自称冨士大石寺顕正会会長浅井昭衛の悪書
       最後に申すべき事≠砕破す



 四、 第三章 「戒壇の大御本尊」に対し奉る誹謗を破す≠ニの誣言を破折す

 この章において汝は、故河辺慈篤師が筆記したメモ(通称「河辺メモ)をもとに、日顕上人に対して悪口誹謗の限りを尽くしている。そもそも「河辺メモ」は、河辺師が日常において種々筆記した私的なメモである。このメモが何者かによって持ち出され、後に創価学会による宗門・日顕上人の誹謗に利用されたのである。
 汝はこのメモの記述を奇貨として、日顕上人が「戒壇の大御本尊」に対し奉る誹謗≠したなどとの謗言を構えるが、日顕上人が戒壇の大御本尊を否定されたことなどまったくない。汝の言は、創価学会による宗門・日顕上人の誹謗をそのまま真似したものであり、創価学会の受け売りにすぎない。
 汝は、創価学会が仏法を破壊したと随所で述べるが、その実、創価学会の虚言を平然と利用している。汝は他のことを云々する前に、創価学会の誹謗を有り難がって猿まねする破廉恥な自らを恥じよ。
 まず汝は日顕上人に対して、栄達の道が閉されたと思い込んだ汝の憤懣(ふんまん)出世の芽がなくなったと思い込んだ汝の憤懣が、細井管長への批判だけに止どまらず、恐れ多くも戒壇の大御本尊への八つ当りとなって現われた≠ネどとの謗言を構えている。しかし、宗門僧侶は御法主上人の命を拝して御奉公するのであり、栄達出世≠ネどという世俗的な考えは、日顕上人にはもとよりあられない。かかる言こそ、汝の邪な心を表して余りあるものである。
 日顕上人は、日達上人より昭和五十三年四月十五日に血脈相承を受けられたが、それよりはるか以前から、日達上人が日顕上人を後継と考えておられたことを証明する多くの証人が宗内におられるのだ。
 昭和四十九年一月十八日、日顕上人の御母堂妙修尼が逝去されたが、これに先立つ一月十三日、日達上人は京都平安寺へ御下向、妙修尼を見舞われた。このとき妙修尼の部屋へ日達上人のお供をして入ったのは日顕上人夫人と当時御仲居であった光久日康能化(現妙縁寺住職)であった。その折に日達上人は病床の妙修尼に「あなたの息子さんに後をやってもらうのですからね、早く良くなって下さいよ」と述べられ、妙修尼を元気づけられたのである。このことはお供で入室された光久能化も証言しておられる。
 またこの件に関して、日達上人から直接話を聞かれた方がおられる。それは昭和四十九年当時の大石寺理事、野村慈尊師(現清涼寺住職)である。師は京都からお帰りになった日達上人を総本山でお出迎えしたのであるが、この折に日達上人は野村師に対して、「妙修さんにな、あなたの息子さんに後を譲るから安心しなさいといって励ましてきたよ」と話されたのである。
 また、昭和五十年当時、法華講連合会佐藤悦三郎委員長のもとで連合会登山部長として尽力されていた小島富五郎氏(妙國寺総代)は、ある時連合会幹事三名で、総本山内事部において日達上人に御目通り申し上げた。その折に、「私もだんだん身体が弱ってきたので、後は阿部教学部長に任せようと思う」とはっきりと仰せになられたので、この時に、後は阿部教学部長がなられるのだと思ったと述懐されている。
 さらに当時日達上人のお側で長年奥番を勤めていた早川検道師からは、日顕上人の夫人が大奥へ御目通りに来られた時など、日達上人が大奥の階段のところで、「後はあなたの旦那さんだからね」と言われていたのを伺ったとの証言もある。
 これ以外にも、日達上人の御遺族や御弟子、御信徒など、相当数の方々が、日達上人の御生前に日顕上人への御相承に関する話を聞かれているのである。
 なお日顕上人は、
私が日達上人より、過去、数度にわたって相伝の甚深の法門を承り、それらの総括として昭和五十三年四月十五日、大奥において、付嘱の義をもって深意を拝承したことは、仏祖三宝の御照覧において、事実であります。(大日蓮昭和五十七年七月号七五頁)
と仰せられている。日顕上人が日達上人より甚深の法門を相伝されたことは数回以上に及んでいるのだ。ただし、それらの中で、特に御付嘱の義をもっての正式な御相承をお受けされたのが昭和五十三年四月十五日であったと仰せられているのである。
 このように、昭和五十三年当時よりはるか以前から、日達上人は日顕上人を後継者と決定されていたのである。日顕上人が汝のいうような浅ましい考えを持たれるわけがないのである。


 1、「河辺メモ」≠ノついての雑言を破す


 ここで汝は、汝は恐れ多くも──(中略)最極無上・尊無過上の戒壇の大御本尊を、あろうことか「偽物」と断じた≠ネどとの謗言を構えるが、これは「河辺メモ」の不正確な記述を悪用した汝の言い掛かりにすぎない。かかる汝の誣言に対しては、後に徹底して破折する。
 まず汝は、平成十一年七月九日の宗務院からの通達「怪文書『同盟通信』の妄説について」、及び七月十日の「河辺慈篤師からのお詫びと証言」の一部分を切り文して謗言を構えている。よって、これらの通達等の主要部分を次に掲げる。眼を見開いてよく読むがよい。
 
平成十一年七月九日、「怪文書『同盟通信』の妄説について」
この度、御法主上人猊下には、河辺メモ中の記載事項と、実際の面談とには、内容に大きな差異がある旨を仰せになられました。
即ち、二十年以上も以前のことであり、その発言内容の全てを正確に御記憶されているわけではありませんが、当時は裁判も含め、以前より外部からの「戒壇の大御本尊」に対する疑難が多く来ていたこともあり、御法主上人猊下におかれては、教学部長として、それらの疑難について河辺師に対して説明されたものであります。したがってメモに記載されているごとき、御法主上人猊下御自身が本門戒壇の大御本尊を偽物と発言するようなことは、断じてあるはずがないとの御指南であります。(大日蓮平成十一年八月号四頁)

