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    離脱僧の悪書の邪義を破す
               ─創価学会


     離脱売僧(まいす)の打算


 離脱僧の松岡雄茂が、本宗の唯授一人血脈相承に対する邪誑の難を構え、これを小冊子にして本宗僧侶に送付してきた。この悪書における邪義は、このほど「日蓮正宗青年僧侶邪義破折班」によって完膚無きまでに粉砕されている。
 松岡は、俗名を幹夫という。ひとたびは御法主日顕上人猊下の徒弟として本宗僧侶となった者である。しかし松岡は、他の離脱僧同様に道念が極めて薄弱であった。創価学会の破門、池田大作の信徒除名を目の当たりにして、本宗の信仰の基本を見失い、池田創価学会に媚びを売って離脱してしまったのだ。要するに打算であって、文字どおり「売僧」である。
 ところが、日顕上人に付けていただいた「雄茂」という道号だけは、今もって名乗っている。日顕上人に反旗を翻したのなら、道号も返上するのが筋であろうに、松岡はそれをしない。なぜか。創価学会にとって都合がいいからである。本宗を離脱した異流義坊主の正体を隠し、さも正宗僧侶のふりをして日蓮正宗を批判すれば、創価学会員を騙しやすいからである。
 このように松岡は中途半端な元僧侶であるが、創価学会の手先だけに看過すべからざる邪義を述べている。ここでは松岡の邪義の要点を挙げて、簡略に破折しておこう。


     血脈相承は唯授一人


 まず松岡は「日蓮正宗の唯授一人血脈相承の内容は、日寛上人が『六巻抄』等の文献に理論的に開示し、それを日亨上人が公開された」との旨を述べる。
 しかし、本宗の唯授一人血脈相承について日精上人は『当家甚深之相承之事』に、
「当家甚深の相承の事。全く余仁に一言半句も申し聞かす事これ無く、ただ貫首一人の外は知る能わざるなり」(歴代法主全書 二―三一四・)
と仰せられ、日応上人は『弁惑観心抄』に、
「たとい広布の時といえども別付血脈相承なるものは他に披見せしむるものに非ず」(同書 二一二・)
と仰せである。このように、広宣流布の暁といえども、血脈相承は唯授一人であって、御法主上人以外の者には一言半句も聞かせることもなければ、見せることもないのである。松岡のウソは明白ではないか。


     血脈相承の深意は法器でなければ伝授できない


 また松岡は、現代は「万人が血脈承継の法主と同等の教義理解をなし得る時代」である、との狂論を述べる。しかし、考えてもみよ。
 世間の企業経営のノーハウひとつ取っても、器でなければ理解することはできない。まして仏法において、その深義・深意をだれでもが理解できるなどと考えることは、かの大慢婆羅門と同等の増上慢である。
 日精上人は『家中抄』に、
「甚深の血脈なり、其の器に非ざれば伝えず」(日蓮正宗聖典 六九五・)
と仰せられている。


     悩乱の邪義


 さらに松岡は「唯授一人相承がその役目を終えた」とも言う。
 そもそも唯授一人血脈相承とは、日蓮大聖人の文底下種の秘法を、末法万年の流通のために日興上人へ伝えられた、仏法の最極の秘儀である。日興上人は日目上人へ、日目上人は日道上人へと、唯授一人をもって代々相伝され、現在、第六十七世御法主日顕上人猊下が御所持あそばされるのである。
 この重大至極の仏法の骨髄である大法を、唯授一人血脈相承をもって未来際に伝えられる御法主上人の御徳は、法界に比肩する者のない、広大かつ永遠のものである。それを「役目を終えた」などと述べることは、悩乱の邪義と言うほかはない。

大白法672(h17.7.1)号より転載



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