七、法体相承について≠破す

 また本尊証得の問題に関連して、いわゆる「法体相承」のことにも触れておく。法体相承とは、五六世・日応が自作した用語である。日応著「弁惑観心抄」では「唯授一人嫡々血脈相承にも別付・総付の二箇あり其の別付とは則ち法体相承にして総付とは法門相承なり、而して法体別付を受け玉ひたる師を真の唯授一人正嫡血脈付法の大導師と云ふべし」「此の法体相承を受くるに付き尚唯授一人金口嫡々相承なるものあり」などと説かれ、金口相承をともなう別付の法体相承こそが真の唯授一人相承である、と主張される。金口相承の方は日応以前の歴代法主も使った伝統用語であり、口頭ないし文献による門流秘伝の三大秘法の伝授を意味することが明らかである。それに対し、金口相承の後に行われる法体相承に関しては、命名者の日応も明確な定義をしておらず、後に様々な解釈を生ずる余地を残したと言える。
 例えば、法主の内証の尊厳性を殊更に強調する現在の大石寺宗門は、唯授一人の法体相承を本尊証得の次元で捉え、しかも本来は万人に開かれるはずの本尊証得を法主一人に限定しようとする。彼らの主張は、「唯授一人のご相承を法体相承ともいいますが、この法体相承を受けられるがゆえに、御法主上人のご内証には、日蓮大聖人のご魂魄たる「本尊の体」が具わっているのです」といったものである。ここにみられる、(法体=日蓮の魂魄=本尊の体)という論理は、宗門秘伝の人法体一の法体本尊義であって誤りとは言えない。
 悪書ではまず、法体相承とは、五六世・日応が自作した用語である≠ニ述べ、さらに後に、その意義を本門戒壇の大御本尊の護持継承≠ナあるとし、法体相承について「本尊の体」の授受≠ニみることは解釈的逸脱≠ナあるとしているが、それは欺瞞である。
 日應上人は、当時要法寺の驥尾日守が『末法観心論』において本宗の教義・相伝を誹毀讒謗したことに対し、その破折に当たって、『弁惑観心抄』に、端的に法体相承の語をもって破折されたのである。しかし、その法体相承の元々の深義は、大聖人に存するのである。
 すなわち、『聖愚問答抄』に、
  凡そ八万宝蔵の広きも一部八巻の多きも、只是の五字を説かんためなり。霊山の雲の上、鷲峰の霞の中に、釈尊要を結び地涌付嘱を得ることありしも法体は何事ぞ、只此の要法に在り。(新編四〇五頁)
と、結要付嘱の要法たる妙法五字を法体とお示しになり、この地涌の菩薩へ付嘱の法体につき、『三大秘法抄』には、
  三大秘法其の体如何。答ふ、予が己心の大事之に如かず。(中略)此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承なり。今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に介爾計りの相違なき、色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり。(新編一五九四頁)
と、霊山会上において教主釈尊より大聖人が三大秘法の法体内証を相承されたことを仰せられるのである。故に、法体相承の義は、厳然と宗祖大聖人の御法門中に存するのであり、けっして日應上人が勝手に自作した≠烽フではないことが明らかである。
 しかして、その法体は、日應上人が『弁惑観心抄』に、
  宗祖御在世に数多の弟子ありと雖とも独吾開山のみ法体別付の相承を受け玉ひ(二一一頁)
と示されるごとく、大聖人が、末法万年の下種仏法伝持の為、数多の弟子の中から唯お一人、日興上人へ御付嘱され、以来、日目上人、日道上人へと相承され、現在では、総本山第六十七世日顕上人が御所持遊ばされているのである。
 また悪書では、金口相承の方は日応以前の歴代法主も使った伝統用語であり、口頭ないし文献による門流秘伝の三大秘法の伝授を意味することが明らかである。それに対し、金口相承の後に行われる法体相承に関しては、命名者の日応も明確な定義をしておらず、後に様々な解釈を生ずる余地を残したと言える≠ニ主張する。この金口相承の方は口頭ないし文献による門流秘伝の三大秘法の伝授を意味する≠ニの言であるが、三大秘法の伝授≠ニは本来は、法体相承を意味する言葉であるにもかかわらず、前後の文言を見れば、法門としての三大秘法義の相伝を指しているようである。しかし何度も破折したとおり、唯授一人金口嫡々の三大秘法の法体相承は内証であり、大聖人以来御歴代上人により開示された法門としての三大秘法義は外用なのである。その区別がつかない松岡は、正法に背く不信の失により錯乱の極みに陥っているのである。