 
平成十一年七月十日、「河辺慈篤師からのお詫びと証言」
この度の件につき申し上げます。
 私はこれまで、種々メモを残しておりますが、その方法は、見聞した事柄につき、後に回顧して書いたものが多く、その際、私の性格として、自分の主観に強くこだわり、その趣旨で書き記す傾向があります。
 従いまして、今回の件における面談の折の記憶を喚起致しますと、当時の裁判や以前からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難について様々な話が出た中で、それらと関連して、宗内においても、『戒壇の大御本尊』と、昭和四十五年に総本山へ奉納された『日禅授与の御本尊』が共に大幅の御本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性と、その場合の破折について話を伺ったものであります。
 但しこの話は強烈に意識に残りましたので、話の前後を抜いて記録してしまい、あたかも御法主上人猊下が御自らの意見として、『本門戒壇の大御本尊』を偽物と断じたかのごとき内容のメモとなってしまいましたことは明らかに私の記録ミスであります。
 このような私の不注意による、事実とは異なる不適切な内容のメモが外部に流出致し、本門戒壇の大御本尊様の御威光を傷つけ奉り、更には御法主上人猊下の御宸襟(しんきん)を悩ませ、また宗内御一同様に多大の御迷惑をおかけ致しましたことを衷心より深くお詫び申し上げる次第でございます。(同頁)

 このように宗務院からの通達「怪文書『同盟通信』の妄説について」には、
当時は裁判も含め、以前より外部からの「戒壇の大御本尊」に対する疑難が多く来ていたこともあり(中略)それらの疑難について河辺師に対して説明されたもの
とあり、「河辺慈篤師からのお詫びと証言」には、
当時の裁判や以前からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難について様々な話が出た中で、それらと関連して、宗内においても、『戒壇の大御本尊』と、昭和四十五年に総本山へ奉納された『日禅授与の御本尊』が共に大幅の御本尊であられ、御筆の太さなどの類似から、両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性と、その場合の破折について話を伺ったもの
とある。汝はこの両者に述べられることが矛盾するというが、この両者はまったく相反するものではない。ここで、メモが記された昭和五十三年当時までに如何なる経過があったか、汝に示しておく。
昭和三十一年六月、日蓮宗僧侶・安永弁哲による『板本尊偽作論』が刊行され、大御本尊に対する誹謗がなされた。その後、日蓮宗、仏立宗、国柱会等から、次々と大御本尊に対する疑難がなされたのである。
 また、昭和四十七年十一月、創価学会員で民音職員の松本勝弥(かつや)が、創価学会及び代表役員・池田大作を被告として、「正本堂御供養金返還請求」を提訴した。その「請求の原因」には、
被告は前述のとおり、正本堂は日蓮大聖人の三大秘法の大本尊を安置するためである、そのため会員は供養金を寄付すれば幸福になると称して右寄付を勧誘し、原告は被告の右正本堂に安置するといういわゆる「一閻浮提総与の大本尊」が真正な大本尊であると信じたからこそ前記の寄付をしたのである。しかるに、右「大本尊」は次に述べるとおり、「日蓮大聖人の弘安二年一〇月一二日建立した大本尊」ではない疑いがきわめて濃厚となり、右疑問に対して被告は何らこれを解く努力をなさず、このため原告両名は右大本尊を信仰の対象としえなくなり、前記寄付はその要素に錯誤の存在することが明白になった。(訴状)
とある。このように、戒壇の大御本尊の真偽が裁判の焦点となったのである。
 さらに『月刊ペン』の昭和五十一年十月号には、宮崎英修による、「大石寺・板まんだらについて──その価値と成立」との戒壇の大御本尊を疑難する邪論が掲載された。これに対して日顕上人(当時教学部長)は、昭和五十一年十月十五日、『立正大学図書館長宮崎英修氏の 妄説誹謗を破す』を発表し、宮崎英修の邪説を徹底して破折された。さらに日達上人は、同年十月二十四日、創価学会第三十九回本部総会において、同じく宮崎英修の邪説を破折遊ばされている。
 このように、当時の状況は、邪宗各派や裁判において、大御本尊に対する疑難が多くなされていたのであり、これらが「外部からの『戒壇の大御本尊』に対する疑難」ということである。
 一方宗内における疑難については、『慧妙』に次のように記されている。
正信会・大黒喜道編纂による『日興門流上代事典』の七三六頁には、本門戒壇の大御本尊の解説文として、次のように記されており、その中で戒壇の大御本尊に向けられた疑難は、まさに、『河辺メモ』に記された疑難と、みごとに一致しているではないか!
 『弘安二年(一二七九)十月十二日に書顕されたと伝えられる富士大石寺蔵宗祖御筆本尊で、曼荼羅下部には『右為現当二世造立如件/本門戒壇之願主弥四郎国重/法華講衆等敬白/弘安二年十月十二日』と記されている。現在は板曼荼羅として大石寺に厳護されているが、非公開であり、古来より宗祖の御筆に対して疑問が提出されている。(中略)
 富谷日震『本宗史綱』二四五は『重須日浄記』に拠って当本尊の彫刻を大石寺日有によるものと推定し、日蓮宗事典はその筆跡や脇書等から室町期の成立と推測している。(中略)大石寺所蔵の宗祖本尊の中では、元は東京・法道院所蔵にて昭和四五年に大石寺に奉納された弘安三年五月九日書顕の宗祖本尊(脇書『比丘日禅授与之/〔日興上人加筆〕少輔公日禅者日興第一弟子也。仍所申与如件。奉懸本門寺可為万年重宝者也』興全一四一)が、その相貌(そうみょう)と言い大きさと言い、当本尊と酷似しており、注意される。』
 この『日興門流上代事典』なる書の発刊は『二〇〇〇年一月一日』と記され、近年の発刊となっているが、問題は、そこに述べられた『日禅授与の御本尊』と『戒壇大御本尊』の関係についての説が、いったい、いつから存在したか、という点である。
そこで今回、本紙が編者に問い質(ただ)したところ、重大な事実が判った。
 すなわち、すでに昭和五十年頃、虫払い大法要の際に宗内の何者かが撮影した『日禅授与の御本尊』の遠景写真(これは、いま編者の手元にある)、及び『日禅授与の御本尊』と『戒壇大御本尊』が酷似しているとの説があった、これについて編者(大黒)自身は別の意見を持っているが、『事典』という性質上、中立にあらゆる意見を載せたにすぎない、というのである。
やはり、というべきか、この事実は重大である。
 編者が自称・正信会に籍を置いている関係からすれば、右に言う『写真』も、おそらくは正信会関係者から入手したものであろうし(その氏名を聞くことは、ついにできなかった)、『河辺メモ』に記された、昭和五十三年当時、『日禅授与の御本尊』と『戒壇大御本尊』の関係を疑って云々していたのも、後に正信会となる宗内一部僧侶であったことは、もはや確実である
(慧妙平成十四年六月一日付)

