自称冨士大石寺顕正会会長浅井昭衛の悪書
       最後に申すべき事≠砕破す



  三、第二章 「御遺命破壊」についての反論を破す≠ニの詐言を破折す


 汝は、悪書の第二章を御遺命破壊についての反論を破す≠ニ題し、日顕上人が『国立戒壇論の誤りについて』と『本門事の戒壇の本義』を執筆されたことを、御本仏の一期の御遺命を破壊せんとするほどの大罪≠ニ決めつけた上、その執筆理由を宗門を牛耳る権力者・池田大作の寵を得れば、宗門の最高位にも登れると夢見た≠スめとし、さらに、選挙に狂奔(きょうほん)する池田にとって、評論家たちの「学会が目的とする国立戒壇は、政教分離を規定した憲法に違反する」との批判はもっとも痛かった。ここに彼は国立戒壇を否定するのに「民衆立の戒壇・正本堂」という誑惑を思いついた。そして汝に「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」という二冊の悪書を書かせ、あたかも正本堂が御遺命の戒壇に当るかのごときたばかりをさせたのである≠ニ罵っている。
 日顕上人が二書を執筆された理由は、ほかでもない。汝昭衛と池田創価学会の戒壇に関する見解がともに本宗の本義に外れていたからである。
 終戦後、新憲法の下に折伏弘教の勢いは未曽有の成果を収め、まさに広宣流布の時代の到来を感じさせるものがあった。御遺命の戒壇建立は本宗僧俗の悲願である。そこに正本堂の建立とが相俟って、戒壇について次第に不統一な見解が生じたのである。特に、池田大作の正本堂建立即御遺命の達成と固執する見解と、汝昭衛の田中智学流の国立戒壇に固執する見解が、ともに正義に外れていたことは大問題であった。宗門としてはこれらの異義を是正善導する必要が生じたのである。この経緯に関して、日顕上人は昨平成十六年八月の全国教師講習会の砌、
浅井の問題に関連した形で宗門と学会とが、日達上人の御指南を承りつつ、どうしてもやらざるをえなかったのが正本堂の意義付けということでありました。私は当時、教学部長をしていたものだから結局、このことについて私が書くことになってしまい、昭和四十七年に『国立戒壇論の誤りについて』という本を出版したのです。また、そのあとさらに、これは少しあとになるが、五十一年に『本門事の戒壇の本義』というものを、内容的にはやや共通しているものがありますが、出版しました。しかし、これらは全部、正本堂に関連していることであり、その理由があって書いたのです。つまり正本堂の意義付けを含め、田中智学とうり二つの浅井の考え方を破り、また本来の在り方をも示しつつ、さらに創価学会の考え方の行き過ぎをもやや訂正をするというように、色々と複雑な内容で書いたわけであります。(大日蓮平成十六年十一月号五四頁)
と述べられている。この仰せのように、正本堂の意義付けの問題の解決の方途として、日達上人の御指南を賜り、本宗戒壇の本来の在り方を示しつつ、両者の行き過ぎや邪義を矯正破折するとともに、宗内の見解を統一善導するために、日顕上人は二書を執筆遊ばされたのである。汝は御遺命を破壊≠ニか正本堂が御遺命の戒壇に当るかのごときたばかり≠ニ悪口するが、それが大邪見であることは明らかである。ただしその二書における信徒に対する慰撫教導は、正本堂建立という事相に即したものであったために、池田創価学会が謗法となった今日から見れば、行き過ぎや書きすぎもあったと日顕上人は訂正遊ばされているのである。
 しかし、汝の田中智学流の国立戒壇に対する破折は厳然たる正義であり、自らの邪義を破折善導賜った大恩を少しも覚らずに、恨みを抱いて悪口誹謗に終始する汝は、救いようのない大莫迦者である。
 また汝は日顕上人に対し汝はもとより、大聖人の御遺命が国立戒壇であることはよくよく知っている≠ニいうが、日顕上人は、昨年の全国教師講習会において、
結局、道理から言っても国立戒壇は誤りですから、『国立戒壇論の誤りについて』のなかにおいて国立戒壇が間違いだと言ったことは正しかったと思っております。(大日蓮平成十六年十二月号四八頁)
と御指南されており、現在でも国立戒壇は間違いと考えられていることが明らかではないか。しかもその理由は、
田中智学とうり二つの浅井の考え方を破り(大日蓮平成十六年十一月号五四頁)
と述べられるように、汝の国立戒壇が身延くずれの田中智学の邪義に酷似しているからである。汝の日顕上人への汝はもとより、大聖人の御遺命が国立戒壇であることはよくよく知っている≠ニの言は、あたかも日顕上人が「日蓮大聖人の戒壇の正義は田中智学の国立戒壇にある」と認識しておられるということである。これは悪口誹謗のためとはいえ、あまりに莫迦げた独断と偏見ではないか。汝の悩乱が、ここに明白である。要するに、汝が喋々(ちょうちょう)することは、己れの誑惑を隠す目的の、ためにする悪口・妄語であり、その所業は下種三宝尊に背逆する大謗法であることは言うまでもない。
 汝は御遺命に背いた罰によって、汝と池田大作との間に自界叛逆(ほんぎゃく)ともいうべき仲間割れが生ずると、汝は卑怯(ひきょう)にも一切の罪を池田に着せ、己れは被害者のような顔をして二冊の悪書の幕引きを図っている≠ニいうが、創価学会の謗法化と破門を自界叛逆≠ニいうことも汝の詐術(さじゅつ)である。真実は、日顕上人の破邪顕正の御教導に照らされて、池田の謗法・逆心という魔の本性が顕れたに過ぎない。
 二書に書かれた内容は、正本堂建設に関して生じた汝と池田大作の邪義・邪念に対応した戒壇義の展開であるが、その基本は正本堂という建物について、宗内の見解を統一し慰撫教導するために著されたのである。
 故に日顕上人が、前掲の御指南に、
創価学会の考え方の行き過ぎをもやや訂正をするというように、色々と複雑な内容で書いたわけであります。(大日蓮平成十六年十一月号五四頁)
と述べられているのであって、創価学会については、その行き過ぎを訂正されたのであるが、これを汝は疑うのである。ここに仰せられる「創価学会の行き過ぎ」とは、池田大作の正本堂建立即御遺命の達成とする我見であった。しかし、当時の創価学会の広布前進の勢いは尋常なものではなく、日達上人はその強大な創価学会を正しく導くために対応に非常に苦慮された。すなわち日達上人は池田大作の邪念を矯正(きょうせい)されるに際し、日蓮正宗信徒であった創価学会員の御遺命達成に向けての折伏の情熱に水を差さぬように配慮されたのである。日顕上人はこの日達上人の御意を体して二書を執筆され、その中で正本堂の意義付けをされたのである。
 正本堂の意義について日達上人は、昭和四十七年四月二十八日の訓諭において、
正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。
即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。(大日蓮昭和四十七年六月号二頁)
と御指南されて、正本堂は「一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む」とはいえ、当時はいまだ御遺命の戒壇そのものではないことを明らかにされたのである。しかし池田大作は、正本堂建立をもって御遺命が達成されたとすることに固執した。このため日顕上人は、正本堂について「一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む」との訓諭の意義の上から種々に述べられ、創価学会をも教導されたのである。
 その中で『三大秘法抄』について、当時の事相に即した解釈をされているが、これも正本堂が「一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む」とはいえ、いまだ御遺命の戒壇そのものではないというところに、二書の基調が存するのである。要するに一連の教導は、総じては宗内僧俗に対するものであるが、別しては池田大作および創価学会員に対する善導なのである。池田大作等を善導することによって、異体同心の確立と広布への前進を目指されたのである。しかし、このような日達上人と日顕上人の御慈悲を、第六天の魔王に魅入(みい)られた池田大作は無慚にも踏みにじってしまった。
 したがって二書に述べられた内容には、正本堂について、当時のみに限られた意味が存しているのであり、これらについては当時は四悉檀(しつだん)の上からの慰撫教導としての正しい意義が存したのであるが、池田大作が謗法となり果て、創価学会員も全て本宗信徒の資格を喪失し、正本堂も撤去されてしまった現在となっては、その意義を論ずることは無意味なのである。故に日顕上人は、
昭和四十七年の『国立戒壇論の誤りについて』と五十一年の『本門事の戒壇の本義』は、先程から言っているように私が書いたけれども、そこにはたしかに、戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまで正本堂の意義を『三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかったのです。つまり、あの二書は正本堂が出来る時と出来たあとだったが、浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで、強いて言えば全部、正本堂そのものに関してのことなのであります。そういうことですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論であると言ってよいと思います。
(大日蓮平成十六年十二月号五四頁)