 また悪書では、『弁惑観心抄』の、
  此法体相承を受くるに付き尚唯授一人金口嫡々相承なるものあり(二一二頁)
との御指南を、金口相承の後に行われる法体相承≠ニ勝手に規定するが、それは法体相承と唯授一人金口相承を故意に切り離そうとする悪質な欺瞞である。日應上人の御指南を素直に拝せば、法体相承を受けるにつき、唯授一人金口嫡々相承が存するわけであるから、唯授一人の法体相承と金口相承は一体のものである。故に、現在、唯授一人金口嫡々の血脈を御所持遊ばされる日顕上人も、
  本門戒壇の大御本尊は、宗祖大聖人の御本懐、三大秘法の随一であり、その法体は末法万年の広布伝承のため、二祖日興上人へ金口の血脈とともに相伝せられ、以来、日目上人、日道上人と瀉瓶して今日に至っています。(創価学会の偽造本尊義を破す一五三頁)
と、大聖人から日興上人に、本門戒壇の大御本尊を根幹とする法体の血脈と共に、唯授一人金口嫡々の血脈が相伝されていることを仰せなのである。そして、それを金口相承の後に行われる法体相承≠ニして別々の物であるかのように仕立て、法体相承を単に戒壇本尊の護持継承≠ノ限定することで、その前に行われるとする金口相承≠、すでに公開された三大秘法義の法門相承であると思わせようとするのである。しかし、それは大聖人より日興上人へ相伝された甚深なる唯授一人金口嫡々の血脈相承を貶めようとする誑惑の大謗法である。
 また次に、法体相承に関しては、命名者の日応も明確な定義をしておらず、後に様々な解釈を生ずる余地を残したと言える≠ニ述べ様々な解釈≠フ一例として、例えば、法主の内証の尊厳性を殊更に強調する現在の大石寺宗門≠ニ言うが、それは血脈相承を定められた大聖人と、その甚深の意義を御指南遊ばされた日應上人を冒涜する悪言である。なぜならば本宗においては、日興上人以来、唯授一人の御相承をお受け遊ばされた血脈付法の御法主上人の御内証に御本尊の法体が在すことは、御相伝書における御指南、また日寛上人をはじめ御歴代上人の御指南に明確に拝せられるからである。けっして日應上人の御指南に対して様々な解釈を生ずる余地≠ネどなく、したがって逸脱した解釈など生ずるわけがない。本宗の御法主上人の御内証についての法門は、本宗伝統の法義であることは前述したとおりである。御法主上人の血脈の尊厳は、七百年来厳然と存したのであり、永遠不変のものである。それを、現在の大石寺宗門≠ェ殊更に強調する≠ネどと言うのは明らかな欺誑である。
 また悪書では、唯授一人の法体相承を本尊証得の次元で捉え、しかも本来は万人に開かれるはずの本尊証得を法主一人に限定しようとする≠ニいって、あたかも本宗が法体相承を本尊証得≠ニ見なし、その本来万人に開かれた本尊証得を御法主上人お一人に限定しているかのように非難するが、それは誤魔化しの邪難である。
 本宗における御本尊証得は、もとより、一切衆生に開かれているが、ただし日興上人が、
  しでしだにもちがい候ヘば、おなじほくゑをたもちまいらせて候へども、むげんぢごくにおち候也。(歴全一一八四頁)
と仰せられる如く、大聖人の血脈を承継する日興上人に背き、師弟の筋目を違えて法華経を受持しても、無間地獄の罪科を積むのである。この日興上人の御指南は、本尊証得を法主一人に限定≠キるなどというものではない。大聖人日興上人以来、厳然と存する「師弟相対の信心」が成仏の肝心であることを仰せられたものである。なぜ、「師弟相対の信心」が重要なのか。それは末法の御本仏は日蓮大聖人ただお一人であられるが、その大聖人の御法魂は代々の御法主上人の御内証に写瓶されているからである。故に、日寛上人は、左京日教師の文を『当家法則文抜書』の中に引用され、
  末法の本尊は日蓮聖人にて御坐すなり。然るに日蓮聖人御入滅有て補処を定む、其の次々々に仏法を相属して当代の法主の処に本尊の体有るべきなり、此の法主に値ふは聖人の生れ替りて出世し給ふ故に、生身の聖人に値遇し結縁して師弟相対の題目を声を同く唱へ奉り(研教九七四〇頁)
と、末法における御本尊の体は、唯授一人の相承により、当代の御法主上人の御内証に伝承されている、との文を記されたのである。したがって、仏宝御本仏日蓮大聖人、法宝本門戒壇の大御本尊は共に御法主上人の御内証に在すのである。我々は迷いの凡夫であっても、この筋道の上に、血脈正統の御本尊を受持し信行に励む時、即身成仏の大果を得るのである。それを法主一人に限定しようとする≠ネどという邪難は牽強付会の暴論であり、まったく成立しない。つまりこの邪難は、能化たる御本仏日蓮大聖人より御法主上人に相伝される究竟果分の御本尊の御内証を、所化たる一切衆生の本尊証得と混同せしめようとする狡猾な意図による邪義であり、それは日蓮大聖人日興上人以来の相伝仏法に背逆する大謗法なのである。