 たばかり昭衛、この記事をよく読め。汝は大御本尊を偽物呼ばわりしたのは、外部の者でもない、宗内の者でもない、またその可能性があったわけでもない。ただ一人汝が、この大それた悪言を吐いたのである≠ニいうが、この大黒喜道の証言からも明らかなとおり、大御本尊と日禅授与の御本尊が類似しているという説が昭和五十年当時、既に宗内の一部にあり、それが「宗内においても……両御本尊の関係に対する妄説が生じる可能性」ということなのである。このように、「河辺メモ」に記されている内容は、何者かが「戒壇の大御本尊」と「日禅授与の御本尊」を関連づけて妄説を述べる可能性があるという話を記したものなのである。これらのことからも、ただ一人汝が、この大それた悪言を吐いた≠ニいう汝昭衛の言が大それた∞たばかり≠ナあることは明らかである。
 また汝は、「強烈に意識に残った」ことを記録するのに、たとえ話の前後を省略しようとも、「偽物と断じた」のは誰かという主語を間違えることがあり得ようか≠ニいう。しかしこのメモの「一、戒旦之御本尊之件」という項には、まったく主語≠ヘ記されておらず、また「お詫びと証言」にも主語を間違える≠ネどとはどこにも記されていない。このように、誰も述べていないことを作り上げる汝の言こそが、まさにたばかり≠ナある。
 さらに「河辺メモ」には、
種々方法の筆跡鑑定の結果解った(写真※判定)
(注 創価学会は※を字画判定≠ニ読んでいるが、河辺師の筆跡を確認したところ、写真判定≠ナあった)
とあるが、これも大黒喜道の証言から明らかなとおり、日禅授与の御本尊の遠景写真という鑑定材料を入手した者がおり、その写真をもとに判定を行った者が妄説を唱えるという状況が当時存在していた。汝は教学部長・阿部信雄以外にはないではないか≠ニいうが、河辺慈篤師は、宗内の一部に妄説を唱える者があったからこそ、その旨をメモに記したのである。
 このように河辺師は、日顕上人が戒壇の大御本尊を偽物と断じたかの如き妄言について明確に否定し、また河辺師のメモが誤解を生ぜしめたことに対し、御法主上人にお詫びされているのである。
 なお、河辺師は、札幌・日正寺から新宿・大願寺に転任しているが、当時の日正寺の寺院等級は一等であり、大願寺の寺院等級はかなり下であるから、この転任は栄転≠ナも取引≠ナもない。すなわち河辺師は、メモ流出の事情により、転任されたのである。
 なお、平成十一年九月十八日の御法主日顕上人の御指南は、顕正会員が目にする機会はないであろうから、ここに全文を掲載するので、正直に顕正会員に知らしめよ。
 
 最近、宗内僧侶河辺慈篤房が書いたというメモが、本人の承諾なく、盗人の手によって創価学会に流れ、それを悪用した創価学会が、機関紙聖教新聞・創価新報等にその記事が真実であるとして、野衲(やのう)日顕の本門戒壇の大御本尊に対する不信不敬なりとする悪口誹謗の記事を掲載している。
 既に戒壇の大御本尊様に背き、歴代血脈の法主上人にも悪口三昧の限りを尽す下種三宝破壊の池田大作以下創価学会の者共が、寸言のメモを根拠として、日蓮正宗宗旨の大事について論ずる事自体僣越の極みであり、資格なき者の戯論(けろん)である。一顧の価値もない邪論と断ずる。従って、前に宗務院より発した通知で充分その意を汲(く)まれるものと思量したのであるが、河辺メモと称するものが不正確な記述の為、聖教新聞等の邪説の誹謗を見た宗内僧俗の中に、万一にも不透明感を持つ者があるやの事を考慮し一文を草する。
 いわゆる河辺メモは、客観的な言旨を極めて自己の主観的な形に書き変えた慈篤房の記録ミスである。則ち主として創価学会の存在によって生じた日蓮正宗に対する種々の批判中の一環として、御本尊と血脈等に関する疑難悪口があることの内容について、ある時に慈篤房と客観的な話しをしたような記憶は存する。しかし学会で発表したあのメモのような諸件についての主張をしたことは断じてないのである。
 そこで此の際はっきりしておくことは、本門戒壇の大御本尊様と日禅授与の御本尊とは全く相違しているという事である。よく拝すれば中尊の七字の寸法と全体からの御位置においても、明らかに異なりが存し、また御署名御花押の御文字及びその大ききや御位置、各十界尊形の位置等にも歴然たる相異が存する。そして勿論模写の形跡などは存在しない。
 したがって御戒壇様と日禅授与の御本尊とを類推すること自体が全くの誤りであり、この事をはっきり、述べておくものである。
 次に教義信条の面より拝するに、宗祖大聖人御化導の正義は仏像の造立に非ず、大曼荼羅本尊の顕発と弘通に存する。その御正意は弘安元年以降の御本尊境智の究竟人法一箇の上の三大秘法の整足、即ちその御当体は本門戒壇の大御本尊にましますのであり、故に古来、三大秘法惣在の御本尊と拝称し奉るのである。この三大秘法の究極の法体こそ宗祖大聖人の御正意であると共に御書全体の正義であり、また大聖人日興上人の唯我与我の血脈の本旨である。
 この教義信条に基いて一器の水を一器に移す如く、宗祖大聖人本懐の三大秘法の深義が伝承されており、その根本の御本尊として格護されて来たのが本門戒壇の大御本尊である。
 故に野衲も先師日達上人よりの付法に基き、登座以来二十年、身命を捧(ささ)げて御護り申し上げて来たのである。否、それ以前の宗門教師の時より已来、変わらざる信念と覚悟を以て執筆、言論等にこの教義信仰の大事を陳(の)べて来たものである。
 蓋し、創価学会の行為たるや、仏法尊重の念は寸分もなく、いよいよ御本仏日蓮大聖人、下種の大法に違背する仏敵たる本性を暴露しているのである。
 宗内の諸賢には、このような為にする創価学会の罵詈讒謗の根底を見抜いて、ますます信心の志を強く持ち、仏敵に対する破邪の剣を磨かれることを祈る次第である。         已 上
   平成十一年九月十八日
                            日 顕
  宗内僧俗各位
(大日蓮平成十一年十月号五頁)