と述べられて、二書が正本堂建立を背景として執筆されたものであって、「言い過ぎやはみ出しがあるけれども」それも正本堂に関することであるから、正本堂がなくなった現在となっては、もはやその正本堂に関する意義について論ずることは空論であると御指南である。そして、それは池田創価学会がニセ本尊作製等、三宝破壊の大謗法を犯し、創価学会員が正法敵対の邪教徒となった実状を踏まえた御指南なのである。よって汝が一切の罪を池田に着せ≠ネどということは、邪見による悪口に過ぎない。
 二書が執筆された当時にあっては、日達上人の訓諭はもとより、二書に示された意義内容を深く拝して信順し、異体同心することこそ本宗僧俗の取るべき道であった。事実、汝等以外の、本宗僧俗は皆信順していたのである。ところが汝は、血脈付法の日達上人の御内証を即宗祖日蓮大聖人の御内証と拝信するという、日蓮大聖人の仏法の基本的信心が薄弱なために、日達上人の深意を拝するどころか、御指南に信順すらできずに、自己の我意我見を先とした、田中智学流の国立戒壇の邪義を申し狂い、ついに叛逆(はんぎゃく)してしまったのである。
 そのような汝が、日顕上人の御指南に対し、二冊の悪書の幕引きを図っている≠ネどというが、笑止千万である。我ら日蓮正宗青年僧侶邪義破折班に、汝の過去の矛盾に満ちた発言を暴かれた上、その邪義を木端微塵(こっぱみじん)にされた、汝昭衛こそ、顕正会員にこれ以上の動揺が走るのを恐れて最後に申すべき事≠ネどと大仰(おおぎょう)なタイトルで見え透いたハッタリをかまし、汝の一連の御遺命守護≠竍対決申し入れ≠ネどのパフォーマンスの幕引きを図っている≠アとは誰の目にも明らかではないか。
 また汝は「国主立戒壇」なる新たなたばかりを言い出していることは、断じて許されない≠ネどと述べる。これについては後述するが、日顕上人は『一期弘法抄』の「国主此の法を立てらるれば」の御文に忠実に、そのまま「国主立戒壇」と仰せなのであり、まさに正義であり正論である。これをたばかり≠ネどと謗る汝の悪言こそたばかり≠ナあり、大聖人の御金言の意に背く大謗法である。


1、一、「二冊の悪書」についての釈明の欺瞞≠ニの欺言を破す

 汝は二冊の悪書を書いた理由について、返書に、「当時、教学部長をしていたものだから、結局、日達上人の御指南を承りつつ、私が書くことになってしまった」(取意)などと、あたかも被害者のような顔をしているが、これは真っ赤な嘘。実は池田の特命を受け、チャンス到来とばかり、この大悪事を引き受けたのである≠ニ述べ、さらに日顕上人が創価学会における妙信講作戦≠フ教義論争≠竍宗門対策≠フ担当であるかのように罵っている。
 ここで汝の挙げた資料は創価学会の内部文書である。彼等が勝手に阿部教学部長(日顕上人)の役割を位置づけたものであり、日顕上人の関知されるところではない。汝は、汝のもっとも嫌悪する創価学会の資料を悪用して日顕上人を陥(おとしい)れようとしているのである。まことに無節操にして卑劣な所業である。
 また汝は、当時の状況を見れば、「日達上人の御指南を承りつつ」の何と白々しいことか。悪書執筆に当って、汝の指南役を務めたのは細井管長ではなく、池田が差し向けた学会の弁護士・検事グループだった≠ニいうが、まことにふざけた言である。考えてもみよ。二書に示された戒壇の法門は、日達上人の御指南を賜りつつ、日顕上人が在懐(ざいかい)される本宗教学の深義の上から、戒に関する法門の蘊奥(うんのう)を傾けられて執筆遊ばされたものである。仏法に不案内な門外漢の創価学会側の弁護士や検事に、仏法の深義中の深義である本宗の戒壇の法門が分かるわけがないではないか。もっともそれ以上に分からなかった汝は、まさに無知丸出しといえよう。手を扣(う)って笑うべし。
 
 汝は悪書執筆について、次のようにたばかる。「日達上人は御本意としては、御遺命の戒壇は未来のことであり、正本堂は三大秘法抄の戒壇ではないと考えておられた。ゆえに昭和四十五年四月六日の虫払大法会における御説法があった。しかし日達上人は、僧俗一同が戒壇を建立せんとの願望をもって建てるのであり、僧俗一同を慰撫教導されるべく、正本堂の意義を御指南された。それが昭和四十七年四月二十八日の訓諭である。この日達上人の御意を体し、私は『国立戒壇論の誤りについて』を著した(取意)」と。何もかも知りながら、細井管長の昭和四十五年四月六日の虫払法会における説法を、あたかも細井管長が自発的信念で本意を述べたごとく言うのは、いかにも狡猾(こうかつ)である。この説法が、その三日前に小生が細井管長と対面した際の強き諫めによって実現したものであることは、汝こそよくよく知っているではないか≠ニ述べて、日顕上人の『国立戒壇論の誤りについて』と『本門事の戒壇の本義』の執筆理由について不信して悪口誹謗を重ねている。
 昭衛よ。汝の目は節穴か。日達上人は昭和四十五年四月六日の御虫払会の御説法において、
有徳王・覚徳比丘のその昔の王仏冥合の姿を末法濁悪の未来に移し顕わしたならば、必ず勅宣並に御教書があって霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねられて戒壇が建立出来るとの大聖人の仰せでありますから私は未来の大理想として信じ奉るのであります。(日達上人猊下御説法七頁)
と御指南遊ばされ、「未来の大理想として信じ奉る」とのお言葉をもって正本堂建立がただちに御遺命の達成ではないことを示され、創価学会の行き過ぎを矯正遊ばされるとともに、
今将に世間で噂されておる国立戒壇などという言葉に惑わされず(日達上人猊下御説法八頁)
とも述べられて、汝の国立戒壇論の誤りも破折されておられるではないか。
 汝はこの説法が、その三日前に小生が細井管長と対面した際の強き諫めによって実現したものであることは、汝こそよくよく知っているではないか≠ニいうが、もしも汝の強き諫め≠ノよるものであるならば、なぜ日達上人は国立戒壇を否定されているのだ。それとも汝が日達上人に国立戒壇を否定するよう強く諫めたとでもいうのか。
 日達上人と日顕上人の無私の仏法守護の赤誠を悪し様に罵る汝のその姿は、謗法の在家の自己過信すなわち俗衆増上慢そのものであり、正法正師に叛逆する仏法破壊の大謗法である。
 このように日達上人の御虫払会の御説法は「御本意」であり、訓諭は「僧俗一同を慰撫教導するため」であり、日顕上人はこの御意を体して『国立戒壇論の誤りについて』を執筆遊ばされたのである。
 
 また汝は、細井管長が……自発的な信念でなかったからこそ、池田に巻き返されれば、またすぐ元の誑惑に戻ってしまったのである。見よ。その十一日後の四月十七日には、池田に強要されたのであろう、小生に対し電話で、次の事項に随うよう唐突に言って来た。「@日蓮正宗を国教にする事はしない。A国立戒壇とは云わない、民衆立である。B正本堂を以て最終の事の戒壇とする。C今日はすでに広宣流布である。よって事の戒壇も立つのである」これを小生にメモさせ、何としてもこれに随ってほしいと、震える声で伝えて来られたのである。以来、細井管長は、小生の諫めに値えば本心を取り戻し、池田に会えばまた誑惑に協力するという変節を繰り返したのであった≠ニ述べ、さらにその後五月二十九日に……細井管長は秋谷らに「正本堂は三大秘法抄に御遺命された戒壇ではないのです。まだ広宣流布は達成されてません。どうか学会は訂正して下さい」と頼むようにいわれた。これを聞いた秋谷らは、「今さら何を」という面持ちで、憤然(ふんぜん)として席を立った≠ニ述べて、日達上人が変節漢であるかのように悪口罵詈している。まことに汝が小人であることを自白する弁である。
 日達上人が、仮に汝のいうとおりのことを仰ったとしても、汝に対しては池田大作らの主張を、また池田・秋谷らに対すれば汝の主張を述べられたのは、大慈悲の上から、双方の主張を代弁されて、汝と池田大作らとの見解を歩み寄らせることによって融和を図られ、その邪義を改善しようとされたのである。このような手法は世間でも通途(つうず)に行われていることであって、井の中の蛙の汝が知らないだけである。日達上人の御慈悲は、国立戒壇に固執する汝をもどこまでも救おうとされて、その意見に対し真摯(しんし)に耳を傾けられたのである。ところが、了見の狭い、小人そのものの汝は、日達上人を逆恨みしているに過ぎないのだ。
 また汝は、その後、小生は秋谷らに再三にわたって面談を求め、会うたびに理を以て追いつめては、執拗(しつよう)に「確認書」を求めた。そしてついに昭和四十五年九月十一日、「正本堂を、三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命された戒壇とは言わない」旨の確認書を学会に作らせ、宗務役僧立ち合いのもとこれに署名させ、細井管長のもとに収めた≠ニ手柄話のように得意げにいう。
 この書は「御報告」と題されているものである。そこには、
正本堂は三大秘法抄一期弘法抄にいうところの最終の戒壇であるとは現時において断定はしない
とある。このように実際の文言では、「現時において断定はしない」と将来の可能性を認めるものとなっているではないか。それを汝はなぜ正本堂を、三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命された戒壇とは言わない≠ニ文言を改変するのか。つまり汝はこの時点で正本堂が将来、御遺命の戒壇となり得ることを認めているのである。汝が居丈高(いたけだか)に正当性を主張する様は、耳を掩(おお)うて鈴を盗むに等しいものであり、滑稽(こっけい)というほかはない。もし、汝の言動が当時における創価学会の暴走の抑止力となったとしても、それは、
魔及び魔民有りと雖も皆仏法を護る(新編一〇四一頁)
という御本仏の大威力の妙用である。けっして汝個人の功績などではない。勘違いしてはいけない。
 また汝は、日顕上人が汝宅を訪れ、「妙信講のいうところ、大聖人の御意に叶えばこそ、宗門の大勢も変った。宗門がここまで立ち直れたのも、妙信講のおかげ……」等と神妙に挨拶した≠ニいう。仮に万一、そのような趣旨のお言葉があったとすれば、それは汝の言動が、創価学会の暴走の歯止めの一助となった意味が存することに対してのものであったかもしれない。しかし、それにしても、ここは汝の異常性が際だっている。日達上人や日顕上人の御指南に対しては、ことごとく悪態をつく汝が、少しでも有利な言葉だけは、ここぞとばかり己れを称揚する道具として強調するのである。普通の人は通常このような場合、謙虚に恐縮するものである。ところが汝は少しも謙遜(けんそん)せず、ふんぞり返る。まことに汝は慢心の固まりである。
 
