3 法義を撹乱する区別主義≠糺す


 ここでは、
それでは、本題に入ろう。先ほど問題にした阿部の曖昧論法には、何よりごまかしによる自己防衛の意図が見えるが、逆説的ながら、彼の曖昧さは区別への執着に根ざすとも言える。阿部の思考は、仏教本来の無執着的、自在的なあり方とはほど遠く、分別的、区別的な執着を強く感じさせる。そして、それが区別と無区別を〈区別〉して無区別に執着する、という形態をとった時、意図的な曖昧さとなって現れる。阿部にあって、曖昧主義と区別主義とはコインの裏表の関係にある。区別と無区別の〈区別〉において、無区別への執着は曖昧主義となり、区別への執着はそのまま区別主義となる。根底にあるのは、物事を区別せずにいられないという「区別の思考」である。
 ここでは、阿部の「区別の思考」が区別主義に向かった場合に起きる諸問題を考察したい。すなわち、阿部の区別主義が正統的、仏教的に不合理であることを、以下に論ずる
=i悪書二三八頁)
と、これからいよいよ松岡の邪義邪見が本格化することを宣言している。しかしこの区別と無区別≠ニいうことは所詮、相待と絶待ということではないか。いかに言葉を換えようとも、義に於てはそうである。
 したがって、区別と無区別の〈区別〉において、無区別への執着は曖昧主義となり、区別への執着はそのまま区別主義となる。根底にあるのは、物事を区別せずにいられないという「区別の思考」である≠ネどというが、日顕上人は、相待と絶待の立て分けに於て、而二本迹は相待と示され、不二は絶待と示されているのである。根底にあるのは而二不二に対する絶妙なる立て分けであられる。松岡は正義に迷うが故に、相待・絶待を欺瞞的な用語として区別と無区別≠ニいっているに過ぎないのである。
 このように日顕上人は、而二相待妙については本迹を分別し、不二絶待妙においては分別を絶されているのだ。この正確な立て分けは、まさに血脈紹継の御眼力によるものであり、仰いで拝信すべきである。
 また、松岡の正統的、仏教的に不合理≠ニの主張が邪義であることは、すでに述べた通りである。

 つぎに松岡は、
先にも取り上げた、相待妙・絶待妙の法門を例に示してみよう。
 阿部は『百六箇抄』の「下種二妙実行の本迹 日蓮は脱の二妙を迹と為し種の二妙を本と定む、然るに相待は迹・絶待は本云云」(全集八六七頁)を注釈する段で、最後の「相待は迹・絶待は本」が下種仏法の相待妙・絶待妙に本迹を判じたものと説明した後、日蓮大聖人の御本尊や大聖人の境地における待絶二妙を得々と論じている。すなわち、弘安二(一二七九)年の戒壇の大御本尊を究竟とする立場から下種の絶待妙=本とし、それ以前・以後の一切の宗祖御本尊を相待妙=迹とする(『拝述記』三八八頁)。別の箇所では、弘安元(一二七八)年以降に顕された宗祖の究竟本尊に待絶二妙があると説き、「未究竟の本尊に対するは相待妙、久遠元初の上の人法体一の相貌を示し給うは絶待妙なり」とする(同前三八七頁)。また、大聖人の発迹顕本に関して「竜の口顕本の日蓮大聖人は絶待妙にして、以前は相待妙」とし、身延期以降に御本尊を顕示される境地についても「究竟本尊に於る宗祖の御境地は絶待妙、以前の未究竟の時は相待妙として本迹を立てらるべし」(同前三八九頁)と述べている。
 先にも触れたが、宗祖の御本尊を相待妙とも見るのは、阿部独自の説と考えられる。すでに教学部長時代の『日蓮正宗要義』の中に究竟・未究竟の本尊論が見られることから、阿部にとっては長らく温めてきた説なのだろう。だが、五十六世・日応法主は、人法における体一を絶待妙、勝劣を相待妙に分類している。絶待妙とは久遠元初の人法体一の義、相待妙は久遠元初の妙法と色相荘厳の仏の勝劣を判ずる法門を指すと見られる。この日応法主の見解と、未究竟の本尊に対する究竟の本尊を相待妙とする阿部の説との間には、非常な懸隔がある。
 そもそも阿部は、文永・建治年間の大聖人の御本尊を「未究竟」とするが、日寛上人はこの間題について『観心本尊抄文段』で「或は仍文上を帯するか」と述べるにとどめ、文永・建治の御本尊を未究竟と判じられてはいない。日寛上人の意は、弘安の御本尊の「終窮究竟」に比べて文永・建治の御本尊がなお「文上を帯する」究竟でありうる、つまりは究竟の妙法の表現(相貌)において未完を考えうる、ということにあろう。文上の意が若干示された宗祖本尊といえども、御本尊の中央の妙法はあくまで人法体一である。その意味で、十界の聖衆の異同や御名花押の位置・大きさ等にかかわりなく、大聖人の妙法本尊はすべて人法体一=下種絶待妙の法体と拝すべきである。日応法主も、本尊中央の妙法五字と宗祖の御名を合わせて初めて人法体一ではなく、妙法五字がすでに法即人、宗祖の御名がすでに人即法であるとし、「人法同体」の意を述べている。ゆえに、大聖人が顕された妙法の曼荼羅御本尊に関しては、いかなる相貌であれ、そこに人法体一の絶待妙を見るのが宗門本来の信仰であろう。阿部の未究竟本尊説や相待妙本尊説には何ら日蓮仏法の正統的合理性がないと、筆者は考える
=i悪書二三八頁)
と述べる。
 ここで松岡は、五十六世・日応法主は、人法における体一を絶待妙、勝劣を相待妙に分類している。絶待妙とは久遠元初の人法体一の義、相待妙は久遠元初の妙法と色相荘厳の仏の勝劣を判ずる法門を指すと見られる。この日応法主の見解と、未究竟の本尊に対する究竟の本尊を相待妙とする阿部の説との間には、非常な懸隔がある≠ニ述べ、総本山第五十六世日應上人の御指南と日顕上人の御指南に非常な懸隔がある≠ネどと戯言を述べるが、実はここに松岡の邪念による意図的な曲解が存する。なぜなら、日應上人の御指南は、

