自称冨士大石寺顕正会会長浅井昭衛の悪書
       最後に申すべき事≠砕破す


  二、第一章「法主絶対論」等の欺瞞を破す≠ニの誑言を破折す

 汝は、当章を「法主絶対論」等の欺瞞を破す≠ニの題名を付し、御法主上人を誹謗中傷している。しかし、法主絶対論≠ネどというものは宗内には存在しない。法主絶対論≠ニは、いったい如何なるものか、意味不明である。汝のいう法主絶対論≠ェ、御本仏大聖人の法水を唯授一人金口嫡々の血脈相承により御内証に具えられている御法主上人を、現代における仏法の大師匠と拝し奉って絶対の信を置くことであり、それを指して欺瞞≠ニいうのなら、それは末法万年にわたる令法久住広宣流布の根幹として、唯授一人の付嘱を定められた御本仏大聖人を愚弄(ぐろう)する大悪言なのである。汝は、血脈付法の日達上人、日顕上人の両上人に対して悪口誹謗の限りを尽くすが、その所業は、汝が下種仏法に背逆する未得謂得未証謂証の僻人(びゃくにん)であることを露呈しているのである。
 また汝は返書において汝は、己れの三大謗法の疵(きず)を隠すため、初めに「法主絶対論」を振りかざして問答無用と威(おど)し、さらに小生の過去の発言を歪曲しては誣言(ぶげん)を並べている。よってこのたばかりを、まず打ち砕いておかねばならない≠ネどというが、そもそも御法主上人には謗法など微塵(みじん)もあらせられない。汝の三大謗法≠ニの誣言は、以下に詳述する如く、事実無根の捏造(ねつぞう)である。たばかってはいけない。我らは、汝の過去の発言を歪曲≠ネどしていない。悉(ことごと)くが事実なのだ。汝は、よほど過去の発言≠暴かれるのが恐ろしいと見え、必死に言い訳をしているが、汝の言が如何に欺瞞に満ち、嘘偽りで固められているかを白日に晒(さら)≠サうではないか。


1、「法主は大御本尊と不二の尊体」の欺瞞≠ニの謗言を破す


 汝はされば返書に云く「御当代法主上人の御内証は、本門戒壇の大御本尊の御内証と而二不二にてまします」と。つまり阿部日顕は戒壇の大御本尊と不二の尊体≠ニいうわけである。だが、このたばかりを打ち摧くのに、難しい理屈はいらぬ。「一切は現証には如かず」(教行証御書)と。汝の所行を見れば、たばかりは一目瞭然(りょうぜん)となるではないか≠ニいう。では、いったい我らがいつ阿部日顕(上人)は戒壇の大御本尊と不二の尊体≠ニ述べたのか。昭衛よ、汝の言は文意の歪曲とすり替えである。我らは、大聖人よりの法水を受け継がれる御法主日顕上人の御内証には大聖人の御魂魄(こんぱく)が在されるのであるから、大聖人が御魂魄を墨に染めながして御顕示遊ばされた本門戒壇の大御本尊の御内証と而二不二であると汝に教えているのである。汝は、この而二不二の深意が判らないから、難しい理屈はいらぬ≠ネどと言い訳をしているにすぎないのだ。また、「一切は現証には如かず」(教行証御書)と。汝の所行を見れば、たばかりは一目瞭然≠ネどというが、これも汝のたばかり≠ナある。以下において破折するごとく、汝は池田創価学会の誹謗報道に依憑(えひょう)し、猿まねで難癖(なんくせ)を付けているに過ぎない。
 真実の現証をいうなら、それは御法主日顕上人の御登座後二十七年の長きにわたる宗門教導のお振る舞いと、僧俗一致の真の広布大前進の実相こそ、大聖人の文底下種仏法を日顕上人が厳然と承継遊ばされていることを証明しているのである。
 また汝は戒壇の大御本尊と「不二の尊体」という者が――どうして御本仏一期の御遺命を破壊せんとするのか。戒壇の大御本尊を「偽物」などと言うのか。身延の謗法僧を大石寺に招くのか。これらはまさしく魔の所行ではないか≠ネどと言う。御法主日顕上人が、いつ御本仏一期の御遺命を破壊せん≠ニしたのか。それこそ事実無根の妄言である。汝こそ、本宗の戒壇義に非らざる国立戒壇≠ノ固執し、御本仏一期の御遺命を破壊せん≠ニしているのだ。そもそも戒壇建立の御遺命は、大聖人より日興上人への御付嘱であり、日興上人以来代々の御法主上人が御所持遊ばされ、現在は、御当代日顕上人がその御遺命を正しく捧持(ほうじ)あそばされているのである。したがって、日顕上人の御指南に背く汝こそは、まさに御遺命を破壊≠キる謗法者なのである。また、御法主日顕上人が戒壇の大御本尊を「偽物」などと言≠チたとか、身延の謗法僧を大石寺に招≠「たなどという汝の言は、創価学会の宗門誹謗の受け売りであり、我らに破折し尽くされた事柄である。それを頬被(ほおかむ)りして何度も蒸し返すとは、汝はなんとも情けない男である。
 さらに汝は「不二の尊体」が、どうして芸者あそびなどに現(うつつ)をぬかそうか。信徒の血のにじむ供養を三十億円も浪費して都内の一等地に超豪邸を二つも造ろうか。これらは「法師の皮を著(き)たる畜生」の所行ではないか≠ネどと悪言を吐く。これもまた創価学会の誹謗の受け売りである。その創価学会の誹謗報道については、東京高等裁判所から「違法性を有する」(平成十二年十二月五日)と判決文中に認定されている。よって、かかる報道を猿まねして大々的に誹謗する汝の行為も違法性を有するものと断ずる。なお、本件に関する創価学会の謗言については、我ら邪義破折班が徹底して破折したところである。御法主上人には、その折、某二老師の古稀の宴席に他の第六十世日開上人の遺弟、法類の方々と共に、それも各々夫人同伴で招待されたものである。したがって、汝が誹謗する如き芸者あそび≠ネどではない。二老師の一生に一度の晴れの御招待の席を芸者あそび≠ネどと貶(けな)すとは無慚(むざん)極まる言というほかない。また大石寺所有の出張所等は総本山が必要に応じて建設した公的なものであり、総本山大石寺の出張所に相応(ふさわ)しい質実な建築物である。超豪邸≠ネどという華美な建物ではないことは、宗内僧俗一同が了知していることである。部外者の汝の謗言など一切通用しない。
 また汝は、涅槃経には「もし仏の所説に随順せざる者あらば、是れ魔の眷属なり」とある。御本仏の御遺命に随順しない者は、魔の眷属なのである。また摩耶(まや)経には「なお猟師の外に袈裟を披(き)て、内に殺害を懐くが如く、魔も亦た是くの如し。外には聖の像を為し、内には邪謀(じゃぼう)を挟(はさ)む」と。魔は尊げなる姿で身をかざり、内心に仏法破壊をたくらむとある。ゆえに大聖人は最蓮房御返事に「第六天の魔王、智者の身に入りて正師を邪師となす」と仰せあそばす。まさに知るべし。「戒壇の大御本尊と一体不二」と嘯(うそぶ)く汝の正体こそ、第六天の魔王その身に入る醜体以外の何者でもない≠ニの暴言を吐くが、何のことはない。御本仏の御遺命に随順しない者は、魔の眷属(けんぞく)≠ニは、まさしく大聖人の唯授一人金口嫡々の血脈を承継遊ばされる御法主上人に反逆する汝のことではないか。また魔は尊げなる姿で身をかざり≠ニは、顕正会員に合掌礼もどきの伏せ拍手をさせ、悦に入る汝のことではないか。かかる汝の姿こそ、内心に仏法破壊をたくらむ∞第六天の魔王その身に入る醜体以外の何者でもない≠フである。汝は悪智恵を働かせて正師を邪師とたばかる正真正銘の魔である。御書や経典に説かれる≠ニは、まさに汝を指しているのだ。