 また汝は、池田の執念は凄(すさ)まじかった。正本堂の落成を前にして、細井管長に正本堂の意義を示す訓諭を出さしめた≠ニかこの訓諭により、正本堂以外に将来国立戒壇が建立されることは否定された。──これが、この訓諭に込められた池田大作の狙いであった≠ニいう。しかし、日達上人の昭和四十七年四月二十八日の訓諭は、
正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。
とあるように、当時の宗門の状況において、正本堂の意義を示されたものであり、汝の田中智学流の国立戒壇の邪義と、池田大作の御遺命達成の我見との、両者を退ける意義が含まれている。したがって、池田大作が自分の我見を破すような内容の訓諭を細井管長≠ノ出さしめた≠アとなどあろうはずがないのである。よって汝が訓諭を出さしめた≠ニ述べることは欺瞞であることが明白である。また、国立戒壇の名称を使用しないことは、日達上人がすでに昭和四十五年五月三日に、
今日では「国立戒壇」という名称は世間の疑惑を招くし、かえって、布教の邪魔にもなるため、今後、本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします。(大日蓮昭和四十五年六月号一七頁)
と表明されているのであるから、汝がこの訓諭により、正本堂以外に将来国立戒壇が建立されることは否定された。──これが、この訓諭に込められた池田大作の狙(ねら)いであった≠ニいうことも、明らかなたばかり≠ナある。
 また日達上人の訓諭について日顕上人は、
日達上人の訓諭中の正本堂の定義の文については、左のように補足して拝すべきと思います。
「正本堂は、広布の進展の相よりして、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含むものであり、本門戒壇の大御本尊が安置される故に、現時における事の戒壇である。そして、広宣流布の暁には本門寺と改称され、御遺命の戒壇となることの願望を込めつつも、一切は純真なる信心をもって、御仏意にその未来を委ね奉り、事の広布並びに懴悔滅罪を祈念するところの大殿堂である。」
という見解が適切と信ずるものです。(大日蓮平成三年四月号二九頁)

と御指南である。このように日達上人の訓諭の正意を拝すれば、池田大作と汝昭衛の邪義を打ち破りつつ、宗祖日蓮大聖人の正義を示されたものであることが明らかである。それにもかかわらず、汝が稚言を繰り返すのは、汝の邪見が顕れて顕正会員が正見に目覚めぬようにしているに過ぎない。昭衛よ。見苦しい真似はやめよ。
 また汝は、広布以前に戒壇の建物を建てておくこと自体が、重大なる御遺命違背である。ゆえにこのたばかりを成功させるためには、どうしても三大秘法抄の文意をねじ曲げなければならない。そこで池田は、この大役を、汝にやらせたのである。池田は汝の白を黒といいくるめる詭弁(きべん)の特才と、諂いと、出世欲を見抜いていたのだ≠ニ悪態をつく。しかし前来述べるように、正本堂建立は日達上人が現実の事相に現出した広布進展を踏まえられ、一層の前進を鼓舞なされたものであり、当時としての正しい御化導であられたことは言うまでもない。日顕上人は日達上人の命により二書を執筆遊ばされたのである。汝は池田は……詭弁の特才と、諂いと、出世欲を見抜いていた≠ニいうが、この汝の言こそ、まったくの詭弁≠ナあり、その下卑(げび)た考えは、まさに「下司のかんぐり」以外のなにものでもない。
 さらに汝は、汝が二冊の悪書について「当時、教学部長をしていたものだから、結局、日達上人の御指南を承りつつ、私が書くことになってしまった」などと云っているのは、いかにも見えすいている。さらに「当時においては慰撫教導の為のものであったが、時間が経過し、状況が変化した現在では、言い過ぎにも思える」などと言いわけしているが、もしこれが「慰撫教導」に当るなら、暴力団に便宜を与えた警察署長も慰撫教導となるではないか。まさしく二冊の悪書は、池田に阿諛追従(あゆついしょう)して三大秘法抄の心を死し奉った、大謗法の書なのである≠ニ無慚の言を吐いている。
 当時の池田創価学会と浅井妙信講の信仰姿勢すなわち宗門に対する基本的姿勢には、順逆がはっきりしていた。創価学会は昭和五十二年頃に教義逸脱問題を起こすが、この当時はまだ宗門に一往随順しており、日達上人の御教導によって正本堂建立即御遺命の達成という行き過ぎた表現を改めようとする歩み寄りを見せた。これに対し、汝は国立戒壇なる己義に徹底執着し反逆心露(あら)わであった。この汝の日達上人に対する反逆心に汝の邪念が顕れていたのだ。
 このような状況の中で、日顕上人は日達上人の命により、広布への前進による一切衆生救済という大局的見地から、創価学会と妙信講の両者を善導すべく、大慈悲の上からの教導を行われた。それが二書の執筆による破邪顕正である。つまり前述の如く日顕上人は、汝の国立戒壇の邪義を打ち破るとともに、本宗本来の戒壇のあり方をも示しつつ、池田の正本堂建立をもって御遺命の達成にしようとする執着を矯正し、さらに当時の本宗僧俗とりわけ多数の創価学会員の戒壇建立を目的とする広布への願望と情熱を擁護して異体同心の確立を図り、もって広布への前進を促すことを旨とされたのである。
 日顕上人が「言い過ぎやはみ出しがある」と仰せられたのは、二書の全体についてではない。昨年の全国教師講習会で、
昭和四十七年の『国立戒壇論の誤りについて』と五十一年の『本門事の戒壇の本義』は、先程から言っているように私が書いたけれども、そこにはたしかに、戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまで正本堂の意義を『三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかったのです。つまり、あの二書は正本堂が出来る時と出来たあとだったが、浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで、強いて言えば全部、正本堂そのものに関してのことなのであります。そういうことですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論であると言ってよいと思います。
あのなかでは、王法や勅宣・御教書に対する解釈を述べるなかで、「建築許可証」というようにも書いてしまってある。これは当時の在り方において、学会からの具申的な勧誘もあり、私がそのように書いてしまったのです。けれども、今考えてみると、やはり今は、勅宣・御教書は、その現代的な拝し方としても、そういう軽々しいものとして考えるべきではなく、もっと深い背景的意義を拝すべきと思うのです。(大日蓮平成十六年十二号五四頁)

と述べられているように、日顕上人の「言い過ぎやはみ出しがある」との御指南は、正本堂の意義付けに関する一連の慰撫教導の文言についてであって、本宗戒壇の本義に関することや、汝の国立戒壇論破折についてのものではない。汝は国立戒壇論を破折された恨みから、日顕上人に怨嫉(おんしつ)を生じて正義を否定する誤りを繰り返しているのである。汝の主張は、御遺命守護を看板にしているだけで、実際は田中智学の国立戒壇の邪義に陶酔(とうすい)した狂乱の妄説である。そしてその自己顕示欲は池田大作となんら変わるところはなく、宗内の団結を乱し、広布への前進を阻害(そがい)する存在として、その本性を顕したのである。
 また汝は、暴力団に便宜を与えた警察署長も慰撫教導となるではないか≠ニいうが、仏の大慈悲に基づき、一切衆生を成仏せしめんとする本宗の慰撫教導を、暴力団に便宜を供与する警察官に例える汝の頭は、まさに狂乱の極みとだけ言っておく。
 汝は、二冊の悪書は、池田に阿諛追従して三大秘法抄の心を死し奉った、大謗法の書≠ニいう。しかし当時の状況にあって、日蓮大聖人・日達上人の御意を体されて、『三大秘法抄』の意義を慰撫教導の上から拝された日顕上人の大慈悲を拝信することなく悪口誹謗する汝こそ、三大秘法抄の心を死し奉った℃メといえよう。
 
