三、日寛が金口相承の三大秘法義を理論的に開示した理由≠破す

 さて、われわれが最初に理解しておきたいのは、宗門独自の三大秘法義が日寛以前の数百年間にわたって秘匿されてきた理由についてである。
 相承の際に秘匿を指示されるから、と言えばそれまでだが、文献的にまず思い当たるのは、大石寺門流において重書とされる日蓮の『三大秘法稟承事』の末文に「今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付て留め置ずんば門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し、其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間貴辺に対し書き送り候、一見の後秘して他見有る可からず口外も詮無し、法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり、秘す可し秘す可し」(全集1023)とあることである。これによれば、日蓮自身が三大秘法の法門の秘匿を望んでいたことになる。三大秘法は日蓮による新義である。また大石寺門流では、日蓮を本仏にして人本尊と仰ぎ釈尊を迹仏とみる、という独特の立場から三大秘法を論じ、しかもその法体を大石寺の戒壇本尊に帰着せしめる。日本中世や近世の仏教界にあって、大石寺門流が掲げる三大秘法は、耳慣れない言葉であるのみならず、その釈尊観や本尊論、法体論がいかにも我田引水で奇想天外な印象を人々に与えたと思われる。日寛は「取要抄私記」の中で「若し御自身に、我を以て本尊とせよと遊ばされたらば、何れの人か之を信ずべけんや。此を以て文底に秘して、文の上を遊ばされたり。されば当家の習う法門はこれなり」(文段集799)と述べているが、こうした日蓮本尊論によるかぎり、日蓮の三大秘法義は著しく仏教的新奇性を持った説なのである。それゆえ大石寺門流は、日蓮も三大秘法義を厳重に秘匿したと信じたのであろう。
 悪書では、当項で、金口相承の三大秘法義を理論的に開示した理由≠ニ題名を付し、あたかも三大秘法義が、大聖人の根本の御内証を受け継がれる金口相承の全体であるかのような戯言を吐いている。無論、三大秘法義は甚深の御法門であるが、金口相承の法門をもととして、その時と機にしたがって正しく化導の上に顕示されるのであり、金口相承が直ちに三大秘法義であると短絡するのは、素人だましの見解である。日寛上人は、当家御相伝の見地より、三大秘法義をはじめ多岐にわたる当家の甚深なる御法門を時機に応じて体系的に整束なされたのである。日寛上人がそれまで秘匿されてきた金口相承の三大秘法義を開示したかのごとき言は、葦の髄から天井を覗くような迷見である。
 これは、金口相承の三大秘法義の理論的開示≠ニいう語を多用することによって、唯授一人の金口嫡々血脈相承の御法門のすべてが、日寛上人によって理論的に開示されていると、読者に錯覚させようとする欺瞞に他ならないことを指摘しておく。
 また、三大秘法義が日寛以前の数百年間にわたって秘匿されてきた理由≠ニ勝手な論を展開しているが、それ自体が邪推である。松岡はことさらに秘匿≠フ語を多用し、日寛上人以前には、あたかも三大秘法義が唯授一人で伝承され、御歴代上人のみが知り得た法門であるかのごとき言をなすが、それは事実とは相違している。まず悪書では『三大秘法抄』末文の、
  今日蓮が時に感じ此の法門広宣流布するなり。予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付けて留め置かずんば、門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加ふべし。其の後は何と悔ゆとも叶ふまじきと存する間貴辺に対し書き遺し候。一見の後は秘して他見有るべからず、口外も詮無し。法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給ひて候は、此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給へばなり。秘すべし秘すべし。(新編一五九五頁)
の「秘すべし」の語について、日蓮自身が三大秘法の法門の秘匿を望んでいたことになる≠ネどと言っているが、既にこの解釈が誤解、または故意の謬説である。その証拠に三大秘法義は、宗祖の御書中、『三大秘法抄』に最も詳しいが、『法華取要抄』『報恩抄』等、他の御書にも述べられており、また御歴代上人の御著述に多く拝されるところである。さらにいえば、未だ信仰に縁をしていない当時の為政者に対しての国主諫暁を意味する申状にもその名目を説示されており、秘匿されるどころか、大いに顕揚遊ばされているのである。