 
 日顕上人は、戒壇の大御本尊と日禅授与の御本尊とは全く相違していることを明確に仰せられるとともに、大聖人の御正意が戒壇の大御本尊にまします甚深の意義を御指南されている。この甚深の御指南に対し、汝の言は悪口罵詈に終始している。仏法の深義を少しも信解できない己れの不信心を恥じよ、昭衛。
 
 また第二弾「河辺メモ」なるものが、「同盟通信」に掲載されており、汝はこれにも便乗して日顕上人を誹謗している。このメモについても、「同盟通信」がどこから入手したか、その経緯はまったく明らかにしていない。
 河辺師の名誉のために言っておくが、事実は、河辺師の近親者は、「ゴミ箱に捨てたかホテルで紛失したか定かでないが、いつの間にかなくなった。また尾行されていた」と河辺師が当時語っていたと証言している。ある団体は過去において、自らに批判的な人物や宗門の末寺が出した生ゴミさえ、持ち去ったことがあるのだ。河辺師が流出≠ウせたなどということは、何の根拠もない汝の言い掛かりである。
 
なおこのメモに、2、還俗を決意して思い通りでるか≠ニあるとして、汝は、策士・河辺はこのメモで汝を脅し、自身の思惑を達せんとしたのであろう≠ニ、あたかも河辺師が宗門に刃向かう意味であるかのように誣言している。しかし、実際のメモには「2、還俗を決意して思い通り出るか」と記されているのだ。これは道念堅固の河辺師の性格からして、宗門を守るために責任を取り、住職を辞して思い通り寺を出るという覚悟を記した、とみるべきである。還俗とは、寺を出ることだからである。付言すればこのメモは、河辺師がその当時の状況を踏まえ御自身の責任と対応を記したものであって、これをあげつらったところで、日顕上人が大御本尊を「偽物」と断じた≠ネどという証明にはまったくならない。
 河辺師は、昭和五十年代から六十年代にかけて、得度したばかりの青年僧侶に対して講義をされたことがある。その席上河辺師は、日顕上人との思い出を振り返り、終戦後、総本山大坊に在勤した折、日顕上人が寸暇を惜しんで勉学に励まれていたことや、食糧難の時代に日顕上人から食事を分けて頂いたことなど、日顕上人に対する尊敬の念を吐露され、こと御法主上人に対しては絶対の信順を懐かれていたことを教えておく。
 また汝はいま問われているのは、河辺の人格ではない。このメモ流出によって、白日のもとに晒された汝の正体そのものなのである≠ネどというが、この言葉は、卑しい人間は卑しい気持ちで他人を妄断することの証しと断じておく。
 
 なお汝は、これを以て判ずるに、汝の「模写の形跡云々」の思わせぶりのたばかりなど、裏の裏まで見透せる。但しここには、これ以上は言わぬ≠ネどと、いかにも子細ありげな言を述べる。しかし、実際の日禅授与の御本尊には模写の形跡などないことは、先の日顕上人の御指南に明らかであり、日顕上人は「模写の形跡云々」の思わせぶりのたばかり≠ネど、どこにもされていない。「河辺メモ」に「模写の形跡」とあるが、実際の日禅授与の御本尊には模写の形跡などない。このことからも、「河辺メモ」にある「模写の形跡」ということは、実際に御本尊を間近で拝したことのない者の憶測であることが明らかである。


 2、「Gは話にならない」≠破す

 次に汝は、「河辺メモ」における「Gは話にならない」という発言について、当方が「日達上人に対する不遜の言も、間違いなく活動家僧侶(後の正信会)の発言である」と述べたことについて、見えすいた嘘≠ナあると疑難を呈している。これについても汝に、当時の状況について教えておく。
 昭和四十七年の正本堂建立の後、創価学会は「広布第二章」を標榜し、教義的な面においても、逸脱が目立ってきた。これらの教義上の逸脱に関しては、日達上人も折々その誤りを指摘された。そして創価学会の「昭和五十二年謗法逸脱路線」が顕著になると、活動家僧侶が創価学会の誤りを公然と糺すようになった。日達上人は、これらの活動家僧侶の行動を一面では容認されたのであるが、けっして創価学会を潰そうとされたのではなく、学会を反省させ、善導しようとしておられたのである。しかるに一部の活動家僧侶には、そうした日達上人に不満を懐き、不遜な言動をする者がいたのである。
 総本山塔中理境坊信徒・佐藤せい子氏は、昭和五十三年一月当時、一部僧侶が、
日蓮正宗の中に創価学会の四字が存在するかぎり、広宣流布は絶対にできない。それだけ学会は世間に悪印象を与えすぎている。
 また、日達上人は八方美人であるから、学会問題について日達上人のお言葉どおりに行動することは危険である。
 そこで、まず日達上人が体を翻せぬ状況を作るべく、学会破門を要求する僧侶が集まって日達上人を突き上げ、それに歩調を合わせて法華講数千名を本山に集結させる。そして、いっきに日達上人から学会破門の決断を下してもらう(法華講員の基礎教学 ―正信覚醒運動の変遷― 七四頁)