 汝は日顕上人が三大秘法抄の御心を死した≠ニいい、大聖人御入滅後七百年、宗の内外を問わず、三大秘法抄の御聖意をここまで破壊した悪比丘は一人もない。まさしく正系門家における「師子身中の虫」とは、教学部長・阿部信雄その人であった≠ニいう。そして前掲の日顕上人の御指南(本書五〇頁)を、無道心、無責任の言≠ニ罵っている。しかしかくいう汝の言こそ無道心、無責任の言≠ニ言わねばならない。
 繰り返して言うが、日顕上人が『国立戒壇論の誤りについて』と『本門事の戒壇の本義』の内容について、「言い過ぎやはみ出しがある」と仰せられる意味を正しく拝さなければならない。すなわち、当時の創価学会の折伏の勢いには、言語を絶するものがあった。池田大作個人についていえば、当時は一往は信順を示しており、異常な慢心と、それ故の不可解な言動があったが、それ以上に創価学会会長としての求心力があり、純真な数百万の信徒が広宣流布を目指して活動するための中心者としての指揮力は比肩(ひけん)すべきものがなかったことは事実であった。そして、その教線拡大の勢いは、戸田会長の逝去の前年、昭和三十二年には七十五万世帯であったものが、十三年後の昭和四十五年には七百五十万世帯と十倍の勢力となっていたのである。その増加率より推測するに、近い将来に日本の広宣流布は達成されるかもしれないと誰もが想像するようになっていたのである。
 その可能性の上からも、広布に燃える情熱と願望の上からも、正本堂が類例を見ない巨大建築であったことも相俟って、「御遺命の戒壇」が実現するかもしれないと考えた人が多かったのは偽らざる事実であった。そのような中で、昭和四十四年頃から汝は、それまで述べていた正本堂建立に賛同する見解や姿勢を捨てて、強硬に国立戒壇を掲げて宗門批判に転じたのである。
 日達上人は昭和四十年二月十六日の第一回正本堂建設委員会において、
ただし末法の今日、まだ謗法の人が多いので、広宣流布の暁をもって公開申し上げるのであります。ゆえに正本堂とはいっても、おしまいしてある意義から、御開扉等の仕方はいままでと同じであります。したがって形式のうえからいっても、正本堂の中でも須弥壇は、蔵の中に安置申し上げる形になると思うのでこざいます。(大日蓮昭和四十年三月号一一頁)
と、正本堂建立がただちに御遺命の達成ではないことを御指南されており、さらに昭和四十五年の御虫払会においても、「未来の大理想として信じ奉る」と御説法されて、同様の御本意を再び示されたのである。
 故に池田大作のごとく、いまだ広宣流布の完結を見ないうちに、直ちに御遺命の達成と断定することは、汝の怪しい教学の解説を待つまでもなく、それこそ御遺命に背くことになる。一方、汝ら元妙信講の「正本堂は御遺命の戒壇ではない」との主張は、池田大作の正本堂建立をもって御遺命の達成とする我意我見に対すれば一分の理もあった。しかし汝らの論は、日蓮正宗を国教にするとか、田中智学流の国立戒壇を建てる等の主張の上に展開されるものであったから、到底正論とはいえないものである。
 しかるに当時教学部長であられた日顕上人が著述された二書はどうか。激動する内外の情勢にあって、特に汝の国立戒壇の邪義を破し、本宗戒壇の本義を示されたものであることは、その『国立戒壇論の誤りについて』と『本門事の戒壇の本義』との題名に拝せられるではないか。そして二書の基調として述べられた戒壇の意義は慰撫教導として展開された部分も含めて、当時にあっては、正しい御指導だったのである。
 しかるに汝は日顕上人に対し、御本仏を欺き奉った大罪、また数百万信徒をたぶらかした罪禍(ざいか)は、世親・馬鳴のごとき命をかけた懺悔なくしては、永劫に消えない≠ネどと述べるが、それは日顕上人によって正本堂が消滅し、汝の立場がなくなったことを誤魔化すための悪態に過ぎないのである。そもそも血脈付法の日顕上人は御本仏日蓮大聖人の御内証を承継されているのであって、それはすなわち日蓮大聖人の御意を体されているということである。その日顕上人に対して御本仏を欺き奉った大罪≠ネどということは、全く意味をなさない支離滅裂の誹謗であるが、汝のこの言によって多くの者が惑わされ堕地獄の道を歩むのであるから、汝がかかる誹謗をすることは絶対に許されない。
 
 また汝は、そもそも正本堂は、国立戒壇を否定するために建てた誑惑の戒壇≠ネどというが、これこそ抱腹絶倒(ほうふくぜっとう)の迷言である。ならば、なぜ妙信講は正本堂の御供養に参加したのだ。しかも汝はかつて、
時は昭和四十年二月十六日、正本堂建設委員会において同上人は、正本堂が御遺命の戒壇に当る旨の説法をされた(富士昭和五十二年八月号六頁)
と述べているではないか。これによれば、汝は昭和四十年当時に正本堂建設委員会での御説法を拝した時点で、正本堂を御遺命の戒壇と認識していたわけだ。そしてそののちに、正本堂の御供養に歓喜で参加しているのだ。昭衛よ。これについて汝はどう言い訳するのだ。汝の二枚の舌が糜爛(びらん)せぬように、精々気をつけるがよい。
 また汝は、正本堂の解体撤去について、大聖人の御威徳によって崩壊した≠ニ述べるが、それは当たり前のことである。では一体誰が、日蓮大聖人の御威徳によって正本堂の解体撤去を実現したのだ。誰あろう、御法主日顕上人ではないか。まさに日顕上人こそ、日蓮大聖人のお立場を継承され、その御内証を所持遊ばされるからこそ、あの池田大作の魔障を撃破(げきは)し、富士の清流を恢復(かいふく)されたのである。もっと現実を直視して、自らの顛倒を悟り、日顕上人に死身の懺悔をせよと申し渡しておく。


2、二、「国立戒壇」に対する誹謗≠ニの妄言を破

 汝は「国立戒壇に対する誹謗」などと題して、国立戒壇について邪義を繰り返す。しかし日顕上人の『国立戒壇論の誤りについて』に、
戒壇とは、宗祖日蓮大聖人所弘の三大秘法の一つである。その戒壇の内容に言及あそばされた御文は、四百有余篇の御遺文中、三大秘法抄と一期弘法抄に拝するのみである。しかし、それらの御文に国立戒壇の語は見当らない。また二祖日興上人が大聖人の御付嘱を受け、戒壇建立を目指して富士に法燈を掲げたまいしより、御一代の著作記述中にも国立の字句はなく、三祖日目上人以下明治以前の歴代上人の著作申状等にも国立の二字を見ない。(五頁)
と述べられているように、宗祖大聖人・御開山日興上人はもとより明治以前の御先師に「国立戒壇」の語は見られない。「国立戒壇」なる語は、明治の欽定憲法の下、身延派僧から還俗した国柱会の田中智学の創唱であり、後に一般化するに至った。田中智学の国立戒壇論は、戒壇に安置する本尊すら定まらない邪義の上に展開したものであるが、戒壇建立の在り方について具体的に言及している。特に当時の政情の中で天皇の帰依を待って国立の戒壇を建立しようとするところが国粋主義者の共感を得て、当時一世を風靡した感さえあった。
 本宗の御先師にこの語の使用が見られるのは、昭和に入ってからであるが、これは一般化した語を、御遺命の戒壇の代名詞として使用されたまでであって、その意義において田中智学に同じたものではないことは当然である。しかし汝の国立戒壇論は、特にその内容自体が田中智学の模倣ではないか。解散除名処分になったとはいえ、本宗信徒であったものが、何が故に身延僧くずれの田中智学の邪義の猿まねをして喜ぶのか。まさに狂気の沙汰である。
 無慚無愧の汝は、小生が三大秘法抄の御意に基づき正義を述べたことが「おこがましい限り」なら、同じく「広宣流布達成のはるか以前」に、勅宣・御教書を建築許可証などとたばかった汝はどういうことになるのか。天に唾してはいけない≠ニか広布前夜に魔障出来≠ニか「おこがましい」どころか、聖意を立てて破法の悪人を呵責しなければ、仏弟子ではない≠ニ、血脈付法の日顕上人に対して言いたい放題の悪態をつくが、大慢婆羅門もあきれかえる慮外者(りょがいもの)である。なにが小生が三大秘法抄の御意に基づき正義を述べた≠ネのか。笑止千万である。田中智学の弟子の汝が、その身延くずれの邪見で解釈して、なにゆえ正義に当たろうや。百万言を費(ついや)やすとも、金輪際、正義に当たることはないと知れ。
 日顕上人が二書を執筆されて、その中で『三大秘法抄』を解釈されたことは、前来述べるように、当時の様々な状況の上からの慰撫教導である。それも池田創価学会が謗法となった現在では、「行き過ぎ」「言い過ぎ」と訂正せられているのである。謗法の汝が、その醜い性根で、放逸無慚な解釈をするのとは比較にならない相違がある。汝は同じく……汝はどういうことになるのか≠ネどと、日顕上人と自身を同列視するごとき不遜(ふそん)の言を吐くが、その増上慢ぶりには、あきれはてて言を失う。
 また広布前夜に魔障出来≠ニは、血脈付法の御法主上人を疑い正義を曲げるという大罪を犯した、汝や池田大作などの第六天の魔王に魅入(みい)られた者達を指すのである。このような破法の悪人を呵責しなければ、仏弟子ではない≠ェ故に、我ら日蓮正宗青年僧侶邪義破折班は汝に破邪の鉄槌(てっつい)を下すのである。