顕正会員に合掌礼もどきの伏せ拍手をさせて得意満面の浅井昭衛

 また汝は、しかるに汝は、さらに己れの身をかざらんとして、御本尊七箇之相承の「代代の聖人云々」の御文、および百六箇抄末文の「日興が嫡々(ちゃくちゃく)付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」の御文を引いて「そこに本宗僧俗が御当代の御法主上人を合掌礼をもって拝し奉り、御指南に信伏随従し奉る所以がある」などという。つまり「法主」は即大聖人であるから合掌礼をし、かつその御指南を絶対として信伏随従せよ──と言っているのだ。これでは「法主本仏論」ではないか。御本尊書写に関わる「七箇之相承」の金文を歪曲悪用して、阿部日顕即大聖人≠ネどとたばかってはいけない。このたばかりを打ち摧くのに深秘の御法門を論ずる必要がないことは、前と同様である≠ニ罵る。しかし、御法主上人におかれては、己れの身をかざ≠髟K要などまったくない。なぜなら、御法主日顕上人の御内証には厳然と大聖人の血脈法水が相伝されているからである。かの悪逆の提婆達多(だいばだった)が教主大覚世尊を妬(ねた)んだのと同様、汝は、尊極なる血脈を承継遊ばされる御法主上人を妬むが故に、種々の暴言を吐いているに過ぎない。また汝は、我らが、『御本尊七箇之相承』『百六箇抄』等の御文の正意を述べたことについて、「法主」は即大聖人法主本仏論≠ネどと誹毀する。これも汝得意のたばかり≠ナある。宗門に法主本仏論≠ネどというものは存在しない。宗祖日蓮大聖人こそ御本仏にましますのである。御法主上人の御内証には唯授一人の御相伝により、その御本仏大聖人の魂魄が在すが故に合掌礼を以て拝し奉るのである。また、阿部日顕即大聖人≠ニ言うに及んでは開いた口が塞(ふさ)がらない。宗門の誰が、いつ、そのようなことを述べたのか。一言も言っていないことをデッチ上げるから、汝を「たばかり昭衛」というのである。
 また汝は百六箇抄の御文は「嫡々付法の上人」についての仰せであって、汝ごとき詐称「法主」はこれに当らない≠ニいう。これまたたばかり≠ナある。
 汝は以前、
○かくて日道上人・日行上人・日時上人・日阿上人・日影上人・日有上人と、「本門戒壇の大御本尊」を付嘱の法体として代を重ねること六十七、清浄の法水はいささかも断絶することなく今日に至っている。これが正系門下・富士大石寺の伝統である。(富士昭和六十一年十一月号叱呵痴犬抄二頁)
と日顕上人を正統の御法主上人と拝信していた。汝は、一体いつから日顕上人が詐称の法主になったというのだ。かかる汝の言を二枚舌というのだ。


血脈の不断を述べる浅井昭衛
(『冨士』昭和61年11月号『叱呵痴犬抄』)