という不遜な発言をしていたと証言している。これは、日顕上人と河辺師が面談された前月のことである。
 また昭和五十四年二月十二日、日達上人はお目通りした佐藤氏らに、
学会の誤りを責めてきた僧侶の中にも、私の言うことが間違っているとか、聞くと危険だとか、陰でいろいろ言っている者がいるようですね。まったく困ったものです(同書七五頁)
と仰せられている。さらに同年七月、日達上人は理境坊住職・小川只道師に、
どうも正信覚醒運動の方向性がおかしい。やがては総本山にも矢を向けることになりそうだ。もし、あのメンバーに入っているのなら、今のうちに抜けておきなさい(同書八一頁)
と御指南されている。このように、日達上人は創価学会を善導しようとされたのであるが、この日達上人の御慈悲を拝信することのできなかった一部の不心得な活動家僧侶(後の正信会)に、日達上人に対する不遜の言をなすなどの不謹慎な者がいたことは、厳然たる事実なのである。
 また汝は正信会僧侶が、どうしてこのような発言をする必要があるのか。当時の宗門と学会の関係、学会と阿部教学部長の関係、細井管長と活動家僧侶との関係等を知れば、この嘘は即座に崩れる――≠ニして、昭和四十八年から五十三年に至る経過を縷々(るる)る書き連ねて、もっともらしく粉飾している。
 しかし当時の経過において、創価学会に種々の問題があったことにつき、日達上人が厳しい態度を取られたことに対し、「Gは話にならない」という不遜な発言を日顕上人がされたかの如く汝はいうが、これはまったくの欺瞞であり、汝の作文こそが見えすいた嘘≠ナある。
 
 まず、昭和四十八年十月十四日、正本堂建立一周年記念の法庭東広場完成大法要において、池田大作が無礼にも日達上人を怒鳴りつけたことは周知の事実である。この時の状況について日顕上人は、
昭和四十八年十月十四日には、正本堂東廊下で池田大作が日達上人に怒鳴りつけたことがありました。「学会を奴隷にするな」というような、非常に乱暴な言葉を吐いたのでありますが、しかし、日達上人は、この池田大作の誹謗を僧侶の尊い忍辱の鎧をもって見守られ、慰撫教導に努められたのであります。(大日蓮平成四年十一月号六一頁)
と述べられている。正本堂建立の経過において、池田大作は広宣流布達成という慢心を懐き、一方、汝浅井昭衛は田中智学流の国立戒壇に固執した。御法主日達上人は、双方を善導しようと苦慮されたのであるが、そのような状況において、日達上人の示された正本堂の意義付けについて池田が不満を募らせたという背景があったことはたしかである。しかしこのような池田大作の粗暴な振る舞いに対しても、日達上人は大慈悲の上から忍ばれ、慰撫教導に努められたのである。それを汝は、宗門と学会の癒着に亀裂が入った≠ネどという。これ日達上人の大慈悲のお振る舞いを軽しめる無慚無愧な謗言である。
 次に汝は、昭和四十七年七月二十七日の「宗門の現況に関する説明、並びに指導会」の日達上人のお言葉も引き、なんと醜い仲間割れか≠ニ侮言している。日達上人がこのようなことをあえて仰せられたのは、日蓮正宗の正法をどこまでも守り抜き、僧俗一致の広宣流布を目指していく、という御決意を示されたものである。日達上人の悲壮な御覚悟を仲間割れ≠ニしか見ることのできない汝の心根は、まことに卑しいとしか言いようがない。
 また汝は、池田は正本堂落成以前にすでに「板曼荼羅に偏狭にこだわらない」とも放言している≠ニいう。池田大作は平成五年五月三日、池田を称賛した学者の発言を、「寄せられた識者の声を紹介しておきたい」とした上で 、
「その折り、私(識者)は、『究極に求められるものは何でしょうか』と(池田に)質問しました。おそらく板漫荼羅の御本尊≠ニ答えられると思っておりましたが、しかし、名誉会長は『久遠元初の法です』と答えられたのです」
「このことから、名誉会長が、永遠の根源を求めておられ、板曼荼羅に偏狭にこだわっておられないことに、非常に感動し、創価学会の普遍性と、発展の因を見た思いでした。以来、学会への協力を決意し、今日にいたっております」
もとより御本尊が、私どもの「根本尊敬」の対象であられることはいうまでもない。そのうえで、漫荼羅それ自体は、物体という側面からいえば永遠不滅ではありえない。当然、そこに計り知れない御仏意があられると拝されるが、漫荼羅としてあらわされた「法」は永遠である。いずれにしても、大聖人の仏法の真髄である「久遠元初の法」を根本としてこそ、永遠の妙法流布の道が開ける。(聖教新聞平成五年五月五日付)