人法ニ於テ二ツアリ曰ク體一ト勝劣トナリ體一ト者絶待妙ニ約シ勝劣ト者相對妙ニ約スルナリ(弁惑観心抄一一八頁)

と、人法体一の議論において、体一を絶待妙、勝劣を相待妙と述べられたものであり、日顕上人の御指南は宗祖の大曼荼羅化導において、究竟を絶待妙、未究竟を相待妙と述べられたものであり、そもそも議論の土台が違うからである。
 そのように、そもそも全く違う論議を並べ挙げ、非常な懸隔がある≠ニ非難するのであるから、誑惑以外の何ものでもない。
 なお、人法体一に関する待絶二妙に関して日顕上人は、『拝述記』に、

絶待妙義ハ人法体一ナルコト(拝述記一〇頁)
久遠元初本因妙ノ人法ハ本、霊山出現ノ脱益本果・応仏昇進ノ自受用ノ人法ハ迹ノ義ナリ。(拝述記二〇四頁)

と御指南である。人法体一に関する日應上人の御指南と一緒ではないか。
 松岡の疑難は、創価の走狗たるべく学会の専売特許である邪意・邪智による狡猾な議論のスリカエであり、日應上人を悪しく利用する大謗法であると断ずる。

 また松岡は、信力信眼による文義の理解に程遠く、僅かなる一片の字句のみに執われる。故に『観心本尊抄文段』(以下『本尊抄文段』)の「或は仍文上を帯するか」(御書文段一九六頁)の御文について、これを誑惑し、文永・建治の御本尊を未究竟と判じられてはいない≠ネど、厚かましくも、ぬけぬけと嘘言を吐いている。
 しかし、日寛上人は、すでにその御眼力において、文永建治の御本尊に、東方善徳仏・十方分身諸仏を挙げられていることについて、「此れに相伝有り」(御書文段一九六頁)といわれている。
 これは、文永・建治の本尊が未究竟であるという確定的なお考えがあった証拠と拝される。然るに敢えて「仍文上を帯するか」と仰せられたのは、御相伝の内容は直ちに明らかにすべきではない意味もあり、当時は写真もなく、便利な交通機関もなく、全国の諸寺諸山に散在する宗祖真筆御本尊のすべてを拝覧することが不可能であり、その一々についての証明が確定出来ない為に、一歩を譲って断定を避けられたのである。
 しかし、それが本意でない事は、その直後に

弘安の御本尊、御本懐を究尽するや。答う、実に所問の如し、乃ち是れ終窮究竟の極説なり。(本尊抄文段・御書文段一九六頁)

といわれ、更に後文に

故に知んぬ、弘安元年已後、御本意即ち顕われ畢わるなり。(御書文段一九七頁)

と宗祖大聖人の御境地を示し、更に再び

故に弘安元年已後、究竟の極説なり。(同)

と念記されている。此の文意をしっかり拝すべし。
 「弘安元年已後、御本意即ち顕われ畢わる」とは、それ以前の文永・建治は未だ御本意が顕れていないことであり、「弘安元年已後、究竟の極説」といわれることは、取りも直さず、それ以前の文永・建治は未だ究竟に非ず、則ち未究竟である事は明々白々、小児でも分かることではないか。
 松岡は、以上の日本語も満足に解することが出来ないのだ。
 これは、しかし、松岡の心中に邪念が存するからである。そのため何とか、文永・建治の御本尊にも究竟の意味があるようにでっち上げ、誤魔化そうとする。『三沢抄』の、

さどの国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ。(新編一二〇四頁)

の御文もその一例であるが、大体、究竟・未究竟とは、仏が衆生を導く大曼荼羅化導の上の法義である。
 大聖人の下種本仏たる御境地は、本来無始常住であり、日顕上人は、そこに本迹があるなどと仰せられているのではない。
 松岡よ、これら法門の立て分けも無知な浅識を、少しは恥じたらどうか。

 そもそも日顕上人は、『観心本尊抄文段』に、文永・建治の御本尊について、その未究竟の意義より「或は仍文上を帯するか」と述べられた日寛上人の御指南の正当性を証明される為に、『拝述記』に、

