5 非学問的な衒学趣味≠糺す


 この章で松岡は、第一に無味乾燥な知識の羅列が続くことである≠ニして日顕上人の教学を非学問的な衒学趣味≠ニ述べている。「衒学」とは、

学問や知識があることを自慢したり見せびらかしたりすること。学問を鼻にかけること。(日本国語大辞典第五巻九頁)

であるが、松岡は日顕上人に対してその教学を衒学趣味だと謗っているわけである。しかし一代仏教に精通した方が、その学識を持って何かを論述された場合、その引証にあらゆる文献が縦横無尽に用いられることは至極当然のことである。また、過去の四依の人師・論師が述べておられないことを、後代の方が述べられることも多々ある。もし、それをもって「衒学趣味」というのならば、松岡の非難は真っ先に宗祖日蓮大聖人に向けられるべきである。たとえば「四依」について日顕上人は『観心本尊抄』御説法において、

寿量品の「是好良薬。今留在此」の「是の好き良薬」とは何だということについて、天台大師が初めて「良薬とは四依である」ということを示されました。四依というそれぞれの時代における人格が出現して法を説くことが是好良楽の意義であるということを言われたのです。
 ところが釈尊滅後の時代に正法、像法、末法とあって、大集経によれば、正法の前の五百年が解脱堅固、後の五百年が禅定堅固、それから像法に入って前の五百年が読誦多聞堅固、後の五百年が多造塔寺堅固となっており、それについて一々に四依が存するということをはっきりお示しになったのは大聖人様です。すなわち、この文の所で大聖人様がはっきりおっしゃっておる。そういう問題に関して大聖人様がここで初めて決着をつけられたのです。それ以前の人はだれも仏法の一切の総決算をする力がないから、そういうことには触れられません。大聖人様が初めて、四依に四種類があることを、ここにお示しであります。(大日蓮平成二年一月号五四頁)

と御指南されているが、このように天台大師がはじめて示された「四依」の意義を、大聖人はさらに徹底してお示しなのである。前代未聞の下種仏法の出現により、一切の仏教は文底に帰入・帰一し、大聖人はそこからさらに前人未踏の教義を無尽に展開されており、御書における天台・妙楽の引用文は膨大な数に上る。松岡はこれを衒学趣味≠セというのか。
 また、日寛上人がはじめて明かされ示されることも一つや二つではないし、その御述作の中で内外の典籍を引証に用いられることは、これまた大変な数に上る。松岡はこれを衒学趣味≠セというのか。
 第五十九世日亨上人は、『富士宗学要集』等に膨大な文献を紹介され、特に宗史において多くの新発見をされている。松岡はこれを衒学趣味≠セというのか。
 松岡はただ日顕上人にのみ、衒学趣味≠ニいう言葉を使用しているのである。要するに、松岡の日顕上人批判は冷静・公平な評価とはほど遠いものである。ただ「日顕上人憎し」との池田大作の心を知るが故に、池田大作と創価学会に諂って日顕上人を全否定しているに過ぎない。そのために、このような珍奇な用語を探してみたり、アリストテレスを連れてきたり、無駄な抵抗を繰り返しているが見苦しいだけである。
 松岡はこの中で、まず、
阿部の著述類を読んで辟易させられるのは、第一に無味乾燥な知識の羅列が続くことである。『拝述記』で言えば、「戒壇」「灌頂」「八相」「四諦」「十二因縁」「十不二門」等の仏教用語の解説を延々と行い、経典や天台関係の論書、宗祖の御書からの引用を不必要なほど列挙する傾向が目立つ。初学者向けの入門書でもあるまいし、基礎知識の確認は最小限でよい。特に一般仏教について、阿部が専門家ぶって蘊蓄を垂れる必然性はどこにもない=i悪書二五六頁)
と非難をしている。辟易≠ニいうのは松岡の主観であるが、これは池田大作の「ドイツ語聞いているみたい……」調に酷似している。「師は針の如く、弟子は糸の如し」というが、全く同徹である。この感覚は、第一章の目が痛くなるようなカタカナ≠ニ同じだが、これでは松岡は漢文体の御書を拝読するときも、きっと辟易≠オているのだろう。
 さて、説法・著述には対告衆がいる。『拝述記』は、「初学者」の新任教師から、練達の老僧まで幅広い僧侶に対して講義されるのであるから、初義から深義まで含まれる。この教導には、『曾谷入道殿許御書』に、

此の大法を弘通せしむるの法には、必ず一代の聖教を安置し、八宗の章疏を習学すべし。(新編七九〇頁)

と説かれているとおり、各宗の広汎な仏教文献を渉猟しなければならない。松岡はこれらの文献を本棚に積んでおけばよいと考えているのであろうか。しかし大聖人は「習学すべし」と仰せである。
 仏教三千年の歴史の中では、正・像時代にはそれぞれの四依の教導により、数多の人々が現実に即身成仏を遂げた。末法の衆生においては、唯、三大秘法の大御本尊に対し奉る信行に即身成仏の道が開かれているが、僧俗共に信行の上に教学研鑽にも励まねばならないのである。
 宗門では近年、日顕上人の御指南のもと、天台・妙楽の三大部会本を編纂した。『玄義』の会本が完成した後、このことについて日顕上人は富士学林研究科において、

みんなが勉強しやすいように新しく教科書として、『玄義』の会本は既に出来ておりますが、天台の三大部の他の二つの書き下しの会本を作っております。宗祖大聖人様の御本尊様の人法一箇の御当体は、その人即法の内容において法界の一切がことごとく具わっておるのであります。そのことを知らないでただお題目を唱えるなかには、倦んだり怠ったりする場合もある。ところが、法界全体の意義は、唱題の信の一字のなかにその人の生活、命がそのままはっきりと顕れてくるのです。その意義と功徳をはっきり信じられれば、実に、唱題は忘れてはならない修行の根本なのであります。
 それと同じように、その内容の全体を助けるために色々な勉学の姿があるのであって、天台の『玄義』『文句』『止観』等を勉強するのもそれに当たるのであります。(大日蓮平成十一年八月号六一頁)

と御指南されている。このように、特に天台教学は宗門では余乗として研鑽しているが、多くの人々を救済していくには、広く勉学する必要が僧侶にはある。
 日寛上人も『依義判文抄』に、

問う、若し爾らば三大秘法開合の相如何。
答う、実には是れ一大秘法なり。一大秘法とは即ち本門の本尊なり。此の本尊所住の処を名づけて本門の戒壇と為し、此の本尊を信じて妙法を唱うるを名づけて本門の題目と為すなり。故に分かちて三大秘法と為すなり。又本尊に人有り法有り、戒壇に義有り事有り、題目に信有り行有り、故に開して六義と成る。此の六義散じて八万宝蔵と成る。(六巻抄八二頁)

と示されているではないか。松岡が列挙した「戒壇」「灌頂」「八相」「四諦」「十二因縁」「十不二門」等について深く認識することは、「八宗の章疏を習学」する表れである。したがって、全ての仏教は下種仏法から生じているという認識が松岡には欠落している。外道化した創価学会の泥沼に落ち込んでいるから、新興宗教的な思考しかできないと指摘しておく。
 日蓮正宗は末法万年の一切衆生を救うのである。『拝述記』には、

今末法ニ於ル四土具足ノ意義ヲ惟ウニ、文底下種ノ三大秘法ニ依ッテ寂光ノ楽土現ズルコト大地ヲ的トスルナルベク、コレニ依ラザレバ、五濁長ク続キテ尽キルコトナシ。爾レドモ十界ノ衆生ノ居住スルハ、ソノ果報ニ従ッテ種々ノ差別アリ。六道ノ衆生ハ衆苦交ワル中ニ、僅カニ擬似ノ声聞・縁覚・菩薩ノ衆生モアリ。故ニ末世ノ中ニモ、擬似ノ天界悦楽ノ衆生、及ビ方便・実報ノ浄土ニ居ス者モ有リ得ベシ。然レドモ、コレラハスベテ根本ノ仏道ニ非ザル故ニ、末法邪悪九界ノ果報ノ中ニ苦楽昇沈ス。故ニ寂光土ノ現出ハ有リ得ザルナリ。然ルニ如何ナル者モ、今、宗祖三大秘法ノ施化ニヨリ、大法ヲ受持信行スル衆生ハ、ソノ功力ヲ以テ妙法寂光ノ境界ヲ開クナリ。(拝述記五三一頁)

と末法の衆生にも「擬似ノ天界悦楽ノ衆生、及ビ方便・実報ノ浄土ニ居ス者モ有リ得ベシ」と御指南されている。このような観解は日顕上人の甚深の御境界を洩らされるものであるが、それには長年の習学があらせられたからこそ述べ得るものと拝するものである。
 このような御意の上からのじつに親切丁寧な内容なのだが、松岡にとっては日顕上人の高邁な御見識が憎悪の対象としか映らないのであろう。そういう者は対告衆ではない。逆縁の衆生である。