等と述べ、大聖人の仏法の真髄は「板漫荼羅」ではなく「久遠元初の法」であるとした。この池田の発言は平成五年であり、池田は正本堂落成以前にすでに「板曼荼羅に偏狭にこだわらない」とも放言している≠ニいう汝の言は欺瞞である。正本堂落成の昭和四十七年以前は無論のこと、もし平成三年に創価学会が破門となる以前に池田大作がこのようなことを公言したら、宗門が許すわけがない。したがって汝が、池田べったりの汝が、この影響を受けないはずがない≠ネどということも、あるはずがないことである。
 さらに汝は、(昭和五十二年)一月二日には、学会批判の論文を書いた菅野憲道が学会本部に呼びつけられ、吊(つる)し上げられるという事件がおきる≠ニしている。しかし、この事件があったのは、一月二日ではなく、一月二十日の誤りである。
 この前日、日達上人は菅野憲道に対して、
緒戦だから、一度引いておけ、確信もって書いているのはけっこう。前哨戦だから。(藤本メモ)
と御指南された。したがって、当日学会本部に同行された日顕上人は、前日の日達上人の「一度引いておけ」との御指南を踏まえ、事を穏便に解決されるべく、対処されたものである。汝は同行した阿部教学部長は、ただ学会の側に立って菅野をたしなめるだけであった≠ニいう。しかし実際には、学会側が「土下座せよ」と菅野に迫ったことに対し、同席された日顕上人は、「土下座はさせられません。猊下の弟子ですから」と理非を糺(ただ)されているのである。これらの対応について御報告を受けられた日達上人は、菅野憲道に対して、
引く時引かねばダメ、出る時は出てよい。今はガマンせよ。韓信の股くぐり、ガマンが大事、蔵六(ぞうろく)は六方引込めて、季節になったら出す。学会が土下座せよといったら、堂々土下座すべし。(藤本メモ)
と御指南されている。即ちこのように、宗門側の対応は日達上人の御意を体して行われたものであることが明らかである。
 つづいて汝は、同年八月四日の学会の『副会長会議記録』なる文書を引いて日顕上人を誹謗している。しかしこの副会長会議なるものは、創価学会内部の会議であって、当然宗門の関知するものではない。当時、日顕上人は日達上人の命に従って御奉公されていたのであり、学会は汝の野心を知り、それを利用して宗門対策を進めようとしていた≠ネどという汝の言を、まさに下司の勘繰りというのである。
 さらに汝は、同年九月二日、宗務役員と学会首脳が学寮(蓮蔵坊)で会談した記録『学寮記録文書』なるものを持ち出して日顕上人を誹毀(ひき)している。その中で日顕上人が、創価学会は末法にあって、今後も出ない団体だと思います社会に開いた先生の教学はよくわかります。完璧であると思います≠ネどと発言したとして、日顕上人に難癖をつけているのである。
 この学寮における会談の記録には、実際には二種類のものがあり、いずれも正信会から出版されたものである。それは、当時の宗務院藤本庶務部長(現日蓮正宗重役)によるものと創価学会側によるものとであり、その内容には大きな異なりがある。詳細は略すが、藤本庶務部長の記録は、会談の内容を丹念に記されたものである。これに対し、学会側の記録は、藤本庶務部長の記録にあるにもかかわらず記載されていない内容も多く、その反面、文章が整いすぎている。学会側の記録は、後日発言を整理し、しかも自分たちに都合いいように記した文書であることが明らかである。
 ここで汝が引く『学寮記録文書』は学会側の作成によるものである。ところが、藤本庶務部長の記録には、汝の引く創価学会は末法にあって、今後も出ない団体だと思います社会に開いた先生の教学はよくわかります。完璧であると思います≠ニいう発言は記されていない。この点について、今般藤本重役に伺ったところ「そのような発言があれば必ず書くので、記述がないということは、発言はなかったのであろう」と述べられた。藤本重役のメモは、その正確さにおいて定評がある。したがって、実際には日顕上人にはこのような御発言はなかったのである。
 しかもこの会談で日顕上人は、
創価仏法という言葉、これは間違いだと思う。(藤本メモ)
と池田に対し、注意すべきことは厳然と注意し、クギを刺されていることを知らねばならない。このように発言されながら、先生の教学は……完璧≠ネどと日顕上人が言われるわけがないのである。このことを知らない振りをし、一言も触れない汝の態度は卑怯(ひきょう)というほかはない。次期を狙っての野心がここにも見える≠ニいう汝の言も、まさに悩乱者の戯言(たわごと)である。
 また汝は、昭和五十二年十一月二十八日の日達上人のお言葉なるものを引き、ここに細井管長は、学会と手を切ることを決意し明言したのである≠ニしている。しかしこのお言葉なるものは、『正信覚醒運動の歩み』からの受け売りであり、そのまま鵜呑(うの)みにすることはできない。なぜなら同書は、正信会が自らの立場を正当化するための手段として発刊したものだからである。したがってそのお言葉なるものは、日達上人の御発言などとは到底いえない。
 次に汝は、昭和五十三年一月十九日、活動家僧侶が総本山に集まった際の日達上人のお言葉を引いている。この時日達上人に厳しい御発言があったとしても、日達上人は当時、創価学会をただちに潰そうとされたのではなく、創価学会を反省させ、善導しようとされたのである。それは、創価学会問題が一往の終結をみた後の昭和五十四年五月二十九日の、日達上人の次の御指南からも明らかである。
今まで学会の悪いところを指摘し、そして学会と戦ってきた若い人達も立派なものです。そうかといって、黙って、口には出さないけれども心に留めて、そういう学会の人々の悪いところを直していこうとしておる人も有るのであります。それを一概に、風見鶏だとかと悪口を言い、あるいはまた、こうなったらすぐ学会におべっかを使うとかと、そういう考えでは宗門はやっていかれません。そういう僧侶達が出たということは情けないことだと思います。どうか宗門を守る以上、宗務院・本山・内事部に皆一体となって、相談してやって頂きたいと思います。(大日蓮昭和五十四年七月号六七頁)
 このように日達上人は、けっして学会を撲滅しようとされたのではなく、活動家であってもなくても、宗内の僧侶一同を包容され、宗門が宗務院・本山・内事部を中心に、一体となるよう御指南されていたのである。
 さらに汝は、昭和五十三年二月五日の「宗学友人会」なる学会内部の会合において、「人が変わればまた変わると思う。新しい人が台頭していただいて、先は明かるいと思う。一番心配しているのは、阿部さんではないか」という池田大作の発言があったとして、池田大作が、細井管長の退座≠望み、また阿部教学部長への期待をにじませてい≠スのであるとしている。しかしこの宗学友人会などというのは、学会が勝手に作ったものであり、そこで池田が何を言おうと、それは単なる放言にすぎない。ここで汝は、当時の日顕上人が、細井管長の不興を買って閉塞(へいそく)状態にあり≠ネどというが、日顕上人は日達上人の御意志を体して事に当たっておられたことは当然である。また汝は次期法主の芽は消えていた≠ニいうが、日達上人が日顕上人を後継者と考えておられたことは、先に紹介した証言からも当然のことであり、日達上人が日顕上人に御相承されるお気持ちは不動のものであられた。次期法主の芽は消えていた≠ネどという汝の言は、先の証言により消し飛ぶのである。
 また汝は、汝は時事懇談会の翌日、学会本部近くの料亭「光亭」で池田と会い、細井管長と活動家僧侶の動向を報告しているではないか≠ニしている。しかしこの日の会談は、当時の早瀬日慈総監と阿部教学部長が、日達上人の御意を体して池田に会われ、前日の時事懇談会の内容を説明するとともに、池田および創価学会の反省を促されたものである。汝がいう如き細井管長と活動家僧侶の動向を報告し≠スものなどではない。
 