(一)三大秘法抄を拝し奉る≠ニの慢言を破す

 汝は当項で、三大秘法抄を拝し奉る≠ニして、日顕上人が教学部長時代に著された『国立戒壇論の誤りについて』のお示しを批判しつつ、独自の解釈を述べるが、後に詳しく述べる如く、汝の主張は全て己義我見である。
 汝の許されざるところは、正義として述べられた「国立戒壇の破折」と、日顕上人が後に訂正を仰せ出された「慰撫教導の教示」の両方を混同して、『国立戒壇論の誤りについて』の全てを非難していることである。
 ここでいう「慰撫教導の教示」とは、当時として正本堂を『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇になぞらえて解釈されたことである。それを汝は日顕上人が国立戒壇を否定するために解釈したとして、悪し様に罵るのであるが、全く無慙無愧というほかない。
 即ち日顕上人は、
四十七年四月二十八日に、日達上人は妙信講への色々な回答等の意味も含めて、正本堂の全面的な定義をお示しになったのであります。その「訓諭」に「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」(大日蓮・昭和四七年六月号二n)
ということを仰せであります。
このなかの「本門寺の戒壇たるべき大殿堂」というところが、また一つの解釈があるのです。「たるべき」ということは、そうであるべきということにおいては、現在はその意義を含んでいる建物だけれども、広布の時にはその建物がそのまま『一期弘法抄』の本門寺の戒壇になるのだという解釈と、そのようになるべく願望しておるところの意味との二つの解釈があるのです。つまり「本門寺の戒壇たるべく願うけれども、未来のことは判らない」という意味が、そこには含まれておるということなのです。(大日蓮平成十六年十二月号三七頁)

と日達上人の訓諭について御指南されている。つまり、日達上人の訓諭には当時の僧俗の、「正本堂が未来に御遺命の戒壇たるべき」という願望を慰撫教導される意味があったのである。
 すなわち日達上人の御意は「正本堂を御遺命の戒壇となるべく強く願望し、宗内僧俗一同、いよいよ折伏弘通に励むべし」というものだったのである。日達上人は、当時のめざましい広布進展の状況や、正本堂を御遺命の戒壇とせんと熱望し、御遺命達成のために折伏弘通に邁進しようと燃え立つ僧俗の志を、非常に大切に思われたのである。そして僧俗一同の気持ちを守り、慰撫教導されたのが、昭和四十七年四月二十八日の訓諭であり、その訓諭を受けて日顕上人は、『国立戒壇論の誤りについて』と『本門事の戒壇の本義』を著されたのである。
 日達上人・日顕上人の仏法の慈悲を旨とされた慰撫教導の御指南を、汝ごときが邪難することは到底許されないのである。そのことをまず念告する。
 
 汝は「王法」とは、広義には国家、狭義には国家に具わる統治主権・国家権力、さらに人に約して国主・国主の威光勢力等を意味する。つまりすべて国家統治にかかわる概念である。御書四百余篇における用例、ことごとくこの意であられる。汝のいう「あらゆる生活の原理」などの意は微塵もない。往(ゆ)いてこれを検(しら)べよ≠ネどと述べ、日顕上人が教学部長時代に「王法」について、
今日、王法の解釈をするならば、王法が政治内容だとするのも、なお不充分であり、「王法イコール政治をふくむあらゆる社会生活の原理」とならざるを得ないのである。
(国立戒壇論の誤りについて三九頁)

なかんずく王法とは御書の意に準じて考えるに、王の存在、在り方、王の政治ならびにその内容等を含む広い概念であり、今日では民衆による政治を含む社会生活の原理と考えることが適正である。
(本門事の戒壇の本義二九頁)

と述べられたことについて邪難している。しかしこれらの解釈は、現代社会に即して王法本来のあり方を述べたものである。『四条金吾殿御返事』に、
夫仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。故に仏をば世雄(せおう)と号し、王をば自在となづけたり。(新編一一七五頁)
と説かれているように、王法とは王の法である。つまり主権在民の現代にあっては、国民の総意に王の意義が存するのであり、その生活上の善悪に対する賞罰の法なのだから、王法に「あらゆる生活の原理」を含むことを教示されたのである。すなわち原理とは、善悪に関する因果の理法であり、これに一切を含むことは当然である。故に汝の「あらゆる生活の原理」などの意は微塵もない≠ネどの言が欺瞞に過ぎないことは、この御金言に明らかである。日顕上人の説かれる「王法イコール政治をふくむあらゆる社会生活の原理」とは、王法の語が仏法すなわち出世間法に対する世間法の全体に通じていることを示されているのである。
 仮に王法の解釈を汝が主張する国家統治にかかわる概念≠ニ限定しても、現代の日本において「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して」の王仏冥合をただちに実現することはできない。なぜなら日本国憲法には「政教分離の原則」が謳われているからである。汝は憲法を改正せよと言うであろうが、では憲法を改正するのは誰なのだ。
 汝自身、後に広宣流布した暁には、仏法に準じて憲法が改正されるのは、当然の理≠ニ述べているように、その理屈は広宣流布した暁≠ノ国民によって憲法改正をし、王仏冥合しての戒壇を建立せよというものである。つまり汝の主張においても、現在の民主主義国家たる日本において、戒壇建立の意志はどこから生じるのかを突き詰めて考えれば国民ということにならざるを得ないのである。
 また現在における「王法」の義を「王の法」ととらえる上からは、現在の「国主」乃至「王」たる国民全体の法則・原理には、一切が含まれるのであり、国家統治にかかわる概念≠焉Aその中の一部に過ぎない。汝は御書の「王法」の意味について往いてこれを検べよ≠ネどと息巻くが、汝のように強いて『三大秘法抄』の「王仏冥合」は国家統治にかかわる概念≠ニ仏法が冥合するのだ、と述べても、その根本としては、国民一人一人が大聖人の仏法を体し、仏法の精神において社会生活を行うというところに存するのである。そうならなければ、汝のいう憲法改正の前提も成り立たないではないか。即ち現代社会にあって、日顕上人の二書における「王法」の解釈は正当なのである。
 また汝は、日本は三大秘法有縁の妙国であれば、仏法守護の本有の王法が久遠より存する。これが皇室であり、別しての「王法」である≠ニ主張する。しかし現実には天皇は、古代国家の専制君主の時代から、鎌倉・室町・江戸という封建時代の公武二元体制を経て、明治・大正・昭和の戦前まで立憲君主となり、現在は国の象徴となっている。このように、時代によって天皇の立場には変遷があった。それは今後もあらゆる可能性を含みつつ、時代とともに推移していくのであり、将来の姿は全く予想がつかないのである。
 大聖人が天皇を国主とされることは諸御書に見られるが、『下山御消息』には、
相州は謗法の人ならぬ上、文武きはめ尽くせし人なれば、天許して国主となす。(新編一一四九頁)
と述べられて、執権北条氏を国主とされている。これは国政における当時の実権が北条氏に存したからであり、その実情に即した御見解である。このように国主とは国政における実力者を指す意義が拝せられる以上、王法の見解も国主の在り方に即して拝考すべきである。要するに国主や王法は時代によって変遷するものであり事相に属するのである。
 しかるに、広宣流布・戒壇建立の御遺命は有為転変(ういてんぺん)する事相の中で成就すべきものである。大聖人御在世の封建社会と、今日の民主主義社会とでは、社会情勢が異なるように、将来どのような社会情勢になるのか、予断を許さないのである。
 また、大聖人および御歴代上人の封建社会に関する御指南や理論を、ただちに今日の事相に当てはめて論ずることはできない。
 たとえば大聖人や御歴代上人は広宣流布を願って申し状を奉呈され、天皇の帰依を願われたが、その意義および精神の顕現は、今日においては国民一人一人に対する折伏をもって成就すべきものであるといえる。このように、下種仏法における全ての法門の解釈および実践は、今日の事相に当てはめてみる場合、時の血脈付法の御法主上人の御指南によらなければ、還(かえ)って大聖人の御本意と大きな乖離(かいり)をきたすのである。
 日顕上人は、未来における御遺命の戒壇建立について次のように御指南されている。
御本仏大聖人様が最後に御遺誡また御命題として我々にお残しくださった『三大秘法抄』『一期弘法抄』の「戒壇」の文については、軽々にああだこうだと言うべきではないと思います。もちろん今、ある時点を予測して考えれば、こうともああとも色々なことを言えるけれども、将来どう変わるかということは本当に判りません。だいいち、日本の現在の民主主義の形だって、憲法だって、将来どう変わるか判らない。だから、そんなことに関して今、どうのこうのと具体的な形で言う必要はないのです。一番最初に言ったように、戒壇というのは事相だということを、大聖人もおっしゃっておりますように、事相なのだから、実際の相というものはその時でなければ明確性が顕れません。よって『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇ということは、まさにその時が来た時に、本門戒壇の大御本尊様を根本と拝しつつ、その時の御法主がその時の実状に即した形で最終の戒壇を建立するのだと、私どもは信ずべきであると思うのであります。(大日蓮平成十六年十二月号五五頁)
 つまり、汝の如く『三大秘法抄』の御指南をあれこれ解釈しても、広宣流布の事相、そのときの社会情勢、そしてその時、戒壇建立をどのように行うべきか、それらを予め断定しておくことなどできないのである。汝のように独断と偏見で御書を曲解し、御書の御文がこうだといって血脈付法の日顕上人に楯突(たてつ)くことは、宗祖大聖人に対する師敵対の謗法である。
 日顕上人が御指南される如く、戒壇建立は事相に約しての問題である。大聖人・御歴代上人の御指南の文義意、事相等の全てを通観し、大聖人の御意のままに、時に応じた御指南を下されるのは「本門寺の戒壇建立」の御遺命を付嘱により奉じておられる御法主上人以外にはおられない。本宗の奥義は血脈相承によって伝承されている。この根本の御相伝に対する信心なくして正解はあり得ないのだ。汝はそれを深く肝に銘じ、大聖人の御意を軽々に論ずるその増上慢を猛省せよ。
 さらに汝は『三大秘法抄』の御文を解釈し、種々述べている。まず
戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して(新編一五九五頁)
の御文について、国家が宗教の正邪にめざめ、日蓮大聖人の三大秘法こそ唯一の衆生成仏の大法・国家安泰の秘法と認識決裁し、これを尊崇守護することである≠ニ主張する。しかし仏法を持つのは、あくまでも王法の当事者としての正報たる能持の人であって、能動の主体者である。それに対し、依報たる国土や国家機構は所動の客体であって、こちらに仏法の受持をあてはめるのは誤りである。
 また汝は、国家が日蓮大聖人の正法にめざめれば、これを国家の根本の指導原理、すなわち国教として用いるのは当然≠ニ主張するが、国教を目指すことは、憲法改正に主眼を置くこととなり、必然的に宗教次元を超えて憲法論議に進む愚論である。宗教者が法律改正に拘泥するなど愚の骨頂である。我々は日本国民として遵法(じゅんぽう)精神を堅持するとともに、宗教者としての襟度(きんど)を持って布教に邁進すべきなのである。
 つづいて汝は、
王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時(新編一五九五頁)
の御文について、日本国本来の国主たる天皇も、国政の衝(しょう)にある各大臣、そして全国民も、一同に本門戒壇の大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉り、この大御本尊を守護するにおいては、有徳王・覚徳比丘の故事のごとくの身命をも惜しまぬという護法心が一国にみなぎった時──と仰せられる。大聖人はかかる国家状況が、末法濁悪の未来日本国に必ず現出することをここに予言・断言され、かかる時を、戒壇建立の「時」と定め給うておられる≠ニ主張する。
 戒壇建立の「時」については、一国広布の暁と拝信するものであるが、汝はこの「時」の様相を、かかる国家状況♂]々と断定的に論じている。しかし広宣流布は事相である故に、凡眼をもって断定することはできないのであり、汝の論は、まさに「不毛の論」というべきである。
 また汝は、
勅宣並びに御教書を申し下して(新編一五九五頁)
の御文について、まさしく国家意志の公式表明%凾ニ主張する。この「勅宣・御教書」等については、「3、三、「国主立戒壇」の誑惑≠ニの邪言を破す」の項中(本書七九頁)に述べる。
 さらに汝は、
霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か(新編一五九五頁)
の御文について、日興上人は広漠たる富士山麓の中には、南麓の「天生原(あもうがはら)」を戒壇建立の地と定めておられる。天生原は大石寺の東方四キロに位置する昿々たる勝地≠ニ述べる。そしてこの天生原≠ェ汝によれば天母山(あんもやま)となる。
 戒壇建立の勝地が大石寺であることは当然のことである。その理由のひとつとして、『富士一跡門徒存知事』に、
駿河国富士山は広博(こうばく)の地なり。一には扶桑国(ふそうこく)なり、二には四神相応(しじんそうおう)の勝地なり。(新編一八七三頁)
とあるように四神相応が挙げられる。第五十九世日亨上人はこの四神相応を検討されて、
ここの地は、河合よりやや朗開せるも、半里をへだつる大石が原の景勝(けいしょう)にしかず。ただちに富嶽(ふがく)を負い駿湾をのぞみ、一望千里曠宏(こうこう)たる高原にして、なお原始の処女林あり。加うるに大道あり河沢あり、四神相応の霊地なり。(富士日興上人詳伝二四一頁)
と、大石寺が四神相応の霊地であるとの判断を下されていることは汝も知っているはずである。ところで、妙信講はかつて、
下条より約半里ほど離れた北方に大石ヵ原という茫々(ぼうぼう)たる平原がある。後には富士を背負い、前には洋々たる駿河湾をのぞみ、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地としての最適地と決められ、ここに一宇の道場を建立されたのである。
 かくて、日興上人は弘安二年の戒壇の大御本尊をここに厳護されると共に、広宣流布の根本道場として地名に因んで多宝富士大日蓮華山大石寺と号されたのである。これが日蓮正宗富士大石寺の始りである。
(富士昭和三十九年九月号二三頁)