しかしながら、日応のいう「法体相承」を「本尊の体」の授受とすることや、その授受を「御法主上人」に限定して考えることは、どうみても解釈的逸脱である。
 まず法体相承を「本尊の体」の授受とみる論は、日応のいう法体相承が現実存在としての戒壇本尊の護持継承を指していた、という事実に反している。「弁惑観心抄」の中に「別付の法体とは則ち吾山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊是なり」との記述があるように、日応は、現実に存在する戒壇本尊が唯授一人で護持継承されてきたことを指して「法体相承」と称したのである。ゆえに、この「弁惑観心抄」の文の直後には、日興が日目に一宗の統治管領を委ねた「日興跡条々事」の中の一条「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は日目に之を授与す 本門寺に懸け奉るべし」(歴全1―96)が略して引用されている。また補足的に言うと、日応は「法の道」に発表した論文中で「本宗は宗祖大聖人の血脈法脈を継承し宗祖大聖人の大本懐たる本門戒壇の大御本尊を護持し」「彼等の宗派では宗祖大本懐の本門戒壇の大御本尊を護持しないではないか又た宗祖直授相伝の血脈相承がないではないか」「本宗固より宗祖大聖人正統血脈の法系を承継し宗宝の唯一則ち宗祖大本懐本門戒壇の大御本尊を護持し奉る」などと述べている。そこには、血脈相承と本尊護持をもって大石寺宗門の二大偉跡と誇る日応の信念が看取されよう。かかる信念が、「弁惑観心抄」で金口相承(血脈相承)と法体相承(本尊護持)の並列的顕揚という形をとって現れた、とみることは必ずしも不当ではない。さらに日応には、戒壇本尊を師資相承の法体とする大石寺の血脈付法の歴史を、皇室における神器の継承に譬えた言説もみられる。日応のいう法体相承は、天皇家の神器の継承にも譬えられるのであり、その意味はやはり「宗宝の唯一」たる戒壇本尊を護持継承することにあったとみるしかない。
 とすれば、日応の法体相承論を用いて「本尊の体」の授受を歴代法主の内証だけに限定することはできない、という道理になろう。そもそも教義上から言えば、法主の意向にかかわらず、三大秘法の本尊を信じて題目を唱えるすべての人に「本尊の体」の証得は可能である。法主が「本尊の体」を独占し、それを書写本尊に分与することで功力が生じ、信者の本尊証得も適う、とするならば、これは非仏教的な一元的実体論になってしまう。日寛教学に基づくならば、本尊の功力は信者の信力・行力に応じて一即多元的に発現するはずであり、それでこそ法界遍満の妙法への信仰たり得るのである。法主の特別性は、「本尊の体」の独占などではなく、金口相承によって本尊の深義を知り、そこから人々に成仏への正しい信仰環境を提供するところにのみある。しかしその特別性も、すでに論じたように、三大秘法義の理論的公開や本尊相伝書の出版公開などによって、今は実質的に消失しているのである。
 ここで悪書は、日応のいう「法体相承」を「本尊の体」の授受とすることや、その授受を「御法主上人」に限定して考えることは、どうみても解釈的逸脱である。まず法体相承を「本尊の体」の授受とみる論は、日応のいう法体相承が現実存在としての戒壇本尊の護持継承を指していた、という事実に反している日応の法体相承論を用いて「本尊の体」の授受を歴代法主の内証だけに限定することはできない≠ニするが、この言こそ本項における最大の誑惑である。そして『弁惑観心抄』の、
  別付の法体と者則吾山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊是なり(二一二頁)
との御指南を、日応は、現実に存在する戒壇本尊が唯授一人で護持継承されてきたことを指して「法体相承」と称した≠ニ曲解する。
 すなわち松岡は、御法主上人が御所持遊ばされる法体相承とは、ただ単に本門戒壇の大御本尊の護持継承にすぎないという論理を以て、御法主上人の御内証に相伝される御本尊の法体を否定しようと試みているが、それは大いなる欺瞞である。なぜならば、『弁惑観心抄』の御教示は、驥尾日守に対する破折の中、要法寺が大聖人の本尊義に背き仏像を造立することは、要法寺に唯授一人の相承がない証であり、本宗は、大聖人の御法魂である本門戒壇の大御本尊を信仰の対境にしている実証を以て、唯授一人金口相承の正当性を主張なされたものだからである。故に、日應上人の先の『弁惑観心抄』の御指南は、御法主上人の御内証の法体を否定する文意ではない。この御指南は、隠顕の両義の上からは、本門戒壇の大御本尊を表面に顕し、御法主上人の御内証の法体を裏面に隠しての御教示なのである。その証拠に、日應上人は、『弁惑観心抄』に、次の如く御指南されている。