 平成十年四月、御法主日顕上人は、本門戒壇の大御本尊を、正本堂から新奉安殿へ御遷座申し上げた。汝は、その折、「御遺命守護完結奉告式」なるものを修し、「御遺命守護の完結」と述べた。
 ところで、かつて汝は、
やがて御遺命守護完結のその日には、顕正会員こそこの捨身の御奉公によって、時の御法主上人より、晴れて御本尊の授与を賜わる資格を得るのである。(日蓮大聖人の仏法初版六六頁)
とも述べてきた。しかし、汝はこの平成十年、仏法に違背してきた己れを待ち受ける厳しき現実と直面したのである。それは、本門戒壇の大御本尊の御遷座は、創価学会の謗法化に伴い、御本仏大聖人の聖意を拝された御法主日顕上人の御英断によったからである。決して汝の言を用いられたものではない。故に日顕上人は、その後も、汝の固執する国立戒壇≠ヘ、一貫してお認めになられていない。汝は、この状況に困惑したのだ。すなわち、これまで「御遺命守護」を戒壇の大御本尊の正本堂からの御遷座(汝は還御と呼ぶ)とし、これが完結した日には、晴れて御法主上人より御奉公が認められると会員を欺(あざむ)き続けてきた手前、今更訂正はできない。そこで、汝は、自らの存在意義が失われる危機を感じ、顕正会の存続を謀(はか)るため、邪智を廻(めぐ)らし、一転して、日顕上人の血脈相承を否定するに及んだのである。その証拠は、御遷座一年後の平成十一年四月十二日に、
まさしく御遺命に背いたゆえに、細井管長は御相承を「授ける」ことができず、阿部管長また御遺命違背の科(とが)によって「受ける」ことができなかった。「授」なく「受」なしであります。(顕正新聞平成十一年四月二十五日付)
と、突如、血脈断絶の悪言を吐いたことである。かかる血脈否定の悪言こそ、汝がいかに指導者を装っても、その内面にあるものが信心皆無の邪な本性であることを露呈しているのである。その背景は、平成十年の正本堂からの大御本尊御遷座に伴い、池田創価学会が、日達上人から日顕上人への血脈相承を否定したことにある。その尻馬に乗ったものが汝の発言である。
 かつて汝は、平成元年発行の『日蓮大聖人の仏法』において「日蓮正宗の宿願」として、
日蓮正宗が正しい理由は三つある。一には戒壇の大御本尊がましますこと、二には血脈相承、三には国立戒壇の御遺命を使命としていること、である。(初版一五六頁)
と記している。また平成五年発行の『顕正会の歴史と使命』では、「第一章 日蓮正宗が正系門家である三つの理由」として、
末法の御本仏・日蓮大聖人の仏法を正しく伝承している正系門家は、日蓮正宗以外には絶対にありません。そのゆえんは、日蓮正宗には「本門戒壇の大御本尊」と「血脈」と「国立戒壇建立の御遺命」が存するからであります。(一一頁)
と述べ、さらに「血脈」について、
「血脈」とは、この戒壇の大御本尊の付嘱相承の法脈です。日蓮大聖人はこの本門戒壇の大御本尊を、弘安五年九月に日興上人に付嘱あそばされ、「本門弘通の大導師」に任ぜられた。以来、日興上人は日目上人に、そして日道上人、日行上人、日時上人、日阿上人、日影上人、日有上人等と、一器の水を一器に移すごとく、「唯授一人」といって一人から一人へとこの大御本尊は大石寺の歴代上人に付嘱相承されてきた。この法脈を「血脈」というのであります。(一二頁)
とまで述べている。このうち、「国立戒壇建立の御遺命」は汝の己義であるが、「血脈相承」を「日蓮正宗が正しい理由」として挙げているではないか。しかるに汝は、平成十一年に『日蓮大聖人の仏法』 の改訂版を発行する際、「日蓮正宗の宿願」の項を削除し、また現在では『顕正会の歴史と使命』を絶版にしている。これも、かつて汝が「血脈相承」を認めていたことをひた隠しにしようとするものである。如何に御遺命守護の忠臣を装っても、所詮汝は正信会や創価学会と同じ穴の狢(むじな)であることを自ら証明したのである。
 また汝は汝ごとき三大謗法を犯した詐称「法主」がこれらの金文を振りかざすは、あたかも弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が三種の神器の貴重を論じ、万世一系の権威を誇るようなものである≠ニ誹毀するが、汝の三大謗法≠フ言は、まさに欺瞞、虚偽、捏造の産物である。大聖人の文底下種仏法の正義を闡明(せんめい)遊ばされ、僧俗異体同心の真実の広布の基盤を確立遊ばされた日顕上人を、三大謗法を犯した詐称「法主」弓削道鏡が三種の神器の貴重を論じ、万世一系の権威を誇るようなもの≠ネどと罵るとは、汝の大謗法をかの提婆も驚嘆していよう。血脈付法の御法主上人は、御内証に大聖人以来の法水を御所持遊ばされ、以て御遺命を捧持されているのである。血脈相承に関わりようもない在俗の身でありながら、血脈を否定し御遺命守護などと僭称(せんしょう)する汝こそ、平成の弓削道鏡≠ニいうべきである。
 