日寛上人ハ大聖人ノ本尊ニツキ、弘安元年以降ヲ究竟ノ本尊ト示サル。ソノ趣意ハ弘安元年ガ二千二百二十七年ナルニ関ワラズ、コノ年ヨリ仏滅讃文ヲ仏滅後二千二百三十余年トアソバス理由トシテ、諸抄ノ「コノ本尊ハ寿量品ニ説キ顕シ」云云ノ文ヨリシテ、法華経二十八品ヲ八年ノ説法トシテ一年三品半ニ当タル。故ニ寿量品第十六ハ入滅ノ四年前ニシテ、コレヨリ起算スルニ、弘安元年ハ二千二百二十七年ニ四年ヲ加ヘ、二千二百三十一年トナル故ニ二千二百三十余年ト遊バストノ会通ナリ。コノ趣意ニツキ、他門ノアル者ハ、二千二百三十余年ノ讃文ノ本尊ガ究竟ナリトイウモノト誤解シテ批難セリ。然ルニ一連ノ会通ニ於ル結論ハ、「三十余年」トアソバスコトヲ以テ、弘安元年以降ガ本懐究竟ト云ウニアルコトハ、文段ノ該文ニ明ラカナリ。則チ、本懐究竟トハ御本尊顕示ニ於ル時期ヲ云ウモノニシテ、一々ノ顕示御本尊ノ「二十余年」ニ対スル「三十余年」ノ讃文ノ本尊ニアリトイウニハアラズ。シタガッテ弘安元年以降、同三年ニ至ルマデ、現代ニ判明セル宗祖直筆御本尊中ニハ「二十余年」ト「三十余年」ノ本尊ガ共ニ相当数アリ。然ラバ弘安元年以降本懐究竟ノ本尊中ニ、何故「二十余年」トアリヤトノ疑問ガ生ズベシ。コレハ共ニ宗祖大聖人ノ御境地ニ於ル本懐究竟ナルナリ。弘安元年以降究竟ノ寿量妙法法体境地ヲ以テ、「三十余年」ノ本尊モ「二十余年」ノ本尊モ、共ニ顕示アソバサレタルナリ。弘安元年以降「三十余年」ヲ以テ寿量品ノ意ヲ示シ給ウハ、コノ表現表示ノ一分ナリ。宗祖ノ内容境界ガ元ニアルコトヲ知ルベシ。故ニ弘安元年究竟後ノ「三十余年」ノ本尊ハ、「雖脱在現具騰本種」(文会上─三六)ノ綱格ヨリ、寿量品ノ報身ヲ中心トスル故ニ久遠元初自受用身ヲ示シ給イ、マタ「二十余年」ノ本尊ハ、釈尊仏滅ノ年ヨリノ起算ニヨル同綱格ヨリ、寿量品非滅現滅ノ応身ヲ具ス三身相即トナル故ニ、マタ下種ノ意義ヲ以テ久遠元初無作三身ヲ示シ給ウモノト拝スベシ。共ニ熟脱ニアラズ、久遠元初下種ノ本尊ナルガ故ナリ。
更ニ論ゼハ、弘安元年以降究竟ノ本尊タル意義ハ、「三十余年」ニ仏滅讃文ヲ始メ給ウ件ノミニ非ズ。コノ期ヨリ、一幅ノ例外モナク善徳仏・十方分身諸仏ヲ除去シ給ウコトニモ明ラカニシテ、則チ文上ノ義ヲ排除整頓シ、元初自受用無作三身ノ十界互具・一念三千ノ如実相ヲ顕シ給ウモノト拝スベシ。又建治三年頃ヨリ、特ニ弘安ニ入ッテ首題直下ニ日蓮御名ヲ示シ給ウハ、御本尊七箇相承ノ左ノ文意ニヨルコト明ラカナリ。
 「七、日蓮ト御判ヲ置キ給ウ事如何(三世印判日蓮体具)。師ノ曰ワク、首題モ釈迦・多宝モ上行・無辺行等モ普賢・文殊等モ舎利弗・迦葉等モ梵・釈・四天・日月等モ鬼子母神・十羅刹女等モ天照・八幡等モ悉ク日蓮ナリト申ス心ナリ(乃至)師ノ曰ワク、法界ノ五大ハ一身ノ五大ナリ、一箇ノ五大ハ法界ノ五大ナリ。法界即日蓮、日蓮即法界ナリ。当位即妙不改、無作本仏ノ即身成仏ノ当体蓮華、因果同時ノ妙法蓮華経ノ色心直達ノ観、心法妙ノ振舞ナリ」(聖典三七九)
コレ弘安五年ノ相伝ニシテ、日蓮御名ニ於ル究竟ノ深義ナリ。コノ相貌、弘安元年以降ニ明ラカナリ。次ニ御花押ハ、弘安元年七月ノ御本尊ヨリ変化シ給ウ。七箇相承ニ云ク、
 「御判形ノ貌一閻浮提ノナリニテ御座スナリ。梵字ハ天竺、真ハ漢土、草ハ日本、三国相応ノ表事ナリ」(聖典三八〇)ト。
他門ノ相伝ノ如キ「ボロン」ノ一字ノミノ単一ニアラズ。三国乃至法界ニ遍満ノ御境界ヨリノ相貌ト拝スベシ。
更ニ、弘安二年二月、第三祖日目上人ヘ授与ノ本尊ヨリ以降ニ於テ、文永十一年七月二十五日ノ一幅ノ外、カツテナキ提婆達多ヲ加エ給イ、大漫荼羅中ノ地獄界ノ表示、十界皆成ヲ明示シ給ウハ、本門戒壇ノ意義ノ充足ト拝スベキカ。
サテ、弘安究竟後、門下僧俗ノ不惜身命ノ弘通ニヨリ熱原ノ法難アリ。コノ弘通受持ノ誠意、万古無窮ニ光被スルヲ叡感アッテ、出世ノ本懐タル本門戒壇ノ大御本尊ヲ顕シ給ウ。コレ宗祖大聖人ノ御境地ノ究竟ト弘通法難ノ惹起ト内因・外縁至ッテ、コノ大事ヲ成ジ給ウナリ云云。(拝述記一五九頁)

と、仏滅讃文、諸仏の除去、十界の整足、御署名・御花押の位置、御判形の変化等の深義より考察され、文永・建治の御本尊は、まさしく未究竟であると判じられたのであるから、むしろ日寛上人の御指南に沿って、さらに宗祖の大曼荼羅化導について拝考されたと拝すべきである。
 さて松岡は、日寛上人の「文上を帯するか」との御指南について、究竟の妙法の表現(相貌)において未完を考えうる≠ネどと懸命に会通を試みているが、通常の頭脳の持ち主は、それを「未究竟」と解するであろう。呆れた愚言は哀れとしか言いようがない。
 また松岡は、文上の意が若干示された宗祖本尊といえども、御本尊の中央の妙法はあくまで人法体一である。その意味で、十界の聖衆の異同や御名花押の位置・大きさ等にかかわりなく、大聖人の妙法本尊はすべて人法体一=下種絶待妙の法体と拝すべきである≠ニ述べる。松岡は何か勘違いしてないか。
 日顕上人は、究竟・未究竟の日寛上人の御指南を根本に、究竟中の究竟、本懐中の本懐である「本門戒壇の大御本尊」が下種絶待妙の大法体なる上から、宗祖の大曼荼羅化導において待絶二妙を判釈なされたわけであるが、『拝述記』に、

竜ノ口ノ後ヨリ妙法本尊ノ顕示ヲ始メ給イ、以後、一期ニ於ル本尊顕示ハソノ時々ノ待絶二妙ニシテ、爾前権迹ノ仏像経巻本尊ニ対スル相待妙ト、下種本尊ニ於ル絶対妙義アルナリ。(拝述記三八七頁)

と述べられているように、種脱相対判の上からは、すべての下種本尊とそれ以外の一切の爾前権迹等の本尊とを相対して勝劣を判じる相待妙に対して、大聖人のすべての下種本尊は絶待妙であると判じられているではないか。
 さらにまた、『拝述記』に、

