示したのである。
 日寛の理論は、「本門の本尊」を中心に三大秘法の開合を論じ、その「本門の本尊」の正体を大石寺の戒壇本尊とするものである。三秘開合論は「取要抄文段」「報恩抄文段」「依義判文抄」に説かれているが、「依義判文抄」では、本尊所住の処を「本門の戒壇」、本尊を信じて妙法を唱えることを「本門の題目」として、本門の本尊から三大秘法が開かれていく筋道を立てる。また本尊が三秘の中心に置かれる理由としては、梁高僧伝に「一心とは万法の総体」云々とある文を引きながら、「当に知るべし本尊は万法の総体なり」と示している(要3―106)。
 かくして「三大秘法を合する則は但一大秘法の本門の本尊と成るなり」(同前)との説が導かれるのであるが、日寛はさらに「故に本門戒壇の本尊を亦三大秘法総在の本尊と名くるなり」(同前)と説き、三秘の中心たる「一大秘法」の本門の本尊を「本門戒壇の本尊」とし、それを「三大秘法総在の本尊」と命名している。本門の本尊を大石寺の戒壇本尊とみることは、前述のごとく二二世の日俊がすでに主張しており、日寛はその主張を受け継いだのであるが、「依義判文抄」にはこれに関する理論的説明がみられない。その腰書に「本門戒壇之願主」とあり、古来より「本門戒壇の大御本尊」と称せられてきた大石寺の戒壇本尊は、名称自体が本門戒壇に安置すべき本門の本尊たることを表示している。戒壇本尊を本門の戒壇に安置する本尊と信ずる大石寺門流にとって、それが本門の本尊たることはあまりに自明であり、日俊のごとく「本門の本尊とは当寺戒壇の板本尊に非ずや」という理屈で充分だったのだろう。ゆえに日寛も、理論化の要なき現実として自らの三秘開合論に組み入れ、戒壇本尊を「三大秘法総在の本尊」とする理論体系を作り上げたと考えられる。
 日寛が展開した戒壇本尊を中心とする三大秘法論は以上のごとくであるが、これによって金口相承の三大秘法義における戒壇本尊の意義づけが理論的に明示されたと言えるだろう。
 悪書では、『文底秘沈抄』の文を挙げて、三大秘法こそ「文底秘沈の大事」にして「蓮祖出世の本懐」であり、「宗門の奥義此に過ぎたるは莫し」と言うべき究極の秘伝である。ゆえに前代の諸師はこれを秘してきたが、日寛はその秘中の秘を「講次に臨んで遂に已むことを獲ず」理論的に開示する、というのである。同文は、これから論ぜられる『文底秘沈抄』の内容が、金口相承の秘義の理論的開示であることを明瞭に予告している≠ネどと述べているが、『文底秘沈抄』の文では、続いて「粗大旨を撮りて」とあるように、「ほぼ」要点を示されたにすぎず、『文底秘沈抄』に明かされた三大秘法義をもって金口相承の秘義の理論的開示である≠ニするのは、牽強付会の謬説である。『文底秘沈抄』では、御相伝によって三大秘法の深義を示されてはいるものの、それは法門相承の一部分であって、根幹である金口の唯授一人血脈相承の内容そのものは開示どころか、言及さえもされていない。松岡は、三大秘法義は金口相承の秘義≠フ法門であり、それが『文底秘沈抄』において初めて理論的開示≠ェなされた、ということにしたいのであろう。しかし前述のように、三大秘法義は既に大聖人の御書や日寛上人以前の諸師によって明示されているのであるから、日寛上人が初めて開示された秘要の御法門ではないのである。
 また日寛上人が『文底秘沈抄』において「前代の諸師尚顕に之を宣べず」と仰せになられたのは、大聖人が示された三大秘法義を日寛上人以前には体系的な形として整束して述べられていないことを仰せになられたまでである。また「今講次に臨んで遂に已むことを獲ず、粗大旨を撮りて以て之を示さん」とは、日寛上人はその三大秘法義を講義されるに際し、大衆の理解に便ならしめるよう大要を示して整束遊ばされたとの意である。よって『文底秘沈抄』の当該の文をもって、金口相承の秘義の理論的開示であることを明瞭に予告≠オたなどと理解する松岡の文章読解能力は極めて低いものであると言わねばならない。
 また悪書の、ちなみに相承を受ける前の日寛は、文底秘沈の三大秘法について「宗祖云く『此の経は相伝に非ずんば知り難し』等云云『塔中及び蓮・興・目』等云云。これ知る所に非ざるなり。問う、若し爾らばその謂は如何。答う、『蒼蝿・碧羅云云』」(「撰時抄愚記上」、文段集271)などと述べ、唯授一人相承の法主以外には知り得ない事柄であるとしていた≠ニの記述は笑止千万である。すなわち、『撰時抄愚記』の「知る所に非ざるなり」の文を挙げて、松岡は御相承を受けられる以前の日寛上人があたかも三大秘法義を御存知でなかったかのように言うが、それはまったくの欺瞞である。なぜなら、この『撰時抄愚記』に引用された『一代聖教大意』の「相伝」とは、霊山会上にて大聖人が相承せられ、さらに日興上人以来の御歴代上人に相承せられた一大事の秘法たる御本尊の法体の「相承」のことであり、そのことを日寛上人は「知る所に非ざるなり」と述べられたものだからである。日寛上人が文底秘沈の三大秘法については、すでに御相承を受けられる以前に御講義をなされていることを教えておこう。すなわち『撰時抄愚記』に、