 また汝は前には「不二の尊体」「法主即大聖人」といい、ここには戒壇建立は「法主の専権事項」という。恐るべきことは、このような法主絶対論を振りかざす者が、もし大聖人の御遺命に背いて己義を構えたら、そのとき仏法は破壊されてしまうのである。広布前夜には、魔の働きによりこのようなことも必ず起こる≠ニいう。前述の如く、御遺命の戒壇建立は、「血脈の次第日蓮日興」以来、唯授一人血脈付法の御法主上人が承継遊ばされる重大な使命であることはいうまでもない。しかるに汝は、恐れ多くも御法主上人に対し、御遺命に背いて己義を構え∞仏法は破壊されてしまう∞広布前夜には、魔の働きによりこのようなことも必ず起こる≠ニ、悪言を吐くが、汝のその考えこそ魔の働き≠ナあり、己義≠ネのである。そもそも、唯授一人金口嫡々の血脈相承により大聖人の御遺命を捧持あそばされている御法主上人が、御遺命に背くなどということは絶対にあり得ないことである。そのような邪悪な発想をすること自体が、魔の所為であると断ずる。
 更に汝は、二祖・日興上人は「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事」と厳重の御遺誡を遺し給うたのである。しかし汝はこの誡文を前にしても、なお「法主が己義を構えることなどあり得ない」と強弁するであろう。だが、もし起こり得ないことならば、二祖上人のこの一条は無用の贅言(ぜいげん)となるではないか。これまた「現証には如かず」である。中古の精師の「随宜論」等はさて置く。六十六、七の二代にわたる物狂わしき誑惑(おうわく)こそ、まさしく広布前夜のそれに当るではないか≠ニ誣告(ぶこく)する。日興上人の御遺誡を勝手に解釈する、それを己義≠ニいうのだ。汝如き大謗法者が云々すべきものではない。これについては、後述する。
 なお汝は、総本山第十七世日精上人をも誹謗しているが、日精上人が御歴代の正師にましますことはいうまでもない。これに関しては、同封の創価学会教学部長斉藤克司の邪問を徹底粉砕した破折書に詳述してあるので、熟読するがよかろう。所詮、汝の誹謗は、創価学会の二番煎じに過ぎないのである。
 また、日達上人、日顕上人に対して、物狂わしき誑惑≠ニは何たる言い草か。両上人は、令法久住、広宣流布を第一義として、僧俗一同を教導遊ばされてきたのである。御慈悲あふれる日達上人、日顕上人に反逆し、あくまで国立戒壇≠ノ固執して己義≠構える汝の言こそ、物狂わしき誑惑≠サのものである。
 更に汝は六十六世・細井日達管長がいかに己義を構えたかを見てみよう。それは、天を地というごとき自語相違を見れば明らかである。同管長は登座直後には、御遺命のままに正義を述べていたが、池田大作に諂(へつら)うや忽(たちま)ちに誑言を吐いている。例せば「国立戒壇」においても「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが日蓮正宗の使命である」(大白蓮華 昭和35年1月号)と。これは正論である。ところが忽ちに「国立戒壇は本宗の教義ではない」(大日蓮 昭和50年9月号)となる。また「事の戒壇」についても「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は、広宣流布の時の国立の戒壇であります」(大日蓮 昭和36年5月号)と正論を述べていたのが、後には「この(戒壇の)御本尊在すところは事の戒壇でございます。だからその御本尊が、たとえ御宝蔵にあっても、あるいは唯今奉安殿に安置し奉ってあっても、あるいは今正に出来んとする正本堂に安置し奉っても、その御本尊在すところは何処・何方でも、そのところは即ち事の戒壇であります」(昭和45・4・27・教師補任式)と変わる。これでは、いったいどちらを信じたらいいのだ。このように、「法主」であっても魔が入れば仏法相違の己義を構えるのである≠ニいう。まず汝が指摘する日達上人の昭和三十五年の「国立戒壇」との仰せは、その前年の夏期修養会における次の御指南と同趣旨なのである。
天皇が戒旦建立を許可し一切の人々がそれによって戒旦を建立するということは、日本では、もう天皇の力がないぢゃあないかというようなことをいうのでございますが、広宣流布の聖主は即ち広宣流布の時の聖主は転輪聖王であるのでございます。必らずしも今の天皇陛下が建立主となるべき時の天皇とはきまっておらない、又大聖人も、そうはおっしゃって、おらないのであります。又此の御書に照し経文に照らすときは広宣流布の時には転輪聖王が出ますということになっておるのでございます。そのときの聖主こそ天皇であれ、誰れであれ、兎に角為政者である、その時の為政者が転輪聖王となって戒旦建立の大将となって現はれれば、よろしいのであります。
(大日蓮昭和三十四年九月号四六頁)

