1 阿部著『拝述記』の背景≠糺す


 松岡は、『拝述記』について、
『拝述記』に関する論考を始めるにあたり、その執筆の背景に、著者・阿部日顕の僧俗差別の意識や先師・日寛上人の教学を利用した自己宣揚の心算が考えられる=i悪書二二八頁)
と述べる。これは松岡の主張の全体に通底する邪念がいきなり表れたものである。つまり、創価学会・池田大作に対する諂いと、日顕上人に対する憎悪の表明なのだ。
 この中では、『拝述記』の文体について、
 目が痛くなるようなカタカナ使用の文語体で書かれてある=i悪書二二二頁)
と述べ、
 恐らく、布教目的の本ではないと思われる=i同)
と言っている。松岡は、読みにくい本と貶したいのであろうが、片仮名の文字が何故目が痛くなるのか、実に低級な放言である。
 つぎに『拝述記』御執筆の目的であるが、そもそも、その内容は日蓮正宗の教師を対象とした講習会における御法主上人の御講義として、御登座後、昭和六十一年より教授講義されたものであり、仏教初心者向けの内容ではない。御登座二十七年の間、十数度に亘って御講義なされ、平成十七年の末に御退位なされた後も引き続き講義される中で、当初配布したテキストの改訂も含め、一度始めたことでもあり、最後まで仕上げよう、との御意により、一気に書き上げられたものと拝される。
 また『拝述記』の「序」には、

一百六箇抄ハ本因妙抄ト並ビ両巻血脈ト称スル相伝書ニシテ台当所伝ノ広汎ナル教学法相ヲ網羅シ、コレヲ種脱ノ判釈ニ於テ本迹ノ勝劣ヲ決シ給ウ。実ニ重々ナル宗門ノ大事ニシテ、宗祖大聖人甚深ノ法義ココニ凝集セリト云ウベシ。要山ノ寿円日仁師、凡ソ三百有余年ノ昔、対見ノ方式ヲ以テ、広クコノ抄ノ解明ヲナス。予、先ニソノ論旨ノ未ダ種脱ノ正奥ニ徹セザル憾ミアルヲ知リ、富山ノ正統ノ義ヲ以テ一百六箇ノ本旨ヲ探ルベク思ウコトアリ。

と述べられているように、日蓮大聖人から日興上人への御相伝の深義が述べられた『百六箇抄』は、重々なる宗門の大事を示された書である。かつて要法寺の寿円日仁が対見の方式で解明を試みたが、富士の正義にはほど遠いものがあった。そのために、日顕上人は血脈御所持の正統の御立場から、種脱の意義に徹して『百六箇抄』の本旨を鮮明にされるために御執筆遊ばされたのである。
 故に、『拝述記』御執筆の目的は、松岡の邪推するような自己宣揚の心算≠ネどは全くないことが明らかである。
 また松岡は、
宗内の僧でさえ大抵は敬遠するであろう難渋な『拝述記』を、阿部はなぜ大々的に出版し、一般書店にまで流通させているのか=i悪書二二二頁)
と述べるが、御当代日如上人猊下の御英断による大日蓮出版の創設により、一般書店での入手が可能になったのであり、日顕上人が流通させたわけではない。或は、深信にして教学に練達した信徒の深義研鑽を渇仰する求道心に対応されたと拝する。またさらに言えば、他門の学者の中にも一般的な意味で、かなり仏教に対する高度の知識見識を持った人達がいる。中には日蓮正宗の深義をもっと知りたい人もいるかもしれない。『拝述記』は、そのような人々に対して門戸を開いた書ともいえよう。また、一般の仏教者は増上慢の者を別として、皆真実の悟りに至れないことに悶々としているが、そうした人々にとっても刮目に値いする教科書となろう。その意味からは、折伏に繋がる布教目的の意義も兼ね備えた書とも拝せられるのである。
 また『拝述記』には、

対見記ノ著者日仁ノ本尊教義ノ基本根幹明ラカニ看取セラル。則チソノ主意・主点ヲ先師日辰ノ釈迦本尊ニ置イテ、ソノ余塵ヲ拝スルナリ。一往石山ノ義ヲ常途トシテ取ル如キハ、古来ヨリノ要山教義ノ動揺ニヨルナランモ、百六箇抄ノ主意ニ徹セザル恨ミアリ。結局、広蔵日辰ノ釈迦本尊中心義ヲ以テ正意トスル如ク、シタガッテ日有上人ノ義ヲ但ナル一途トシ、コノ義ヲ受クル者ハ「一隅ニ偏屈ス。哀レムベシ」ト批判セリ。ソノ漫然タル不定ノ見ハ正義ニ非ザルナリ。(拝述記四頁) 寿円日仁ノ対見記ニハ、カノ広蔵日辰ノ固説ヲ挙グ。(拝述記二三頁)