閻浮総与タル本門戒壇ノ本尊ノ当体ハ絶待妙ニシテ、各個別々ノ本尊及ビ血脈付法ノ本尊ハ相待妙ナルモ、絶待ニ帰一セバ絶待妙ノ意アリ。(拝述記三八七頁)

と、下種絶待妙の「本門戒壇の大御本尊」に帰一すれば、すべての正信の下種本尊は絶待妙となると仰せられている。
 毛筋ほどの信心もない松岡には、仏滅讃文、諸仏の除去、十界の整足、御署名・御花押の位置、御判形の変化などの大曼荼羅化導における日顕上人の甚深の御指南が領解できないのだ。哀れな者である。

 つぎに、松岡は、
問題はまだある。発迹顕本の後における本仏大聖人の究極的境地を、さらに二妙の本迹に立て分けるのはどういう了見なのか。御本仏の究極的境地から出た種々の御化導に対し、二妙の本迹を立てるのならわかる。けれども阿部は、御本尊顕示に関連させて、御本仏の究極的境地そのものに二妙の本迹を立てるのである。すなわち、建治年間に未究竟本尊を顕した宗祖の境地は発迹顕本の後であっても相待妙の迹となる、と主張している。宗祖は「生知の妙悟」で初めから内証に本仏の体を具えていたが修行振舞いの上から発迹顕本をなされた、というのが阿部の理解である(『拝述記』三八八頁)。どうやら彼は、大聖人の内証とその時々の境地を区別するらしい。『正宗要義』を見ると、「自身の御内証とは別に……未だ凡夫即極の本仏の境地を一歩控えられ、本門文上の方便にとどまる」「大聖人の大曼荼羅境界において、佐渡より身延前期までが内証と顕体未相即未究竟の迹門分、身延後期が内証と顕体一致相即究竟の本門分」「弘安元年以降のすべては大聖人の境智の究竟後の本尊」云々と記されている。そのような考え方から、阿部は、本仏の内証が顕われた竜の口以後の境地にも本迹があっておかしくないと考えた節がある。しかし、いずれにしろ、これでは発迹顕本の意義を相対化するに等しい=i悪書二四〇頁)
と述べている。この見解は、日顕上人が、宗祖大聖人の御内証の御境地に本迹を立て分けたと見ているわけである。
 これも前述したが、大聖人の下種本仏たる御境地は、本来無始常住であり、日顕上人はそこに本迹があるなどと仰せになられたのではない。もう少し『拝述記』を、しっかりと拝読せよ。
 日顕上人は『拝述記』に、

法ニ約セバ云ク、宗祖大聖人一代ノ化導ニ、佐前、佐後、身延アレドモ、ソノスベテハ三大秘法弘通ノ次第進展ニアリ。ソノ本門ノ究竟ハ弘安元年以降ニアル故ニ、ソノ当体ニ自ズカラ究竟ノ戒壇具ワリテ三秘整足スレドモ、コレ一往義ニ於ル整足ナリ。更ニ事ノ上ノ戒壇建立ノ為、カツハ末法万年ノ施化ノ中心トシテ整足シ給ウハ、本門戒壇ノ大御本尊ナリ。ココニ約法ノ上ノ下種絶待妙アルナリ。シタガッテ以前・以後ノ一切ノ本尊ト法門ハ、コレヨリ判ジテ相待妙トナリ、「相待ハ迹、絶待ハ本ナリ」ノ判開究竟ス。(拝述記三八八頁)
人ニ約サバ、生知ノ妙悟トシテ御誕生、乃至宗旨建立ノ時ヨリ、大聖人ノ御内証ニ久遠本仏ノ体ハ具エ給エドモ、修行振舞イノ上ノ倶体・倶用ノ開現ハ、竜ノ口ノ発迹顕本ニアリ。故ニ顕本ノ日蓮大聖人ヨリ前ノ凡身日蓮ヲ相待セバ、竜ノ口顕本ノ日蓮大聖人ハ絶待妙ニシテ、以前ハ相待妙ナリ。更ニ身延期ニ久遠元初自受用・無作三身タル究竟ノ本尊ヲ顕シ給ウ化導上ノ前後ニ於テ拝セバ、究竟本尊ニ於ル宗祖ノ御境地ハ絶待妙、以前ノ未究竟ノ時ハ相待妙トシテ本迹ヲ立テラルベシ。(同)