  問う、若し爾らば其の謂れは如何。答う、宗祖の云わく「此の経は相伝に非ずんば知り難し」等云云。「塔中及び蓮・興・目」等云云。是れ知る所に非ざるなり。若し爾らば如何。答う、蒼蠅・碧蘿云云。問う、前に「三箇の秘法は経文に顕然」と云うは如何。答う、予が依義判文抄の如し。(御書文段三三七頁)
と示されているように、日寛上人は『撰時抄』を門弟に御講義なされた時、三箇の秘法、すなわち三大秘法が経文の面に顕然であるということはどういうことかとの問いの答えとして、「予が依義判文抄の如し」と仰せになっておられるのである。要するに、御著述の名目をここに挙げられているということは、『依義判文抄』は御登座以前の『撰時抄』御講義の時既に著されており、御講義を拝聴された門弟が披見できる状況にあったことを示すものである。よって、御登座以前の正徳五年の著である『撰時抄愚記』の当該文を根拠に、相承を受ける前の日寛は、文底秘沈の三大秘法について唯授一人相承の法主以外には知り得ない事柄であるとしていた≠ネどという主張はまったく成立せず、事実と相違する虚言をもって、日寛上人の御指南の意義を歪曲するものであり、悪質な欺誑と言わねばならない。
 三大秘法義を含む、『六巻抄』に説かれた甚深の御指南は、当家のみに伝わる甚深の御法門であることは論をまたないが、それは松岡が邪推するような唯授一人血脈相承として伝承される秘要の御法門ではなく、当時の学僧が教学研鑽の過程において、当然領解しておかなければならなかった内容であり、それは同時に公開しても良い内容であったのである。
 また悪書では憚ることなく本門の本尊を大石寺の戒壇本尊とみること≠ノ関して、「依義判文抄」にはこれに関する理論的説明がみられない≠ニ、まるで日寛上人が何のお考えもなく、本門の本尊を直ちに本門戒壇の大御本尊と御指南されたかの如く述べているが、大聖人は『三大秘法抄』に、
  此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承なり。(新編一五九五頁)
と仰せられ、日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
  当に知るべし、宗祖の弘法も亦三十年なり。三十二歳より六十一歳に至る故なり。而して復宗旨建立已後第二十七年に当たって己心中の一大事、本門戒壇の本尊を顕わしたまえり。学者宜しく之を思い合わすべし云云。(同二一二頁)
と仰せである。すなわち三大秘法の随一本門戒壇の大御本尊は、霊山において直授結要付嘱を受けられた大聖人の己心中の「一大事の秘法」であり、それが大聖人御化導の御究竟において、本門戒壇の大御本尊として顕されたのであることを御指南されている。すなわちこのことは、三大秘法中の本門の本尊が本門戒壇の大御本尊に在すことを、単なる理論以上に根本的に説明された御指南である。それを「依義判文抄」にはこれに関する理論的説明が見られない≠ネどと言って、日寛上人の甚深の御指南を貶めようとするのは、松岡の悪辣な欺瞞を露呈するものである。
(3)日蓮本仏論
 一般に、日蓮本仏論は日寛によって確立されたとみられているが、日蓮を久遠元初自受用報身にして人本尊と取り定める義は門流上古の時代からあった。
 開祖の日興は、門下僧俗が届けてきた供養の品々を、釈迦仏や他の仏菩薩ではなく日蓮に捧げたことが数々の書簡から知られる。「法花聖人の御宝前に申上まいらせ候了」(歴全1―122)「法華聖人へ御酒御さかな種々に恐入て給候了」(歴全1―157)「法主聖人の御宝前に奉備進候了」(歴全1―197)「ほとけしやう人の御けさんに申上まいらせ候ぬ」(歴全1―199)といった日興書簡の記述をみるかぎり、日興は曼荼羅本尊を亡き日蓮と拝し、その本尊の宝前へ供物を奉じていたようである。
 また、日興の弟子で重須談所の第二代学頭を務めた三位日順は、「本因妙口決」において「本因妙抄」の台当二十四番勝劣中の第二十四「彼は応仏昇進の自受用報身の一念三千一心三観・此れは久遠元初の自受用報身・無作本有の妙法を直に唱ふ」の文を解釈し、寿量品の釈尊を「応仏昇進の自受用報身」とみなしつつ、「久遠元初自受用報身とは本行菩薩道の本因妙の日蓮大聖人を久遠元初の自受用身と取り定め申すべきなりと云云、てりひかりたる仏は迹門能説の教主なれば迹機・熟脱二法計りを説き玉ふなり」(要2―83)と論じている。釈尊を応仏昇進の自受用報身・迹門熟脱の教主と退け、日蓮を久遠元初の自受用報身と取り定める義は、明らかな日蓮本仏論である。この日順の論は後の大石寺法主に引き継がれたといえ、一三世・日院は「要法寺日辰御報」の中で「本因妙日蓮大聖人を久遠元初の自受用身と取り定め申すべきなり。照り光りの仏は迹門能説の教主なれば迹機の熟脱二法計り説き給ふなり」(歴全1―450)と先の日順の言葉のままに述べ、日俊や日寛は「本因妙口決」を書写している(要2―84)。