 そして汝は、このような当時の状況を見れば、「Gは話にならない」が汝の発言であることは一点の疑いもない≠ネどという。しかし、これがまったくの虚言であることは明らかである。なぜなら、日達上人は深い御慈悲の上から学会を善導しようとされたのであるが、活動家僧侶は学会を撲滅しようとしていた。そのような中から、日達上人に批判的な言動をなした活動家僧侶が実在していたことは、先に紹介した佐藤せい子氏の証言等からも明らかである。「河辺メモ」における「Gは話にならない」との記述は、かかる活動家僧侶の言を記したものであって、日顕上人のお言葉でないことは一点の疑いもないのである。
 また汝はしかるに「間違いなく活動家僧侶(後の正信会)の発言である」などと見えすいた嘘をつくのは、汝にとってもう一つの重大問題を隠すためである。それは──「相承疑惑」である≠ネどと、無慚の言をなす。
 しかし、日達上人が日顕上人を後継者と決定され、昭和五十三年四月十五日、血脈を内付せられていたことは、既に述べた。しかもかつて汝は、
かくて日道上人・日行上人・日時上人・日阿上人・日影上人・日有上人と、「本門戒壇の大御本尊」を付嘱の法体として代を重ねること六十七、清浄の法水はいささかも断絶することなく今日に至っている。これが正系門家・富士大石寺の伝統である。(富士昭和六十一年十一月号『叱呵痴犬抄』二頁)
ここで、正信会が問題にした阿部管長の相承疑義について触れておく。(中略)非常事態が万一あったとしても、血脈が断絶するようなことは断じてあり得ない。御本仏の下種仏法は金剛不壊である。法体たる戒壇の大御本尊は厳然としてましまし、金口の相承また厳然である。(中略)どうして途中で断絶するような方法をお用いあそばすであろうか。甚深の御仏智に深く信を取らなければならぬ。いかなる事態があろうとも、本宗の血脈はまた不断である。ちなみに現在、正信会に席を置いているか否かは知らぬが、久保川法章の戒壇の大御本尊と血脈についての所論のごときは、いまだ初学の慢心者が、学会憎しのあまりに血迷って吐いた大謗法の邪説に過ぎない。(学会・宗門抗争の根本原因二二四〜二二六頁)
阿部管長憎しのあまり、そして池田大作を偉く見せるために、ついに下種仏法の命脈たる金口の相承までも学会は完全否定してしまったのであります。(中略)これを仏法破壊といわずして、何を仏法破壊というのか。これを大謗法といわずして、何がいったい大謗法でありましょうか。(顕正新聞平成四年六月五日付)
戒壇の大御本尊は一日として付嘱の人の空白ということがない。またこの付嘱に付随して「金口の血脈」もなくなることはない。(顕正新聞平成五年一月五日付)
何代・代を重ねようとも、また面授の儀式があろうとなかろうと、断絶もせず、色も替わらず、伝わるように出来ているんだ。これが御本仏の御仏智なのです。だから御相承の儀式のあるなしは、本質的には全く問題ない。断絶などはあり得ないのです。(同)
と、第六十七世日顕上人への血脈相承を全面的に肯定し、しかも「御相承の儀式のあるなしは、本質的には全く問題ない」とまで述べているではないか。
 しかるに汝は、細井管長は昭和五十四年七月二十二日、御相承をすることも叶わず、急死した。この現証こそ御遺命に違背した罰である∞このような相互不信の関係において、御相承のあり得るはずがない≠ネどと誹謗する。汝は、これらの言が、かつての汝自身の言に背くことが分からないのか。まさに破廉恥な二枚舌としかいいようがない。正信会・創価学会と同様の仏法破壊の邪言である。
 日達上人は、昭和五十三年四月十五日、日顕上人に金口嫡々の血脈相承を遊ばされ、さらに創価学会問題に決着をつけられて、昭和五十四年七月二十二日、安祥として御遷化遊ばされた。この日達上人の大慈悲の御化導に対し、急死≠ネどと誹謗することは、人間としてもっとも恥ずべき不知恩の極みである。
 