と、下種の人と法に約して、化導上の前後において、待絶二妙の本迹を示され、特に所顕の本門戒壇の大御本尊と能顕の宗祖の御境地を述べられている。
 それは、「約法」の御指南は、相待絶待の立義を「宗祖大聖人一代ノ化導」の一筋に述べられるのに対し、「約人」の御指南には、相待絶待の立義を「修行振舞イノ上ノ倶体・倶用ノ開現」たる発迹顕本の前後と、「究竟の本尊を顕す化導上」の前後の二筋に述べられていることである。
 その中で、日顕上人は、宗祖の御内証について、「久遠本仏ノ体ハ具エ給エ」ると仰せられているのであるから、その御境地に本迹を立てられていないことが明らかではないか。しかして、大聖人の御修行御振舞いの御化導の上より拝するならば、倶体倶用の御内証の顕現である発迹顕本における大聖人の御境地を絶待妙と拝され、已前の凡身を相待妙と拝されたのである。
 「約法」「約人」ともに、御本尊の開顕を中心の化導として立てられた待絶二妙であり、「約法」では三大秘法について、事の上の戒壇建立の為・末法万年の施化の中心の意義により、本門戒壇の大御本尊を絶待妙とされ、以前・以後の一切の御本尊と法門を相待妙に配され、また「約人」では弘安元年以降の久遠元初自受用・無作三身たる究竟本尊における宗祖の御境地を絶待妙、以前の未究竟の時の御境地を相待妙と配されたのである。
 しかるに松岡は、発迹顕本の後における本仏大聖人の究極的境地を、さらに二妙の本迹に立て分けるのはどういう了見なのか。御本仏の究極的境地から出た種々の御化導に対し、二妙の本迹を立てるのならわかる。けれども阿部は、御本尊顕示に関連させて、御本仏の究極的境地そのものに二妙の本迹を立てるのである≠ニいうが、日顕上人の御指南は前記の如く、大聖人の究極的境地≠スる御内証に本迹を立てるのではなく、あくまで大曼荼羅化導の上に、法の上からは大御本尊を絶待妙、人の上からは究竟本尊を顕示される宗祖の御境地を絶待妙と立てられるのであり、それを御本仏の究極的境地そのものに二妙の本迹を立てる≠ニいう松岡の主張は、そもそも誤認識の定義による論難であり、的はずれの議論である。
 なお、大聖人の大曼荼羅化導において、日寛上人は「御本意即ち顕われ畢わる」(御書文段一九七頁)弘安元年以降の御本尊を究竟、それ以前の御本尊を「文上を帯する」として未究竟と御指南遊ばされている。その大曼荼羅化導においては、当然、究竟・未究竟、それぞれの御本尊は、その時々の宗祖の御境地より顕れ給うものであるから、究竟の御本尊を顕す宗祖の大曼荼羅化導の御境地は絶待妙であり、その絶待妙よりすれば、未究竟の御本尊を顕す宗祖の大曼荼羅化導の御境地は相待妙ではないか。日顕上人は、それを仰っているのであり、また宗祖の御内証の顕現は法華経の行者の修行振舞による発迹顕本で究竟されたが、元初本仏の体は生知の妙悟として御誕生以来具わり給うことを仰せられているのである。
 よって、大曼荼羅化導においては、究竟・絶待妙、未究竟・相待妙と、そもそも本来的に別のものを、松岡は恣意的に御本仏の究極的境地≠ニして一つであるかのように誑惑するのである。そこに大いなる欺瞞があるのだ。
 以上の松岡の論議は、日寛上人の御指南を補強せられた日顕上人の御指南のみならず、日蓮大聖人の御化導、日寛上人の大曼荼羅化導に関する御指南をも隠蔽する邪義邪説と断ずるものである。
 日顕上人の御指南は、微細に亘り精密に論証された明確な御教示であり、宗祖大聖人の大曼荼羅御化導、日寛上人の「究竟・未究竟」の御指南を、より鮮明に発揚されたものであることが明らかである。

 またつぎに松岡は、
日開法主は、日蓮宗学者の清水梁山を破折しようとした論文中で、顕本後の佐渡期の宗祖が「尚身業読誦中」ゆえに本懐大事の法門を充分に顕されていないなどと記し、宗内で問題にされたという。『寺泊御書』『開目抄』等の記述に基づけば、大聖人は佐渡に流罪された時点で、勧持品の「数数見擯出」の文を含む法華経の身読を終えられたと見てよい。だが、阿部は『正宗要義』で日開の“佐渡身読中”説に固執し、『拝述記』でも弘安以前の宗祖の境地を迹とした。かくして阿部親子は、二代にわたって顕本後の御本仏を相対化してみせたわけである=i悪書二四一頁)
と疑難している。
 これは日開上人が『他派の本尊問題並びにそれに関する清水梁山氏の誣妄を誡む』と題する論文で、

宗祖大聖人、佐渡御流罪中はなお身業読誦中にあらせらるゝを以て(日開上人全集四〇三頁)

と述べられたことと、日顕上人の、

佐渡においては内証の境界は究竟せられたが、いまだ身業読誦も終わらず、時機も至らずして、本懐の大漫荼羅顕現についてはその準備の時機にあったのである。(中略)更に三大秘法の法門の表示からすると、佐渡期のほとんどの御書に三大秘法の名目は示されていない。観心本尊抄においても
 「本門寿量品の本尊並びに四大菩薩」(新編六五四)
と本尊の人法を挙げられた文、あるいは
 「事行の南無妙法蓮華経の五字並びに本門の本尊、未だ広く之を行ぜず」(新編六六〇)
と題目・本尊の二秘を示されながら、戒壇の文字を秘されているのも、身業読誦のいまだ終わらないことを鑑みられたのである。(日蓮正宗要義一七一頁)

との御指南、また、

一期御弘通ノ大法タル三大秘法乃至三大事ノ名称ハ、佐渡在島中ノ各抄ニ拝セラル。即チ文永九年五月二日ノ四条金吾殿御返事ニ、
 「今日蓮ガ弘通スル法門ハセバキヤウナレドモハナハダフカシ(乃至)本門寿量品ノ三大事トハ是ナリ」(御書五九七)
ト始メテ「三大事」ノ言アリ。マタ文永十年五月二十八日ノ義浄房御書ニ、
 「『一心ニ仏ヲ見タテマツラント欲シテ自ラ身命ヲ惜シマズ』云云。日蓮ガ己心ノ仏果ヲ此ノ文ニ依ッテ顕ハスナリ。其ノ故ハ寿量品ノ事ノ一念三千ノ三大秘法ヲ成就セル事此ノ経文ナリ」(御書六六九)
ト仰セラル。コレ三大秘法ノ語ノ初見ナリ。右、佐渡期ノ両書ニ三大事・三大秘法トアリ。ソノ中ノ題目ハ宗旨建立以来、本尊ハ文永十年四月ノ観心本尊抄ニ弘通ノ体トシテ顕シ給ウモ、明確ニコノ三ノ中ノ「戒壇」ナル語ハ未ダ示サレザルナリ。但シ、戒壇ノ語ハ、佐渡在島中、一箇処ノミ追文中ニ例外ヲ拝ス。即チ文永十一年一月十四日ノ法華行者値難事ノ追伸ニ、
 「天台・伝教ハ之ヲ宣ベテ本門ノ本尊ト四菩薩・戒壇・南無妙法蓮華経ノ五字ト、之ヲ残シタマフ(乃至)今既ニ時来タレリ、四菩薩出現シタマハンカ」(御書七二〇)
ノ文ナリ。但シ未ダ身業読誦終ラザルヲ以テ、弘通ノ体ヲ「天台・伝教(乃至)之ヲ残シタマフ」マデノ意味ニ止メ、四菩薩ノ出現ヲ未来ニアテガイ給ウ。(拝述記三一五頁)

