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    「インチキ勤行」を破す
        支離滅裂な「祈念文」
           ― 創 価 学 会 ―


     変質する創価学会


 創価学会は明らかに変質している。客観的な視点に立てば、だれもが気づくことである。
 創価学会の勤行改変は日蓮大聖人の仏法を変質させたものであり、それは池田大作の退転と変心に起因している。しかし学会員にはそれが分からない。
 「惚れてしまえば、あばたもえくぼ」とは、恋の盲目を譬えた言葉である。強い好意や信頼を抱いてしまった相手に対しては、その欠点すら長所に見えるという、人間心理の錯覚を端的に表している。問題は、その欠点の内容と錯覚の程度である。
 創価学会員の池田大作に対する心情に問題があるのは、如上の理由からである。仏法破壊の大謗法が大善行に見えてしまうのだから困ったものだ。
 列車の窓から遠ざかる景色に、自分を乗せた列車が遠ざかっていることを忘れるのも錯覚である。異流義破折では、これまで二度にわたって、このたびの創価学会の勤行の改変について指弾してきた。勤行の改変は、創価学会がどんどん日蓮正宗の信仰から遠ざかっているという事実を知る上で、とても分かりやすい現象だからである。
 日蓮正宗は動いていない。しかし、創価学会という暴走列車に乗っている学会員は、日蓮正宗のほうが遠ざかっているように見えるのだ。
 勤行について日寛上人は、
   「開山已来化儀化法、四百余年全く蓮師の如し。故に朝暮の勤行は但両品に限るなり」(六巻抄一九三)
と仰せであるが、この時、既に勤行は五座・三座になっている。日蓮正宗ではその後も三百年間、これを変えていない。
 それを創価学会は、このたび、いとも簡単に改変したのである。いったい、どちらが変質しているか、どちらが動いているか、一目瞭然である。


       「観念文」を「祈念文」と改称


 観念文の文言は、既に平成四年に創価学会独自の謗法経本を作製した時に改変している。基本的な謗法の在り方は、この時の改変と大差ないが、今回の特色は「観念文」を「祈念文」と改称した点と、池田大作に対する報恩祈念を顕在化した点にある。つまり前回の改変では、五座に創価学会の初代・二代会長に対する報恩感謝の回向を行っていたが、今回はこれを四座に相当する箇所に繰り上げ、さらに三代会長の死身弘法に報恩感謝として、池田大作信仰に誘導しているのだ。
 まことにあつかましい男である。自分に対する報恩感謝を謳わせている。しかも、生きているのに「死身弘法」だという。全く矛盾だらけの、支離滅裂な御奇念である。だが、これは今に始まったことではなく、池田の名を冠する建物を造っては、悦に入っていたのだから、当然といえば当然である。


       観念文の大事

 しかし、観念文は重大事である。日顕上人猊下は、
「この相承ということは(中略)特に、言葉という上においては『観念文』であります。皆さんは毎日、勤行をしておられますから、もう肚に入っているはずですが、あの観念文の意味が解れば全部、同じことなのです」(大日蓮・昭和五十八年十一月号 三三・)
と仰せになっている。
 すなわち、日蓮大聖人、日興上人以来の御相承の深義が、観念文の文言のなかには含まれているのである。その難信難解な御大事を、一般僧俗の信心に対して、意業すなわち観念修行としてお許しくださったのが、御観念文なのである。私たちは、いよいよ謗法の念慮を絶して、浄心に観念しなければならない。
 しかるに、驕慢の池田大作たち創価学会の幹部は、この観念文の深さ、尊さを全く無視して、自分たちの私利私欲のために平気でインチキな「祈念文」に改変したのであり、これは、創価学会の崩壊と堕地獄を象徴するものである。

大白法661(h17.1.16)号より転載



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