  宗祖大聖人に於ける亦然り只だ日興上人一人群に秀で衆に独歩して久成の本仏他に求むべからざることを知り玉へり、日興上人には日目上人日目上人には日道上人等と血脈相承の法水写瓶歴代の貫主即日蓮大聖尊と本地深遠の秘訣今に至る迄唯我一人胸中の肉団に秘し隠し持ち玉へる(九六頁)
 このように、日應上人は御法主上人の御内証における法体相承について明確に御指南されているが、松岡は、日應上人の御指南の一面のみを根拠として、当項において、御法主上人御内証の法体相承否定論を展開したのである。しかし、その根拠が破綻した以上、その論自体が全くの空理空論であることが明らかである。
 御法主上人の御内証には、「血脈の次第日蓮日興」以来の唯授一人の相承により、大聖人の御法体が厳然と相伝されている。
 すなわち大聖人は、弘安四年の『南条殿御返事』に、
  教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の所、喉は誕生の処、口中は正覚の砌なるべし。かゝる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき。(新編一五六九頁)
と示され、大聖人御内証の法体を弘安二年十月に出世の御本懐にまします本門戒壇の大御本尊として御図顕の後も、大聖人の肉団の胸中には、一大事の秘法が在すことを仰せである。すなわち日蓮大聖人は御入滅に際し、二祖日興上人へ本門戒壇の大御本尊を御相伝されるにあたり、その大御本尊の御内証と而二不二にまします胸中の一大事の秘法即御本尊の法体をも共に血脈相承遊ばされたのである。爾来、代々の御法主上人は本門戒壇の大御本尊を厳護なされると共に、その御本尊の法体を御内証に御所持遊ばされているのである。これを、『御本尊七箇之相承』には、
  日蓮在御判と嫡嫡代代と書くべしとの給う事如何。 師の曰わく、深秘なり。代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。(聖典三七九頁)
と示されるのである。
 また悪書では日応は、現実に存在する戒壇本尊が唯授一人で護持継承されてきたことを指して「法体相承」と称した≠アとの補足≠ニして日応は「法の道」に発表した論文中で「本宗は宗祖大聖人の血脈法脈を継承し宗祖大聖人の大本懐たる本門戒壇の大御本尊を護持し」「彼等の宗派では宗祖大本懐の本門戒壇の大御本尊を護持しないではないか又た宗祖直授相伝の血脈相承がないではないか」「本宗固より宗祖大聖人正統血脈の法系を承継し宗宝の唯一則ち宗祖大本懐本門戒壇の大御本尊を護持し奉る」などと述べている≠ニするが、それはこの御指南の一面のみを取り上げた狡猾な欺瞞である。
 すなわち、『法乃道』のこれらの文には、本宗の唯授一人金口の血脈をお受けになられた御法主上人は、大聖人の法体血脈を継承し、同時に本門戒壇の大御本尊を護持遊ばされている意義が、明らかに述べられているからである。よって法体相承は単に本門戒壇の大御本尊の護持継承にすぎない≠ニ述べることは偏見であり、それこそどうみても解釈的逸脱≠ネのである。
 なお、ここで松岡に確認しておきたい。それはこの『法乃道』の論文について、日應上人が述べられたものとしているが、この「所謂統一と云事に就て」の論題の下には「土屋慈観述」と著述者の名が明確に挙げられている。松岡は、この論文が五十八世日柱上人の御著述であることを知っていたのか。もし知っていて日應上人がお述べになられたとしたのであれば、それは卑劣な偽言である。また、知らなかったのであれば、松岡の資料調査は、極めて杜撰なものであることだけは間違いない。
 また悪書ではそもそも教義上から言えば、法主の意向にかかわらず、三大秘法の本尊を信じて題目を唱えるすべての人に「本尊の体」の証得は可能である≠ニするが、『身延山付嘱書』の、
  釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。(新編一六七五頁)
との金文をよく拝するがよい。日興上人に背く在家出家どもの輩は非法の衆であって、その非法の者が、たとえ題目を唱えても御本尊を証得できないことは自明なのである。また、日有上人は、『化儀抄』に、