との御見解が同一であることについての疑難である。
 身業読誦に関して、松岡は、『寺泊御書』『開目抄』等の記述に基づけば、大聖人は佐渡に流罪された時点で、勧持品の「数数見擯出」の文を含む法華経の身読を終えられたと見てよい≠ニいうが、『寺泊御書』『開目抄』を拝しても身業読誦の終了・完結とはされていない。
 また日寛上人は『末法相応抄』に、

答う、此れは是れ身業読誦にして口業の読誦に非ざるなり。此の抄は文永八年辛未九月十二日竜口の後、相州依智に二十余日御滞留の間、佐州に遷されんとする五日已前の十月五日の御書なり。此の時、法華経一部皆御身に当てて之れを読ませたもうが故なり。(六巻抄一二一頁)

と、佐渡配流をもって身業読誦とされているが、これは『転重軽受法門』の「今日蓮法華経一部よみて候」(新編四八一頁)の解釈について、その文意は身業読誦を表した意味であって口業読誦の意味ではない、との趣旨が主眼であり、したがって、「読ませたもう」の意味は、「数々見擯出」等の法華経一部を身で読まれている、身で読んでいるという意味であり、読み終えたとの意味ではない。 『四恩抄』は弘長二年一月十六日、伊豆配流の時の御書であるが、

去年の五月十二日より今年正月十六日に至るまで、二百四十余日の程は、昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存じ候。其の故は法華経の故にかゝる身となりて候へば、行住坐臥に法華経を読み行ずるにてこそ候へ。(新編二六六頁)

と、「昼夜十二時」「行住坐臥」に身業読誦されていることを述べられている。ここから身業読誦とは受難中を指すことが拝せられる。文永八年九月十五日、竜の口顕本直後の『土木殿御返事』には、

御歎きはさる事に候へども、これには一定と本よりごして候へばなげかず候。いまゝで頸の切れぬこそ本意なく候へ。法華経の御ゆへに過去に頸をうしなひたらば、かゝる少身のみにて候べきか。又「数々見擯出」ととかれて、度々失にあたりて重罪をけしてこそ仏にもなり候はんずれば、我と苦行をいたす事は心ゆへなり。(新編四七七頁)

と、度々失にあたることによって、「重罪をけしてこそ仏にもなり候はんずれば、我と苦行をいたす事は心ゆへ」と「数々見擯出」が決定すれば終了とされるのではなく、その難を受けられ苦行することを身業読誦の意義とされているのも同趣旨である。
 佐渡配流の翌年、文永九年五月五日の『真言諸宗違目』には、

空に読み覚へよ。老人等は具に聞き奉れ。早々に御免を蒙らざる事は之を歎くべからず。定めて天之を抑ふるか。藤河入道を以て之を知れ。去年流罪有らば今年横死に値ふべからざるか。彼を以て之を惟ふに愚者は用ひざる事なり。日蓮が御免を蒙らんと欲する事を色に出だす弟子は不孝の者なり。敢へて後生を扶くべからず。各々此の旨を知れ。(新編六〇二頁)

と、佐渡赦免について天の時を鑑みられているが、ここで横死について触れられ、「去年流罪有らば今年横死に値ふべからざるか」と、そういう事はないであろうと述べられるが、更に翌年、在島中の文永十年七月六日の『富木殿御返事』には、

設ひ日蓮死生不定なりと雖も、妙法蓮華経の五字の流布は疑ひ無き者か。(新編六七九頁)

と、大聖人は御自身の死生を不定とされている。これは赦免後の建治三年の六月の『下山御消息』に、

去ぬる文永八年九月十二日都て一分の科もなくして佐土国へ流罪せらる。外には遠流と聞こへしかども、内には頸を切ると定まりぬ。(新編一一五一頁)

と示されるように、佐渡配流は単なる流罪ではなく、実には死罪の意味であったからである。
 しかし弘安元年九月六日の『妙法比丘尼御返事』に、

又国主より御勘気二度なり。第二度は外には遠流と聞こへしかども内には頸を切るべしとて、鎌倉竜口と申す処に九月十二日の丑の時に頸の座に引きすへられて候ひき。いかゞして候ひけん、月の如くにをはせし物、江島より飛び出でて使ひの頭へかゝり候ひしかば、使ひおそれてきらず。とかうせし程に子細どもあまたありて其の夜の頸はのがれぬ。又佐渡国にてきらんとせし程に、日蓮が申せしが如く鎌倉にどしうち始まりぬ。使ひはしり下りて頸をきらず、結句はゆるされぬ。今は此の山に独りすみ候。(新編一二六四頁)

と説かれるように、自界叛逆難の予言の的中により結局、佐渡配流は赦免となった。これにより『神国王御書』に、

一生補処の菩薩は中夭なし、聖人は横死せずと申す。(新編一二九九頁)

と説かれるように、佐渡の流・死の御難による横死を避けられて、大聖人が聖人であることを実証せられたのである。
 このように佐渡配流中は、まさに数々見擯出の身業読誦中であり、赦免によって身業読誦は終了するのである。だいいち、「数々見擯出」の文義を考えてみよ。擯出の終始の全てがそのまま身業読誦であることは、何人にも明らかな道理ではないか。
 ゆえに松岡が、阿部は『正宗要義』で日開の“佐渡身読中”説に固執し、『拝述記』でも弘安以前の宗祖の境地を迹とした。かくして阿部親子は、二代にわたって顕本後の御本仏を相対化してみせたわけである≠ネどの悪言を吐くことは、日開上人・日顕上人の御指南の正意を正しく理解できない愚癡である証拠であり、大聖人・日寛上人の御指南に背く邪義・邪説なのである。
 以上のことから、日開上人・日顕上人が佐渡御流罪中を身業読誦中とされることは、まさしく諸御書に示された大聖人の御指南、日寛上人の御指南に適っていることが明らかである。