 すなわち、昭和三十五年の御指南において、「国立戒壇」との名称は使われていても、それは国主たる転輪聖王が建立主となるとの意による御指南であり、その実義は「国主立戒壇」なのである。しかして、その後、当時の広布の事相に伴い、大聖人の御遺命の戒壇の本義を拝され、本宗の教義でない「国立戒壇」は適切ではないと結論され、本来の意義をお述べになられたのが、昭和五十年の御指南である。そこに何の齟齬(そご)も存在しない。
 また、「事の戒壇」については、日達上人におかれては、御歴代先師の御戒壇説法や御指南を拝され、大聖人の出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊は事の一念三千の根源の法体にましますのであり、本門戒壇の大御本尊在すところは、何処にても、広布以前であっても、根源の意義より事の戒壇であるとの意義を闡明遊ばされたのである。しかし、その御指南以前は、日寛上人が一天広布の事相に約して示された「事の戒壇」義に基づき、事の戒壇を本門寺の戒壇であると御指南されたのである。但し、日達上人の仰せられた「国立戒壇」とは、先に述べた如く「国主立戒壇」を指すことは言うまでもない。日達上人の前後の御指南には何ら矛盾は存しないのである。
 また汝はよって、かかる非常事態においては、大聖人の御金言を本として仏法を守護しなければいけない≠ニいうが、日達上人の御指南は何れも正義であり、非常事態≠ナも何でもない。大聖人の御金言を体され、真実に下種仏法を守護されているのは、血脈承継の御法主上人であられる。大謗法の汝やその配下などでは絶対にない。血脈否定の汝ら顕正会は、第六天の魔王の眷属たることを自覚せよ。
 また汝はこの誡めを日興上人は「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事」とお示し下されたのである。だが、己義を構える貫首にとっては、この一条ほど痛く邪魔なものはない。そこで細井管長は、この文意を改変して宗内に押しつけている。そのさまを見よ。登座直後の「遺誡置文」の講義録では、次のごとく述べていた。「後世の総本山の代表たる貫主であっても大聖人の仏法に違背して自分勝手な説を立てて固執するならば、その説は勿論、その貫主を用いてはならない。日興上人は大聖人の仏法を守るためには、かくの如く実に厳格であったのである」と。ところが顕正会の諫暁によって自身の己義が露見するや、次のように文意を改変した。「時の貫主とは、その宗の頭、即ち現在の管長であり法主である。管長であるから宗門を運営するに当って、誰を採用し、任用してもよいのであるが、大聖人の仏法に違背して自分勝手な説を立て、しかも注意されても改めない人を用いてはならない。つまり、時の貫主の権限を示されているのである」(同講義録 昭和47・7・20版)何とも恥しらずな二枚舌ではないか。この姿こそ、「時の貫首」でも魔が入れば、仏法相違の己義を構えるという一例である。だが細井管長の誑惑は粗雑であり、汝のたばかりは深く巧みである。よってその罪はより深い≠ニいうが、日達上人の御指南は、何れも正当である。汝の挙げる『日興遺誡置文』に、
時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事。(新編一八八五頁)
との一条がある。では、仏法に相違した己義か否かの宗義上の正邪の判定は、一体誰がするのか。唯授一人血脈付法の御法主上人以外にはおられないではないか。汝に教えておこう。日時上人の『大石記』には、
仰セに云く日興上人の常の御利口に仰セられけりとなん、予が老耄して念仏など申さば相構エて諫むべきなり、其レも叶はずんば捨つべきなり(富要初版十一巻一五五頁)
と述べられている。この仰せは日興上人が日常の御冗談として「もし私が耄碌して念仏を唱えるようなことがあれば用いてはいけない」と示されたものである。この仰せのように、貫首の己義とは、念仏などの邪義を唱えるなどという万々が一の状況を示されたものと拝すべきである。とはいえ、本宗において、このような史実は一度も生じていないのである。ゆえに、右記の遺誡置文の一条を以て、御法主上人の御指南を大衆が己義だと誹謗することは邪義であり、日興上人の御本意ではないのである。よって、御法主上人に仏法相違の己義など、毛頭ほども存在しないことは当然である。すなわち、汝が前に掲げる日達上人の御指南はこの日興上人の万一の、しかも仮定の意味で仰せられた一往の意義であり、後の御指南は当該御文のより深い本意を示されたものである。つまり、この日達上人の仰せは、血脈の尊厳を示された何れも正当な御指南と拝すべきである。汝や池田大作のような異流義の者どもが遺誡置文の深義に到達することなど金輪際あり得ず、汝如きに遺誡置文を判ずる資格は毛頭ないと知るべきである。
 また汝は、日達上人の命を受けて『国立戒壇論の誤りについて』『本門事の戒壇の本義』の二書を草された日顕上人に対し、汝のたばかりは深く巧み≠ネどと難癖を付けているが、更なる広布進展を願い、宗内一同を慰撫教導せられた教示に対したばかり≠ネどと誹謗するのは慢心邪見の汝ならではの言い草である。


  二「顕正会もすでに広宣流布≠ニ言った」の嘘との虚言を破す

 汝は、昭和四十年当時に、
すでに広宣流布の時は来ております。(富士昭和四十年九月号一二頁)
と発言したことについて、この意は、当時、世の中は大不況のただ中にあり災害も続いていた。よって大衆は悩みの中に御本尊を待っている。すでに広宣流布すべき時は来ている。一万めざし死身弘法をしよう≠ニ、全幹部を励ましたものである。前後の文を読めばこの意は了々ではないか。だいいち、風前の灯のような状況下での四千達成で、どうして「広布達成」などという理由があろうか。馬鹿もほどほどにせよと言いたい≠ネどと言い訳をする。では汝が、昭和四十年七月二十八日の幹部大会においてすでに広宣流布の時は来ております≠ニ発言した二箇月前の昭和四十年五月二十五日の総幹部会で、
今回総本山に於て御法主上人猊下の御思召によりまして、いよいよ意義重大なる正本堂が建立される事になります。戒旦の大御本尊様が奉安殿よりお出まし遊ばされるのであります。この宗門全体の重大な慶事に、妙信講も宗門の一翼として講中の全力を挙げ真心を込めて猊下に御供養をさせて頂く事になりました。実に日蓮正宗の生命は大聖人出世の御本懐であらせられる戒旦の大御本尊様にましますのであります。この大御本尊は大聖人様より日興上人へ御付属せられて以来広布の時を待って歴代の御法主上人によって厳護せられて来たのであります。今までの七百年はひたすら時を待たれて御宝蔵の奥深く秘せられて参りました。唯そのスキマもる光を拝して一部の宿縁深厚なる信者が許されて猊下より内拝を賜っていたのであります。その御本尊様がいよいよ時を得て除々(ママ)に大衆の中に御出ましになる。御宝蔵より奉安殿へ、更に猊下の深い御思召により大客殿の奥深き正本堂へとお出ましになるのであります。その深い意義は凡下の我々のみだりに窺がう所に非ずとはいえ、容易ならぬ事であります。いよいよ大衆の中に人類の中にその御姿を除々(ママ)におあらわしになる。私共はこの猊下の御思召に同心し奉ってたとえ微力たりとも赤誠を奉りたい。先生は千載一遇のお山への御奉公だと申されております。全講を挙げて歓喜の御供養をさせて頂こうではありませんか。(富士昭和四十年七月号八頁)