 さらに日順は、暦応五(三四二)年に草した「誓文」の中で「本尊総体の日蓮聖人」(要2―28)という表現をも用いている。これは、門流上古において日蓮を本尊と立てる義があったことをうかがわせるものであり、やがて九世・日有の頃になると「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」(「化儀抄」、要1―65)と明示される。
 その他、左京日教は日有に帰伏する以前から「本門の教主釈尊とは日蓮聖人の御事なり」(「百五十箇条」、要2―182)という観点で日蓮本仏論を唱え、晩年にも「当家には本門の教主釈尊とは名字の位・日蓮聖人にて御座すなり」(「類聚翰集私」、要2―320)と述べている。
 さて、このような宗門古来の日蓮本仏論に対し、日寛がとった態度としては次の三点が重要であろうと思われる。
 第一に、日寛は宗門古来の日蓮本仏論を門流秘伝の相承法門とみなしていた、という点が重要である。学頭時代の日寛の諸著作をみると、本因妙の教主釈尊と日蓮との一致説(名同体異)が随所で論じられ、そのことが内証深秘の相伝であると強調されている。具体的に挙げると、「釈尊の本因即ちこれ日蓮なり」(「撰時抄愚記」、文段集221)「蓮祖即ちこれ久遠元初の本因抄の教主釈尊なり。秘すべし、秘すべし云云」(同前、文段集257)「今日の蓮祖聖人は即ちこれ久遠名字の釈尊なり。故に末法今時、内証の寿量品の如来とは、全くこれ蓮祖聖人の御事なり。故に口伝に云く云云。これを秘すべし、これを秘すべし」(「取要抄文段」、文段集568〜569)「これ相伝の法門なり。君に向って説かず。所詮、本因妙の教主釈尊・日月・日蓮大聖人は、一体異名の御利益にても候らん云云」(同前、文段集578)等々である。
 次に、唯授一人相承を受けた後の日寛の言説に目を転ずれば、やはり本因妙の教主釈尊と日蓮との名同体異が門流の秘伝として強調されている。「当山古来の御相伝に云く本門の教主釈尊とは蓮祖聖人の御事なり云云」(「末法相応抄」、要3―162)「若し本因妙の教主釈尊の化導に約せば、今は末法に非ず、還ってこれ過去なり。過去とは久遠元初なり。故に行証あり。これ当流の秘事なり。口外するべからず。当に知るべし、本因妙の教主釈尊とは、即ちこれ末法下種の主師親、蓮祖大聖人の御事なり」(「当体義抄文段」、文段集664)「第六の文底の教主釈尊は即ちこれ蓮祖聖人なり。名異体同の口伝、これを思え云云」(「観心本尊抄文段」、文段集531)などがそれにあたる。なお「当体義抄文段」では「問う、久遠元初の自受用身とは即ちこれ釈尊の御事なり。何ぞ蓮祖の御事ならんや。蓮祖はこれ本化の上行菩薩なり。何ぞ久遠元初の自受用身といわんや。答う、これ当流独歩の相承にして、他流の未だ曽て知らざる所なり云云」(文段集702)と述べられ、日蓮を久遠元初の自受用身とみることが「当流独歩の相承」であるとも記されている。
 要するに日寛は、宗門古来の日蓮本仏論を〈本因妙の教主釈尊=久遠元初自受用身=日蓮〉の法門と理解し、特に登座後はそれが相承法門であることを力説したと言える。もっとも、三位日順や左京日教が早くから日蓮本仏の義を説いているのをみてもわかるとおり、日蓮本仏論それ自体は決して唯授一人の相承法門とは考えられない。だが日寛は、それを金口相承の秘義の部分的露出とみなしていたようである。
 その証左に、登座後の日寛は、金口相承の三大秘法義を構成する重要法門として日蓮本仏論を説き示している。これが第二に重要な点である。三大秘法論の構成法門としての日蓮本仏論は、「文底秘沈抄」の「本門の本尊篇」における「人本尊」の段にみられる。そこでは、始めに「人の本尊とは即是久遠元初の自受用報身の再誕末法下種の主師親本因妙の教主大慈大悲の南無日蓮大聖人是なり」(要3―77)と宣された後、その理由を内証深秘の「百六箇抄」の文、現証、文証の順に説明している。「文底秘沈抄」は「宗門の奥義此に過ぎたるは莫し」と記されたごとく、大石寺門流の究極の秘伝を明かしたものとされる。であれば、同抄の中で開陳された日蓮本仏論は、唯授一人の金口相承の構成法門とみて然るべきである。
 また唯授一人相承の法体たる戒壇本尊の意義と日蓮本仏論との関係については、「当流行事抄」の中で最も直截に述べられている。すなわち同抄には「本門の大本尊其体何物ぞや、謂く蓮祖大聖人是なり、故に御相伝に云く中央の首題左右の十界皆悉く日蓮なり故に日蓮判と主付玉へり、又云く明星池を見るに不思議なり日蓮が影今の大漫荼羅なり又云く唱へられ玉ふ処の七字は仏界なり唱へ奉る我等衆生は九界なり是則真実の十界互具なり云云」(要3―217〜218)とあって、「本門の大本尊」=戒壇本尊の「体」が「蓮祖大聖人」なりと明記されるとともに、その文証として現在の「御本尊七箇相承」から三ヶ所が引用されている。日寛は、現在の「御本尊七箇相承」を法主以外には披見が許されない唯授一人相承の秘書と考えており、例えば「取要抄文段」に「本尊七箇の口伝、三重口決、筆法の大事等、唯授一人の相承なり。何ぞこれを顕にせんや」(文段集599)とあるごとくである。