 また松岡は、
阿部は『正宗要義』で日開の“佐渡身読中”説に固執し、『拝述記』でも弘安以前の宗祖の境地を迹とした。かくして阿部親子は、二代にわたって顕本後の御本仏を相対化してみせたわけである。
 日寛上人は、妙楽の言葉を引き、宗祖の『法華取要抄』に「所対を見て経経の勝劣を弁うべきなり」(全集三三二頁)とあることも示しながら、迹門に対する所対不同の見方を教えた。だが、最終の立場である種脱相対の後に、さらなる所対不同などはありえない。しかるに阿部は、すでに確立された下種本仏の究極的境地にまで所対不同の原理を持ち込もうとする。これではまるで「六重の相対」であり、宗祖の発迹顕本が二回あったようではないか。阿部が宗祖の発迹顕本後の御境地を所対不同的に論ずる時、もはや顕本の顕本たるゆえんは失われ、論理は自己矛盾を呈してくる
=i悪書二四一頁)
と述べているが、まったく素人の見解である。
 そもそも種脱相対は相対と示されるところに明らかなように、種脱の相対によって、そこから顕れるべき法体が当然ある。そんなことも分からないのか。すなわち、それは文義意の意の重に示される御本尊である。脱益仏法と下種仏法とを相対して、勝劣・浅深を判ずるのは下種相待妙の法門である。この後に脱益仏法を開会する下種絶待妙の法門があるのは当然であろう。創価学会の用いている『御書全集』には、

下種の二妙実行の本迹 日蓮は脱の二妙を迹と為し種の二妙を本と定む、然るに相待は迹・絶待は本云云。(全集八六七頁・新編一七〇〇頁)

とあるではないか。これは註の文ではなく本文である。下種仏法の中にも大聖人の御指南として、このような「二妙」の立て分けが存しているのは誰の目にも明らかなことである。それを松岡は六重の相対であり、宗祖の発迹顕本が二回あったようではないか≠ネどということは、「素人裸足の法門」であり、これを無知丸出しという。論理は自己矛盾を呈して≠「るのは、まさしく松岡のことである。

 またつぎに松岡は、
加えて述べるが、阿部による不自然な待絶二妙の適用は題目論や折伏論にも及ぶ。宗旨建立後の化導において題目を絶待妙、折伏を相待妙とし、『立正安国論』に関しても文中の「実乗の一善」(全集三二頁)が絶待妙、法然の撰択集の破折の箇所は相待妙だとする(『拝述記』三八六頁)。下種仏法の修行は自行化他にわたる題目であり、唱題と折伏は切り離せない。仏法究極の事の一念三千を修行するからには、自他共の成仏を目指すのが当然である。それを、阿部のごとく題目が絶待で折伏が相待などとし、そこに本迹勝劣を立てるならば、他者の救済の軽視にもつながりかねない。究極唯一の下種仏法の法体内部に細々と本迹の区別を持ち込むのは、煩瑣、無益なことはもとより、法義を撹乱する悪質な区別主義であるように、筆者には思える=i悪書二四二頁)
と述べている。しかし、『阿仏房尼御前御返事』に、

日蓮は種々の大難に値ふといへども、仏法中怨のいましめを免れんために申すなり。但し謗法に至って浅深あるべし。偽り愚かにしてせめざる時もあるべし。真言・天台宗等は法華誹謗の者、いたう呵責すべし。然れども大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし。然る間、まづまづさしをく事あるなり。立正安国論の如し。(新編九〇五頁)

と御指南のように、文応元年に著された『立正安国論』の中の所破・所顕の法門は、念仏は破折されても真言は破折されていないが、題目の弘通は御化導の始終に一貫している。日顕上人は、『拝述記』に、

宗旨建立時ノ妙法ハ、一期化導ノ上ニテハ本門ノ題目ニシテ、未ダ本尊ノ顕示ナキモ、宗祖ノ内証ハ既ニ下種本因妙ノ教主ナレバ、ソノ所唱ノ題目ハ即チ絶待妙ニシテ、念仏等ヲ破折スル折伏ノ法門ガ相待妙ナリ。マタ進ミテ立正安国論ノ破顕ニ於テモ、文中ノ「実乗ノ一善」(御書二五〇)ガ絶待妙、撰択集破折ハ相待妙ナリ。(拝述記三八六頁)

と述べられている。本門の題目は三大秘法中にあり所顕の法体である。念仏破折は所対不同の所破の法門である。ではこの破折の法門はどこから出てくるのか。これは下種の法体と修行に対する、念仏の法体と修行の対比の上に、権実相対の法門によって破折されているのであって、下種の法体がなければこのような破折はありえない。日顕上人は自行としての下種の法体と、そこから開出される化他の法門との対比を述べられているのである。化他とは、相手の誤りを破し正義を示す相対の法門である。そこに待絶二妙が立つのは、至極簡単な道理である。
 この御指南に対して、松岡が阿部のごとく題目が絶待で折伏が相待などとし、そこに本迹勝劣を立てるならば、他者の救済の軽視にもつながりかねない≠ネどということは、悩乱していなければ言えないことである。
 しかも前述の如く、日顕上人は重々の「二妙」の区別を示されているのである。松岡の区別を持ち込む≠ニの言辞は、これも迷乱・悩乱による誤謬から生じた邪解に過ぎないのである。
 また松岡は、
『拝述記』での阿部は、「下種仏法内に於る戒壇の本迹」にも言及し、戒壇本尊の在所を本、他の一切の宗門本尊の安置の場を迹と立て分けるなど(同前三二二頁)、とかく文底下種の法体内部の細分化に余念がない様子である。『百六箇抄』における種の本迹五十六箇は「種本脱迹」の内容であり、よく本質を見極めれば文底下種・人法体一・事の法体そのものに本迹を分ける義は見当たらない。しかるに下種の法体の分析にこだわる阿部の態度は異質と言ってよく、極端な話「三世実有・法体恒有」を唱え、法の分析に明け暮れた部派(小乗)の説一切有部の煩瑣哲学にも似た傾向性を感じさせる=i悪書二四二頁)
と述べるが、本門の戒壇については、すでに日寛上人が『文底秘沈抄』に、

