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      日精上人への邪難は誤りだった
                    ―創価学会―


   日顕上人の大折伏に反論不能


 創価学会が全く反論不能となって、ひたすら沈黙を守っている。日精上人に対する疑難を性懲りもなく繰り返す創価学会が、宗門からの破折に対して、ひとことの反論もできないのだ。
 本年「破邪顕正の年」の初頭、御法主日顕上人猊下は、創価学会の日精上人に対する誹謗に大鉄槌を加えられた。創価学会にとって日精上人に対する邪難は、宗門・御法主上人に対する批判を正当化するための最重要な論拠である。曰く「日精上人は仏像を造るという誤りを犯した。御法主上人であっても重要法義を誤ることがある。日顕上人が創価学会を批判することは、これと同様の間違いである。故に創価学会が日顕上人を批判することは当然である」と。
 これが彼らの宗門批判の中心論拠となっている。日顕上人は、その日精上人疑難が矛盾に満ちた誤りであり、不知恩の所業であることを鋭く指摘せられた。年頭より、率先垂範して創価学会に対する大折伏の火ぶたを切られたのである。
 これに驚いた池田大作は、創価学会教学部長の斉藤克司に「邪問の書」を作らせた。ところが斉藤は、創価学会の日精上人疑難が誤りであったことを、この「邪問の書」で認めたのである。斉藤にも、少しは良心が残っていたようだ。しかし、彼も創価学会で生きる身のつらさ、素直に全面降伏はできないのである。
 これに対して宗門からは「邪義破折班」によって『斉藤教学部長の邪問を破す』と題する破折書が作成された。彼らの邪義を完膚無きまでに破折し尽くしたのである。それから半年がたつが、創価学会は沈黙を守ったままだ。
 要するに創価学会の教学部としては、宗門からの正々堂々たる破折書に、ひとことの反論の余地もなく、自分達が邪義を唱えていることを悄然として認める以外にないのである。


   斉藤驚愕部長の抜群の教学力!?


 ところで滑稽なのは、この斉藤教学部長という御仁、どうやら教学が苦手らしいのだ。先の「邪問の書」の中で斉藤は、・「家中抄」の日印伝には、日尊存命中に日印が造仏を主張した書状が転載され・などと言っているからである。
 つまり「日尊門流(要法寺)の日印が造仏を主張した」というのが斉藤の認識なのだ。しかし、日印が造仏をしたのではなく、日印の師匠である日尊が造仏をしたのである。それに疑問を抱いた日印が、日興上人の直弟子のなかでも長老株であった西山日代に教示を仰いだのであった。釈尊と十大弟子像を造立したのは、日印ではなく、日尊なのである。
 このように、要法寺の正確な歴史に暗く、要法寺系の僧侶が皆、一様に造仏家であるかのような誤った先入観の上から諸文献の解釈を試みるために、このような単純な間違いを犯すのである。この邪解は、斉藤が編集委員会の委員長を務めた『仏教哲学大辞典』(第三版)の、
「京都要法寺(中略)第二代日尹は釈尊十大弟子の像を造っている。また要法寺第五代日印が造仏読誦を行っている」(同書一二七九・)
の記述を踏襲したのだろう。
 もう一つ言えば、ここにも恥ずかしい限りの浅識を露呈している。この要法寺の「第二代日尹」と「要法寺第五代日印」は同一人物だからである。大笑。


   似非教学から目覚めよ!


 このように「教学部長」とは名ばかりで、要法寺や造仏についての基礎知識さえ持ち合わせていない似非学者が、さも専門家のような顔をして要法寺と造仏について論じているのだ。すべては池田大作のためである。
 大作の意に添うために日精上人を誹謗し、それを根拠に日顕上人を誹謗して、学会員を不信謗法に誘導しているのである。
 創価学会員よ。いいかげんに似非教学から目覚めなさい。


大白法652(h16.9.1)号より転載



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