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       (ぬえ)が如き存在
      「松岡雄茂」の邪智悩乱
                ─創価学会─



     離脱僧でなく ただの「退転者」


 創価学会では、このところ、「松岡雄茂」なる者に、宗門批判文書を書かせている。
 この人物、かつては日蓮正宗僧侶であったが、平成四年に、非教師のまま宗門から出奔し、創価学会の傀儡と成り果て、宗門僧侶ではなくなった。したがって、彼の行動を「離脱」と評する必要もない。
 離脱とは、一般に、寺院等が法律に則って宗派を変えることを言うが、彼は住職ではなかった。自らの意思で、自分一人で日蓮正宗から離れたのであり、所詮は退転である。
 故に、本来は「松岡雄茂」を「離脱僧」と言う必要もない。「退転者」が至当である。


    肩書き以前に仏法を学べ!


 この松岡、近頃は「日本仏教学会会員・日本印度学仏教学会会員、学術博士」なる肩書きを付し、様々な宗門批判文書を執筆している。この肩書きを利用すれば、自らの文書の重みが、多少なりとも増すとでも思い込んでいるのだろうか。
 大聖人は『十八円満抄』に、
「智者・学匠の身と為りても地獄に堕ちて何の詮か有るべき」(御書 一五一九頁)
と御教示である。この御金言を拝すれば、いかに重々しい肩書きを付けようと、邪義は邪義に過ぎない。むしろ、大聖人は、学者気取りの愚か者が、仏法を紊乱し人々を困惑させることを見透かされて、このように御指南されたのであろう。
 松岡よ! まず正しい仏法を一から学び直すが宜しかろう。


      (ぬえ)の如き存在


 さて、この松岡、本名よりも好きなのか、「雄茂」の通称で『大白蓮華』に「『法主信仰』の打破」と題する文書を寄稿した(平成一七年九月号)。
 この邪義は、本紙にて逐次、徹底して破折してきているが、同寄稿のなかで、
「私たちは、このような『ニセ法主宗』から、法主の尊厳や権威を説かれる筋合いなど一切ない」(同誌 五七頁)
と息巻くのには笑える。
 よく考えてもみよ! そもそも「雄茂」との名は、日顕上人猊下より賜ったものではないか。その名を騙りつつ、名付け親である日顕上人を「ニセ法主」と蔑むとは…。
 これを自己矛盾と言わずして、何と言うべきであろう。
 日顕上人が「ニセ法主」と言うなら、それはそのまま「雄茂」なる人物の存在をも否定することになるではないか。
 鵺のような得体の知れない存在とは、まさに「松岡雄茂」を指す言葉である。


      邪智悩乱の極み


 また、この愚か者は、同寄稿のなかで、
「自己申告で法主の座を盗み取った日顕(上人)は、この二十六年間、何年何月何日の何時頃に相承を受けたのか、いまだに明らかにできない」(前同)
とも言い張る。
 しかし、日顕上人への御相承(内付)は昭和五十三年四月十五日のことであり、これは『富士年表』にも載っている。つまり、いつ「相承を受けたのか」は、既に明らかなのだ。
 松岡の言は、単に自らの勉強不足を吐露したに過ぎない。なんと無様なことであろう。
 そもそも、松岡は、
「大聖人根本、御本尊根本に正しき信心に励む門下は、誰でも法体を証得できる」(同誌 五二頁)
との結論を導く弁証として、都合よく独自の邪見を羅列する。
 しかし、松岡が言うとおりならば、日蓮宗も、自称正信会も、御本尊を拝すれば、すべてが正しいということになるではないか。これこそ正邪の雑乱であり、邪智悩乱の極みである。
 「学術博士」が聞いて呆れるほど、迂闊に過ぎる議論である。
 全くわけもわからぬまま、こんな鵺が如き妖怪の拙いたわごとに付き合わされる末端会員こそ、いい迷惑であろう。

大白法680(h17.11.1)号より転載



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