 ことに、三大秘法義が説示された『三大秘法抄』の対告衆は、大田金吾である。もし三大秘法義が金口相承そのものであり、秘密にしなければならない深義であるとしたら、かかる重大な御法門が開陳された同抄を、在家信徒である大田金吾に与えるなどということは、唯授一人の意味の上から絶対にありえないのである。故に『三大秘法抄』に示される、「秘すべし」との文言をもって、三大秘法義が唯授一人の秘法であるかのごとき言をなすのは事実に反する明らかな大欺瞞である。
 では、三大秘法抄の「秘すべし秘すべし」と仰せられた御真意が奈辺にあるかというに、同じく三大秘法義が説示された『報恩抄』に添えて送られた『報恩抄送文』には、
  親疎と無く法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ、(中略)此の文は随分大事の大事どもをかきて候ぞ、詮なからん人々にきかせなばあしかりぬべく候。(新編一〇三七頁)
と仰せになられている。けだし、三大秘法義の内容は、本来僧俗がこぞって知るべき重要な御法門ではあるが、強盛なる信心と一定の法義理解がないと信解しがたく、一知半解の信心未熟な輩によって誤解を生じる危険性は当然予想される。故に大聖人は、むやみに披見することのなきよう慎重を期せられ、後世の為に大事に保管すべき旨を御教示されたのである。悩乱した松岡は、大聖人が「秘すべし」と仰せになられた御正意をまったく誤って解しているのである。
 ならば、日寛はなぜ秘すべき宗門独自の三大秘法義を六巻抄等で詳細に論じ、結果的に大石寺の金口相承の中心的教義を理論的に開示していったのだろうか。彼が生きた時代には、徳川幕府の宗教政策によって自由な布教が制限されたかわりに、日蓮宗各派で教学研究が盛んとなった。そうした時代背景の下で日寛も、八品派と富士派が合同で作った千葉の細草檀林に入って長年研学に励み、同檀林の化主を務めた後には大石寺の学頭に招かれ、門流独自の立場から祖書の講義を行う中で大石寺二六世の法燈を継いでいる。日寛は、日蓮宗各派の教学振興の気運の中で自らも大石寺教学の確立を目指したといえ、そこから秘伝の三大秘法義を理論的に体系化する意図も必然的に生じてきたと言えよう。
 だがそれ以外に筆者は、日寛自身の記述を通じ、彼が門流の秘伝をあえて開示せざるを得なくなった事情として、次の三点を指摘しておきたい。
 第一に、日蓮宗各派が教学論議を盛んに行う中で、大石寺の相伝教学からみれば看過できない法義の乱れが広く伝播し横行するようになった、という事情がある。日寛が六巻抄等で批判的に取り上げた日蓮宗各派の論書の著者のうち、主たる者を挙げてみると、一致派では身延派の行学院日朝や一音院日暁、六条門流の円明院日澄、不受不施派の長遠院日遵や安国院日講、また勝劣派では八品派の常住院日忠、富士門流では京都要法寺の広蔵院日辰と実蔵院日、等々である。彼らは、日蓮入滅から四百数十年の間に現れた日蓮宗各派の論客であるが、いずれも日寛が活躍した頃の日蓮仏教界において、何らかの教学上の影響力をもっていたと考えられる。日寛は、こうした諸師の論が日蓮門下に流通している状況をみて、大石寺門流の相伝教学を護るためには理論的顕揚が必要である、と感じたのであろう。それゆえ金口相承の中心的教義である三大秘法義を理論化し、対外的論議に耐えうる門流教学を構築しようとしたのである。換言すれば、近世の日蓮仏教界にみられる宗派横断的な教学書の流通が日寛に唯授一人法門の理論化を促した、ということである。
 第二に、日寛は、種脱相対判を説いた相伝書の文が他門に盗まれ引用されている、との危惧を抱いていた。このことも、日寛をして三大秘法義の理論的開示を実行せしめた一つの背景的事情と考えられよう。日寛の「三重秘伝抄」では、「種脱相対の一念三千」に関して「此即蓮祖出世の本懐、当流深秘の相伝なり焉ぞ筆頭に顕すことを得んや」と述べられた後、「然りと雖も近代他門の章記に竊かに之を引用す、故に遂に之を秘すること能はず今亦之れを引く」として、「本因妙抄」から「問て云く寿量品の文底一大事と云ふ秘法如何、答て曰く唯密の正法なり秘すべし秘すべし一代応仏の域を引へたる方は理の上の法相なれば一部共に理の一念三千、迹の上の本門寿量ぞと得意せしむる事を脱益の文の上と申すなり、文底とは久遠実成名字の妙法を余行に渡さず直達正観する事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり」との文が引用されている(要3―50)。