 こうしたことから、日寛において、日蓮本仏論が金口相承の法体法門を構成する重要な一部とされたことは疑い得ない。日寛と同時代には、二四世・日永が「久遠釈尊の口唱を今日日蓮直に唱也 能弘本師本尊也」(「口決」、歴全3―320)と、また二五世・日宥が「日蓮大上人は一幅の本尊の主也」「大上人本尊に日蓮在判と遊す程の事なれば近く人本尊なるべし」(「観心本尊抄記」、歴全3―370、373)と記すなど、宗門古来の〈日蓮=本尊〉の義を改めて顕説する動きがみられた。日寛は、門流内にそうした思潮が台頭する中で、三大秘法の理論体系中の重要法門として日蓮本仏論を展開し、三大秘法義の理論的開示を推し進めていったのである。
 最後になるが、第三に、日寛が宗門上古からの様々な日蓮本仏論に新たな論証を加え、理論的補強をはかっている、という点も重要である。日寛が日蓮本仏の根拠としてしきりに唱えた、本因妙の教主釈尊と日蓮との名同体異論には、先にみた左京日教の〈本門の教主釈尊=日蓮聖人〉説からの影響がうかがえる。その意味では、日寛の論は宗門古来の日蓮本仏論の踏襲なのであるが、一方で日寛独自の日蓮本仏論が展開されている点も見落とせない。日寛は、「文底秘沈抄」の中で「百六箇抄」の「久遠名字より已来た本因本果の主本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕本門の大師日蓮」(全集854)との文を解釈し、「若外用の浅近に望めば上行の再誕日蓮なり、若内証の深秘に望まば本地自受用の再誕日蓮なり、故に知ぬ本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり」(要3―77)という独自の説を立てている。ここで日寛は、「本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮」との見解を導き出すことによって日蓮門下一般の上行再誕・日蓮説を否定し、「本地自受用の再誕日蓮」という日蓮本仏論を「内証深秘」の秘説として提示する。そして上行日蓮が本地を顕し久遠元初の自受用身となった現証として、「開目抄」に「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄佐土の国にいたりて」(全集223)云々と述べられた「竜の口の法難」を挙げている。さらには日蓮が「久遠元初の自受用報身の再誕」「末法下種の主師親」「本因妙の教主」「大慈大悲」「南無日蓮大聖人」である文証として、様々な日蓮遺文や「本因妙抄」「百六箇抄」等の相伝書、外典書類を縦横に並べつつ、日蓮が本仏自受用の再誕にして人本尊たるゆえんを力調している。すなわち日寛は、宗門古来の日蓮本仏論に関して現証・文証のうえから多面的な論証を試み、そこに理論的補強を加えようとしたのである。
 以上の論点を整理すれば、次のような見解が得られるだろう。宗門古来の日蓮本仏論は、金口相承の三大秘法義にかかわる深義とみなし得る。けれども、日蓮本仏論それ自体は早くから開示され、宗内の学僧たちの知るところであった。それゆえ日寛は、学頭時代から宗門古来の日蓮本仏論を秘伝の法門として紹介していたのだが、自ら法主位に就いた後には、それが金口相承の三大秘法義の構成法門であるという強い自覚を持つに至る。そこで晩年の「文底秘沈抄」再治本において、金口相承の三大秘法義を構成する法門としての日蓮本仏論が、理論的補強を加えつつ開示されていったのである。
 悪書では金口相承の三大秘法義を構成する法門としての日蓮本仏論が、理論的補強を加えつつ開示されていった≠ネどとしているが、日蓮本仏論すなわち宗祖本仏義の法門には根源が存するのである。その根源とは、宗祖日蓮大聖人の御本仏としての御本尊の当体にあらせられ、すなわち、それが日興上人への唯授一人金口の血脈相承における人法の御相伝である。その根源の唯授一人金口の血脈相承のところより、宗祖本仏義等の重大な法門が顕示されているのである。すなわち、『本因妙抄』に、
  仏は熟脱の教主、某それがしは下種の法主なり。(新編一六八〇頁)
と、また『百六箇抄』には、
  下種の今此三界の主の本迹 久遠元始の天上天下唯我独尊は日蓮是なり。久遠は本、今日は迹なり。三世常住の日蓮は名字の利生なり。(新編一六九六頁)
下種の三世三仏実益の本迹 日蓮は下種の利益、三世九世種熟脱本有一念の利益なり。(新編一六九九頁)
と示される如くである。これらの宗祖本仏義は、宗門上古より存する基本的教義であった。
 しかるに悪書では日蓮本仏論それ自体は決して唯授一人の相承法門とは考えられない。だが日寛は、それを金口相承の秘義の部分的露出とみなしていたようである≠ニ述べているが、金口相承の秘義の部分的露出≠ネどとは、一笑に付すべき愚論と言うほかない。
 すなわち、日寛上人の『六巻抄』等の諸著述に示される宗祖本仏義は、御登座の前後を問わず一貫しており、御登座前は御法主上人の御指南を体し、御登座後は唯授一人金口の血脈相承の人法の御相伝を基として、そのところより総付の法門相承として説示されたものである。
 また日應上人の『日蓮本仏論』には、
  第一に上行菩薩は久遠本仏の御内証であると云ふ事を論じ、是れに就て 