  信と云い血脈と云い法水と云う事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違うべからざるなり、違わずんば血脈法水は違うべからず、夫れとは世間には親の心を違えず、出世には師匠の心中を違えざるが血脈法水の直しきなり、高祖已来の信心を違えざる時は我等が色心妙法蓮華経の色心なり、此の信心が違う時は我等が色心凡夫なり、凡夫なるが故に即身成仏の血脈なるべからず(聖典九七七頁)
と、大聖人日興上人以来の血脈付法の御法主上人への信伏随従こそ即身成仏の要であり、それを違えるならば、我々はあくまで悪迷の凡夫のままであり、即身成仏すなわち御本尊証得など絶対に出来ないことを仰せである。また、日亨上人は『有師化儀抄註解』に、
  再往末法に於いて義釈を為さば・此仏と云ふも此菩薩と云ふも・共に久遠元初仏菩薩同体名字の本仏なり、末法出現宗祖日蓮大聖の本体なり、猶一層端的に之を云ヘば・宗祖開山已来血脈相承の法主是れなり、是即血脈の直系なり(富要一一一七頁)
と、久遠元初の御本仏日蓮大聖人の所在を端的に示せば、血脈付法の御法主上人の処であると仰せである。また同註解に、
  曼荼羅書写の大権は唯授一人金口相承の法主に在り(富要一一一二頁)
  本尊の事は斯の如く一定して・授与する人は金口相承の法主に限り(同)
と、御本尊書写・授与の権能は、唯授一人血脈付法の御法主上人に存することを仰せである。よって、法主の意向にかかわらずすべての人に「本尊の体」の証得が可能≠ニの言は、大聖人日興上人以来の血脈相伝を貶め、大聖人の仏法の筋道を否定する大悪言なのである。創価学会や松岡らの如き、血脈付法の御法主上人を誹謗する逆賊は永久に御本尊の証得など叶うはずはない。
 また悪書では法主が「本尊の体」を独占し、それを書写本尊に分与することで功力が生じ、信者の本尊証得も適う、とするならば、これは非仏教的な一元的実体論になってしまう≠ニするが、その本尊の体≠ェ法体相承における大聖人の御内証の法体のことならば、それは、大聖人日興上人以来、唯授一人の相承により、歴代の御法主上人の御内証に相伝されているのである。ゆえに御法主上人は本門戒壇の大御本尊と一体不二の御内証をもって御本尊を御書写遊ばされるのである。よって、法主が「本尊の体」を独占≠ネどの言は、究竟の法体を証得遊ばされる大聖人に対して「本尊の体」を独占≠ニ申し上げていることになり、大慢の僻見である。
 また悪書では非仏教的な一元的実体論≠ネどと述べるが、そもそも仏法は付嘱の次第により正しく流通されてきたのである。付法蔵二十四人の仏法付嘱、釈尊より滅後末法の弘通を託された地涌の上首上行への結要付嘱、大聖人から日興上人への御付嘱、さらには日目上人以来御歴代上人への相承は、みな唯授一人の付嘱である。したがって、この邪言は大聖人から日興上人への唯授一人の御相承を非仏教的な一元的実体論≠ニ批判するものであり、しかも付嘱によって伝持された仏教自体を否定する暴言なのである。
 さらに悪書では日寛教学に基づくならば、本尊の功力は信者の信力・行力に応じて一即多元的に発現するはずであり、それでこそ法界遍満の妙法への信仰たり得るのである≠ニするが、日寛上人は、左京日教師の文を『当家法則文抜書』に引用され、
  当代の聖人の信心無二の処こそ生身の御本尊なれ(研教九七四〇頁)
と、現御法主上人の処こそ生身の御本尊であると記されている。この御指南によるならば、我々衆生が本尊の功力≠得る要件は、唯授一人血脈付法の御法主上人に信伏随従することであり、そこを外れて、本尊の功力≠得ることはないのである。またそれでこそ法界遍満の妙法への信仰たり得る≠ニ述べるが、それはかつて、宇宙の妙法のリズムに合致≠ネどという大謗法の謬言を述べた池田大作と同轍の邪義である。師弟ともに惑乱の極みである。
 次に悪書では法主の特別性は、「本尊の体」の独占などではなく、金口相承によって本尊の深義を知り、そこから人々に成仏への正しい信仰環境を提供するところにのみある≠ニ言うが、御法主上人は金口嫡々血脈相伝に基づく御本尊の御内証の法体を所持し給う上から、甚深の御指南を遊ばされ、衆生の成仏を期されるのである。したがって、法主の特別性は、「本尊の体」の独占などではなく≠ニの言は、全く的はずれの難癖であり、日興上人を始めとする御歴代上人に、一期の弘法すなわち御本尊の体を相伝遊ばされた御本仏日蓮大聖人の大慈悲の御化導をも虚仮にする大謗法の言である。また人々に成仏への正しい信仰環境を提供するところにのみある≠ニ言うが、一切衆生を成仏へ導かんとされる御法主上人の尊い慈悲の御化導を信仰環境を提供する≠ネどと誣言することは、御法主上人の末法万年に亘る法体伝持の化儀を否定する許されざる大謗法である。