正本堂の意義重大なることを述べ、妙信講員に御供養を推進する
浅井昭衛の指導(『富士』昭和40年7月号)

と発言したことは、一体いかなる意味か。正しく当時の広布進展、正本堂建立を七百年来の重大なる慶事と述べているではないか。汝のすでに広宣流布の時は来ております≠ニは、かかる意義に基づき、文字通り、当時を広宣流布の時と認識した上での発言であったことは、火を見るよりも明らかである。それを今になって否定することこそ、無慚無愧なたばかりなのである。
 また汝は風前の灯のような状況下での四千達成で、どうして「広布達成」などという理由があろうか。馬鹿もほどほどにせよと言いたい≠ニ嘯くが、我らは、広布達成≠ネどとは全く言っていない。汝がすでに広宣流布の時は来ております≠ニ述べたことを指摘したのである。たばかるのもほどほどにせよ。

「顕正会も正本堂に賛同した」の嘘≠ニの謬言を破す

 汝が、正本堂建立当時、正本堂の意義に賛同し、正本堂の御供養にも参加していたとの当方の指摘に対し、汝は顕正会が正本堂の供養に参加したのは事実である。だがそれは──正本堂を奉安殿の延長として、国立戒壇建立の日まで戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し奉る堂宇、すなわち「大御宝蔵」「大奉安殿」として供養に参加したのである≠ネどと言い訳をしている。ならば、昭和四十年三月二十六日の「正本堂建立御供養趣意書」に、
戒壇の大御本尊様が、いよいよ、奉安殿よりお出ましになって、正本堂に御安置されることを、正式におおせくだされたのであります。かねてより、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明らかになったのであります。
(大日蓮昭和四十年五月号一四頁)

と述べられていたことを、汝は知らなかったとでもいうのか。そんな姑息な言い逃れは通用しない。汝は、この趣意書の内容に同意したからこそ、正本堂の御供養に参加したのである。この趣意書の「正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成である」とは、汝のいう単なる大御宝蔵大奉安殿≠ノとどまるものではなく、広布進展の事相が現実に顕れたことを示すことは明らかではないか。汝が正本堂の意義を当初から認識していなかったとする言は、たばかり以外の何物でもないことを告げておく。
 
 また汝は、昭和四十年当時の状況を振り返って、一方、学会においては前述のごとく、細井管長の最初の説法以来、正本堂を御遺命の戒壇≠ニ、しきりと宣伝した。しかし小生は「然るべき時に、必ずや猊下がこの誑惑を打ち摧いて下さる」と期待していた。それは日興上人の御遺誡に「衆議たりと雖も仏法に相違有らば、貫首之を摧くべき事」とあるからである。ことは宗門の一大事たる戒壇建立に関わること、しかも細井管長の説法を根拠として池田の誑惑が進められているのであれば、この「仏法相違」を打ち摧くのは、貫首一人の責務であり権能でもあった。だが細井管長は、その後もただ黙しているだけであった≠ニ述べている。しかし、日達上人は、池田大作、創価学会の御遺命の戒壇♂]々の発言に対して、ただ黙して≠ィられたのではない。創価学会の大折伏による広布進展が更に大前進するよう鼓舞(こぶ)されたのである。それは当時の汝も同様である。先にも挙げたが、汝も、
いよいよ意義重大なる正本堂
宗門全体の重大な慶事
大聖人出世の御本懐であらせられる戒旦の大御本尊様(中略)その御本尊様がいよいよ時を得て除々(ママ)に大衆の中に御出ましになる。御宝蔵より奉安殿へ、更に猊下の深い御思召により大客殿の奥深き正本堂へとお出ましになる