  初に上行菩薩の外用を論じ次に上行菩薩の内証を論ず
  第二に日蓮大聖人は久遠名字の釈尊にして末法下種の本仏なる事を論ず。是れに就て
  初に宗祖大聖に於ても内証外用の二義ある事を弁じ
  次に宗祖を上行の再誕と称するは宗祖の外用たる事を弁ず
  三に宗祖は久遠本仏なる事を弁ず(日應上人全集一二〇三)
との次第をもって宗祖本仏義が示されている。この日應上人の宗祖本仏義は、日寛上人の『文底秘沈抄』における宗祖本仏義よりも、さらに一段と詳しい御法門が展開されているのである。もし日寛上人が唯授一人血脈相承に含まれる宗祖本仏義の内容を全て開示したものだとすると、日應上人における日寛上人が述べられていない宗祖本仏義は、何によって開示されたというのだ。開示される源となるものがなければ、日寛上人以上の説明は、できない道理ではないか。松岡の論理はここにおいて破綻しているのである。
 すなわち日應上人の宗祖本仏義も、根源の唯授一人金口の血脈相承における人法の御相伝が存するゆえに、その時機に応じた御化導として、『日蓮本仏論』の御法門として御教示されたのである。
 しかも、この日寛上人・日應上人の宗祖本仏義は多くの聴衆を前にした講義・講演での内容である。要するに、両上人の宗祖本仏義は、血脈相承の深義に基づく宗門の終始一貫する法義であることは当然だが、直ちに唯授一人の御相承の秘伝法門を述べられたものではないのである。このように、宗祖本仏義を論証する法門は、時機に応じてすでに色々に述べられているのである。以上のことから、『六巻抄』等に述べられている宗祖本仏義は、唯授一人血脈相承としての秘伝法門そのものではないことが明らかではないか。
 また日蓮本仏論それ自体は早くから開示され、宗内の学僧たちの知るところであった。それゆえ日寛は、学頭時代から宗門古来の日蓮本仏論を秘伝の法門として紹介していたのだが、自ら法主位に就いた後には、それが金口相承の三大秘法義の構成法門であるという強い自覚を持つに至る≠ニの言はまったくの理解不能、支離滅裂の空論である。日寛上人以前に宗内において周知であった御法門が、どうして日寛上人以降、金口嫡々の唯授一人血脈相承に変貌するのであろうか。日寛上人は御登座以前に『六巻抄』の草稿を著されているが、その内容は、草稿と言っても各文段に引用されているように、明らかに宗祖本仏義が述べられているのである。それは日永上人の御指南に基づくものであるにせよ、御法主上人としてのお立場ではなく、学頭としてのお立場での御著述である。このことからも日寛上人が『六巻抄』として御講義されたのは法門相承として、門弟が理解しなくてはならない内容を講義されたものであることが分かる。よって日寛上人が宗祖本仏義を金口相承の三大秘法義の構成法門であるという強い自覚を持つに至る≠ネどの言も松岡の一人芝居、根拠のない曲論である。
 金口嫡々の唯授一人血脈相承とは、時代によって何か新しく付加されたり、逆に削除されたりするものではない。未来永劫に不変である大聖人の御内証そのものであり、その御法魂を肉団の胸中に伝持あそばされる御法主上人以外に、全く知ることあたわざる唯我与我の奥義なのである。松岡ごとき浅識の謗法者が、本宗の信仰の根幹たる唯授一人血脈相承について、全く知らないにもかかわらず軽々しく論断などすべきではない。
 ところで、松岡は学術論文としての体裁を整えるためか、様々な用語を躍起になって使っているが、果たしてそれらの意味するところをしっかりと把握して使っているのであろうか。
 ここに指摘しておくが、松岡は、「名異体同」と「名同体異」とを混乱し、誤って使用している。以下、松岡のミスを列挙する。
  本因妙の教主釈尊と日蓮との一致説(名同体異)が随所で論じられ=i悪書二一頁・本書六四頁)
  本因妙の教主釈尊と日蓮との名同体異が門流の秘伝として強調されている=i同)
  本因妙の教主釈尊と日蓮との名同体異論には=i悪書二三頁・本書六七頁)
 これら「名同体異」として使用した言葉は、すべて「名異体同」と言うべきである。その証拠に、悪書の二一頁(本書六四頁)では、
  本因妙の教主釈尊と日蓮との一致説(名同体異)が随所で論じられ
とした箇所に註を付しているが、その註(悪書五三頁)には、

(9)釈尊と日蓮との名異体同論について、学頭時代の日寛は「原始抄」の中で次のごとく説明している。「謂く既に本門の教主釈尊は則ち本因妙の教主也、本因妙の教主釈尊とは即是れ蓮祖聖人の御事也、故に血脈抄に云く本因妙の教主日蓮云云、是を名異体同の本尊と習ふ也、名異とは釈尊日蓮其の名異なるが故に体同とは倶に本因妙の教主なるが故也」(研教10228)。
 
と、「名異体同論」として当然のように説明している。また悪書の二一頁(本書六四頁)に、
  本因妙の教主釈尊と日蓮との名同体異が門流の秘伝として強調されている
とした後に、『観心本尊抄文段』に、
  「第六の文底の教主釈尊は即ちこれ蓮祖聖人なり。名異体同の口伝、これを思え云云」
と、「名異体同」とある文を平然と引いている。