 つぎに松岡は、
第二に、阿部は難解な説明を誇示する嫌いがあり、これがまた彼の衒学趣味に独特な嫌味を与えている。例えば、日蓮大聖人の御化導に相待・絶待の二妙を拝する箇所では、御本尊の顕示を「横待」と「縦待」に分けて各々に待絶二妙を論じ、しかる後に横待・縦待を総括して究竟中の究竟たる戒壇本尊の顕示を意義づける、という煩雑さである(『拝述記』三八七頁)。縦・横は天台教学の概念であり、阿部が用いたように時間的(縦)・空間的(横)な次元を指す場合もある。だが、天台の迹理を超克した独一本門・事の一念三千の御本尊の顕示を、再び天台的な概念で説明する必要がどこにあるのか=i悪書二五六頁)
と、「横待」と「縦待」について疑難している。
 『拝述記』の、この御指南には前後があり、そこには、

法ニ約スル施化ニ於テハ、コレニ横待ト縦待アルヲ拝セラル。竜ノ口ノ後ヨリ妙法本尊ノ顕示ヲ始メ給イ、以後、一期ニ於ル本尊顕示ハソノ時々ノ待絶二妙ニシテ、爾前権迹ノ仏像経巻本尊ニ対スル相待妙ト、下種本尊ニ於ル絶対妙義アルナリ。コレ横待ナリ。更ニ内証ハ常恒不二ナルモ、始メノ本尊示現ヨリ以後、ソノ形貌ノ更改ニ於テ、次第ニ究竟シ給ウ。コレ対見ノ二十二ノ二十四「本化ノ本尊ノ本迹」ニ述ベタル如シ。特ニ弘安元年ニ入ッテ、文永・建治年間ト異ナル各種体相ノ異ナリヲ顕シ給ウ。ココニ究竟・未究竟ノ違イ有リ。コノ究竟ノ本尊ニ待絶二妙アリ。未究竟ノ本尊ニ対スルハ相待妙、久遠元初ノ上ノ人法体一ノ相貌ヲ示シ給ウハ絶待妙ナリ。コレ縦待ナリ。
更ニ横待・縦待ヲ総括シ、三大秘法ノ施化ヲ一期弘法ノ上ニ整足シ統括シ給ウ究竟中ノ究竟、本懐中ノ本懐タルハ本門戒壇ノ本尊ノ顕示ナリ。コノ処ニ約法・約人ニ於ル最勝究竟ノ意アレバ、実行ノ待絶二妙ノ意、ココニ極マル。即チ以上一期ノ二妙ニ於ル弘通所顕ノスベテハ、行ノ上ニ顕シ給ウ故ナリ。(拝述記三八七頁)

と御指南されている。松岡は、縦・横は天台教学の概念であり、阿部が用いたように時間的(縦)・空間的(横)な次元を指す場合もある≠ニいうが、日顕上人は「横待・縦待」と述べられているのであって、時間的(縦)・空間的(横)な次元≠ニ述べられているのではない。
 大聖人の御書および天台妙楽の疏釈中の「縦・横」「横待・縦待(竪待)」の語を検索すると、その意義は「横待・縦待」を指す場合や「時間・空間」等、様々な場合がある。
 まず御書中には、『三八教』に天台の三種教相中、第一の根性の融不融についての『玄義』『釈籤』の五時八教判の文を引いて、華厳勝法華劣の邪義を破し、またさらに『玄義』『釈籤』の文を引いた後、爾前の円と法華の円を峻別する図表中の、相待妙の下、

前四味を麁と為し醍醐を妙と為す(新編四一五頁)

との約部判の傍注として「縦待」の語が見え、

前の三を麁と為し後の一を妙と為す(同)

との約教判の傍注として「横待」の語が見える。また『三種教相』にも同趣旨の図表の中に「横待・縦待」の語が示されている。
 天台・妙楽の六大部中には、

@ 通じて論ずれば、本迹は祇是れ権実なり。別して論ぜば、高下は宜しく本迹を用うべし。横に真偽を論ぜば、宜しく権実を用うべし。本迹は、身に約し位に約す。権実は、智に約し教に約す云云。(【玄義】法華玄義釈籖会本下二六三頁)

との文、また、

A 今の法華を判ずるに、唯二妙を具す。所謂、待絶なり。言う所の待とは、唯麁を待して妙を成ずること有って、更に妙に待して麁を成ずること無し。若し迹を以て本に望めば、亦互いに形すべし。若し部を以て部に望めば、一向に唯妙なり。今は法華の迹理に約す。復互いに形を置く。所以に玄文に待絶、倶に称して妙と為す。故に部教を以て相望するに、復横竪有り。前の四時に望むるを名づけて竪の待と為し、円を三教に望むるを名づけて横の待と為す。此の文既に法華経の意に依る。而も釈名等は、大概は彼に準ず。相待は是れ麁、義は麁に待して妙を論ずるに当る。絶待は是れ妙、義は麁を開して妙を論ずるに当る。此の二、亦廃麁開麁と名づく。故に法華の中、唯二妙を論じて、更に非待非絶の名無し。彼は判教の為にす。故に待と絶と同じく称して妙と為す。今此の相待は、則ち判じて麁と為す。唯絶の観を明す。部の待すべき無ければ、則ち竪の待無し。教の望むべき無ければ、横の待無しと名づく。故に唯一絶を以て能詮と為す。相待を立て、以て絶待を顕すと雖も、尚絶無し。何の待か之有らん。三徳を詮ずるが為の故に仮に絶と名づく。相待の名を借りて、判じて思議と為す。故に唯絶待を方に称して妙と為す。(【弘決】摩訶止観弘決会本上四七五頁)

との文、また、

B 初めの文の意は、横の法を以て破するなり。破して横を成ぜしむ。横の待を知らしむるを名づけて絶と為さず。竪の法を以て破し、破して竪を成ぜしむ。竪の待を知らしむるを名づけて絶と為さず。言う所の横とは、四句相望するに未だ浅深有らず、故に名づけて横と為す。生生等の四、四句相望するに浅深有るが故に、故に名づけて竪と為す。(【弘決】摩訶止観弘決会本上四八二頁)

との文、また、

C 三に真・縁に約して無明を破すとは、此の観智を観ずるに、誰に待してか名を得る。智とせんや非智とせんや。若し横に待せば、十方の諸仏は、是れ智是れ明、我に智明無きに待するなり。若し竪に待せば、我が将来に於て盲冥を破除して大明を得ん。今は是れ智無く明無きに待す。(【止観】摩訶止観弘決会本中七三三頁)

等の文に見える。
 @は『玄義』の「本門十妙」を釈した後、「三世料簡」段の中にある。この「高下」とは文字通り縦の意義であり、本迹は約身約位である。「真偽」は横としており、権実は約智約教である。
 Aは、『摩訶止観』の正説分中第五、「広解(十広)」中、「釈名」の「相待」を注釈する『弘決』の文で、約部約教を判じている。
 Bは、『摩訶止観』の正説分中第五、「広解(十広)」中、「釈名」の「絶待」を注釈する『弘決』の文で、前の「相待」の中で明かした「息の義、停の義、不止に対する止の義」の止の三義と「貫穿の義、観達の義、不観に対する観の義」の観の三義を横縦に破して、絶待の止観を明かす中の文である。『拝述記』には、

絶待ノ止観ニ於テハ、先ズ絶待ノ上ヨリ前三ノ相待ノ止観ヲ破スナリ。コレニ横破ト竪破ヲ示ス。横破トハ、上ノ相待ノ三止三観ニツキ、ソノ浅深ヲ考エズ横ニ並ベ、外道ノ四性計〔自・他・共・無因〕ニ当タルトシテコレヲ破ス。(拝述記二三九頁)
竪破トハ、法理ノ浅深ノ次第ニヨリ展転対立シテ破ヲ論ズ。イワユル世間外道ノ自・他・共・無因ノ四句ヨリ生ズル有為生滅ノ因縁トソノ所生ノ法ハ、生生ニシテ止観ニ非ズ、故ニ生不生ノ止観ヲ説キ、(中略)次ニ不生生ノ止観ヲ説キ、(中略)最後ニ不生不生ノ円ノ止観ヲ説キ、ヨク無明ヲ止息シテ、中道ノ理ニ停止ス。(中略)〔横ノ四ハ四性計ノ四句、竪ノ四ハ生生等ノ四句ト見ルベシ〕(拝述記二四〇頁)

