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       大聖人がイエスを尊敬
     大作の大莫迦ぶりも極まれり
                ─創価学会─




    池田大作の大莫迦ぶり

「もしも日蓮大聖人とイエスが話し合ったならば、決して口論などにはならず、民衆に尽くす生き方に対して、尊敬の念を抱いたのではないかと拝察する」(平成十七年六月十日付 聖教新聞)
 これを見て吹き出す読者も少なくあるまい。しかも、こんなたわごとを大作が言ったと知れば、だれしも抱腹絶倒することであろう。
 ここまでくれば、もはや「さすが!」と言うほかはない。権力に媚びへつらい、謗法破折など、とうの昔に忘れ去った大作ならではと感ずるのは、けっして筆者一人ではあるまい。
 ここまで悩乱しきった大作には、いくら日蓮大聖人の下種仏法の筋道を示したとて、もはや何も理解できないであろう。かわいそうではあるが、そんな大作には、無間の苦しみを味わいながら、自ら招いた果報を思い知ってもらうほかはあるまい。


     大聖人の御精神を教えよう

 大聖人が『立正安国論』を奏呈あそばされた当時は、
「腐敗した既成仏教界に、さらに雨後のタケノコのごとく、新興宗教が勃興していた。まさしく有史以来の、邪宗邪義の乱脈の様相であった」(創価学会発行の日蓮大聖人御書十大部講義第一巻 立正安国論 一七頁・本書の著者は池田大作)
のである。そのような時代背景のなかで、
「日蓮大聖人は、これらすさみきった全宗教界を根底から破折し、世のいっさいの不幸、災害、苦悩の本因こそ、これら念仏をはじめとする邪宗教群の跋扈なりと、喝破された」(同頁)
のが、『立正安国論』を撰述された由来である。
 そもそも、「立正安国論」と大聖人御自ら命名された題号自体に、
「いっさいの邪宗教を会して、本迹相対、種脱相対しての破邪である」(同書 二四頁)
という意義が含まれている。すなわち、
「日蓮大聖人御建立の三大秘法こそ、要中の要、正中の正であり、これを明らかに見ることができず迷う者は、ことごとく邪師であり、その立てるところの教義は、いずれも邪義である」(同頁)
という正邪の峻別を明確に示され、真の国家安寧と衆生の救済は、「立正」をおいてほかにないことを示されたのである。


     謗法厳誡は大聖人の御遺誡

 今さらながら、「謗法厳誡」は、永遠に変わらぬ日蓮正宗の宗是である。なぜなら、それは大聖人の御遺誡だからである。
 『曽谷殿御返事』の、
「何に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし。うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し」(御書 一〇四〇頁)
との御金言を拝せば、わずかでも謗法があれば、成仏など思いもよらぬことが明白である。さらに『妙法比丘尼御返事』には、
「謗法と申す罪をば、我もしらず人も失とも思はず。但仏法をならへば貴しとのみ思ひて候程に、此の人も又此の人にしたがふ弟子檀那等も無間地獄に堕つる事あり」(同 一二五八頁)
とも御教示である。
 だれも進んで謗法に手を染めるはずがない。正しい教法と錯覚しつつ、邪法に心を寄せるのである。もちろん、「民衆に尽くす生き方」なる抽象論で、法の正邪が決するわけもない。
 いかに民衆に尽くそうと、間違いは間違いであり、邪法に依る限り、真の幸福を得ることはけっしてできないのである。
 この大聖人の「謗法厳誡」の御精神を蹂躙する大作が、大聖人門下を名乗ることすら、おこがましい。また、これに追従する愚かな学会員も、けっして救われることはない。彼らを正法に導くことができるのは、我らの折伏だけである。

大白法676(h17.9.1)号より転載



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