 このように同一用語を複数回にわたって誤用するなどは、単なる誤植では済まされない。かかる初歩的ミスを犯すとは、この悪書が杜撰極まりないものであることを示している。松岡は、この程度の混乱は大した間違いではないと思っているのかもしれないが、その法門上の内容には大きな相違が存するのである。
 もし単なる入力ミスであるとしても、この失態は大聖人が『報恩抄』の中で、
  ぼう書をつくるゆへにかゝるあやまりあるか。(新編一〇二七頁)
と仰せられるように、松岡もまた三宝破壊の謀書を作るが故に、このようなミスを犯したのである。かの斉藤克司も大失態を犯したが、松岡の失態も同轍であると断じておく。
(4)人法体一の本尊論
 人法体一の本尊とは、「文底秘沈抄」によれば、事の一念三千無作本有の南無妙法蓮華経の法本尊と、久遠元初の自受用報身の再誕・日蓮の人本尊とが「其の名殊なりと雖も其体是一なり」(要3―83)という関係にあることをいう。日寛の「本門の本尊」論の帰着点は人法体一の本尊であり、これこそ大石寺門流の金口相承によって伝えられてきた、三大秘法義の核心であると言ってよい。時代は下るが、明治期の五六世・日応も「弁惑観心抄」の中で「人法体一の法門は内証の中の内証にして相承の上にあらざれば容易に解すること能はさるべし」と述べている。したがって日蓮本仏論の場合とは異なり、人法体一の本尊論については宗門上代に論議された形跡がなく、わずかに日有教学の影響を受けた保田妙本寺の日要が「伝に云く御本尊の総体の色は青也(中略)然れば人法一体なれば其の仏の住処青色の土なるべし」(「御本尊色心相承」、研教30―732)と論じ、またその後の日我が「其の寿量品とは下種の南無妙法蓮華経、日蓮、人法一個の本尊なり」(「化儀秘決」、要1―277)「日蓮聖人は末法弘通三大秘法中の本尊なり 云云 人法一個の習ひ之を思ふべし」(「申状見聞」、要4―92)と述べるのが目を引くぐらいである。
 ところが日寛は早くも学頭の頃に、この人法体一の本尊論を開陳している。学頭時代の日寛の著作から引用してみよう。

「一念三千即自受用身也、自受用身は即蓮祖大聖人也」(「原始抄」、研教10―225)「所修は即ち文底秘沈の大法自受用身即一念三千の本尊なり。能修は即ち信心口唱南無妙法蓮華経の五字七字なり」(「方便品読誦心地の事」、要3―318)「今謂く、本尊の讃にこの文を引く意は、自受用身即一念三千なるが故なり云云。秘すべし、秘すべし」(「撰時抄愚記下」、文段集313)。「境智冥合、人法体一の故に事の一念三千の本尊と名づくるなり」(「取要抄文段」、文段集599)「過去の自我偈とは、人法体一の御本尊の御事なり」(「開目抄愚記」、文段集174)。

 学頭時代の日寛はどうして、金口相承の法門上の核心たるべき人法体一の本尊論を語ることができたのだろうか。そこには、要法寺教学の弊風を取り払おうと蓮蔵坊に学頭寮を置き、日寛を招いて御書を講述せしめた師・日永の指南があったのではないかと推察される。日永の「口決」には「本地自行唯円合とは境智冥合して妙法五字の体也。自受用身の体也。人法一体の無始也」と述べられ、さらに日蓮の「御義口伝」の中から「伝教云く一念三千即自受用身自受用身とは尊形を出でたる仏」との文が引かれている(歴全3―321)。このような日永の論は、恐らく学頭時代の日寛が主張した人法体一の本尊論の基盤となったであろう。また日寛は、当時の大石寺よりも門流上代の学風をよく伝えていた保田の日要・日我の著作を熱心に書写し、日我については肯定的評価も下している。日寛が宗門上古の相伝教学を知るうえで、保田門流の論書は大いに参考となったであろう。
 ならば、金口相承を受けた後の日寛による人法体一の本尊論には、何らかの変化が現れたのだろうか。結論を先に言えば、その主張は学頭時代と本質的に変わっていない。変わったのは、登座前よりも本格的な議論を展開し、論証面において経釈や日蓮遺文、相伝書類が多用されている、ということである。少々長くなるが、登座後の日寛による人法体一論のうち、主なものを列挙しておく。

「学者応に知るべし久遠元初の自受用身は全く是一念三千なり故に事の一念三千の本尊と名くるなり、秘すべし秘すべし云云」(「文底秘沈抄」、要3―88)「当家深秘の御相伝に云く我が身の五大は即法界の五大なり法界の五大即我身の五大なり云云」(「当流行事抄」、要3―203)「謂く。人即久遠元初の自受用報身、法即事の一念三千の大曼荼羅なり。人に即してこれ法、事の一念三千の大曼荼羅を主師親と為す。法に即してこれ人、久遠元初の自受用身蓮祖聖人を主師親と為す。人法の名殊なれども、その体恒に一なり」(「観心本尊抄文段」、文段集459)「問う、妙法五字のその体何物ぞや。謂く、一念三千の本尊これなり。一念三千の本尊、その体何物ぞや。謂く、蓮祖聖人これなり。問う、若し爾らば譬喩如何。答う、且く能所に分つも実はこれ同じきなり。例せば「夫れ一心に十法界を具す」乃至「只心は是れ一切法、一切法は是れ心」等の如し云云」(同前、文段集548)「若し本因妙の教主自受用身は、人法体一にして更に勝劣なし。法に即して人、人に即して法なり。