と示されている。このように横待の横とは浅深を考えないことであり、竪待とは竪とは浅深の次第である。
 Cは、第七正修止観の破法遍の中「正しく中道観を修す」の中の文で、横を空間、縦を時間の意義に配当している。
 以上のように「縦・横」「縦待・横待」の意義は弁別されるが、松岡が疑難する日顕上人の御指南は、@の「高下・真偽」の意義と拝される。なぜならば、爾前権迹の仏像経巻本尊と下種本尊とを相待して判ずるのは、まさしく「真偽・権実」の判定だからであり、また未究竟の御本尊と究竟の御本尊とを相待して判ずるのは、まさしく「高下・本迹」の判定だからである。
 松岡がいう阿部が用いたように時間的(縦)・空間的(横)な次元を指す場合もある。だが、天台の迹理を超克した独一本門・事の一念三千の御本尊の顕示を、再び天台的な概念で説明する必要がどこにあるのか≠ニはCの意義である。松岡は「縦待・横待」をただ時間的(縦)・空間的(横)≠ニのみ考えて、その他の意義を等閑視しているが、浅識・不解も甚だしい、まったく的はずれの疑難である。松岡は依義判文も知らないのか。
 そのあげく、天台の迹理を超克した独一本門・事の一念三千の御本尊の顕示を、再び天台的な概念で説明する必要がどこにあるのか≠ニ息巻くが、『観心本尊抄文段』の、

今日寿量品の儀式は文上脱益、迹門理の一念三千の教相の本尊なり。若し今遺付の本尊は文底下種の本門事の一念三千の観心の本尊なり。然るに本事已往、若し迹を借らずんば何ぞ能く本を識らん。故に今日寿量品の儀式を以て、久遠元初の自受用の相貌を顕わすなり。妙楽の所謂「雖脱在現具騰本種」之を思い合わすべし。(御書文段二四〇頁)

との御教示や、『依義判文抄』の、

当に知るべし、「其の本尊の為体」とは、且く是れ今日迹中脱益の儀式なり。而るに妙楽の曰く「若し迹を借らずんば何ぞ能く本を識らん」云云。又云わく「脱は現に在りと雖も具に本種に騰ず」云云。(六巻抄一〇三頁)

との御教示をどう拝するのだ。日寛上人、日寛上人と、これ以上ないほど持ち上げるのなら、松岡よ、この御指南に大人しく従い奉れ。
 日顕上人が、「縦待・横待」等、天台の用語を自在に用いられることは、天台妙楽を援証に自在に用いられる宗祖大聖人・日寛上人の教義構格と軌を一にするものであり、これを難ずることは日蓮大聖人・日寛上人に背く大いなる邪義と断ずるものである。

 つぎに松岡は、
第三に指摘したいのは、特段の理由なく新説を立てたがる、という阿部の著述上の性癖である。われわれの一念の中の妙法発揚が「本」で妙理への結帰が「迹」と論じ(『拝述記』二五二頁)、御本尊の体相において南無妙法蓮華経及び左右の十界を心法・日蓮の御名を色法と分け(同前四七二頁)、戒壇にあっては戒壇本尊を心法・本尊所住の処を色法に配し(同前)、本門の題目に関しても「信の題目」を内・「口唱修行の題目」を外として内外不二とし(同前四七三〜四七四頁)、といったふうに、阿部は、まだ論じられてない教学上の隙間的な領域を見つけ出し、そこで細々とした議論を展開しようとする。しかし、一体何のためにそれが必要なのか。インドの釈尊は外道の実体論を破るために無我を説き、中国の天台は経典解釈の乱れを正すべく法華経を宣揚して一念三千の哲理を講じた。大聖人が諸宗の謗法を呵責して正義を顕揚されたのは言うまでもなく、大石寺中興の祖・日寛上人も日蓮系他門の本迹一致派や勝劣派、特に要法寺日辰の邪義を破す目的で六巻抄等を著している。ところが、阿部の新奇な本迹論や二而不二論には、打ち破るべき法敵が見当たらない。破邪なくして顕正なし、が仏法流布の通軌である。今、われわれの一念の中の本迹、あるいは本尊体相における色心、題目における内外の区別などが、特別、信仰の是非を分かつ大問題になっているわけではなかろう。だから、これらの阿部の説は破邪顕正の言論ではない。合理的に考えられるのは趣味的な議論であり、しかも煩瑣ゆえに衒学趣味と言う以外にないのである。
 知識を羅列し、難解さを誇示し、無益な新説を好むのが、阿部の衒学趣味の特徴と言えるが、筆者の所感から一歩超え出て、合理的な日蓮仏法者の観点からも見ていきたい。合理的な日蓮仏法者が阿部の衒学趣味を検討した場合、最も問題になるのは一般的合理性への背反であろう。と言うのも、阿部の衒学的主張には、学問的な方法論への無知がありありと読み取れるからである
=i悪書二五七頁)
と述べている。
 日顕上人の御指南を細々≠ニいうのは、松岡の邪な悪口だが、このような徹底した御指南のことは、正しくは精密とか微妙と表現するものである。日顕上人の精妙な御指南を細々≠ニしか見られないのは、松岡や創価学会の教学が日蓮大聖人の仏法を壊乱する邪義となっている証拠である。日蓮正宗に敵対して破門された創価学会は、やむを得ず独自の教学を創らなければならなくなったのであるが、松岡の疑難もその試行錯誤の一つといえよう。この疑難に対する日蓮正宗からの反論を見て、それに耐えうる教義理論を構築しようと言う邪念が起こす挑発といってもいいであろう。
 しかし、松岡や創価学会がいくら反論を企てても、日蓮正宗の教義・日顕上人の御指南に疵一つ付けることも出来ない。なぜならば日蓮正宗の教義・教学は根本から枝葉まで終始一貫しており、高下・浅深・広略要、自在無礙にして微塵の矛盾もないからである。
 しかして日顕上人の御指南は細々≠ナも隙間≠ナもない。深義である。『四条金吾殿御返事』には、

今日蓮が弘通する法門はせばきやうなれどもはなはだふかし。其の故は彼の天台伝教等の所弘の法よりは一重立ち入りたる故なり。本門寿量品の三大事とは是なり。南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行すればせばきが如し。されども三世の諸仏の師範、十方薩の導師、一切衆生皆成仏道の指南にてましますなればふかきなり。(新編五九七頁)

と説かれているが、日顕上人は、一般僧俗が窺視することのできない深義を開陳されているのである。松岡は訳も分からず細々≠ニいうが、松岡には細部としか映らない御指南の中に、日蓮大聖人の下種仏法の根幹を顕示されているのである。松岡はそれにまったく気づかず、インドの釈尊は外道の実体論を破るために無我を説き、中国の天台は経典解釈の乱れを正すべく法華経を宣揚して一念三千の哲理を講じた。大聖人が諸宗の謗法を呵責して正義を顕揚されたのは言うまでもなく、大石寺中興の祖・日寛上人も日蓮系他門の本迹一致派や勝劣派、特に要法寺日辰の邪義を破す目的で六巻抄等を著している。ところが、阿部の新奇な本迹論や二而不二論には、打ち破るべき法敵が見当たらない≠ニ頓珍漢なことをいうが、日蓮大聖人から日寛上人・日應上人までの破折は種脱相対に極まるのである。日寛上人・日應上人の破折は、要法寺日辰・驥尾日守等の釈迦本尊中心義等、文上執着の邪義に対するものなのである。
 しかるに日顕上人の破折は、一往は外道および日辰や寿円日仁を代表とする釈尊仏法に対するものであるが、再往は「顕正会」「正信会」「創価学会」等の日蓮正宗から派生した邪義、すなわち下種仏法中の異流義に対するものである。
 例えば、本門の戒壇に関して、日顕上人は『拝述記』の中で、

コノ戒壇ハ、一天四海皆帰妙法ノ具体的事相ヲ待ッテ建立スル遺命ナル故ニ、爾前小乗・権大乗・迹門ノ戒壇トハ、ソノ内包スル意義ト目的ニ於テ比ブベキモナキ天地雲泥ノ間隔相違アリ。故ニコノ戒壇ハ、甚深ノ仏意ノ加護ノ下ニ建立セラルベキナリ。然ルニ、民衆ノ救済コソ主体ニシテ、戒壇建立ハ単ナル形式ノ形式ナドノ如キ偏見アルモ、コレ仏意・機情ノ本末ヲ転倒シ、仏法ニ無知ナル大衆ニ媚ブル迷見ニシテ、撰時抄ノ、
 「機ニ随ッテ法ヲ説クト申スハ大ナル僻見ナリ」(御書八四六)
ノ破折ニ当タル。マタ御遺命ノ広布ノ戒壇ヲ建物ノミ前以テ建立スルナドノ論モ、徒ラニ功名ニ走ル我見・邪見ニシテ、カツ時ヲ取リ違エタル迷論ニ過ギザリシナリ。(拝述記三一九頁)