等と、要法寺日辰の釈迦本尊中心義等、文上執着の教風の糟糠を嘗めた寿円日仁の浅義・邪義を破して、「百六箇抄ノ主意ニ徹」して正義を示されたものである。また、

日仁師、未ダ宗祖所顕ノ大漫荼羅ノ正意本懐ヲ知ラズ、宗祖一往ノ化導中ノ御顕示ニ迷ウ。 (拝述記六頁)

と示されるように、法体である大曼荼羅御本尊に対する日仁の迷見を喝破し、大曼荼羅に関する大聖人の深勝義を随時顕示遊ばされ給う、宗内僧俗必読の書である。このように破邪顕正という当家の骨髄に則ったものであるから、布教目的の本ではない≠ニいうのは、松岡の難癖に過ぎない。
 拝読すれば分かるが、『拝述記』は読者の深義の修得のために実に親切丁寧に書かれている。
 また『拝述記』は、天台三大部に関して要点をまとめた形で著されたと拝するものである。したがって、本書を精読すれば、宗義のみならず天台教学の要径も開けることと信ずる。
 日蓮大聖人の正義継承の正師として、仏教全般、特に天台の教義にまで精通された日顕上人自在の御境界から著された『拝述記』は、釈尊・天台大師、また宗祖大聖人の御本意に適う正統の教導書として万代を照らし、広布の進展に伴い弥々光輝を増す名著であると拝するものである。
 
 つぎに松岡は、
『百六箇抄』の全体にわたる講義、という意義を強調するゆえんは、すでに昭和五十二(一九七七)年、創価学会の池田大作会長(現在は同会名誉会長、創価学会インタナショナル〔SGI〕会長、以下「池田会長」と表記する)が学会機関誌『大白蓮華』に都合八回分の百六箇抄講義を連載した事績があるからだろう。宗門教学部の言う「本宗奥義の相伝書」の重要箇所が、法主でも学僧でもなく、在家の信徒によって初めて講説されたわけである。この歴史的事実が、僧俗の本質的差別を公言する阿部を長年刺激し続け、『拝述記』の公刊につながった可能性は大いに考えられる=i悪書二二三頁)
と、あたかも日顕上人が池田大作の百六箇抄講義を意識したことが『拝述記』執筆の背景であるかのように言うが、以下に述べるとおり、池田の講義など全く眼中にあられないことが明らかである。さらにまた、池田が「本宗奥義の相伝書」の重要箇所初めて講説≠オたかのように述べるが、これは松岡の愚眼による勘違いである。
 だいいち、内用・外用の御相承、十二箇条法門が何たるか全く知る由もなく、本宗の奧義に到達できない池田如き素人に大聖人の御相伝の重要法門など講説できるわけがなかろう。後述のように、池田大作の講義と謳っても、実際はほとんどが京大生に発表させた内容ではないか。所詮、池田の講義とやらは、僅かその質問に答える程度のごく簡単な代物である。それが重要箇所が……初めて講説された≠ニは大いに笑わせるではないか。

 さて、ここで松岡は、『大白蓮華』に都合八回分の百六箇抄講義を連載した≠ニ言う。しかし池田大作の百六箇抄講義は、『大白蓮華』の昭和五十二年一・二・三・四・五・七・八・十・十一月号の計九回にわたって連載されおり、八回≠ナはない。分量としては、一回目八頁、二回目一〇頁、三回目六頁、四回目七頁、五回目八頁、六回目八頁、七回目八頁、八回目六頁、九回目九頁である。九回目の末尾には「つづく」とあるが、つづきが『大白蓮華』に掲載されることはなかった。以上、『大白蓮華』紙上に掲載されたのは合計七〇頁であるが、タイトルが大きくて半頁を占めており、写真や他の記事もあるから実際はもう少し少なくなる。
 この百六箇抄講義を『大白蓮華』に連載するにあたって、当時の『聖教新聞』には、

新連載の「百六箇抄講義」は昭和三十八年七月から二年間にわたり、当時の京大生の代表に対して講義を行った内容をふまえながら、時代・社会への哲理へと深く展開したものである。 (昭和五十一年十二月二十四日付)

という記事が掲載されている。これを見ると、『大白蓮華』に連載された百六箇抄講義は、京大生に対する講義をまとめ、加筆したもののように見える。しかしこの両者を比較してみると、そこには大きな違いがある。
 京大生に対する百六箇抄講義は、『大白蓮華』には、

昭和三十八年七月十九日より、二年間にわたり、当時の京大生の代表に「百六箇抄」の講義をしていたのです。(昭和五十二年一月号一八頁)