 さらに悪書ではしかしその特別性も、すでに論じたように、三大秘法義の理論的公開や本尊相伝書の出版公開などによって、今は実質的に消失しているのである≠ニするが、三大秘法義の理論的公開本尊相伝書の出版公開≠ニは、既に述べたように、金口相承の秘伝の法門そのものではなく、公開が許された法門相承の範囲なのである。すなわち、日應上人が『弁惑観心抄』に、
  仮令広布の時といへども別付血脈相承なるものは他に披見せしむるものに非ず、況や今日該抄(※本因妙抄・百六箇抄)を世上に伝播せしむるが如きは無論唯授一人の別付相承に非ずして法門惣付の相承なること顕然なり(※編者・二一二頁)
とお示しの如く、唯授一人金口嫡々の血脈相承とは、公開されている三大秘法義の法門相承ではなく、広宣流布実現の暁でも公開されることのない、極秘伝の法体法門を指すのである。
 よって、この法体法門を御所持遊ばされる御法主上人の特別性≠ヘ全く消失しておらず、その尊厳は、未来永劫に厳然と存続していくのである。
 ただ、ここで誤解なきよう念記しておくが、日寛教学を採用するかぎり、末法の教主としての日蓮の特別性だけは決して消失しない。日寛教学において、久遠元初の完全なる悟り(境智冥合)の智慧の所持者は日蓮一人に限定されるからである。『当体義抄文段』では、信仰実践の次元から久遠元初の境智冥合が論じられ、「『知』の一字は能証の智、即ちこれ智妙なり。以信代慧の故に、またこれ信心なり」(文段集698)と示されている。日寛は、久遠元初の自受用身が悟った境智冥合の智慧を、日蓮以外の信仰者が得ることは認めない。しかしながら信仰の強さをもって本仏の智慧に代える(以信代慧)ならば、末法の凡夫も境智冥合の成仏が適うと説くのである。
 ここで悪書は、日寛教学を採用するかぎり、末法の教主としての日蓮の特別性だけは決して消失しない。日寛教学において、久遠元初の完全なる悟り(境智冥合)の智慧の所持者は日蓮一人に限定される信仰の強さをもって本仏の智慧に代える(以信代慧)ならば、末法の凡夫も境智冥合の成仏が適うと説くのである≠ニするが、大聖人の直弟の中で、宗祖日蓮大聖人を久遠元初の御本仏と拝された方は、大聖人より唯授一人の御相承をお受けになられた日興上人ただお一人である。故に、本宗では、日興上人以来の血脈付法の御法主上人の御指南により、宗祖大聖人が、久遠元初の御本仏であることを正しく拝することが出来るのである。故に、日寛教学を採用するかぎり≠ナはなく、それ以前から本宗では唯授一人師弟相対の信心をもって大聖人を御本仏と拝してきたのである。
 ところで、悪書に当段の論理の根拠として引用する『当体義抄文段』の御指南は、次の如くである。
  一、本地難思の境智冥合、本有無作の当体蓮華等文。(中略)「本地難思」等とは、総勘文抄に云わく「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に開悟したまふ」云云。上の文に云わく「地水火風空とは即ち妙法蓮華経なり」云云。五百塵点の当初なり、故に本地と云う。「知」とは是れ能証の智なり。「我が身」等とは所証の境なり。故に「境智」と云う。我が身即ち地水火風・妙法蓮華とは、即ち是れ本有無作の当体の蓮華なり。是くの如く境智冥合して、本有無作の当体の蓮華を証得する故に、「即座に開悟」と云うなり。
 当に知るべし、「凡夫」とは即ち名字即、是れ位妙なり。「知」の一字は能証の智、即ち是れ智妙なり。以信代慧の故に、亦是れ信心なり。信心は是れ唱題の始めなるが故に、始めを挙げて後を摂す。故に行妙を兼ぬるなり。故に知んぬ、我が身は地水火風空の妙法蓮華経と知ろしめして、南無妙法蓮華経と唱えたもうなり。即ち是れ行妙なり。「我が身」等は是れ境妙なり。此の境智行位は即ち是れ本因妙なり。「即座に開悟」は即ち是れ本果妙なり。是れ即ち種家の本因本果なり。譬えば蓮の種子の中に華菓を具するが如きなり。(御書文段六四一頁)