と述べられているが、これは池田大作・創価学会の邪義を破折されたものである。また、

然ルニ明治年間ヨリ発生セル田中智学唱導ノ国柱会ノ教典ニ「国立戒壇」ヲ主唱セリ。蓋シ宗祖門下ノ中ニ初メテコノ名称ヲ使用シタルナリ。ソノ後、便宜上、コノ語ヲ用イ給ウ先師ハ、昭和ノ中期ニ入ッテヨリ拝スルモ、当時ニ於ル思潮ノ影響トイウベシ。
然レドモ一期弘法抄ノ御文ヨリシ、マタ道理ヨリスルモ、御遺命ノ戒壇ノ意義ヲ強イテ論ゼバ、国主立ノ戒壇ト云ウベキガ適切ナルト思惟ス。
マタ、国法制度上ヨリスルモ、吾ガ国ハ信教ノ自由ノ下ニ政教分離ヲ決定セル故ニ、国立戒壇、即チ国家ニ依ル戒壇建立ハ全ク不可能ナリ。但シ国主ノ意志則チ現憲法下ニ於テハ、主権ヲ持ツ国民ノ意味ニ於テ戒壇ヲ建立スルコトハ、広布ノ進展ニ依リテハ、ソノ道程ニ種々ノ変革ヲ必要トスルモ、畢竟可能トイウベシ。(拝述記三二〇頁)

と述べられているが、これは田中智学の国立戒壇論を模倣した、浅井昭衛・顕正会の邪義を破折されているのである。
 しかして『拝述記』に、

「三箇ノ秘法」ニツキテハ、大聖人ノ広大ナル御書御指南、又先師ノ述作ニ多ク説キ給ウモ、御化導ノ順序次第ニヨリ、マタ述作ノ主意ニヨリ、或イハ三秘ヲ総ジテ述ベ給ウアリ。或イハソレゾレノ名目法義ヲ述ベ給ウアリテ一準ナラズ。
然ルニ今ハ「三箇ノ秘法建立」トノタマウトコロニ、特別ノ深意アリ。即チ三大秘法総在ノ本尊タル本門戒壇ノ本尊安置ノ堂宇ヲ、国主ノ意ニ基ヅキ、改メテ建立シ給ウヲ「三箇ノ秘法建立」ト仰セラルルナリ。(拝述記三二二頁)

と述べられるように、最終的に日顕上人は日蓮大聖人の本門戒壇の正義を示されているのである。
 また『拝述記』において、宗祖大聖人の御化導を詳細に辿り、その意義内容を相待妙・絶待妙の義をもって解明されて下種仏法の正義を示されたことは、下種仏法より派生した創価学会等の異流義破折の思考基準となるものである。
 このように日顕上人は下種仏法の一往再往・而二不二・常同常別等の深義をもって、内外・大小・権実・本迹・種脱を混乱する、すべての邪義を一刀のもとに断破されているのである。これは当家の破邪顕正の根本妙義であり、すべての所対不同の法門もここから顕れてくるのである。もって松岡は自らの不明を恥じるべきである。

 つぎに松岡は、
典型的な事例として取り上げたいのは、『拝述記』の中に種脱の戒壇の本迹を論ずる所である。そこで阿部は、中国唐代の律僧・道宣の在世戒壇説を手厳しく批判している。最初に鳥瞰的視座から言うと、阿部の目的は、日蓮大聖人の三大秘法における戒壇が「本仏大聖人独自の尊語にして、小乗・権・迹に於る戒壇の字句の模倣に非ざる」(『拝述記』三二二頁)と論証する点にあった。そのため、戒とその説所の記述について、一代諸経中の顕密二教、小乗・大乗の論書、中国仏教の順に調べ上げ、インドの経律論に「戒壇」という語はほとんど使用されず、ただ「戒場」なる語は律部文献中に次第に増加する、との見解を得る(同前二八三〜二八四頁)。次いで阿部は中国仏教の経疏史伝の検討に移るが、そこで気づいたのが「終南山律師道宣の三書及び道世の法苑珠林に至り、戒壇の文字の激増を認めらる」(同前二八五頁)ということであった。阿部によれば、中国の仏教で時代が下るとともに戒壇が盛んになるのは、道宣が『関中創立戒壇図経』等で“釈尊在世の祇園精舎にすでに戒壇の設立があった”と説いたことに始まるという。しかし道宣の説は、「八百億の釈迦仏の集り、或いは大梵天王・魔王波旬等の東西戒壇造立」(同前二九四頁)を言い、諸経に見当たらない「楼至比丘」の名を語るなど、甚だ客観的事実性に欠け、「霊感を以てなす」(同前三〇一頁)誇張的記述であると──これは古くから指摘されてきたことで、何ら新味はないが──阿部は断罪する。そして、釈尊在世に祇園の戒壇があったとの説は「恐らく道宣もしくはそれ以前の某師の創作と云うべきなり」(同前三〇二頁) という結論を下すのである。
 以上が阿部の道宣批判の概要であるが、実際の論述は、考察の仕方が平板、羅列的である上に、同じ議論や主張が何度も繰り返され、所々の小結や全体の結論もはっきりしない。読む側としては、阿部の頭が十分に整理されていない印象を受けた。何よりも、正宗教学でなく仏教史の分野で道宣の戒壇論を論じたいのなら、最低限、研究のルールは守っていただきたいものである。まず阿部は、過去の著作中に、道宣の戒壇図経を紹介しながら「仏(釈尊)が祇園精舎にあったとき、樓至比丘が仏に結戒受戒のために壇を作らんと請い、許されて三壇を創置した……これを釈尊在世の戒壇の濫觴とする」と述べていた。今回、この見解を覆したのに、それを明記せず、理由も説明しないようでは、著しく学問的良心にもとる
=i悪書二五八頁)
と述べている。
 ここで松岡のいう過去の著作≠ニは、日顕上人が教学部長を務められていた昭和四十七年に著された『国立戒壇論の誤りについて』を指す。そして松岡は、今回、この見解を覆したのに、それを明記せず、理由も説明しないようでは、著しく学問的良心にもとる≠ニ述べている。
 まず『国立戒壇論の誤りについて』であるが、この書は題名に示される通り、「本門の戒壇」は国立であるべきか否かを明らめることを主眼として執筆されたものである。そのため本書の主意は、「二、国立戒壇の由来」および「四、国立戒壇論における国家観の誤謬」を述べるところにある。
 さて、松岡が引く仏(釈尊)が祇園精舎にあったとき、樓至比丘が仏に結戒受戒のために壇を作らんと請い、許されて三壇を創置した……これを釈尊在世の戒壇の濫觴とする≠ニいう部分は、同書の「三、三国の戒壇建立の歴史について」の章にあるものである。この章は、戒壇についての基礎的な理解を得せしめるために、インド・中国・日本の三国の戒壇建立の歴史を通覧したものである。そして同書には、

次に仏教上の戒壇の歴史について一覧する。戒とは防非止悪の義で、五戒、八斎戒、十戒、四十八軽戒、二百五十戒、五百戒等、大小乗を通じ、在家出家それぞれにたもつべき詳細が定められている。要は「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」の四句偈をもってその根本精神とするのである。壇とは土を盛り上げて特別に高く作られた受戒の場所を云う。
 始め仏陀の制戒は対象により時と処を問わず行なわれたから、市中山林至るところが戒場であって、特別に壇の設置はなかった。それが戒相として次第に整足されるようになって場所を定め、壇を設けて受戒が行なわれたのである。
 唐僧道宣の戒壇図経によると、壇場を明すことも、もとは仏であるとし、昔は光明如来が初めて建立を説く故に人の謀りごとではないと断わっている。仏法の最高最大なる本門の戒壇も、この根本に照らすとき、仏意による建立と拝すべきであろう。
 さて、歴史的には仏(釈尊)が祇園精舎にあったとき、樓至比丘が仏に結戒受戒のために壇を作らんと請い、許されて三壇を創置したという。即ち仏院の東に比丘のための戒壇を、西に比丘尼のための戒壇を、外院の僧院に更に一壇を作ったとあり、これを釈尊在世の戒壇の濫觴とする。(国立戒壇論の誤りについて一一頁)

と記されているが、そこには「三壇を創置したという」と書かれている。これは、道宣の『戒壇図経』によって伝承を記されたものである。しかるに松岡は、この「という」という部分をわざと削っており、仏(釈尊)が祇園精舎にあったとき、樓至比丘が仏に結戒受戒のために壇を作らんと請い、許されて三壇を創置した≠ニいう部分が、日顕上人の見解であるかのように欺瞞している。しかして、「釈尊在世の戒壇の濫觴とする」という部分も、戒壇の起源を述べたことで知られる道宣の『戒壇図経』をもとに一般的な見解を述べられたものであって、道宣の『戒壇図経』に示される説の当否について詳細な検討を加えることを目的としたものではない。
 また『国立戒壇論の誤りについて』は、妙信講(現「顕正会」)の誤りを破し、かつ創価学会の行き過ぎをも訂正せしめることを目的とした慰撫教導の書として執筆されたもので、まして御登座前の著作である。
 これに対して『拝述記』は、血脈を禀けられた御法主としてのお立場で、『百六箇抄』についての甚深の法義を示される中で、戒壇に関する詳細な考究を示されたものである。
 このように両書の性格はおおいに異なるものであり、見解を覆したのに、それを明記せず、理由も説明しない」「著しく学問的良心にもとる≠ネどの批難はまったくあたらない。
 しかもそれは、鳥瞰的視座から言う≠ニ、これ以上ない「上から目線」の言辞である。頭上るのもいい加減にせよ。松岡は一度は日顕上人を師僧と仰ぎ、出家得度したのではないか。その剃髪の師と御著述を、かく見下す様は、『十法界明因果抄』に、