と記されている。しかし実際には、昭和三十八年七月十九日には、池田大作を囲む京大生の会合は行われているが、当日は京大生が池田に質問したり面接が行われたのみで、『百六箇抄』の講義は行われていない。
 このことは、当時の聖教新聞の記事(昭和三十八年七月二十三日付)や、『創価学会年表』にも、

京大生の初会合に出席し、「百六箇抄」の講義を約束。(第1回の講義は9月15日)(該書二九一頁)

と記されていることから明かである。「講義を約束」したことまで講義をしたように誑惑するとは、よほど池田大作がまともな講義をしていないことの証左といえる。
 さて京大生に対する池田大作の百六箇抄講義は、計七回にわたって行われたとされるが、そのうち、五回の講義について、聖教新聞に記事が掲載されている。その概要は、

(第一回講義)昭和三十八年九月十五日
 脱の一「理の一念三千・一心三観本迹」〜脱の五「心法即身成仏の本迹」
「約一時間半にわたって勉強、会長から講義を受けた」(聖教新聞昭和三十八年九月十九日付)

(回数不明)昭和三十九年一月十四日
 範囲についての記載なし
「教材は『百六箇抄』で、学生部員が一節一節を解釈し、そのあと会長が質問をうけてそれに答えていくという形式ですすめられた」(聖教新聞昭和三十九年一月十八日付)

(第五回講義)昭和三十九年三月十七日
 脱の二十五「脱迹十羅刹女の本迹」〜「以上・脱の上の本迹勝劣口決畢んぬ」まで (聖教新聞昭和三十九年三月二十一日付)

(第六回講義)昭和三十九年七月十日
種の一「事の一念三千・一心三観の本迹」〜種の五十(御書全集では種の五十一)「下種六重具騰の本迹」(聖教新聞昭和三十九年七月十四日付)

(第七回講義)昭和三十九年八月二十九日
 種の五十一(御書全集では種の五十二)「下種六即実勝の本迹」〜終わりまで
「出席した京大生がつぎつぎと立って、元気に日ごろの研さんを披瀝した。講義を終えて池田会長は『きょうは全員よく勉強してきました。満点です。百六箇抄の講義はこれで終わりますが、これからの皆さん方の信心が大切です』と激励」(聖教新聞昭和三十九年九月三日付)

というものである。
 これらの聖教新聞の記事からすると、第一回の講義は池田が行ったのかもしれないが、それ以降は、学生部員が一節一節を解釈し、そのあと池田がなんらかの話をしたのであろう。

 次に、『大白蓮華』に連載された池田大作の百六箇抄講義の内容は、

百六箇抄の構成と序文
@「事の一念三千・一心三観の本迹」
A「久遠元初直行の本迹」
B「久遠実成直体の本迹」
C「久遠本果成道の本迹」
D「久遠自受用報身の本迹」
E「久成本門為事円の本迹」
F「色法即身成仏の本迹」
G「色法妙法蓮華経の本迹」
H「久遠従果向因の本迹」
I「本因妙法蓮華経の本迹」
J「不渡余行法華経の本迹」
K「下種の法華経教主の本迹」
L「下種の今此三界の主の本迹」

の十三題となっていて、以下の講義は掲載されていない。順番は御書全集の通りであるが、下種の題に限られている。
 これは、百六箇条のなかの僅か十三箇条であり、全体の一割程度にすぎない。
 しかも『大白蓮華』には十三題について、第三回から第九回までの七回にわたって連載されたが、京大生に対する第六回講義(昭和三十九年七月十日)では、「種の一」から「種の五十(御書全集では五十一)」までの膨大な箇所をわずか一時間半ほどの間に行っている。一題につき一分四十五秒の計算である。時間的に見ても、きわめて表面的な浅い解釈しか出来ていないといえる。
 このように、昭和三十九年の聖教報道による京大生に対する百六箇抄講義と、それを踏まえて「深く展開した」という昭和五十二年に大白蓮華に連載された百六箇抄講義は、加筆したなどという程度のものではなく、昭和五十二年に新たに創作されたまったく別のものにみえる。
 また『教学上の基本問題について』(6・30)の中でも、百六箇抄講義の中で「従果向因」の語を用いたことに対して宗門からの指摘と学会の釈明がされる(特別学習会テキスト一七頁)など、教義的にも逸脱した問題点があるものであった。
 なおこの昭和五十二年には、『百六箇抄』の他にも、池田大作による『諸法実相抄』『生死一大事血脈抄』の講義が行われ、聖教新聞紙上に掲載された。これらにも、「『教学上の基本問題』について」で指摘と釈明がなされ、「生死一大事血脈抄講義」は、後日、日達上人監修による改訂版が発行されるほど、杜撰な内容だった。
 後のことであるが、昭和五十五年に発行された『新版池田会長全集10』(講義編)や昭和六十一年に発行された『池田大作全集第二十四巻』(講義)には、そのような問題のあった「諸法実相抄講義」「生死一大事血脈抄講義」(改訂版)でさえ収録されているが、どうしたことか、「百六箇抄講義」など全く収録されていない。これは、創価学会の内でも、池田の「百六箇抄講義」が相当的はずれで、とても著作として残すことができる代物ではなかったことを物語っているといえよう。