故に経に云く「若しは経巻所住の処には乃至此の中には、已に如来の全身有す」と云云。天台云く「此の経は是れ法身の舎利なり」と云云。今「法身」とは即ちこれ自受用身なり。宗祖云く「自受用身即一念三千」と。伝教云く「一念三千即自受用身」等云云。故に知んぬ、本因妙の教主釈尊、自受用の全体即ちこれ事の一念三千の本尊なることを。事の一念三千の法の本尊の全体、即ちこれ本因妙の教主釈尊、自受用身なり」(「報恩抄文段」、文段集435)「妙法蓮華経の五字は本尊の正体なり。この本尊に人法あり。法に約すれば妙法蓮華経なり。人に約すれば本有無作の三身なり。本有無作の三身とは日蓮大聖人これなり。御書に云く「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」文。これ人法体一なり。また御義口伝下初に云く「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり。寿量品の事の三大事とは是なり」文。これまた人法体一なり。一体なりと雖も、而も人法宛然なり。下も去ってこの意なり云云」(「妙法曼荼羅供養見聞筆記」、文段集733〜734)。

 かくのごとく、金口相承を受けてからの日寛は、それ以前よりも積極的かつ本格的に人法体一の本尊を論じている。ただ、晩年の「文底秘沈抄」をみると、日寛は幾多の経釈論や日蓮遺文、相伝書を並べて人法体一の本尊論を説く一方で、その本尊論の秘密性をも声高に訴えている。同抄の法本尊を論ずる箇所に、「問ふ但文底独一本門を以て事の一念三千の本尊と名くる意如何」(要3―76)との問いかけがある。これに対する回答は、人法体一の本尊の説明となるはずである。なぜならば、「三重秘伝抄」に「問ふ文底独一本門を事の一念三千と名くる意如何、答て云く是唯密の義なりと雖も今一言を以て之を示さん所謂人法体一の故なり」(要3―53)とあるごとく、文底の一念三千における「事」とは人法体一のことだからである。ところが「文底秘沈抄」における先の問いに対して示されるのは「答う云云」(要3―76)のみであり、日寛は人法体一の説明を拒否している。またこの後、日寛は「若当流の意は事を事に顕す是故に法体本是事なり故に事の一念三千の本尊と名くるなり」とも主張するが、「問ふ若爾らば其法体の事とは何ぞ」との再びの問いに対し、またしても「答ふ、未曾て人に向て此の如き事を説かず云云」と回答を拒否し、次の人本尊論へと移るのである(同前)。このように「文底秘沈抄」における日寛は、人法体一の本尊という文底の法体の「事」に関して、徹底的に教義的説明を拒否する姿勢を示す。とはいっても、同抄の「本尊篇」では最後に「人法体一の深旨」が諄々と説かれ、ついには「学者応に知るべし久遠元初の自受用身は全く是一念三千なり故に事の一念三千の本尊と名くるなり、秘すべし秘すべし云云」(要3―88)と結論されるのだから、先の問いへの回答は最終的には示されるわけである。結局、日寛は再治本の「文底秘沈抄」の中で人法体一の本尊論を最終確定して表示するにあたり、それが本来、絶対に開示されてはならぬ唯授一人の秘伝であることを強調したかったのだろう。
 登座後の日寛は、人法体一の本尊義をまさに縦横無尽に説き示すと同時に、その秘密性をも訴えてやまなかった。こうした日寛の、ある意味で矛盾した秘密性と開示性への両面的志向をみるに、われわれは、人法体一の本尊論こそが金口相承の三大秘法義における最大深秘とされていたことを知るのである。
 悪書では、日寛の「本門の本尊」論の帰着点は人法体一の本尊≠ネどと尤もらしく述べているが、その欺瞞は、日寛上人の御本意を恣意的に曲解しているところに存する。すなわち、日寛の「本門の本尊」論の帰着点は人法体一の本尊であり、これこそ大石寺門流の金口相承によって伝えられてきた、三大秘法義の核心であると言ってよい学頭時代の日寛はどうして、金口相承の法門上の核心たるべき人法体一の本尊論を語ることができたのだろうか人法体一の本尊論こそが金口相承の三大秘法義における最大深秘とされていたことを知るのである≠ネどと述べているが、日寛上人が述べられた人法体一の本尊論は、その時代の機縁に応じて述べられた法門であり、その根源となる唯授一人血脈相承の法体そのものを示されたものではないのである。即ち人法体一の根本は「南無妙法蓮華経 日蓮」と御書写遊ばされた御本尊にあり、日興上人をはじめ代々の御法主上人はその根本の法体を血脈法水の上に承継遊ばされているのである。故に日寛上人は当時における必要性の上から、根本の法体に具わる深義を人法体一の法門として説明されたのである。したがって、悪書の人法体一の本尊論こそが金口相承の三大秘法義における最大深秘≠ニの言が、日寛上人によって示された人法体一の法門が法体法門のすべてを開示しているとの意味であれば、それは根本に迷う短見なのである。
 また、日寛上人御登座以前の『法華取要抄文段』では人法体一の深義について、
  具には文底深秘抄の如し。(御書文段五四一頁)
