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      曲解と捏造による「法主信仰」の言い掛かり
                  ─創価学会─



      宗門は「法主信仰」か?


 昨年末、第六十七世日顕上人猊下は、唯授一人金口嫡々の血脈を日如上人猊下に御相承あそばされた。
 これによって、日蓮大聖人の根本の法体法義は、現在、第六十八世日如上人猊下の御所持あそばされるところとなり、我々は日如上人を、正法弘通の大導師として尊仰し奉るのである。
 この尊極なる深義に対し、創価新報では、「『法主信仰』誤った血脈観」と大見出しを付け、
「だれが法主の座を継ごうと、その教義の根幹が、“法主信仰”すなわち、法主が絶対であり、大聖人と等しい信仰の対象であるとする邪義であることに変わりはない」(平成 一八年一月一日号)
と、御法主上人への信伏随従の在り方を歪めている。
 創価学会は、この主張の基とするものとして、平成三年七月に、宗門が学会に対して教導した「能化文書」の次の箇所を挙げている。
「本宗の根本は、戒壇の大御本尊と唯授一人血脈付法の御法主上人であります(中略)なぜならば、唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にましますからであります。したがって、この根本の二つに対する信心は、絶対でなければなりません」(大日蓮 平成三年九月号八七・)
 創価学会のこの邪難は、当文書にある「血脈の当処」と「御法主上人」とを、宗門が直ちに、全く同じものと主張しているかのような邪推による言い掛かりに過ぎない。


      内証と外用の混同


 この学会の愚劣な考えは、内証と外用を、悪質な作意をもって混同させていることによる。
 「唯授一人の血脈の当処」とは、宗祖日蓮大聖人から第二祖日興上人に唯授一人の血脈をもって相伝された仏法の一切が在すところであり、それは代々の法主上人にそのまま伝えられている。この「血脈の当処」こそ、歴代法主上人が御本尊を書写される御境界であり、法主上人の御内証と拝すべきなのである。
 第六十六世日達上人は、
「大聖人様が広宣流布の時の大導師日目上人様として、第三代を継いで現われたのが猊座であります(中略)そこが大聖人様のお席である。だから大聖人様は、あの席に常に生れ替っている」(日達上人全集 二―三―三二〇・)
と、法主上人の御内証について御指南あそばされ、その一方で、
「法主が大聖人様の代わりだと、即座にこういうことを言うと、外から非難されますから、よくその点に注意していただきたい」(同 二―五―四五一・)
と、法主上人の外用についての御教示もされている。


      日顕上人も明確に否定


 さらに日顕上人も、
「本宗信徒の立場からは、歴代法主の内証を大聖人様と拝することが、信仰上、大切でありますが、そこには三宝における内証と外用等の甚深の立て分け、筋道があるのです(中略)学会が論難する『法主即大聖人』や『法主本仏』などとは、筋道も意義も異なるのであり、そのようなことは全く宗門には存在しておりません」(創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す 二四五・)
と、三宝における内証と外用の立て分けについて御指南され、学会の言い掛かりを明確に否定されている。
 これらのことからも、学会の主張は、曲解と捏造によるものであることは論を俟たない。
 日れン正宗が、言ってもいない、考えてもいないことを、あたかも″これが宗門の主張だ″と卑劣に創作し、強引に会員の脳裏にすり込む創価学会――。断じて野放しにしてはならない。
 「決起の年」と銘打たれた本年、我々は新御法主日如上人猊下の御指南に信伏随従申し上げ、決然と起ち、勇猛果敢に折伏行に邁進しようではないか!

大白法686(h18.2.1)号より転載



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