と述べている。この言は、現在の汝らの主張とは百八十度異なったものである。まさに矛盾撞着、自語相違そのものではないか。


顕正会(妙信講)もかつては、
大石寺こそ戒壇建立の地≠ニ断定
(『富士』昭和39年9月号)

 また汝は、「大石寺大坊棟札」には「国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於て、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」と記され≠ニ汝の主張の根拠として「天生原」の初見である「大坊棟札」を持ち出してくる。この「大坊棟札」が後世の偽作であることは、日亨上人がつぎのように御指南されている。
此小本尊ヲ摸刻(薄肉彫)シテ薄キ松板ニ裏ニ御家流(おいえりゅう)ノ稍(やや)豊ナル風ニテ薬研彫(やげんぼり)ニセルモ文句ハ全ク棟札ノ例ニアラス。又表面ノ本尊モ略之本尊式ナルノミニテ、又棟札ノ意味ナシ。唯頭ヲ∧ニ切リテ縁ヲツケタルコトノミ棟札ラシ。石田博士モ予ト同意見ナリ。徳川時代ノモノ(日亨上人御筆記)
 このようにこの棟札について、日亨上人は徳川時代のものと判断されている。つまり日興上人御筆などではなく、後世の偽作である。
 日達上人も昭和四十五年六月二十八日、「天生原・天生山・六万坊の名称と本宗の関係についての一考察」との御講義において綿密な考証を加えられ、「大坊棟札」が偽作であることを論証されている。汝が日達上人を悪し様に罵るはずである。完膚(かんぷ)無きまでに破折されて反論の余地がないからである。詳しくは大日蓮昭和四十五年九月号に掲載されているが、今は要点のみを列記しておく。

@丑寅勤行についての記述が『日興跡条々事』よりも四十年も前にあるのはおかしい
A日興上人の御署名の「興」の字体がおかしい
B日興上人から日目上人に対する文句なのに、「日興日目等」とあるのはおかしい。「日目」だけでよい
C「丑寅」を「丑とら」と書くのは徳川時代の特徴である
D「当国」との記述も信用できない
E棟札の日付が大石寺建立の半年後(正応四年三月十二日)になっている
F南条時光の「領主南条修理太夫」という名称はおかしい。日量上人の文政六年(一八二三)の『大石寺明細誌』に出てくるから徳川中期以後のものであろう
G三十三歳の時光に「法号大行」というのは時期が早すぎる
H「寄付」とあるが、鎌倉時代は「寄進」を使う
I日亨上人も疑っておられて、徳川時代のものと判断されている

と、十の観点から大坊棟札を徳川中期以後のものと判断されている。このように、大坊棟札の「天母原」云々との記述が、本門戒壇の建立の地を『天母原』とすることの根拠にならないことを論証されて、汝の邪説を破折されているのである。これほどに破折されても、平気で邪義を繰り返すとは、汝にはひとかけらの信心も良心もないのか。
 また汝は、
時を待つべきのみ(新編一五九五頁)
の御文を挙げて、広宣流布以前に建立することを堅く禁じた御制誡≠ニいう。
 『日蓮一期弘法付嘱書』に、
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。(新編一六七五頁)
と遺命せられるように、戒壇建立の御遺命を奉じておられるのは、本門弘通の大導師にまします日興上人以来、嫡々付法の御法主上人であられ、汝ごとき「冨士大石寺」を詐称し日蓮正宗に敵対する邪教徒がそれを云々する理由も資格も全くない。広宣流布、および本門寺戒壇建立の時期は、時の御法主上人が決められることなのである。
 
 汝はかくのごとく三大秘法抄の御聖意を拝し奉れば、御遺命の戒壇とは、まさしく王仏冥合・王臣受持の時、国家意志の公式表明を以て建立される「国立戒壇」であること、天日のごとく明らかではないか≠ニ述べるが、これまでに論証してきたように、汝の説に、まともなところはひとつとしてありはしない。国家意志の公式表明≠ネどと、児戯(じぎ)にも等しい愚説を、うわごとのように繰り返すのみである。したがって汝のいう国立戒壇≠ネどは、まさに謗法者の誑言と断ずる以外にない。