修羅道とは、止観の一に云はく「若し其の心念々に常に彼に勝らんことを欲し、耐へざれば人を下し他を軽しめ己を珍ぶこと鵄の高く飛びて視下ろすが如し。而も外には仁・義・礼・智・信を揚げて下品の善心を起こし阿修羅の道を行ずるなり」文。(新編二〇八頁)

と説かれるところと、その無恥忘恩の姿はあまりにも符合しているのである。
 前述のように、この書は宗内の僧侶向けの講義のためのテキストであり、御講義の時は更なる深義を述べられることもあるし、基礎知識と普通程度の読解力がある者が精読すれば、訂正がなくともその趣旨は充分拝せられる。むしろ未熟の者には、いろいろと説明することが返って主旨に対する誤解を招くこともあるのだ。未熟者が難癖を付けるものではない。

 つぎに、松岡は『拝述記』を一往は読んだようだが、あまりにも狭小かつ恣意的な視点から、著しい略記をもって日顕上人の精美な論証を隠そうとしている。日顕上人の極めて客観的な論証は、一般的にも専門研究者にとっても、大正新脩大蔵経を中心に各関係文献の出典を明示したものであり、したがって、情執さえなければ仏教各派の立場を超えて抵抗無く読めるものである。無論、それから先の賛否の判断は、各宗派の教義・信条において分かれるであろうが、懐疑的な人でも論証結果は確認することができるのだから誰しも是認できるものである。
 日顕上人が戒壇のことについて精査されたのは、釈尊一代仏教における戒の実際的あり方をその淵源である一切経をはじめとする印度関係文献・中国関係文献に探り、さらに日本の文献および実際の儀相を挙げて、ここから小・権・迹と次第する、戒壇の歴史的流伝の形跡を検討し、過去から現在までの戒壇の歴史を正確に検証し、下種本仏本法である本門戒壇の本義との差異を明確に拝されようとされたからである。
 その結果、結界の中に戒壇を築く形式は方便瑣末の戒律の相で、本門の戒壇の相ではないと決せられている。仏教流伝の中で戒壇の本義・本相が、方便瑣末の戒律の儀相によって変質し、結界の中に戒壇を築く形式となったことを指摘されている。この後に道宣の在世戒壇説に対する考察があり、それを終わって、脱益の戒壇の拝述を締め括るにあたり、従来の印度・中国・日本と次第し比叡山の権実双用の戒壇に極まる戒壇の儀相が、釈尊の真意である如来寿量品第十六の虚空会における、多宝塔中の二仏並座の脱益の戒壇の本義から遊離していることを示唆されている。そして究竟の本門による戒壇の本旨は、法体及び戒法の特勝による所住と説所に真の戒壇があることをもって、釈尊仏法における一往の結論とされるものである。
 この過程に、道宣の在世戒壇説に対する考察が行われるのである。すなわち『拝述記』は、はじめに律蔵にあたられ、

極メテ初期教団ニ於ル説戒・授戒ノ在リ方ニ戒場ノ文義ハアレドモ、壇ヲ築キテ授戒ヲ行ウ戒壇ノ名称・事相、共ニ特ニ無カリシ如ク推測セラルルナリ。(拝述記二八〇頁)

との見解を得られている。
 ついで釈尊一代の経蔵・論蔵を精査される。まず経蔵の顕教部においては、

右ノ推測ガ許サルレバ、一代諸経中ノ顕教部ノスベテノ経文中ニ、戒壇ノ語ハ全ク存在セザルコトヲ決定セラルルナリ。(拝述記二八一頁)

との驚くべき結果を得られた。
 この「右ノ推測ガ許サルレバ」とは、

コレラヨリ考ウルニ、真諦ハ、倶舎論ニ戒壇ノ文字ヲ示ス世親ノ意ヲ受ケ、阿毘曇経翻訳ニ当タリ、原本ニハ古代ノ状態ニ於テ「戒場」トアル文ヲ、一歩ヲ進メ戒壇ト訳セリトノ推測可能ナリ。然ル所以ハ、小乗各部ノ広律制定ノ各文ニハ、戒場ノミニシテ戒壇ノ語ハ殆ド見当タラザル故ナリ。(拝述記二八一頁)

のことで、この推測は文理に照らして適切と拝されるが、日顕上人は謙譲して推断を避けておられる。したがって他宗から、「日蓮正宗の偏向的判断」との批判が起きることはないであろう。
 つぎに密教部においては、

以上、密教部九一四巻中ニ於テモ、右二経(編者注・大方等陀羅尼経、瑜伽集要救阿難陀羅尼焔口軌儀経)ノ外、全ク戒壇ノ文ナキナリ。(拝述記二八二頁)

との見解を示されている。
 そして印度関係文献の最後として論蔵釈にあたられ、

以上、経律論ノ文献文書ヲ大観スルニ、戒壇ナル語ハ僅カノ例ヲ除キタル外ハ全ク使用セラレザリシ如クナリ。但シ戒場ナル語ハ、四大広律中ノ三広律ニ散見セラレ、以後、律部文献中ニ次第ニ増加スルコト前述ノ如シ。(拝述記二八三頁)

と結論されている。
 さらにつづいて中国の経疏史伝にあたられ、その結果を次のように一覧表(拝述記二八四頁)にされている。

 出三蔵記集       (西暦五一〇〜五一八)十五巻   三箇処  梁・僧祐撰
 比丘尼伝        (西暦五一七)     四巻   二箇処  梁・宝唱撰
 高僧伝         (西暦五一九)    十四巻   一箇処  梁・慧皎撰
 歴代三宝記       (西暦五九七)    十五巻   三箇処  隋・費長房撰
 六祖大師法宝壇経序   (西暦六三八以降)   一巻   一箇処  唐・慧能語録
 感通伝         (西暦六六四)     一巻   八箇処  唐・道宣撰
 関中創立戒壇図経    (西暦六六七)     一巻 九十一箇処  唐・道宣撰
 中天竺舎衛国祇園寺図経 (西暦六六七)     一巻  三十箇処  唐・道宣撰
 法苑珠林        (西暦六六八)     百巻  三十箇処  唐・道世撰
 大唐西域求法高僧伝   (西暦六九一)     二巻   二箇処  唐・義浄撰
 開元釈教録       (西暦七三〇)    二十巻   五箇処  唐・智昇撰
 貞元新定釈教目録    (西暦八〇〇)    三十巻   十箇処  唐・円照撰
 宋高僧伝        (西暦九八八)    二十巻 二十九箇処  宋・賛寧等撰
 大宋僧史略       (西暦九七八〜九九九) 三巻  十六箇処  宋・賛寧撰
 釈氏要覧        (西暦一〇一九)    三巻   四箇処  宋・道誡撰
 廬山記         (西暦一〇七二)    五巻   三箇処  宋・陳舜兪撰
 翻訳名儀集       (西暦一一四三)   二十巻   三箇処  宋・法雲編
 仏祖統紀        (西暦一二六九)  五十四巻 三十四箇処  宋・志磐撰
 仏祖通載        (西暦一三四一)  二十二巻   九箇処  元・念常集
 釈氏稽古略       (西暦一三五四)    四巻   四箇処  元・覚岸編

この列挙する表を見れば、「戒壇」の文字の数量と推移が一目瞭然である。その結果を、

以上ヲ通観スルニ、終南山律師道宣ノ三書及ビ道世ノ法苑珠林ニ至リ、戒壇ノ文字ノ激増ヲ認メラル。道世モ律宗ヲ精研スルト共ニ、道宣ト並ビテ玄奘ノ訳場ニ参ジタリ。シタガッテ道宣ノ戒壇ニ対スル熱意ハ当然道世ニモ伝ワリシ如クナリ。(拝述記二八五頁)

と、道宣の文献から「戒壇」の文字が激増していることを論証されている。
 こののち、百六箇抄脱の戒壇の題である「脱益ノ説所ト戒壇ノ本迹」の拝考に移られる。この中でも、「戒壇」についての考究を進められ、本門戒の説所は霊山虚空会であることを示され、

コノ戒法ヲ示シ給ウ戒壇トハ、二仏並座ノ多宝塔ノ壇ニ外ナラズ。即チ境智冥合人法ノ法体ノ住所、即チ戒壇タルナリ。(拝述記二八六頁)