「百六箇抄」と合わせて両巻血脈とも言われる「本因妙抄」は、日興門流の重要な相伝書であり、大石寺五世・日時の写本があるとされるほか、日尊写本によるとする要法寺の広蔵院日辰の写本、保田の妙本寺日我の写本がある。古来より興門流の秘書とされてきたが、日寛の時代には「近代他門の章記に竊かに之を引用す」という状況が生じた。五九世・堀日亨の注釈によると、この「近代他門等」とは「八品門家等」を指すとされる(同前)。日寛は、興門流の秘書たるべき「本因妙抄」の他門への流出に危機感を感じ、「遂に之を秘すること能はず」との思いから先の「本因妙抄」の文を引用しつつ、大石寺の相承法門を構成する「種脱相対の一念三千」を説明したのである。日寛による相伝書を用いた三大秘法義の理論的開示は、こうした事情からも促進されたわけである。
 悪書では日寛上人に対して、彼が門流の秘伝をあえて開示せざるを得なくなった事情≠ニして、三点の理由を挙げているが、日寛上人は御著述において門流の秘伝をあえて開示≠ネどされてはいない。日寛上人が、『六巻抄』『御書文段』等を御著述遊ばされた真実の理由は、『依義判文抄』に、
  此れは是れ偏に広宣流布の為なり(六巻抄七九頁)
と、また『観心本尊抄見聞記』に、
  予、齢既に六十に及び、此の抄を開拓するは、一には数年大衆の招請に酬い、二には師匠日永師の本願なる故、三には広宣流布の基と成るべき故なり。(研教一三四〇九頁)
と仰せの如く、令法久住・広宣流布の為であられたのであり、また当時における破邪顕正の御振る舞いとして拝すべきである。松岡の言は、一表面にのみ執われた皮相的見解であると呵しておく。
 また悪書では、近世の日蓮仏教界にみられる宗派横断的な教学書の流通が日寛に唯授一人法門の理論化を促した、ということである≠ニ述べるが、当時日蓮各派に本宗の教義を攻撃せんとする宗学者が輩出していたことは悪書の述べる如くである。ならば、考えてもみよ。日寛上人が、宗祖以来の相伝法門を他門の学者の眼前に軽々に公開されるはずがないではないか。日寛上人が『六巻抄』をはじめとする法義書を著されたのは、他門の邪義を破折し、本宗の正義を顕揚する為に他ならないことは、先に述べたとおりである。よって、松岡の挙げた理由と主張は矛盾に満ちているのである。それらの事情からも、唯授一人血脈相承の法体法門が理論化された事実などあるはずがない。
 すなわち、日寛上人の御著述は、隠顕の両義を踏まえられているのであり、松岡は奸計に頭をめぐらす前に、以下の日顕上人の御指南を虚心坦懐に拝すべきである。
  「此の血脈」の文には、初めから法門の相承として存在したものや、あるいは時代によって唯授一人の相伝のなかより、やや一般的に法門相承に展開した、相伝血脈と言うべきものがあるほかに、全く公開せられざる、人法の血脈相伝が具わり、含まれているのであります。
 創価学会は軽忽浅識の判断をもって、塔中相承の禀承、唯授一人の血脈とは文書であり、日亨上人によって『富士宗学要集』第一巻に公開されているものがすべてであるとしています。しかし、それは彼等の無知による独断であり、日亨上人も御生前中、僧侶への講義等のなかで、全く非公開の法を内容とする相伝があることを述べられておりました。(創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す一一二頁)

 要するに日寛上人は開示できる範囲は開示されたのであるが、開示の必要がない御法門、また秘事としなければならない事柄は厳然と秘されているのである。
 さて第三に、先に列挙した日蓮宗各派の学僧たちの中で、特に要法寺日辰の教学が近世初期の大石寺門流に多大な影響を与え、一時は大石寺門流の相伝教学が覆い隠される事態になった、という問題もある。背景には、一四世・日主の代に大石寺が要法寺との通用を始め、一五世・日昌から二三世・日啓まで、じつに九代にわたる大石寺法主の任を要法寺出身の僧が務めたという事情がある。この間、一七世の日精が日辰さながらの釈迦仏造立・法華経一経読誦を主張し、大石寺門流の化儀化法から大きく逸脱したことは有名であるが、二二世の日俊の代からは門流正統の本尊義の復興がはかられ、二四代の日永に至ってその効が顕れたと言われる(要8―256)。しかし日俊らが要法寺の異流義を排除したと言っても、法義の上から完全な決着をつけたわけではない。日俊は、末寺の造仏撤廃を進めたとされるが、他方で北山本門寺から自讃毀他で訴えられた際に奉行所向けに書いた証文の中では「京都要法寺造仏読誦仕り候へども大石寺より堕獄と申さず候証拠に当住まで九代の住持要法寺より罷り越し候」(要9―33)などと述べ、恐らくは当局の弾圧を回避するために、要法寺流の造仏・一経読誦を自ら進んで容認する姿勢を示している。