 このように、日寛上人は、『当体義抄』の「本地難思境智冥合、本有無作の当体蓮華仏」の文を解釈するに当たり、『総勘文抄』の久遠元初即座開悟の文を挙げ、その文に本因本果、特に本因の四妙が拝されることを述べられたのである。つまり、悪書に引用する「『知』の一字は能証の智、即ち是れ智妙なり。以信代慧の故に、亦是れ信心なり」の箇所は、久遠元初御本仏の境智行位を述べられた御指南中のものである。したがって、信仰実践の次元から久遠元初の境智冥合が論じられ≠ニの言は、主語を特定しないことで、『当体義抄文段』の当該箇所の論旨を曖昧にするものである。松岡は、続いて信仰の強さをもって本仏の智慧に代える(以信代慧)ならば、末法の凡夫も境智冥合の成仏が適う≠ニ主張し、いかにも末法の凡夫≠熕M心さえあれば御本仏と同等であるかのように錯覚させようとしている。この御本仏の境智冥合が、末法の凡夫≠ノおいても、信仰の強さ≠必要とするとは言え、直ちに叶うとする主張は、大御本尊を物体視し大聖人の御内証を軽しめるという狂った本尊観を立てる邪信妄信の池田創価学会の正当化を謀らんとする誑言であり、御本仏日蓮大聖人と末法の一切衆生の間に存する、厳然たる能所の筋目を乱す邪義である。
 さて、久遠元初に悟られた御本仏の智慧は、悟られた御本人であられる大聖人に限り奉ることは、当然の道理である。御本仏大聖人は、その御法体を本門戒壇の大御本尊として御顕示遊ばされたのであり、我等衆生は、この御本尊を帰命依止の信仰の対境と定めて無二に信心するところに、即身成仏の大果を得るのである。ただし、そこで踏み外してはならない仏法の道理がある。それは本門戒壇の大御本尊の御内証の法体が、代々の御法主上人に相伝されていることである。それは先にも引用した両巻血脈抄、及び『御本尊七箇之相承』等の相伝書にも明らかなのである。したがって、日寛上人の『当体義抄文段』における御指南の真意を本宗本来の師弟相対の信仰をもって拝すれば、久遠元初の悟りを証得された大聖人が定められた唯授一人金口嫡々の相承により御法主上人の御内証にのみ、久遠元初の完全なる悟り(境智冥合)≠ェ相伝されるという御意なのである。創価学会や松岡らは、この仏法の道理より大いに外れている故に、以信代慧など到底適うことはないのである。
 加えて日寛は、「取要抄文段」で無作三身の仏について論じ、そこに三段階の立てわけを示している。すなわち、理論的には一切の衆生は無作三身であるが、実際には無作三身の真仏を信ずる日蓮の弟子檀那こそが無作三身であり、さらに言えば日蓮一人だけが究竟果分の無作三身である、と説いている。

当に知るべし、蓮祖の門弟はこれ無作三身なりと雖も、仍これ因分にして究竟果分の無作三身には非ず。但これ蓮祖聖人のみ究竟果分の無作三身なり。若し六即に配せば、一切衆生無作三身とはこれ理即なり。蓮祖門弟無作三身とは中間の四位なり。蓮祖大聖無作三身とは即ちこれ究竟即なり。故に究竟円満の本地無作三身とは、但これ蓮祖大聖人の御事なり(文段集571)。

 日寛はここで、顕教の「因分可説・果分不可説」という伝統的立場から無作三身の仏を「因分」と「果分」に分け、説明不可能な仏果の境地の究極である「究竟果分の無作三身」は「但これ蓮祖聖人のみ」である、と論断している。「究竟」という言葉を多用することにより、日寛は、完全なる了解としての悟りが日蓮一人に限定され、日蓮の門弟はあくまで修行段階(因分)における一分の了解を得るにとどまる、という点を強調したかったのだろう。
 以上に明らかなごとく、三大秘法義の理論的公開や本尊相伝書の出版公開が法主の特別性を消失せしめると言っても、それが本仏日蓮の特別性の否定につながるとは考えられない。
 ここで悪書が引くところの『法華取要抄文段』における因分果分の御指南は、御本仏大聖人と迷いの凡夫、および門弟僧俗との師弟・能所の筋目における、下種仏法の教相上の対比である。
 つまり、大聖人は御書の所々に大聖人の弟子檀那が無作三身であると観心の上から御指南されている。また日寛上人も『当体義抄文段』に、
  「三道即三徳」とは人の本尊を証得して、我が身全く蓮祖大聖人と顕わるるなり。「三観・三諦即一心に顕はれ」とは法の本尊を証得して、我が身全く本門戒壇の本尊と顕わるるなり。(御書文段六二八頁)
と、即身成仏の観心を説かれている。しかしまた、日寛上人は観心面のみにとらわれて、教相上の師弟・能所の筋目を混乱することのないよう「蓮祖聖人のみ究竟果分の無作三身」と能化の仏と所化の衆生との立場の違いを明確化されたのである。だからといって、それが御歴代上人に伝わる、唯授一人金口嫡々血脈相承の意義と存在を否定するものでは絶対にないのである。