と、『文底秘沈抄』の草稿である『文底深秘抄』に詳細に説かれていると述べられているが、御登座以前の『文底深秘抄』に明かされている人法体一の法門は師の日永上人より賜った相伝の深義であったとしても、それはあくまでも法門相承であって、金口相承の法体、即ち御本尊の当体そのものではないのである。
 しかしてその人法体一の御本尊の法体を末法万年に亘り正しく伝持していくために、大聖人は唯授一人血脈相承を遊ばされたのである。この人法体一の御本尊につき、日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
  弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり。(御書文段一九七頁)
と御教示され、さらに『文底秘沈抄』には、
  富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり、故に本門寺根源と云うなり。弘の一の本十五に云わく「像末の四依、仏化を弘宣す、化を受け教を稟く、須すべからく根源を討ぬべし、若し根源に迷う則んば増上して真証を濫さん」云云。宗祖の云わく「本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか」等云云。既に是れ広布の根源の所住なり、蓋ぞ本山と仰がざらんや。(六巻抄六八頁)
と仰せの如く、根源たる本門戒壇の大御本尊まします富士大石寺を信仰の根本道場として参詣すべき旨、御指南遊ばされているのである。この御指南をよくよく刮目して拝すべきである。この御教示は、門下僧俗のみならず、一切衆生のためにお示しになられた万代不変の教義・信条である。
 松岡は総本山大石寺への誹謗中傷に明け暮れる創価学会の傀儡となって、日寛上人の尊い教学を翫ぶことを恥ずべきである。すなわち日寛上人の御著述を恣意的に解釈し、それによって組み立てた暴論で、本門戒壇の大御本尊在す総本山大石寺への参詣を阻んでいるのであるから、その論はまさに顛倒の極みであり、日寛上人の御教示に違背する愚行であると断じておく。
 また悪書では要法寺教学の弊風を取り払おうと蓮蔵坊に学頭寮を置き、日寛を招いて御書を講述せしめた≠ニ言うが、要法寺御出身の御法主上人に対する邪難が、支離滅裂の謗言であることは前述したとおりである。したがって要法寺教学の弊風≠ネどということは、松岡の邪推に過ぎないのである。むしろ江戸時代の初期は、要法寺からの御法主上人によって、総本山の諸堂宇の整備、常泉寺・常在寺等の末寺の建立・帰伏、細草檀林開創による学事の充実と人材の育成、江戸や金沢等の弘教等々、本宗の基盤が確立されていったのであり、その御功績は甚大なのである。にもかかわらず、要法寺御出身の御法主上人に対する松岡ら離脱僧と創価学会の、いつ果てるともなく繰り返される悪口誹謗は、まことに許し難い。このような謗言に対して日寛上人は、
  汝は是れ誰が弟子ぞや、苟しくも門葉に隠れて将に其の根を伐らんとするや、且つ其の流れを汲んで将に其の源を壅がんとするや(六巻抄六七頁)
と、憤激されておられると拝するものである。
 また悪書では、登座後の日寛は、人法体一の本尊義をまさに縦横無尽に説き示すと同時に、その秘密性をも訴えてやまなかった。こうした日寛の、ある意味で矛盾した秘密性と開示性への両面的志向をみるに、われわれは、人法体一の本尊論こそが金口相承の三大秘法義における最大深秘とされていたことを知るのである≠ニ述べて、人法体一の本尊義について、日寛上人がその秘密性をも訴えてやまなかった≠ニし、『文底秘沈抄』の「秘すべし」の言辞をその根拠としている。この「秘すべし」の意とされたところは、人法体一の深義は大石寺のみに伝わる大事な御法門である故に、不相伝の輩や信解の浅い者にむやみに説くことのなきよう、慎重を期された御教示なのである。
 しかしながら、正信の僧俗に対しては、秘密にする必要などなく、むしろ、信仰の上で領解すべき教義なのである。事実、『文底秘沈抄』には本文中に「講次に臨んで」と示されているように、そこに説かれる御法門は大衆に対する講義の場で開陳なされている。日寛上人は数々の御著述の中で、人法体一の本尊義を詳細に説き示されたのであり、日寛上人の「答う云云」の一語を短絡的に解釈した、日寛は人法体一の説明を拒否している≠ネどの低劣な考えをもとに、絶対に開示されてはならぬ唯授一人の秘伝であることを強調した≠ネどとするのは松岡の迷妄であり、事実に反した横言である。
 しかるに松岡は無責任な曲論を展開したあげく、日寛上人に対しある意味で矛盾した秘密性と開示性への両面的志向≠ェあるといっているが、このような言は日寛上人を冒涜するまったくの妄言である。これも須く金口嫡々唯授一人の血脈相承がすでに公開されていて、歴代の御法主上人に伝わる特別のものなど何もなく、全ての者がそれを知ることが出来るという、枝葉としての法門的説明に執われたものであり、根本を忘れた邪義を正当化するための悪あがき以外のものではない。




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