 さらに汝は、嘘はどうしても露見する。――相承があったという「四月十五日」の二ヶ月後の六月二十九日に、総本山大講堂で全国教師指導会が開かれた≠ニして、昭和五十三年六月二十九日に行われた全国教師指導会について云々し、日顕上人への御相承に疑義を呈している。この全国教師指導会は、創価学会の『教学上の基本問題について』を宗内教師に説明することを目的として開かれた指導会である。この『教学上の基本問題について』(6・30)は、創価学会の教義逸脱についての「宗門からの指摘」に対する創価学会の反省・回答として作成され、発表されたものであるが、この内容はまず、同年六月二十七日、創価学会の第十回教学部師範会議において検討された。その模様について当時の『聖教新聞』には、
秋谷師範からは、宗門からご指摘のあった、教義上のことについて、学会としてまとめた基本事項の発表と、その趣旨説明がなされた。ひきつづいて会長中心に真剣に質疑応答があり、各師範の慎重な審議をへた後、全員が了承した。この内容については、近日中に、聖教新聞に掲載発表することになった。(昭和五十三年六月二十八日付)
と掲載されている。
 六月二十九日の全国教師指導会において日達上人は、
学会から、今までの教義のまちがったこと、又言い過ぎた分について答が出ました。それを今日皆様の手元に配りまして、皆様の了解を求めたいと思う次第でございます。
 だいたい、その答の線であれば、私も宗務院の方でも良いと思うが、皆様からその資料を集めたのですから皆様にそれをお渡しして、目に通して頂きたいと思いまして、今日御集合を願った次第でございます。
 ただ今から教学部長が読みますから、どうぞお聞き取り下さい。(大日蓮昭和五十三年八月号三三頁)

と、指導会の趣旨について述べられた。つづいて日顕上人は、日達上人の命により「創価学会よりの回答」を読み上げられ、宗内教師に説明されたのである。
 汝は、席上、細井管長は活動家僧侶に対し、学会員を折伏して末寺の檀徒とする、いわゆる「檀徒運動」を公然と支持し激励した≠ニいうが、日達上人はこの指導会では、
今後共、とにかく一応学会の人も日蓮正宗の信徒として、できるだけ私共と一緒になって広宣流布に向って進んでいく事が最も大切なことだと思います。又今迄どおり、諸君の所へ、学会のやり方が嫌でお寺についてきた檀徒は、どこまでも檀徒として大事に指導して守って貰(もら)いたいと思います。(中略)又お寺においても、学会員を無理矢理お寺の檀徒にするということはしない。これは学会との約束であります。これは守ってもらいたいのです。(同四三頁)
と御指南された。このように日達上人の御指南は、「檀徒を大事に指導せよ」「学会員を無理矢理お寺の檀徒にするな」「学会との約束を守れ」ということであり、「檀徒運動」を公然と支持し激励した≠ニいうようなものではない。このように、汝の言は、正信会の受け売りであり、まったく事実に反したものである。
 なおこの指導会の最後に日達上人は、
只今の回答では、まだ満足しない人があるだろうけれども、大体この線で了解を願いたいと思います。(中略)だいたい御了承願って、この回答を、これでよろしいことにして、こちらも雑誌に出しますから、学会でもこの通りに発表してもらいたいと思います。(同四五頁)
と仰せになっている。このようにこの回答は、日達上人の御承認と教師指導会の出席僧侶の賛同を得て、翌六月三十日付の『聖教新聞』に、「教学上の基本問題について」として掲載された。このことは、同日付の『聖教新聞』にも、
去る二十七日の第十回師範会議において、宗門から指摘のあった教学上のことについて、学会としての基本問題を審議し以下のようにまとめ、発表されました。なお、この内容については、御法主日達上人猊下のご認可を賜っております。
と記されている。汝は集会終了後、汝は直ちにこれを学会に通報した≠ニするが、当時教学部長であられた日顕上人は、教師指導会の結果をふまえ、「教学上の基本問題について」の日達上人の御承認と宗門の決定を創価学会に伝えるべきお立場にあられたのである。学会に通報した≠ネどというものではない。日顕上人が指導会の結果を学会に迅速に伝えなかったら、翌日付の聖教新聞紙上に「教学上の基本問題について」を掲載し発表することはできなかったのである。
 また汝は、これを知った細井管長は憤り、内事部において大勢の僧侶を前にして「こちらから通報するなんて、阿部はとんでもない。学会べったりでどうしようもない奴だ。向こうが聞いてくるまで、放っておけばいいんだ」(時事懇談会記録)と声を荒げた≠ニ述べる。この日達上人の御発言なるものは『時事懇談会記録』に出てくるが、汝は『時事懇談会記録』という書名を挙げて、いかにも懇談会の記録文書に日達上人のこのような御発言が記されているかのように装っている。しかし実際はこれは、該書の「解説」の中で正信会の者によって書かれた文言であり、本当に日達上人がこのような御発言をされたかというと、信憑性はまったくない。したがって、これについての汝の言も正信会の受け売りであり、事実とは言えないのである。
 
 以上述べたように、本章における汝の妄言は、不正確な正信会文書の受け売りによる欺瞞と偏見の羅列に終始したものである。「河辺メモ」は、宗内外の者による大御本尊への誹謗と、後の正信会の者による日達上人への批判を記したものであることは明白である。御法主上人の広布を目指す尊いお姿を、汝が醜悪≠ネどと罵るのは、池田大作と同様の天魔の所為であるというほかはない。
 なお、これまで述べてきたように、この「Gは話にならない」≠ニの項に出てくる日達上人のお言葉や引用される記録文書の全ては、正信会発行による『正信覚醒運動の歩み』及び『時事懇談会記録』の「解説」から抜粋し焼き直したものであり、汝の文章は僅かしかないことを指摘しておく。このことは、汝自身が誰よりもよくわかっていよう。止めを刺す≠ネどと大言壮語し、四箇月もかかったわりには、異流義同士の誼(よしみ)で正信会の本を丸写しするという、汝昭衛のお粗末で醜悪なる正体を、白日に晒≠オたのが、最後に申すべき事≠フ実態なのである。



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