 また日顕上人が、池田大作の百六箇抄講義について、内容的にみても全く問題にされていないことが明らかである。
 なぜならば、その例証を一つだけ示しておく。
 『新編御書』には『御書全集』にある「久遠本果成道の本迹」の題はなく、一つ前の「久遠実成直体の本迹」に含まれて、「久遠本果成道は本の迹なり」という註の文になっている。これは『新編御書』編纂の成果であるが、もとは日顕上人の御指摘である。ゆえに『拝述記』では、いうまでもなく「久遠本果成道」は脱益の釈尊の成道として解説しているが、なんと、その部分を、池田大作は、

まず表題の「久遠本果成道」について、申し上げると、前項の場合と同じく、ここも久遠元初の成道をいわれております。普通久遠本果といえば、久遠五百塵点劫の本果第一番成道の釈尊をいうのでありますが、ここでは、久遠元初の成道をさしていることは「名字の妙法を持つ処は直躰の本門なり、直に唱え奉る我等は迹なり」といわれていることからも明らかであります。(大白蓮華五十二年四月号一八頁)

と述べ、「久遠本果の成道」を「久遠元初の成道」と解説しているのだ。
 日顕上人は、『拝述記』に、

全集ハ、脱ノ最後尾五十一ノ、
 「脱益ノ三土ノ本迹 報土ハ本、同居ト方便ハ迹ナリ」(御書一六九二)
ノ文ヲ、前題五十「脱益ノ十二因縁・四諦ノ本迹」ノ註ノ続キヘ送ル。故ニ脱ヲ五十箇トシ、種ノ五十六箇ヲ足シテ一百六箇ヲ成ズ。昭和新定御書ト平成新編御書・平成校定御書ハ、脱ノ「脱益ノ三土ノ本迹」ヲ別立ノ一箇トシテ、脱ニ於テ五十一箇ヲ成ジ、種ノ四、
 「久遠本果成道ハ本ノ迹ナリ。名字ノ妙法ヲ持ツ処ハ直体ノ本門(乃至)我等ハ迹ナリ」(御書一六九四)
ノ題・註ノ文ヲ、スベテ種ノ三、
 「久遠実成直体ノ本迹(乃至)久遠ヲ移セリ」(同右)
ニ続ク註ノ文トス。日仁対見記ノ説モ同様ナリ。但シ題ヲ註ノ中ニ入レテ読ムニ当タリ、日仁ハ、
 「久遠本果成道ノ本ノ迹ナリ」
トスルニ対シ、当家ノ三本ハ、
 「久遠本果成道ハ本ノ迹ナリ」
ト読ム。蓋シ三ノ題ニ「直体」ノ字アリ、ソノ註ノ後ニ加入ノ文モ直体ヲ云ウ。正シク一連ノ文ト拝スベク、故ニ一百六箇ハコノ形式ヲ以テ確定スベシ。古来伝承ノ一百七箇ハ、展転書写中ノ誤リト見ルベキナラン。(拝述記七頁)

と、当家の御書では『百六箇抄』に改訂が施されていることを述べられており、また当該箇所について、

末法宗祖ノ元初自受用開顕ト釈尊本果成道トノ本迹ノ義
 文「日蓮ガ修行ハ久遠ヲ移セリ」────── 本
 文「久遠本果成道ハ本ノ迹ナリ」────── 迹
コノ本トハ、久遠元初即末法ノ修行ハ、末法即久遠・久遠即末法、行位全同ノ故ナリ。
コノ迹トハ、釈尊ノ久遠ノ本果モ、本因妙ノ垂迹ノ故ニ本ノ迹トイウナリ。(拝述記四一頁)

と御教示され、久遠本果の成道を「本因妙の垂迹」であると、はっきりと決判されている。
 以上のことから、日顕上人は御自身よりはるかに学解の低い大作ごときを意識するわけがなく、そもそも眼中にあられないのだ。このように仏法の器量のみならず教学力にも天地雲泥の懸隔がある。よって日顕上人は池田の講義など歯牙にもかけておられないことが明らかであろう。


ホーム    目次   前頁  次頁