夫れ本門の戒壇に事有り、義有り。所謂義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処、義の戒壇に当たる故なり。例せば文句の第十に「仏其の中に住す即ち是れ塔の義なり」と釈するが如し云云。正しく事の戒壇とは一閻浮提の人の懴悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず、梵天・帝釈も来下して踏みたもうべき戒壇なり。秘法抄に云わく「王臣一同に三秘密の法を持たん時、勅宣并びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、時を待つべきのみ、事の戒法と申すは是れなり」等云云。宗祖の云わく「此の砌に臨まん輩は無始の罪障忽ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜんのみ」云云。(六巻抄六一頁)

と、事と義に立て分けておられるではないか。松岡の疑難は、この日寛上人の御指南に対して、文底下種の法体内部の細分化に余念がない≠ニいい、また三世実有・法体恒有」を唱え、法の分析に明け暮れた部派(小乗)の説一切有部の煩瑣哲学にも似た傾向性を感じ≠驍ニいっていることになる。
 つまり、松岡は日寛上人に対しても、逆罪を犯しているのである。

 この章の末尾に松岡は、
本迹の立て分けは、果たして阿部のごとく、究極の境地や法体をさらに細分化するために用いられるべきなのだろうか。『百六箇抄』の末文には「立つ浪・吹く風・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり」(全集八六九頁)とある。後加文であるが、森羅万象の本質を見極めるべく本迹を立て分けよと言うのなら、仏教的合理性に適っている。そして、これによれば、本迹の区別はむしろ仏法の外へ、つまり現実世界に向けてなされるべきである。『百六箇抄』が示す仏法内の本迹は究極の法体を他から弁別するが、その究極を知れば、どこまでも事相に向かう下種仏法ゆえ、今度は現実世界、現実生活の本迹を鋭く峻別すべしということになる。池田会長の百六箇抄講義では、当文に即して「本迹とは、たんに仏法上の原理ではない。私たちの行動原理であり、また、生き方の規範そのものであると申し上げておきたい」(『会長講義』二三頁)と述べられている。阿部とは対照的に、池田会長は日蓮仏法の本迹観を信仰実践や社会生活に自在に適用、展開しようとする。「人間として存在している、その生命自体が本、私たちの社会に示す姿は迹となります」「有為転変の現象が迹であり、その営みを貫く不滅の当体が本となる。その本を覚知して、妙法による環境革命をなしゆくことが、物物において本迹を顕す者となることであります」 (同前七三、七四頁)。
 合理的な日蓮仏法者は、阿部の区別主義的な煩瑣教学ではなく、池田会長の自在的で現実的な講義の方が、凡夫即極、色法成仏、事の一念三千といった『百六箇抄』の教説の核心に合致すると判断するであろう。阿部の教学に対しては、本稿で定義した正統的・仏教的な合理性からの逸脱と、「事」から「理」への退行の臭いを、敏感に嗅ぎとるのではなかろうか
=i悪書二四三頁)
と述べるが、これも松岡の主張に通底することで、池田大作・創価学会絶対肯定主義を守るために、日顕上人を全否定する邪説であるが、日蓮大聖人の正義に反する邪義を自在的で現実的な講義≠ナ聞かされてはたまったものではない。これは所詮、松岡が池田大作に媚びる故の下卑た諂いである。
 『百六箇抄』は種脱弁別の上に、下種仏法の深義を述べられた相伝書である。これこそ本筋の法門である。
 日顕上人の『拝述記』は、種脱のけじめの一切を大聖人の御指南に従って、素直に、正直に、また正確に拝述されているのだ。故に種脱の弁別は、すべてそのように説かれている。そして下種の法の中に更に相待・絶待が示される御文には、またそのように御聖意に即して、ありのままに拝されているのである。
 日顕上人の御指南は、『百六箇抄』の各文にしても、他の重要御書の文にしても、その文義意を正しく拝されて説かれている。松岡の如き一知半解の徒が窺知できることではない。故に正理の文を不合理と見て見当違いの誹謗を撒き散らすのである。
 松岡は、池田の実践的・社会的に適用展開するのが本迹を顕すことという意味の言を長たらしく引いて、阿部の煩瑣教学でなく池田会長の自在・現実的な講義が百六箇抄の核心に合致すると、日顕上人と池田を対比している。この松岡の考えは、『百六箇抄』の基本と応用という差別と、その意義を全く理解してない。
 『百六箇抄』の御文に忠実な拝説は法義の基本であり、池田の言の如きは、その応用の一部でしかない。この関係は当然、基本が本で、応用は迹となる。
 しかるに本来池田は三宝の拝信者であるにも関わらず、その元は自分であると置き換え、我れが一切の中心なりとの思い上がりによって、あらゆる実体のそぐわぬ大言壮語をなすのである。しかし、池田や松岡は、その思い上がりにより、自らが結局、生住異滅・生老病死の変化の中にある凡夫であるという謙虚さを忘れ、有為転変の身を不滅の意義ありと、のぼせ上がっているに過ぎない。
 従って池田の迹の立場における応用の言にも無理があり実相に反している。すなわち、法門の厳然たる構格を無視し、あちこちで恣意的な言辞を連ね、仏法を下げているのみである。これらの原因は、池田が「創価仏法」とか、「大聖人直結」など、不逞かつ勝手な言を吐き、宗門信徒の信条に背いて、下種三宝を蔑視軽視したことにある。それらの結果、論より証拠として池田の現在の状態はどうか。池田の生活相は、一つには二年近くに渉り、一切公式の場に姿を現していないこと。二つには、それに伴う日常生活について、はっきりした生存と動作、生活活動が、もしあるのなら、その状態を記録発表する方法は、いくらでもあるにも関わらず、それが可能なことを証明しようとしないのは、どういう訳か。結局それができない状態にあるらしいという推論に至るのである。
 過去にどんな傲慢による大言壮語を吐いていようと、道理・証文より現証にすぎず、現在が右のような有様では、因果応報の相が明らかではないか。
 松岡よ、少しは現状を直視せよ。
 そもそも、日蓮大聖人の深義を翫ぶ池田会長の自在的で現実的な講義≠ネどを信用すれば、『百六箇抄』の教説の核心≠ゥら決定的に遠ざかることになる。すなわち日蓮正宗の血脈法水の御相伝こそ「事」であり、そこから離れればそれはすべて「理」への退行=Aすなわち大謗法を意味するのである。


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