と、釈尊在世における本門の戒壇とは多宝塔の壇であることを明かされている。そして、

コレヲ以テ思ウニ、後世、小乗ノ律法ニ於テ二百五十戒等ヲ授ケン為ノ受戒ニツイテ結界ヲナシ、ソノ内ニ戒壇ヲ築ク等ノ形式ハ、方便瑣末ノ戒律ノ相ニシテ、本門ノ戒壇ニ非ザルナリ。(拝述記二八六頁)

と、結界の中に戒壇を築く形式は方便瑣末の戒律の相で、本門の戒壇の相ではないと決せられている。
 これは一往の重大な結論である。脱益本門の戒壇の相を示されるとともに、仏教流伝の中で戒壇の本義・本相が、方便瑣末の戒律の儀相によって変質し、結界の中に戒壇を築く形式となったことを論証されているのである。
 つぎに「一、天竺の戒壇」として、これより「天竺の戒壇」について述べられ、釈尊の在世には戒壇の名称は特に無く、戒場の名称で授戒等が行われたようであり、諸広律中に結界して戒をする法を示すが、戒場と称して戒壇といわないのはこの例証である、とされている。そして、

印度ニ於ル戒壇ハ、前述ノ如ク那蘭陀寺ノ戒壇ガ西暦四一六年以降トスルモ、ソノ以前ノ或ル時期ヨリ、戒律ノ権威的高揚ニ伴イ、築造セラレタルモノト推スベキカ。ソノ何時頃ヨリ作ラレシカハ詳ラカナラズ。更検。(拝述記二八八頁)

と、印度における戒壇に関する考察を締め括られている。
 つづいて「二、中国の戒壇」と、これより中国の戒壇について考察される。
 ここでは、はじめに、『大宋僧史略』の、

「嘉平・正元(中略)大僧羯磨ノ法ヲ立ツ。東土ノ立壇ハ此其ノ始メナリ」(大正五四─二三八b)

の文によって、

嘉平・正元ノ建立ハ、中国ノ戒壇ノ最モ早期ト云ウベシ(拝述記二八九頁)

と述べられている。つづいて『望月大辞典』の年表の初見は、

「升平元年(西暦三五七)、曇摩羯多、比丘尼戒壇ヲ建ツ、浄検等受戒ス」ト。
出典ハ梁宝唱撰比丘尼伝巻一(大正五〇─九三四c)ナリ。(拝述記二八九頁)

であることを示される。
 これに関して松岡は、
特に中国における戒壇の歴史を探る所で、明治期に作られ増訂されてからも半世紀以上が過ぎた『望月仏教大辞典』第六巻の年表に依拠して他の研究成果をろくに調べもせず=i悪書二六〇頁)
と高飛車な難癖をつけるが、前述の『大宋僧史略』の「東土ノ立壇ハ此其ノ始メナリ」の記事は、望月年表にないではないか。ただ西暦二五〇年の項に、

◎魏曇柯迦羅、僧祇戒本一巻を譯す(歴三、五、開一)◎魏曇柯迦羅、羯磨授戒の法を行ふ(圖一)一説正元元年(統三五)(望月仏教大辞典第六巻八二頁)

とあるのみである。それにも関わらず日顕上人が戒壇の始めとして挙げられたことに松岡は気づかず、ただ悪口をこととする卑劣心を露呈する。
 また、延和三年(西暦四三四)の記事にしても、

春、建康南林寺戒壇建つ度者三百餘人(楚八、僧一、統三六)(同一〇八頁)

と、当然ながら出典を記すのみで引文はないが、日顕上人は出典より具文を挙げておられる。ろくに調べもせず≠ノ書いているのは松岡のほうであることがよく分かるであろう。
 そして、中国の戒壇建立は時代が下がるにしたがって盛んになっていることを示されたのち、

サテ従来述ベタル処ハ、戒壇ニツキ一切ノ経律論ニソノ有無乃至形跡ノ如何ナルカニツキ、ホボコレヲ検シタルナリ。コレニ依レバ釈尊ノ在世ハ勿論、滅後モ直チニハ戒壇ノ建立ハナカリシガ如ク推測セラル。(拝述記二九〇頁)

との小結に至り、さらに、

然ルニ釈尊ノ在世、カノ有名ナル祇園精舎ニ既ニ戒壇ノ設立アリトノ説、戒律史上ニ突如トモ云ウベクシテ起コル。(同)

と述べられた後、道宣が戒壇の歴史に、どう関わったのかを検証されていくのである。
 まず、道宣の関中創立戒壇図経と中天竺舎衛国祇園寺図経の内容が疑わしいので、その適否を考究されるのだが、戒壇に関する具体的記述は関中創立戒壇図経にあるために、これを批判考察することを述べられる。そして、道宣は「別伝」というも、明確な出典を挙げていないことを批判され、その否を指摘されている。
 そして、関中創立戒壇図経の絵図を別図として添付されて、そこに道宣が解説した内容につき、

道宣ガ云ウ如キ祇園図経ヲ教エ述ベタル文献アリヤ否ヤハ明ラカナラズ。思ウニ、戒壇ニ関スル種々ノ検索ノ結果ニ準ジ推測セバ、カカル文ノ存在ハ甚ダ疑ワシキナリ。(中略)思ウニ千年以上ノ古昔ノ祇園ノ諸院ノ結構・図経ヲ伝エタルカハ疑問ト云ウベシ。(拝述記二九七頁)

と、一蹴されている。
 最後に、縷々考察された結果として、

要スルニ、釈尊自ラ一々ニ説戒ヲナス初期ニ於テハ、戒ヲ施ス戒場ハ時ニ存スルナランモ、戒壇ノ建立ハ無カリシ如ク、時ヲ経ルニ従イ戒律ノ全相ガ具備セラルルニ至リ、受戒方式ノ設定トナリ、更ニソノ化儀ノ荘厳ヲ期スル上ヨリ、戒壇ノ建立ニ至リシガ如シ。前来叙スル如ク、小・大乗一代経、四大広律等ニモ、ゴク一部ノ例外ヲ除キ全ク戒壇ノ語ヲ見ザルコトハ、ソノ明ラカナル明証タリ。然ラバ道宣ノ戒壇図経ニ於ル楼至比丘ノ請イニヨル仏在世ノ祇園ノ戒壇ノ存在ハ、恐ラク道宣モシクハソレ以前ノ某師ノ創作ト云ウベキナリ。(拝述記三〇二頁)

との結論に至られる。
 以上の日顕上人の論証は、出典を明示した上の客観的なものである。このように道宣の在世戒壇説は「道宣モシクハソレ以前ノ某師ノ創作」によるものであり、実際には存在しなかったのである。

 松岡は、このような日顕上人の御研究に対し、
阿部は戒関係の言説を大正新脩大蔵経等で調べる前に、膨大に蓄積されている先行研究を整理し、その問題点を指摘した上で、独自の問題意識と方法論を明示すべきであった。『拝述記』では、それらを何一つやらずに「客観的事実性」(同前二九四頁)を論じている。先行研究の無視は個々のテーマを論ずる際にも見受けられるが、特に中国における戒壇の歴史を探る所で、明治期に作られ増訂されてからも半世紀以上が過ぎた『望月仏教大辞典』第六巻の年表に依拠して他の研究成果をろくに調べもせず、そのあげくに「中国の戒壇は時代の下ると共に盛んになりたるが如し」(同前二九〇頁)と凡庸な見解を出すに至っては、能力以前の手抜きと見るしかない。だいたい道宣を論ずるのなら、近年の研究である藤善真澄『道宣伝の研究』(京都大学学術出版会、二〇〇二年)ぐらいは参照したらどうか。同書の第十一章では、道宣の『祇園寺図経』『戒壇図経』成立の背景について種々考察がなされている。また、「戒壇」「戒場」の典拠を調べる際に大正新脩大蔵経の検索(恐らくデータベースを使用)のみで済ませ、サンスクリット語やパーリ語、チベット語の仏教テキスト、北伝仏教では朝鮮半島の仏教文献に目配りしていないのも気になる。さらに戒壇の高揚に道宣が深く関わったことはすでに広く知られているから、阿部の論には独創性もない=i悪書二六〇頁)
と難癖をつけて、その正義を薄め隠そうとする。
 しかし松岡のいう、藤善眞澄氏の『道宣伝の研究』は、道宣の在世戒壇説の虚実を詳細に考察したものではない。しかも、その中には、

道宣の終末三書に、霊裕の『寺誥』、『聖迹記』が利用されていることは、随所にその痕跡を留めており、『祇園寺図経』は天人の所伝と称しながら、その大枠は経論のほか霊裕の著述に負うところが多いのである。何よりも『祇園寺図経』の序に、「隋初、魏郡の霊裕法師は、名行の夙に彰われ、風操の貞(ただ)しく遠く、『寺誥』を撰述し、具に『祇園』を引く」とし、「語は斯れ大いに然るも、事は常経に(もと)れば、統機の縁、天人の其の成務を助け、通感の義、龍鬼の其の神功を賛くるに非ざるは莫し」と、すでに霊裕所引の『祇園図経』そのものが、天人通感によるものであったことを伝えている。(該書三八八頁)