などと発言し、正本堂の御供養に歓喜して参加したではないか。それを今さら、小生は「然るべき時に、必ずや猊下がこの誑惑を打ち摧いて下さる」と期待していた≠ネどと述べることは、正本堂建立により広布の更なる前進を期することが、汝も含めて、当時の宗門全体の空気であったことに対するたばかりである。そのような汝の言を欺瞞というのである。
 しかし、その後、池田大作の広布達成に対する執着の露呈など種々の経過もあったが、日達上人におかせられては、汝の意見も徴され、昭和四十七年の訓諭において、正本堂の意義を確定遊ばれたのである。つまり、日達上人の正本堂に関する最終的な御指南は、何処までも昭和四十七年の訓諭に尽きるのである。汝は、その訓諭の御指南を真摯(しんし)に拝し信伏随従して、本宗信徒としての道を全うするべきであった。しかし、汝は訓諭に従うことなく、汝の意見に誠実に耳を傾けられた大恩ある日達上人を蔑(さげす)んだのである。なんたる不知恩であろうか。所詮汝は、我賢しとの慢心で塗り固められた無慚無愧なる愚人に過ぎないのである。
 また汝は、当時妙信講(現顕正会)の正本堂御供養の事実経過について、顕正会のこの供養参加に対し、池田の傀儡(かいらい)となっていた法華講連合会が、「妙信講にはさせない」と騒ぎ出し、本山をも動かした。かくて顕正会の赤誠の供養は、無残にも本山から突き返されたのである。この背後に池田の意志があったことはいうまでもない。彼の目には、全宗門僧俗が己れの威を恐れ随う中に、ひとり正本堂を事の戒壇といわぬ顕正会の存在が目障りに映ったに違いない。そこで「法主の意」として供養金を突き返し、その衝撃で顕正会を窒息死させようとしたのである≠ニ述べている。しかし汝は、かつて、
妙信講が御供養参加を打ち出すと、連合会が騒ぎだした。させない≠ニいうのである。平沢益吉は「連合会に加わらぬ妙信講の供養などは宗門で受け付けるはずがない」と豪語していた。(中略)平沢会長を信仰の確信もなき指導者≠ニいうような講中からは供養は受け取れない
(富士昭和六十一年八月号『顕正会「試練と忍従」の歴史』五六頁)

と、妙信講の正本堂御供養を宗門が受け取らなかった理由については、妙信講が連合会に加入せず、平沢会長を中傷したからだと述べていた。にもかかわらず、汝は今回、その理由を正本堂を事の戒壇といわぬ顕正会の存在が目障りに映った≠ゥらだという。自語相違は明らかである。昭和四十年当時の汝は、先に重々示したように、正本堂の意義に賛同していたのである。それをいまさら、その当時においても、賛同していなかったかのように言うのは大なるたばかりである。まして、様々な経過があったにせよ、結局は、汝ら妙信講の願いにより、昭和四十四年三月に御供養が受理されているにおいてをやである。
 
 また汝は、昭和四十二年十月の正本堂建立発願式に際しての宗門僧侶の大日蓮への寄稿について、宗門高僧らも、先を争うようにこの大誑惑に双手を挙げて賛同した。彼らは、大聖人の御眼よりも、池田大作に睨まれるのを恐れていた。池田の寵(ちょう)を得て栄達することを願っていたのである≠ネどと侮言し、さらに日顕上人に対してその最右翼が、教学部長・阿部信雄であった。汝の正本堂発願式における諛言(ゆげん)を引こう。「宗祖大聖人の御遺命である正法広布・事の戒壇建立は、御本懐成就より六百八十数年を経て、現御法主日達上人と仏法守護の頭領・総講頭池田先生により、始めてその実現の大光明を顕わさんとしている」(大日蓮 昭和42年11月号)御遺命の事の戒壇が昭和四十七年に実現する、と言い切っているではないか。宗門の教学部長の発言であれば重大である≠ニ誹謗している。しかし、日達上人の命を受けて教学部長を務められていた日顕上人の正本堂に関するご発言は、当時御仏意の上に広宣流布の時を御感遊ばされた日達上人の広布への前進を慰撫教導なされた御化導に基づくものであることはいうまでもない。すなわち、日顕上人のこの発言は、左の昭和四十年九月の院達に基づいたものなのである。
今回の正本堂建立は、宗門僧俗にとって此の上ない誠に重大な事業であります。すなわち、訓諭に仰せ遊ばされてあるように、本門戒壇の大本尊を奉安申上る清浄無比の大殿堂であり、このことは、大聖人の御遺命にしてまた我々門下最大の願業である戒壇建立、広宣流布の弥々事実の上に於て成就されることなのであります。(院第九四四号・大日蓮昭和四十年十月号六頁)
 この院達により宗門の広布前進への空気はいよいよ盛り上がった。その中において挙行された、正本堂建立発願式に参加された上からのご発言であり、複数の僧侶と共に述べられたものである。それは、当時の宗門の広布実現を目指しての大前進へのご配慮だったのである。それを、日顕上人が池田の寵を得て栄達することを願っていた≠スめに、そのように述べたなどというのは、まさに名聞名利に凝(こ)り固まった下司(げす)の勘ぐりであり、汝の汚い性根を現して余りあるものである。まして、この院達が発令された当時、汝らは批判どころか、歓喜して御供養の意義に賛同していたことを思い出すがよい。
 
 また汝はそのような空気の中、顕正会を嫉視(しっし)する法華講連合会委員長・平沢益吉から、四箇条の詰問状が、妙信講・指導教師の松本日仁住職を通して、小生に突きつけられた。この詰問は、宗務院・連合会連絡会議の席に松本住職を呼びつけてなされ、平沢の発言を阿部教学部長が筆記して手渡したものである。その詰問状はいま小生の手許にある。このうち三ヶ条は取るに足らぬ言いがかりであったが、一ヶ条は重大であった。それは、小生が正本堂を事の戒壇と認めぬことを詰り、返答を求めたものである。詰問状には「今の正本堂は事の戒壇ではない。奉安殿が狭くなったので、広い処へ移すためだけのものである、と妙信講では指導している」とあり、回答を迫っている。このとき平沢は「許しがたい。返答の次第では池田大作総講頭に伝え、妙信講を取り潰(つぶ)して見せる」と凄(すご)んだという。この一事を見れば、「顕正会も正本堂の意義に賛同していた」などのたばかりは、消し飛ぶであろう≠ネどといって、当時の正本堂の意義に賛同していたことを覆い隠そうとするが、先に挙げた昭和四十年五月二十五日の総幹部会において、汝は、
意義重大なる正本堂
戒旦の大御本尊様が奉安殿よりお出まし遊ばされるのであります。この宗門全体の重大な慶事
実に日蓮正宗の生命は大聖人出世の御本懐であらせられる戒旦の大御本尊様にてまします(中略)その御本尊様がいよいよ時を得て(中略)正本堂へとお出ましになるのであります
先生は千載一遇のお山への御奉公だと申されております。全講を挙げて歓喜の御供養をさせて頂こうではありませんか