(二)歴代先師上人の文証≠ニの偽言を破す

 汝は御歴代上人が「国立戒壇」の語を御使用になられた例を血眼になって探し羅列(られつ)したあげく三大秘法抄および先師の御指南を拝すれば、まさしく「国立戒壇は三大秘法抄の金言に赫々、歴代上人の遺文に明々」である。これを否定するのは、三大秘法抄の御聖意を蹂躙(じゅうりん)し死(ころ)した、汝以外にはないのである≠ネどと御法主日顕上人に対し、口を極めて誹謗している。かかる邪難は汝の頭が悩乱し、時代錯誤(さくご)に陥っているが故に生じたものであることは既に指摘した通りである。
 即ち御歴代上人は皆『三大秘法抄』『一期弘法抄』にお示しの戒壇を述べられているのであって、今日汝が主張するような田中智学流の「国立戒壇」を述べておられるのではない。その証拠に、第五十八世日柱上人以前の御歴代上人の御著述に「国立戒壇」の語はなく、六十七代までの御歴代上人の中でも汝が挙げる昭和期の四上人以外に「国立戒壇」の語を使用された方はおられない。三大秘法の開合を体系的に御教示された二十六世日寛上人の御著述中にも当然見られない。つまり、大聖人以来六百年間は「国立戒壇」は名称さえも存在しないのである。よって「国立戒壇」などの名称は使用せずとも、本宗の戒壇義を宣揚(せんよう)するのに何ら不都合はない道理である。
 しかるに、明治欽定(きんてい)憲法下においては、国家神道が掲げられ、国主たる天皇は現人神(あらひとがみ)と祭りあげられていた。このような政情にあっては、『三大秘法抄』『一期弘法抄』に拝される「国主立戒壇」と、四上人が一時期仰せられた「国立戒壇」の意味するところは同義であったと言える。なぜなら当時は国家と国主たる天皇とは一体のものであり、国家を面(おもて)として「国立戒壇」と言っても、国主たる天皇の帰依による「国主立戒壇」と同義になるからである。また、御歴代上人が「国立戒壇」の語を使用なされたのは昭和に入ってからであり、むしろ戦後に多く見受けられる。その理由を考えるに、明治政府の神道国教化政策に基づいて行われた廃仏毀釈運動等に伴い、日蓮門下は多年にわたり様々な形で抑圧されてきた。「国立戒壇」の語を創称した田中智学はその時代背景の上に、日蓮主義の国教化を目指すものとして「国立戒壇」の語を使用し、国粋主義者の共感を得て、広く門下全般にその語が用いられるようになったのである。「国立戒壇」の語を用いられた四上人も、長年にわたり明治欽定憲法の中を生き抜いてこられたのである。即ち四上人は、国家神道の悪義に対抗すると共に、前述の如き戦前の政情に基づいた意識が残っておられたこともあり、戦後においても国主立戒壇の意味で「国立戒壇」の語を用いられたまでである。
 日顕上人はかつて、汝の主張する国立戒壇について『本門事の戒壇の本義』の中に、
浅井一派の国立戒壇論をざっと摘要すれば、一、国家中心の戒壇建立論、二、天皇中心、並びに議会翼賛論、三、本化聖天子発願論、四、広布の暁、諸条件具備後の戒壇建立論、五、天母山論、六、国教論等であり、殆んど田中智学の思想の模倣であってその酷似するところ驚くほかはない。とくにその主張の中の「本化聖天子の発願論」も、発願という意味において、大聖人および歴代上人の法門に全く拝することはできない。(三〇頁)
とご指摘されている。したがって御歴代四上人が「国立戒壇」の語を使用された場合、田中智学や汝のような異端者の主張する国立戒壇と、実態が全く異なるのであり、その面の誤解が生じない為にも、今日、日蓮正宗に於て「国立戒壇」の語は使用しないのである。


田中智学の国立戒壇論『本化妙宗式目』
浅井の国立戒壇論とうり二つ

 現在の主権在民の憲法下にあって「国立戒壇」の名称を用い布教した場合、国家主義的な仏教を予め目標として定めることとなる。しかし、現在は曽てのように、天皇や、国家の要人の権威によって法を広めることは全く出来ない。なぜならば、天皇の国事行為は極めて限定的であり、また政教分離の原則も厳然と存するからである。
 要するに、大聖人の門下僧俗が今できること、なさねばならないことは、民衆救済のため、一人から一人への折伏以外にはないのである。汝はまず、自身の謗法を懺悔し、正法に帰すことが先決であると告げておく。


3、三、「国主立戒壇」の誑惑≠ニの邪言を破す

 汝は日顕上人の、
未来における広布の上からの『三大秘法抄』『一期弘法抄』の事の戒壇の目標と、その戒壇の建物というのはいったい、どういうものかと言うと、これは今、論ずるべきことではありません。(中略)要するに、御遺命の戒壇は『一期弘法抄』の「本門寺の戒壇」ということであります。だから未来の戒壇については「御遺命の戒壇である」ということでよいと思うのです。(大日蓮平成十六年十二月号六〇頁)
との御指南を「御遺命の戒壇とは御付嘱状の『本門寺の戒壇』だ」では、答えになってない。その「本門寺の戒壇」とは、いかなる時、いかなる手続で、どこに建てられるべきかを、明らかにしなければいけない≠ネどと誹謗しているが、先に指摘したように、日寛上人におかれてさえ、戒壇についての具体的な御指南はしておられない。それを邪眼邪智の汝ごときが明らかにしなければいけない≠ネどということは思い上がりも甚だしい。
 また日顕上人が汝の「国立戒壇」を破折され、大聖人の御遺命の戒壇とは「国主立戒壇」の意味であることを御指南されたことを取り上げておずおずと打ち出したのが、「国主立戒壇」である思いつきのまやかしだから、全く信念がない≠ネどと誹謗する。天に唾するとは汝のことである。
 「国主立戒壇」とは宗祖大聖人の『一期弘法抄』における「国主此の法を立てらるれば」の御金言そのものである。国主が此の法を立てられることにより、本門弘通の大導師たる日興上人に戒壇を建立せよとの御遺命なのだ。汝の「国立戒壇」こそ己義我見のまやかしであることは明白ではないか。
 汝が主張する「国立戒壇」とは、今日象徴天皇においては不可能とされている勅宣発布を、憲法を改正して可能にし、その上で「勅宣」を発布して行うべきであるとするものである。
 しかし、先にも述べたが大聖人が「勅宣」「御教書」と仰せになられたのは、鎌倉時代の政情を汲まれての御指南である。比叡山の戒壇は天皇の「勅許」のみで建立された。それに対し、鎌倉時代には権力が朝廷と幕府に分散したため、大聖人は「勅宣」「御教書」と仰せられたのであり、それは時代に応じての御指南なのである。即ち、大聖人は、鎌倉時代の政治形態を将来にわたって固着すべしとされておられたのではない。
 また汝はこの「国」とは、果して非情国土の意か。ことごとく国家を指しているではないか≠ネどと述べ、大聖人の御遺命の戒壇建立は、その主体が、あくまで「国家」であるというのである。しかし、これが明らかな誤謬であることはすでに述べた。
 汝は、大聖人の『三大秘法抄』および『一期弘法抄』の御指南があくまで国家が戒壇を建立するという「国家立戒壇」を志向されたものだと勝手に思いこんでいる。御金言をよく拝せ。国家で戒壇を建立せよなどと、どこにそのような文言があるというのだ。伝教大師の悲願であった叡山の戒壇も、天皇が下したのは勅許であり、戒壇を建てたのは叡山の僧侶である。大聖人も戒壇建立の前提として「王仏冥合」「勅宣御教書」、ないしは「国主此の法を立てらるれば」等と仰せられているものの、どこにも国家で戒壇を建立せよなどとは仰せられていない。今日の「国立」の語の意味は、
国が設立し管理していること(広辞苑)
である。しかし、『一期弘法抄』には、
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。(新編一六七五頁)
とあり、国主が正法を立てた時、戒壇を建立せよと、本門弘通の大導師たる日興上人に命ぜられたものである。文意と「国立」の語とは全く意味が合致していない。国家が戒壇を立てるという意味になってしまう「国立戒壇」と、御金言とはその本質が違うのである。
 さらに前にも述べたが、「国立戒壇」は謗法者の田中智学の創称である。
 また「国立戒壇」を言えば、かつて国粋主義者が国家神道を利用して台頭したように、大聖人の仏法が国家主義的なものであるかの如く誤解をうける。大聖人の仏法はあくまで、一人から一人への折伏を根本とし、一閻浮提の一切衆生救済を目指すところにある。その目的達成の上に「国立戒壇」を目標に掲げる必要はないばかりか、誤解や弊害を招くだけである。そのような語を今日用いる意味はなく、また我見をもってそれに固執することも当然計我謗法に当たる。
 また汝は、大聖人の「国」についての様々な御指南を挙げているが、どれも全く見当違いである。一例を挙げれば『神国王御書』の、
仏法に付きて国も盛へ人の寿も長く、又仏法に付きて国もほろび、人の寿も短かかるべし(新編一三〇一頁)
との御指南も、結論を言えば、衆生に対して、仏法の受持を勧めらたものである。また汝が引用する『立正安国論』の、
国は法に依って昌(さか)え、法は人に因(よ)って貴し。国亡び人滅せば仏を誰か崇むべき、法を誰か信ずべきや。先ず国家を祈りて須く仏法を立つべし。(同二四四頁)
の御文は、主人の教誡の文ではなく、客の問いの中の文である。念仏者である客の「先ず国家を祈りて」等の問いに対する主人の答えは、
早く天下の静謐(せいひつ)を思はゞ須く国中の謗法を断つべし。(同二四七頁)
である。即ち国家安穏を期す為には、先ず謗法の人を破して衆生が正法を受持せよというものである。同じく汝が引く『立正安国論』の、
帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。而るに他方の賊来たりて其の国を侵逼(しんぴつ)し、自界叛逆して其の地を掠領(りょうりょう)せば、豈驚かざらんや豈騒がざらんや。国を失ひ家を滅せば何れの所にか世を遁(のが)れん。(同二四九頁)
との文は、
汝須く一身の安堵を思はゞ先ず四表(しひょう)の静謐を祈るべきものか。(同頁)
と続くのである。
 汝が引くいずれの御指南も、国家安穏の為には立正が肝要であることを述べられるところに主眼があるのであり、御本仏の大慈大悲の上から衆生に正法受持を勧められ、衆生の現世安穏後生善処を願われた御指南である。即ち「立正安国」の仰せも、安国の前提、邪を破し正を立てるのは衆生であり、衆生が仏法を受持する結果として、その国土が安穏になるとの意である。つまり、大聖人の国についての御指南も、その全ては衆生に仏法の受持を勧められたものなのである。『一生成仏抄』に、
衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土(えど)と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり。(新編四六頁)
と御指南される如く、国土の安穏とは、その国土に生活する衆生の正法受持の功徳により、現れる実相であり、国家に仏法の受持を勧められたものではないのである。
 