と述べているから、これは日顕上人の、

検聖迹記〔不明〕ニ祇園ヲ繞リテ一十八寺有ルコト等ヲ寸記シテ後、
 「北斉霊裕法師ノ寺ヲ案ズルニ、祇園図経ヲ誥述シ、具サニ諸院ヲ明カス。大ニ準的有リ」(大正四五─八一二c)
ト云イ、霊裕法師(西暦五一八〜六〇五)ガ祇園ノ諸院ヲ明カスコトハ大イニ準拠スルコト有ルヲ述ベタリ。但シ書名ヲ云ワザル故ニ、霊裕ガイカナル書ニ祇園ノ寺ノ諸院ヲイカ様ニ明カセルカハ詳ラカナラズ。蓋シ霊裕ハ識見高邁、学事博覧ノ名僧ニシテ、若年ヨリ或イハ地論ヲ学ビ、又四分律ヲ研シテ同疏五巻ヲ造ル。更ニ著述ニ意ヲ用イ、華厳・涅槃・地論・律部・大集・般若・観経等ノ疏ヲ造リ、時人尊ビテ裕菩薩ト称スト。故ニ北斉ノ文宣帝ハ詔シテ華厳ヲ開講セシムト云ウ。ソノ他ニモ著書甚ダ多キモ伝ワル処ハ少ナキ如シ。但シ道宣ガ云ウ如キ祇園図経ヲ教エ述ベタル文献アリヤ否ヤハ明ラカナラズ。思ウニ、戒壇ニ関スル種々ノ検索ノ結果ニ準ジ推測セバ、カカル文ノ存在ハ甚ダ疑ワシキナリ。(拝述記二九七頁)

との御考察よりも簡単な記述であるが、ほぼ同一の内容である。日顕上人が藤善眞澄氏の『道宣伝の研究』を御覧になったかどうかは分からないが、藤善真澄『道宣伝の研究』ぐらいは参照したらどうか≠ニ力むほど藤善眞澄氏が詳しく書いているわけではない。むしろ日顕上人は先刻御承知と拝すべきではないか。
 松岡の勇み足は短慮を露呈するものであり、恥の上塗りといえよう。
 また松岡は、サンスクリット語やパーリ語、チベット語の仏教テキスト、北伝仏教では朝鮮半島の仏教文献に目配りしていないのも気になる≠ニいうが、これらの原典・原文を翻訳したのが現行の大正大蔵経ではないのか。その全てに「戒壇」の文字がないのであるから、仮に仏教テキストに「戒壇」の文字があったとしても、その成立年代、転写回数(何転本か)、筆記者の特定ができるはずはなく、したがって戒壇の文字が、それ以前には戒場であった可能性を排除することが出来ないから、日顕上人の論証を決定的に覆すことはできない。松岡はそんなことも想定できない愚か者である。
 また松岡は、戒壇の高揚に道宣が深く関わったことはすでに広く知られているから、阿部の論には独創性もない≠ニいうが、日顕上人はたんに戒壇の高揚に道宣が深く関わったこと≠問題にされたのではない。どのように関わったのかを問題にされているのだ。そして、種々論証の結果、

然ラバ道宣ノ戒壇図経ニ於ル楼至比丘ノ請イニヨル仏在世ノ祇園ノ戒壇ノ存在ハ、恐ラク道宣モシクハソレ以前ノ某師ノ創作ト云ウベキナリ。(拝述記三〇二頁)

と結論されたのである。これは道宣没後、今まで千数百年もの間、誰も明らかに出来なかったことである。すなわち、そこに道宣の作為が混入していたことを喝破されたものであり、仏教史の中に埋もれていた事実の新発見である。
 この御研究に独創性がないというのなら、独創性など、法界のどこにもあり得ない。嫉妬もここまでひどくなると見苦しいの一語に尽きるのである。

 つぎに松岡は、
私は大学に勤めていないけれども、時折、大学院生等の論文指導を頼まれることがある。もし阿部の論文の査読を行ったとすれば、例えば森章司編『戒律の世界』(溪水社、一九九三年)に附された「戒律関係文献目録」等を示しながら参考文献の再調査を命じた上で、当然のように全体の書き直しを求めるだろう。知識の量というより方法論的な無知が甚だしく、何ら独創性もないようでは、質の悪い学部生のレポートと同じであり、専門論文としての意味がないからである (悪書二六一頁)
と述べている。
 この森章司氏編の『戒律の世界』は、論文が約九百頁、「戒律関係文献目録」が百頁、合わせて千頁という大書である。論文数、四十五編。執筆者は森章司氏はじめ総勢四十名である。「戒律関係文献目録」には、題名・著者・所載書名を列記しているが、その総数、凡そ三千五百編ほどある。
 さて松岡は「戒律関係文献目録」等を示しながら参考文献の再調査を命じた上で、当然のように全体の書き直しを求めるだろう≠ニ述べるが、このような膨大な数の参考文献の再調査を命じられた大学院生は気の毒である。気の遠くなるような再調査を命じられては途方に暮れるほかない。これは論文指導に名を借りた「嫌がらせ」にほかならない。
 常識的に考えれば「戒律関係文献目録」に紹介された膨大な文献を研究して執筆したのが、『戒律の世界』に掲載された諸論文ではないのか。しかも、これら執筆陣は松岡の世界では皆、第一人者と目される学者ではないか。ならば、一般的な論文指導としてすべきことは、「戒律関係文献目録」等を示すのではなく、『戒律の世界』を読破するように勧めるべきである。それが無理なら、テーマに関連した論文をまず読むことを勧めるのである。その上でさらに必要ならば、該当論文の注や引用の出典を参考に探求を促す。その上で、「戒律関係文献目録」の中から、自分の既知の文献を示したり、題名や著者を便りに参考文献を選ぶことを教えるというのが順序であろう。
 それを、いきなり「戒律関係文献目録」等を示す松岡は、論文指導者としては甚だ適正を欠いた者だと言わざるを得ない。知識の量というより方法論的な無知が甚だし≠「のは松岡のことである。
 日蓮大聖人は『妙法比丘尼御返事』に、

日蓮は日本国安房国と申す国に生まれて候ひしが、民の家より出でて頭をそり袈裟をきたり。此の度いかにもして仏種をもうへ、生死を離るゝ身とならんと思ひて(中略)日本国に渡れる処の仏経並びに菩薩の論と人師の釈を習ひ見候はゞや。又倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・法華天台宗と申す宗どもあまた有りときく上に、禅宗・浄土宗と申す宗も候なり。此等の宗々枝葉をばこまかに習はずとも、所詮肝要を知る身とならばやと思ひし故(新編一二五七頁)

と、習学は「肝要を知る」ことを所詮と説かれているが、松岡の指導はこれに真っ向から反対する、広汎からの習学である。日蓮大聖人の教えはもとより、一般的見地からも明らかに間違った方法論≠ナある。

 つぎに松岡は、
阿部の戒壇論は、正統的な合理性を最優先する信仰者から見ても、大いに問題含みである。日蓮大聖人の『報恩抄』には「在世には仏と提婆が二の戒壇ありて」云々(全集三二八頁)とあり、先の阿部の在世無戒壇説とは食い違う記述となっている。阿部もこれに気づいており、「報恩抄の在世戒壇の御文は、文献上の戒壇の有無には関わらざる宗祖大聖人の独自自在の御心地に於て、かく示し給う」(『拝述記』三一四頁)と述べて解決をはかろうとする。しかし、阿部の言う「文献上の戒壇の有無」こそ、実は眉唾物なのである。『望月仏教大辞典』における「戒壇」の説明に頼り、中国宋代の元照の『四分律行事抄資持記』等を引きつつ「戒場」と「戒壇」を区別して“壇を築く戒壇は在世になかった”とする阿部の主張が、仏教一般の定説であるようには思えない。壇の有無はどうあれ、慣例的に戒場と戒壇を同一視することが少なくないからである。他ならぬ宗祖も戒壇と戒場を特に区別されず、諸御書では叡山の円頓戒壇を指して「戒場」とも「戒壇」とも記されている。また、中村元編『仏教語大辞典』の「戒場」の項には「戒を受ける場所。一般に戒壇という」とある。その他、平川彰氏の論文「戒壇の原意」(『印度学仏教学研究』第十巻第二号)を見ても、戒壇と戒場は同義であり、壇を築くことが戒壇の本質的な条件ではないとされている。かように戒場と戒壇を同義的に扱うなら、『報恩抄』に見える在世戒壇の記述も釈迦在世に授戒入門の場があったとの意に解しうるので、仏教文献上も何ら問題はない。にもかかわらず、阿部はそれが問題だと決めつけ、宗祖は授戒の場所を日本の先例に基づき戒壇と示したとか、三大秘法の意義を込めて戒壇と記したとか、無意味な辻褄合わせを重ねたあげく、最後は「自在の御心地」と言って議論を封印した。『報恩抄』という重要な正統的合理性を、偏った文献解釈で損なう阿部の所業は、御書根本の信仰者から見ると許しがたい主客顛倒であろう=i悪書二六一頁)
と述べている。しかし日顕上人の御意は、前述のように、