と発言していたではないか。
 汝はこの「意義重大なる正本堂」等の発言の意味するところの趣旨を、昭和五十二年に、
時は昭和四十年二月十六日、正本堂建設委員会において同上人は、正本堂が御遺命の戒壇に当る旨の説法をされたのである。(富士昭和五十二年八月号六頁)
と述べていたのである。ところが後に、当時顕正会が正本堂につき、かかる認識をもっていたとすることが都合が悪くなると、
当時はまだ誑惑が顕著ではなかった。少なくとも、管長猊下は一言も正本堂を御遺命の「事の戒壇」などとは云われず(富士昭和六十一年八月号『顕正会「試練と忍従」の歴史』五三頁)
などと、全く正反対のことを述べるのである。実に姑息な言い逃れである。


第一回建設委員会の御説法について「正本堂が御遺命の戒壇
に当たる」とする浅井昭衛の発言(『富士』昭和52年8月号)


自語相違の苦しい言い訳(『富士』昭和
61年8月号『顕正会「試練と忍従」の歴史』)

 汝の昭和四十年、ならびに昭和五十二年の発言によれば、汝は、御先師日達上人の昭和四十年二月十六日、第一回正本堂建設委員会における御指南を拝して、その意義を「正本堂が御遺命の戒壇に当たる旨の説法」であると領解していたことが明らかではないか。すなわち、汝ら妙信講はこの御指南を拝し、その重大な意義に感激して、「意義重大なる正本堂」の御供養推進の啓蒙を行ったのである。また、その状況を証明する発言が他にもある。当時、汝ら妙信講は、
この御供養は、宗門の歴史をつらぬく大事で、猊下を通して戒旦の大御本尊様への御奉公であり、私達の生涯に二度とはない大福運であります。(富士昭和四十年七月号一一頁)
とも述べていた。この「宗門の歴史をつらぬく大事」で「私達の生涯に二度とはない大福運」との言は、汝も、広宣流布の時を迎えて建立する御遺命の意義を含む正本堂との認識を表明していたことが明らかではないか。
 その後、昭和四十四年に至り、正本堂の意義に関して御遺命達成という気運が宗内に醸成(じょうせい)されつつあった中、前年十月の着工大法要において、池田大作が正本堂を三大秘法抄の御遺命の戒壇であると発言するに至った当時の宗門の状況に対して、汝ら妙信講が反対を表明したことは事実である。しかし、汝がこの一事を見れば、「顕正会も正本堂の意義に賛同していた」などのたばかりは、消し飛ぶであろう≠ニいって、当初から正本堂の意義に反対していたなどという言は、まさにたばかり≠ナあり、それは右の様々な発言から消し飛ぶ≠フである。
 たばかり昭衛よ、姑息(こそく)な言い逃れは一切通用せぬと申しておく。
 
 また汝は以来、連々の諫訴(かんそ)・呵責(かしゃく)は今日まで三十五年。その間、宗門あげての悪口も、理不尽なる解散処分をも耐え忍んだ。これ偏えに、大聖人の御心に叶い奉らんの一念以外にはない。かかる一筋の忠誠を貫く顕正会を、汝ごとき阿諛(あゆ)の売僧(まいす)が仮初(かりそめ)にも毀(そし)るは、まさに「糞犬(やせいぬ)が師子王をほへ、癡猿(こざる)が帝釈を笑う」にも似ている≠ニいうが、たばかるのもいい加減にせよ。汝の三十五年にもわたる日達上人、日顕上人への悪口誹謗の限りを尽くす非難中傷が諫訴・呵責≠ニは、嗤(わら)わせるではないか。御先師日達上人、御当代日顕上人におかせられては、国立戒壇に固執する汝ら妙信講と、御遺命の達成に固執する池田創価学会を善導遊ばされるのに、いかほどご苦心遊ばされたことか。どこまでも国立戒壇に固執し、宗門の秩序と統制を乱した汝ら妙信講を講中解散処分、本宗信徒除名処分に付したことは誠に当然のご処置であられたと拝信する。また、汝は積年の悪行を大聖人の御心に叶い奉らんの一念≠ゥらのものだと弁解するが、そもそも大聖人の御心を受け継がれる日達上人、日顕上人の御指南に背く下種三宝違背の汝ごときが、大聖人の御心に叶≠、ことなど、絶対にないと断ずる。さらに、汝らは一筋の忠誠を貫く顕正会≠ネどと自讃するが、正確には汝らは、「一筋に我が儘勝手を貫く不忠の顕正会」であると呵しておく。
 師子王たる唯授一人金口嫡々血脈付法の御法主日顕上人を仮初めにも阿諛の売僧≠ニ罵る汝昭衛こそ、まさに糞犬癡猿≠ネのだ。


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