10 在家僧の認識について≠破す

 この項で汝は中村元の『仏教語大辞典』の「出家」の項の記述を根拠に、あなた方は(中略)変則的な「在家僧」の身分という以外にありません。この考え方に同意されますか≠ニ同意を求めてきたかと思うと、同意≠ェあったことを前提に、在家僧ということであれば金口相承の法門内容の核心が理論的に開示されている、と仮定した場合俗世間の人も、僧形の人と同じく法義の核心を学び、伝承できることになります。であれば日蓮正宗では在家者が本尊を書写し続けてきた──こう断定しても、よろしいですか≠ネど「であれば」「仮定した場合」「断定しても、よろしいですか」と、是非を決することなく、次々に仮定の議論を繰り返し、宗門僧侶を誹謗している。そして次々に仮定の上に成り立った質問を押しつけているのである。
 それでいながら、汝はこの虚構の上に成り立った質問への回答をくれぐれも循環論法にならないようにお願いします≠ニいうのであるから、滑稽という以外にはない。このような矛盾撞着の質問をして恥じない者が博士を気取っているのであるから笑止千万である。
 まず、日蓮正宗の僧侶が、汝の言う、変則的な「在家僧」の身分≠ナはないかという邪難、つまり出家の定義について一言する。
 汝は『仏教語大辞典』に記された「出家」が確定的な出家の定義であると考えているようであるが、まことに浅はかなものである。出家の定義は、宗派個々の教義などによってもバラバラなのである。
 そもそも出家は古くから印度に行われ、バラモン教などにもその風習があった。また、釈尊の出家も三十成道以前に行われているのであり、当然仏教における出家ではなく、難行・苦行を積み、また禅定に入るなど月氏の外道における出家である。
 また小乗仏教の出家は、比丘に二百五十戒、比丘尼に五百戒という多くの戒律を持ち、社会生活から離れて山林に交わり、専ら自身の解脱を求めたのである。
 これらの「出家」の定義を、一切衆生を成仏に導く大聖人の仏法における「出家」に当てはめて考えることは出来ない。つまり、大聖人の仏法における出家の立場は、仏法を習い、さらにまた市井において法を広めなければならないからである。したがって小乗仏教などの出家の定義を、無理矢理本宗の出家に当てはめて論ずることはできないのである。
 大聖人は『四恩抄』に、
仏宝・法宝は必ず僧によて住す。譬へば薪なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず。 (新編二六八頁)
と御指南され、僧侶によって仏法が令法久住される旨を仰せられている。
 また日興上人も『遺誡置文』に、
一、当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して(新編一八八四頁)
と御指南されており、出家の弟子に極理を師伝し、令法久住していくのであるという道理を示されている。
 さらに日有上人も、
一、貴賤道俗の差別なく信心の人は妙法蓮華経なる故に何れも同等なり、然れども竹に上下の節の有るがごとく、其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか(聖典九七三頁)
と御指南され、たとえ成仏の境界に僧俗の差別はなくとも、僧俗の位を乱してはならないと、僧俗の筋目を糺すべきことを示されているのである。
 このように、出家者の存在は、大聖人の仏法を令法久住していく上において絶対不可欠なのである。大聖人は「涅槃経に云はく」として、
内には弟子有って甚深の義を解り、外には清浄の檀越有って仏法久住せん(新編七九〇頁)
との文を引用され御指南されているが、このように内に仏法を久住する出家者と、それを外護する在家者とは役割・立場が異なるのであり、決して混同されるものではない。
 次に汝の肉食妻帯%凾フ邪難についてであるが、これは戒に関する僧侶の行いについてのものである。そもそも大聖人の仏法における戒の問題については、一切の防非止悪、戒体の根源たる本門の金剛宝器戒において、その是非が論ぜられなければならない。すなわち末法の日蓮大聖人の仏法においては、基本的に釈尊仏教の戒律は用いないのである。
 『一代聖教大意』の、
我等一戒をも受けざるが持戒の者と云はる(新編九六頁)
 『守護国家論』の、