戒ノ本義ノ上ヨリ、下種仏法ノ戒壇ノ意義指南ヲ正シク拝スベク、即チ小乗戒、大乗戒等ノ脱上ノ範囲ノ戒及ビ戒壇ト、下種本仏本法タル本門戒壇ノ差異ヲ明確ニ拝スベク、ソノ淵源ヲ了センガ為ナリ。(拝述記三〇二頁)

と述べられるところにある。しかして『報恩抄』の、

在世には仏と提婆が二つの戒壇ありて(新編一〇三五頁)

との御文の「戒壇」の語についての大聖人の御意を拝考されて、

 一、伝教大師の戒壇の有無を決するための主意ではなく、釈尊弘通の戒の実施における提婆達多との弟子の向背の義に於て挙げられたもの。

 二、伝教大師の大乗戒壇建立に対する南都諸宗の抗争を重大事項と鑑みられる御心地より、釈尊と提婆の教団的対立に於て戒壇の文字を以て示された。

 三、本仏の行じ給う本尊・戒壇・題目の本義を根本として、有無を超えた天衣無縫の境地より戒壇と記された。

 四、戒壇の二字を末法弘通の戒法として示し給う関係に望みての、自在の御記述。

 五、諸種の報恩抄講義録の中に、後代文献による在世戒壇の説明があるが、これは仏祖統紀によるものであり、仏祖統紀の戒壇に関する説は道宣の『戒壇図経』に起因するもので信用できないから、在世戒壇説の根拠とはならない。

との五点から、『報恩抄』の在世戒壇の御文は、文献上の戒壇の有無に関わらない、宗祖大聖人の独自自在の御心地において示されたもの、と結論されているのである。
 これに対し、松岡の所論は何が言いたいのかよく分からない。阿部の言う「文献上の戒壇の有無」こそ、実は眉唾物なのである≠ニいって、戒壇あるいは戒場という形式にこだわらない拡大解釈をもって在世戒壇説を容認するかと思えば、『報恩抄』という重要な正統的合理性を、偏った文献解釈で損なう阿部の所業は、御書根本の信仰者から見ると許しがたい主客顛倒であろう≠ニ述べて『報恩抄』の戒壇の語を以て、大聖人の強い御意志として在世戒壇を認めさせようとしたり、いずれにせよ在世戒壇説の肯定に回っている。
 日顕上人の御意は、池田大作の正本堂への執着に明らかな、戒壇に関する邪な認識が、小・権・迹の歴史的建造物から醸成された現在の一般的概念を土壌として形成されたものであり、それは釈尊の脱益本門の戒壇の本義に乖離するのみならず、下種仏法の戒壇の本義を壊乱する邪義であることを破折されるところにある。
 しかるに松岡が、日顕上人の戒壇に関する御指南を全否定し、二通りの解釈を構えることは、この池田大作の戒壇の邪義を多面的に擁護しようとするところに、その狙いがあるといえるのであって、なんら日顕上人の御考察に対する反論になっていない。要するに邪説である。

 つぎに松岡は、
また、一般教養的な知識の誤謬については、「『我れ思う。故に我れあり』などということを言った西洋の哲学者がおりますが、自分の存在は事実だと考えることが我の迷いになるのです」「デカルトという哲学者は……空という真理を無視し、否定する」といった記述が挙げられる。「我れ思う。故に我れあり」とは、近代哲学の父と称されるフランスの哲学者ルネ・デカルトの言葉である。デカルトは、感覚的な事実を疑えるだけ疑って形而上学的に〈考える私〉を発見した。その実体論は非仏教的であるが、阿部の言うごとく、事実としての自己存在を素朴に肯定したわけではない。徹底した懐疑という意味からは大乗仏教の「空」の意義に通じ、自由な主体の自覚という点では、無自覚的ながら事の一念三千への志向を感じさせる。法華経的には「我思う。故に大我あり」とすべきところを、デカルトは「我あり」と論じ、一念三千の生命の一側面を照らしたとは言えないだろうか。いずれにしろ、阿部は半可通な知識を振り回さない方がよい。
 さらに指摘する。阿部は、二〇〇一年の「御大会」の説法で“仏教の仏とは違って、ヒンドゥー教、キリスト教、イスラム教の神には因果の道が示されていない。さらに、それら外道は「有」に執着して「空」を知らないから低い教えである”と簡単に片づけた。だが、ここに言う「神」の因果は、そう単純に論じられるだろうか。ヒンドゥーの神々の根源は宇宙の原理(ブラフマン)であり、キリスト教の神も世界の第一原因とされる。こうした「神」は一切の根源なので、阿部が持ち出した修行の因果論よりも、池田会長が歴史家のA・トインビー氏と語り合った「究極の実在」をめぐる議論の方が適当であろう。もちろん、これとて阿部が“キリスト教等は「空」を知らない” と否定したほど単純な問題ではない。キリスト教には、神は人間のいかなる思惟をも超えている、とする否定神学の伝統もあり、実は相当に奥が深い。哲学者の西田幾多郎などは神を「絶対無」と見たし、池田会長も天台の円融三諦論を基点に“「究極の実在」が「愛」だとすれば「空」の側面を捉えている”と論じている。このように哲学的な面からキリスト教等の神を論ずると、天台的な判釈で言う蔵教の析空観や通教の体空観でもまだ足りず、別教の次第三観や円教の一心三観といったレベルになってくるであろう。〈キリスト教=因果無視、実体論的な外道〉程度の素朴な認識しか語れない阿部は論外であり、自分の不勉強ぶりを白状しているだけなのである
=i悪書二六三頁 )
と述べている。ここでは、デカルトの哲学が「空」の意義に通じ、一念三千の一側面を照らす。あるいはキリスト教の神を哲学的に論ずると天台的な判釈で言う蔵教の析空観や通教の体空観でもまだ足りず、別教の次第三観や円教の一心三観といったレベルになってくる≠ニいう。ここでも松岡は内外相対の法理の基本がなっていない。それでは松岡の言う如き教理が内在しているのなら、その理をどうやって観照するのか。その智慧を開発する修行方法が示されているのか。またそれを悟るには段階があるだろうが、その階位が示されているか。これらが明らかでなければ、それは単なる理でしかない。しかもその理は完全な理ではなく、ごく一部分の理にすぎない。
 仏教の三大真理である空・仮・中は、蔵・通・別・円の教説に示されるが、『法華玄義』に、

慧は能く惑を破し理を顕す。理は惑を破すること能わず。理若し惑を破せば一切衆生悉く理性を具す。何が故ぞ破せざる。若し此の慧を得れば、則ち能く惑を破す。故に智を用い乗体と為す。(法華玄義釈籖会本上八二九頁)

と説かれているように、理それ自体は惑、すなわち迷い・煩悩を破ることはできない。もし智慧を得ることができれば、その智慧をもって惑を破ることができる。松岡は、このように哲学的な面からキリスト教等の神を論ずると、天台的な判釈で言う蔵教の析空観や通教の体空観でもまだ足りず、別教の次第三観や円教の一心三観といったレベルになってくる≠ニいうが、『観心本尊抄』に、

本門に於ても序正流通有り。過去大通仏の法華経より乃至現在の華厳経、乃至迹門十四品・涅槃経等の一代五十余年の諸経・十方三世諸仏の微塵の経々は皆寿量の序分なり。一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名づく。其の機を論ずれば徳薄垢重・幼稚・貧窮・孤露にして禽獣に同ずるなり。爾前・迹門の円教すら尚仏因に非ず、何に況んや大日経等の諸小乗経をや。何に況んや華厳・真言等の七宗等の論師・人師の宗をや。与へて之を論ずれば前三教を出でず、奪って之を云へば蔵通に同ず。設ひ法は甚深と称すとも未だ種熟脱を論ぜず、還って灰断に同じ、化の始終無しとは是なり。(新編六五五頁)

と説かれているように、爾前の円教すら、それらの教理は与えていっても蔵・通・別の前三教の範籌であり、奪っていえば蔵通と同じなのである。
 しかもこれら爾前権経に通じる哲学の教理による証得は、本已有善の衆生であればまだしも、末法本未有善の衆生に無益であることを、松岡は知らないのである。
 もちろん仏教の立場から哲学等を開会することは可能である。しかしそれは日蓮正宗に伝持される宗祖日蓮大聖人の極理によってのみ可能なことであり、松岡や創価学会の誤った教義では、哲学等に振り回されこそすれ開会などほど遠いことを知るべきである。


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