 次に汝は日顕上人の、
その内容を考えてみたとき、今は主権在民だから国主は国民としたならば、こういう主旨のことは日達上人も仰せになっているし、学会も国立戒壇に対する意味において色々と言ってはいたわけです。だから国主が国民であるならば、国民が総意において戒壇を建立するということになり、国民の総意でもって造るのだから、そういう時は憲法改正も何もなく行われることもありうるでしょう。ところが、国立戒壇ということにこだわるから、あくまで国が造るということになり、国が造るとなると直ちに国の法律に抵触するから、どうしても憲法改正ということを言わなければならないような意味が出て、事実、浅井もそのように言っているわけです。だから国主立、いわゆる人格的な意味において国民全体の総意で行うということであるならば、憲法はどうであろうと、みんながその気持ちをもって、あらゆる面からの協力によって造ればよいことになります。要は、正法広布の御遺命を拝して、倦(う)まず弛(たゆ)まず広布への精進を尽くすことが肝要であります。
 しかし、私は「国主立ということを言いなさい」と言っているわけではありません。ただ私は、国主立という言い方もできるのではなかろうかという意味で言っているだけで、正規に大聖人が我々に示され、命令された御戒壇は何かと言えば御遺命の戒壇、いわゆる本門寺の戒壇であります。(大日蓮平成十六年十二月号六一頁)

との御指南を歯切れが悪い確信のない、逃げ腰の説明≠ネどと誹謗し、さらに、汝は池田はこれを「民衆立」と言い、汝はこれを「国主立」と云ったが、ただの言い換えに過ぎない≠ニいうが、池田大作の我見と邪念に基づく「民衆立」と大聖人の御遺命そのままの「国主立」とは全く異なるものであることは、すでに汝に教えてある。平成十七年四月一日付文書「御法主日顕上人猊下に対する 不遜なる『対決申し入れ書』を破折す」(大日蓮平成十七年六月号掲載・本書二三一頁)をよく読むが良い。
 また汝は現憲法を至上とし違憲を恐れている≠ニか憲法に準じて仏法を曲げるとは、まさに靴に合わせて足指を切るに等しい≠ネどと全く見当違いの非難を加えている。繰り返し述べるが、鎌倉時代における「勅宣」「御教書」の意味は、すでに現代社会では失われている。よって汝は「御教書」の意味を、御書の文言にない国会の議決閣議決定≠ナあるなどと勝手に変更しているのである。
 日顕上人はなにも現憲法を至上≠ニしておられるのではない。将来どのような政治形態になろうとも不変のもの、それは大聖人の御金言である。日顕上人は『一期弘法抄』にお示しの「国主此の法を立てらるれば」の御金言を一言で「国主立」と表現されたのであり、この「国主立」こそいかなる政情にも耐えうる絶対の戒壇義なのである。
 
 また汝はでは「主権在民」とはいかに(中略)その本質は、民意を政治権力に反映し得る仕組みというに過ぎない。ゆえに「国民を国主」と言うのは、未だ国家の本質を知らぬ無智のゆえか、あるいは為にするたばかりなのである≠ネどというが、汝の言こそたばかり≠サのものではないか。「主権在民」が民意を政治権力に反映し得る仕組み≠ニは一体どういう意味だ。日本国の主権は現在、日本国民に存しているのである。即ち日本国憲法前文に、
日本国民は(中略)ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
とある如く、日本の政治の主権者は、国民であることが明確に規定されている。その意義は民意を政治権力に反映し得る仕組み≠ネどという軽いものではないのである。
 汝はたとえ「国民の総意」というとも、そのような漠然(ばくぜん)たる状態では未だ「国家意志」は成立しない。国民の総意が国会の議決となり、閣議決定となり、天皇の詔勅となって表われてこそ、始めて国家意志は成立するのである≠ニ述べ、現在の民主主義社会における戒壇建立は封建社会とは異なり国民の総意≠もって建てられるべきであると一往自覚しているようである。そこで汝は『三大秘法抄』の「勅宣」を、憲法を改正した上での天皇の詔勅発布、「御教書」は国会の議決閣議決定≠もって充てるとするのである。汝は「御教書」なる文書は現在存在せず、時代に応じた国会の議決閣議決定≠ニ定義変更しているにも関わらず、「勅宣」はどうしても天皇が発布せざるを得ないから、天皇の詔勅≠ニいうことにこだわっているのだ。
 そして国家と無関係に国民総意で建てる戒壇を「国主立」と称し、これなら「憲法改正も必要なし」と述べているが、ここにこそ、隠された重大な違背がある。それは、「勅宣・御教書」の厳重の御定めを無視していることである≠ニもいう。
 言うまでもなく現在の象徴天皇に、「勅宣」を発布する権限は存在しない。仮に天皇が憲法改正の上に「勅宣」なる文書を発布したとしても、大聖人御在世における「勅宣」と全く意味が違う。なぜならば封建社会にあって「勅宣」は天皇の意志で出されるものであるのに対し、現在仮に「勅宣」が発布されたとしても、それは国民が国民の意思でまず憲法を改正し、国民の意志により天皇が「勅宣」を発布する意味となる。つまり、「勅宣」の出る出ないは単なる手続きの問題であり、汝のいう「勅宣」の内実が国主たる国民の意思であることに変わりはない。
 汝は現代社会においても国民の意思を表すものとして「勅宣」が必要であるという。しかし、それら間接的な手法を用いずとも、直接的に国民の意思を表す方法として現今では、様々な手段が考えられる。したがって国主たる国民の意志を何らかの形で表すとしても、それを今日において「勅宣」や「御教書」によって表す必要は全くないのだ。
 要するに、封建社会にあって、国主たる天皇や執権が帰依し、本門寺の戒壇を建立する手続きとして、大聖人は「勅宣」「御教書」と仰せられたのであり、主権在民の現在、国主たる国民の意思を表すものは「勅宣」「御教書」とはならないのである。
 大聖人も『三大秘法抄』において、
勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。(新編一五九五頁)
と御指南され、戒壇建立の手続きについては御自ら決せられず、「か」の字を残されているのである。しかるに汝はこの御指南を逆説的にとらえ「勅宣」とあるから未来永劫にわたり天皇の地位が絶対的なものであるとしている。そして国民の意思を「勅宣」によって表すなどとわめき散らしているのである。先にも述べたとおり、本門寺の戒壇が建立される時の手続きについて、現時から未来を予想して論ずることなど、全く不毛の論であると断ずるものである。「勅宣」「御教書」については日顕上人が、
やはり今は、勅宣・御教書は、その現代的な拝し方としても、そういう軽々しいものとして考えるべきではなく、もっと深い背景的意義を拝すべきと思うのです。(大日蓮平成十六年十二月号五四頁)
と御指南されている如く、この御文は大仏法の未来広布の大功徳顕現による実相の深い意義にあたるものとして拝すべきであり、軽々に論ずべきではない。無論、汝が主張するような田中智学ばりの解釈についても同様である。大聖人御自ら将来のこととして断定されなかった御遺命の戒壇に関する手続きを、汝如き謗法の一在家が、驕慢浅識の判断をもって断定しようとするなど、思い上がりも甚だしい大増上慢である。
 度々述べるように、本門戒壇の大御本尊は御歴代上人に御相伝されており、また『一期弘法抄』における「本門寺戒壇」の建立も御歴代上人に対する御付嘱である。よって日達上人は、その御付嘱を受けられたお立場から「本門寺の戒壇」について、
有徳王・覚徳比丘のその昔の王仏冥合の姿を末法濁悪の未来に移し顕わしたならば、必ず勅宣並びに御教書があって霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねられて戒壇が建立出来るとの大聖人の仰せでありますから私は未来の大理想として信じ奉るのであります。(中略)「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して」のお言葉を良く拝しますれば、時代に於て王の名称も変ってきます。国に於てそれぞれ変りがあります。然し乍らその言葉は、即ちみんな全部の人が共に信心をするという広宣流布の姿を申されておるのでございます。今将に世間で噂されておる国立戒壇などと云う言葉に惑わされず、ただ広宣流布の時に始めてできる戒壇であります。それが王立であろうが国立であろうが民衆立であろうが全ての正信の信者が集まって戒壇の大御本尊を拝し奉る処こそ、何処でも事の戒壇でございます。(日達上人猊下御説法七〜八頁)
と仰せられて大聖人御遺命の戒壇は「未来の大理想」であり、その名称についても、「王立」「国立」「民衆立」等の可能性に言及されつつも、断定はしておられないのである。
 日顕上人も血脈付法のお立場から、大聖人御遺命の戒壇につき、事相の面から論ずることが不毛であることを明確に仰せられ、本門寺の戒壇を御金言のまま「国主立戒壇」と御指南されたのである。この血脈の上からの御指南を何人も否定することなど出来ないのである。
 汝如き痴犬(ちけん)が「国立戒壇」を否定するは、その罪まさに御本仏の御眼を抉(くじ)るに当るのである。深くこれを恐れよ≠ネどと御法主日顕上人を誹謗することは仏種を断ずる極大謗法たることを自覚せよ。


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