末代に於て四十余年の持戒無く唯法華経を持つを持戒と為す。(同一二四頁)
 『十法界明因果抄』の、
爾前経の如く師に従ひて戒を持せず、但此の経を信ずるが即ち持戒なり。(同二一六頁)
 『四条金吾殿御返事』の、
欲をもはなれずして仏になり候ひける道の候ひけるぞ。普賢経に法華経の肝心を説きて候「煩悩を断ぜず五欲を離れず」等云云。(同一二八七頁)
等の御指南は、ただ本門の本尊を信ずるところが受持即持戒であることを明かされたものであり、この文底下種の妙戒を金剛宝器戒と呼ぶのである。汝の邪難における肉食妻帯≠ニは、五戒等の諸戒中における不殺生戒や不邪淫戒を念頭に置いているのであろうが、日蓮大聖人の仏法においては、前掲の御金言に明らかなごとく、爾前経の戒は存在しないのである。従って汝の邪難そのものがナンセンスであり、成立しない。汝はいつから釈尊の弟子となり、爾前経の修行者となったのか。
 但し、人間の生命活動において、僧俗共に放逸無懺な悪業が不幸を招くことは当然であり、自然に正しい道理に適った生活となっていくところに、本門戒壇の大御本尊を信受する金剛宝器戒の功徳が存するのである。汝ら創価学会にはその功徳が存在しないが故に、様々な不幸な姿が現証として顕れていることを指滴しておく。
 また『太田左衛門尉御返事』に、
予が法門は四悉檀を心に懸けて申すなれば、強ちに成仏の理に違はざれば、且く世間普通の義を用ゆべきか。(新編一二二二頁)
と仰せのように、仏法においては弘教こそが肝要であり、その上から世間法をも尊重すべきことは当然である。しかし『邪誑の難を粉砕す』においても述べたとおり、今日にあっては僧侶が妻帯することに対する世間法上の非難はないのである。さらに、社会的に僧侶も結婚することが常識化した現代では、日蓮正宗僧侶が社会に法を広めていく為、寺院を守る為、布教の為、様々な面で妻帯することがプラスになるのであり、寺族の果たしていく役割も大きいのである。汝の非難は宗門僧侶を誹謗中傷するためのこじつけである。
 また汝は、もし大石寺の唯授一人相承が理論的に開示されているとすれば、現代の僧俗をともに在家僧とすべきかどうか、しないならばどこが違うのか、という角度からのみ、ご回答下さい≠ネどともいうが、すでに破折しつくしたように、唯授一人相承が理論的に開示されているとすれば≠ニいう前提は成り立たないのであり、したがってこのような質問は虚偽の前提の上に成り立った、まやかしの言なのである。
 次に汝のいう現代の僧俗≠ニは、一体何と何を指すのか。またそれらについてともに在家僧とすべきかどうか≠ニいうが、その在家僧とは池田大作の走狗たる汝や、邪教創価学会の会員を誇示することなら、そのような非義を認める考えも必要も全くない。更にどこが違うのか≠ニ汝は質問するが、その正解を熱望するならば教えて進ぜよう。それは日蓮正宗の僧俗が正しい仏法によって現世安穏、後生善処の大利益を得るにたいし、大謗法の怨念を以て本来の下種仏法の尊厳を悪口誹謗する汝等は堕地獄必定の悪道の衆生であるという違いである。これは近年における大小のあらゆる現証がはっきりこれを証明しているではないか。
 また、日蓮正宗では在家者が本尊を書写し続けてきた──こう断定しても、よろしいですか篤信・篤学の僧俗が在家僧と言いうる今の状況≠ネどの言も、似非学者たる汝の無知蒙昧から生ずる、あり得ない暴論であり、無慚無愧の言というほかはない。
 汝が所属する「青年僧侶改革同盟」とは一体何か。僧侶と在家に区別がないと言い張る汝が、「僧侶」を標榜する団体に所属するのは自語相違の最たるものではないか。また汝自身が妻帯しながら袈裟・衣を着して写真に収まり、似非僧侶でありながら臆面もなく『改革時報』などに登場するのであるから、お笑いぐさである。
 つまりは今回の汝の質問状は、恥も外聞もなく、とにかく宗門を誹謗したいという汝の悪心から来る謀略文書であると断定し、以って回答とする。
                                                以  上 
  平成十七年八月二十四日
                                    日蓮正宗青年僧侶邪義破折班
   松岡幹夫殿




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