 しかるに、法門の筋目を知らない素人の松岡は法主の特別性を消失せしめると言っても、それが本仏日蓮の特別性の否定につながるとは考えられない≠ニいって、日寛上人の『法華取要抄文段』を引いて、大聖人以外は特別な存在などないとする。即ち大聖人お一人が究竟果分の無作三身であって、日興上人以下の御歴代上人は、所化の衆生と同じ因分の無作三身であるといいたいのであろう。しかし、それは大いなる誤りであって、次に挙げる日寛上人の御指南を拝せば、松岡の主張は御法主上人の御内証を否定する邪義であることが明白なのである。即ち、日寛上人は、『文底秘沈抄』において、
  今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月豈此に移らざらんや、是の故に御心今は富山に住したもうなり。(六巻抄六六頁)
と仰せの如く、唯授一人金口嫡々の血脈相承は、一器より一器への相伝であり、御法主上人の御内証に清浄な大聖人の御法魂がましまされるのである。故に大聖人が究竟果分の無作三身であらせられるならば、それを受けて御本尊を御書写し給う御法主上人の御内証も究竟果分の無作三身にましますのである。故に大聖人と一切衆生に能所の筋目があるのと同じく、能化たる御法主上人と所化の衆生との間にも師弟・能所の筋目が存するのである。その証拠に日有上人は『化儀抄』に、
  師匠有れば師の方は仏界の方弟子の方は九界(聖典九九六頁)
と示され、さらに日達上人は、この文につき、
  授与の本尊に法主が書き判せられるから法主は主の方で仏界の方であります。法主が書き示されるは弟子の方で、九界の方でありその師弟相対して中尊の南無妙法蓮華経に相向ふので、その所が当位即妙の即身成仏であります。(有師化儀抄略解一〇八頁)
と御指南せられている。このように、下種仏法においては、御法主上人に対する師弟相対の信心が大切なのである。すなわち、それは、血脈の御法主上人の御内証に究竟果分の御本尊の法体が在し給う故である。しかるに、悪書では法主の意向にかかわらずすべての人に「本尊の体」の証得は可能≠ニするが、その言い分は大増上慢の誑言である。すなわちそれは、所化の衆生における観心の証得と、能化における究竟果分の法体の相伝との厳然たる相違に迷うものと言えよう。要するに、松岡の『法華取要抄文段』についての解釈の底意たるや、敢えて御法主上人の御内証を否定せんとする悪辣な意図をもった誑言であると断ずる。
現代の門下僧俗は、本仏日蓮に対する師弟・能所の筋目を修行の原動力としながら、水平的性格を持った信仰実践に励み、究極的には本尊証得を通じて内証面での日蓮との一体化を目指すのである。そこには、真理の平等性と本仏の至高性とが融合した、真の意味での人法体一の信仰世界があるように思われる。
 ここで悪書は、尤もらしく師弟・能所の筋目≠ニ述べるが、筋目を言うなら、『化儀抄』の、
  手続の師匠の所は、三世の諸仏高祖已来代代上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此くの如く我に信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云うなり云云。(聖典九七四頁)
との御指南を、心肝に染めよ。
 要するに、御法主上人に背いて師弟・能所の筋目≠ネど存在しないのである。かつては信じていた正しい仏法の師弟の筋道を、池田大作や一部の幹部の私利私欲の為に踏み外し、能所を大混乱している者こそ、他ならぬ創価学会と、それに追随する松岡ら離脱僧である。また次に水平的性格を持った信仰実践≠ニ言うが、それはまさに先の「化儀抄」の御指南に背く能所の筋道を否定せんとする悪平等の僻見である、と同時に、また、単なる言葉の遊戯に過ぎない。なぜならば、一般会員に金品の納入を競わせて、池田大作や一部の幹部だけが貴族化し、それを湯水の如く使う創価学会の、どこが水平的性格を持った信仰実践≠ネのか。笑止千万である。
 またさらに、究極的には本尊証得を通じて内証面での日蓮との一体化人法体一の信仰世界≠ネどと言うが、それはどういう意味か。御本仏大聖人と、極悪謗法の松岡や創価学会如きが一体化するとでもいうのか。そもそも信仰とは、礼拝帰命である。いやしくも日蓮大聖人を本仏と拝するなら、心からの尊信恭敬を顕すべきである。それを恐れ多くも呼び捨てをもって、内証面での日蓮との一体化を目指すのである≠ニは何たる言い草か。まるで大聖人を自分と同等の存在のごとく見下げた慢言ではないか。
  日蓮を用ひぬるともあしくうやまはゞ国亡ぶべし。(新編一〇六六頁)
との呵責は、まさに大慢の松岡や創価学会への叱咤であると自覚せよ。



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