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       背き続けた五十年(前編)
      頑迷+慢心=浅井父子
             ─顕正会─

 顕正会会長の浅井昭衛は、本年一月五日付『顕正新聞』で、
 「本年八月、顕正会は発足五十周年を迎える。この五十年を振り返れば、まさに御遺命守護の御奉公を貫き通した五十年であった」(同紙)
と言っている。新年早々の浅井の発言が全くの妄言であることを、改めて教団の設立とその後を見て確認しておきたい。


       妙信講の発足

 顕正会とは、かつて「妙信講」と称していた一部の者が創設した教団である。
 そもそも妙信講とは昭和十七年、妙光寺の総代たった浅井甚兵衛(昭衛の父)が、講中の一つとして設立したものたった。
 しかし、甚兵衛・昭衛父子は独善的で身勝手な行動が多く、指導教師に背反し、戦後の混乱期に法道会(今の法道院)に所属変えした。が、ここでも問題を起こし、同三十二年には法道会も離反している。
 なぜだか判らないが、現会長の浅井は、昭和十七年を出発点とせず、この時期を教団の始めとしている。


      解散処分の発端

 翌年、妙信講は墨田区妙縁寺所属の法華講として、宗門よりなんとか再認可されたが、このような妙信講の独善的な性質は、やがて宗門より解散処分を受けることになる。その発端の一つに、正本堂の意義について宗門や創価学会と激しく対立したことが挙げられる。
 当時、池田大作は正本堂を『三大秘法抄』『一期弘法抄』に示される御遺命の事の戒壇堂であると断定した発言を行った。
 これに対し、妙信講の浅井は “御遺命の戒壇は、天皇の勅宣と御教書(政府の令書)による日本一国総意の国立戒壇でなければならない”と頑なに言い、正本堂建立をもって御遺命達成とする大作に対抗した。


      国立戒壇に固執

 この頃、創価学会の言論出版問題が起こり、これに付随して 「国立戒壇」という名称に関しても、社会的に大きな問題となりつつあった。そこで宗門は、国立戒壇という名称を使うことは布教の妨げになるとの判断から、同四十五年、今後は国立戒壇という名称は使用しないことを宗内外に公表した。
 宗門はこれを機に、妙信講に国立戒壇に固執する考え方を改めさせようとした。また、大作の正本堂をもって御遺命達成とする邪義に対しても、それを改めるべく、日達上人は同四十七年四月に正本堂の意義について「訓諭」を発表され、宗内の和合統一をはかられたのであった。
 しかし、妙信講はその日達上人の意に背き、宗門や創価学会を非難・攻撃し続け、過激な脅迫文を送りつけるに至った。そこで日達上人は、自ら妙縁寺に赴かれて慢心の浅井父子を説得され、同年十月の正本堂の落慶法要を奉修されたのであった。
 その後、この問題は一時収まりかけたが、頑迷な浅井らは執拗に国立戒壇を主張し続け、ついには文書の街頭配布やデモ行進を行うなど、事態はエスカレートしていったのである。


      宗門とは無関係!

 宗門は妙信講に、宗門の公式決定違反に対する反省を促し、弁疏の機会を与えて返答を待ったが、妙信講からは公式決定に従わない旨の返事があった。
 宗門はやむをえず、同四十九年八月十二日、妙信講を解散処分に付した。しかし、これを不服とする浅井らは、襲撃・乱闘事件を起こすなど、過激な行為に至ったため、宗門は同年十一月四日、浅井父子らを除名処分としたのである。
 その後、妙信講はカルト性を増し、同五十七年、宗門とは無関係となりながらも名称を「日蓮正宗顕正会」と改変。平成八年には宗教法人を取得し、勝手に「冨士大石寺顕正会」と名乗って完全に邪教化している。
 まさに顕正会の歩んできた道は、浅井が言う「御奉公を貫き通した五十年」どころか、宗門に背反し続けた浅井父子の瘋癲の歴史なのである。

大白法712(h19.3.1)号より転載



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