そうしたことが、法義の上で日辰教学とけじめをつけないまま行われたのであるから、当時の大石寺門流が要法寺の弊風を一掃していたとは言い難いだろう。ただ、日寛の存命中か死後かは定かでないが、二五世の日宥が、日辰の総体・別体の本尊論について「此の義は煩はし」「辰抄の人法本尊と云ふ惣じて文底深秘の種本脱迹を弁ぜず」(「本尊抄記」、歴全3―381、382)などと批判したことはあった。だがそれとて、日辰の本尊論や修行論の全体に及ぶ本格的な批判ではなかった。かくのごとき諸事情を考慮するならば、日寛が日辰を舌鋒鋭く攻撃した底意には、要法寺教学と訣別し、大石寺教学の優位性を立証する狙いがあったとみるべきである。

春雨昏々として山院寂々たり、客有り談著述に及ぶ、客曰く永禄の初洛陽の辰造読論を述べ専ら当流を難ず爾来百有六十年なり、而る後門葉の学者四に蔓り其間一人も之に酬ひざるは何ぞや(要3―138)

 これは、日寛の「末法相応抄」の序文である。日辰の造仏・一経読誦論は一時的にせよ、大石寺の化儀化法を少なからず攪乱したのであり、日寛はそれに対する門流内からの反論が出ないことを問題視したものと考えられる。興門の日尊の流れを汲む日辰は、大石寺と同じく文底種脱の法門を立てる。とはいえ、種脱の法体は同じで衆生の機根に応じて利益の違いがある、とする種脱一体・本同益異論を説いて造仏を勧め、種脱相対判や日蓮本仏義を批判している。後に、日辰の造仏論に影響された大石寺一七世の日精は、「随宜論」に「聖人御在世に仏像を安置せざることは未だ居処定まらざる故なり」と述べるなどして、造仏こそ日蓮の本意なり、と主張し、大石寺伝統の戒壇本尊中心主義を迷乱させた。要法寺教学は、まさに大石寺教学と似て非なるものであり、それだけに日寛としては、富士門流に伝わる文底種脱の法門を、改めて大石寺の相承法門の立場から顕説する必要に迫られたのだろう。それは取りも直さず、金口相承の秘義の理論的開示とならざるを得ない道のりであった。以上、日寛が金口相承の三大秘法義を理論的に開示した理由として、日蓮門下全般の教学興隆、興門流の秘書の対外流出、当時の大石寺門流に残る要法寺教学の痕跡、という三点を指摘した次第である。
 悪書では、要法寺日辰の教学が近世初期の大石寺門流に多大な影響を与え、一時は大石寺門流の相伝教学が覆い隠される事態になった、という問題もある≠ニいい、その一つの根拠として『末法相応抄』の序文を挙げ、日辰の造仏・一経読誦論は一時的にせよ、大石寺の化儀化法を少なからず攪乱したのであり、日寛はそれに対する門流内からの反論が出ないことを問題視したものと考えられる≠ネどと言う。そして、これを日寛が金口相承の三大秘法義を理論的に開示した理由≠フ一つとして結論づけている。松岡は、よくよく大石寺の教学が覆い隠され逸脱≠オたことがあったと言いたいようであるが、その理由が全て切り文による恣意的解釈であるから、その醜い願望は全くの空振りに終わっている。
 まず、『末法相応抄』の当該箇所には続いて、
  予謂えらく、当家の書生、彼の難を見ること闇中の礫の一も中ることを得ざるが如く、吾に於て害無きが故に酬いざるか。客の曰く、設い中らずと雖も亦遠からず、恐らくは後生の中に惑いを生ずる者の無きに非ざらんことを。那んぞ之れを詳らかにして幼稚の資けと為さざるや。二三子も亦辞を同じうす。予、左右を顧みて欣々然たり。聿に所立の意を示して、以て一両の難を遮す。余は風を望む、所以に略するのみ。(六巻抄一一七頁)
とある。日寛上人御存命当時は日辰の時代より百六十年余りも経過しており、日寛上人の時代に至るまで日辰の邪義によって大石寺の僧俗が惑わされた事実などなく、黙殺されていたことが明白である。しかし、後世の末弟において、日辰の邪義に惑わされる者がなきにしもあらずとの懸念から、熟慮の末、当抄を執筆されたとの経緯が拝せられるのである。日寛上人がはっきりと「吾に於て害無き」と仰せのように、日辰の邪義によって大石寺門流に多大な影響を与え、一時は大石寺門流の相伝教学が覆い隠される事態になった≠ネどの事実はなかったのである。松岡の所論は要法寺との通用の実態や、当時の実情を無視した、こじつけの愚論である。日寛上人の日辰に対する破折は、松岡が言うような理由ではなく、富士門流の異端者・広蔵院日辰を代表として、挙一例諸の鉄槌を下されたものである。
 また悪書では、一連の創価学会による宗門への悪口雑言の例に漏れることなく、第十七世日精上人に対し、一七世の日精が日辰さながらの釈迦仏造立・法華経一経読誦を主張し、大石寺門流の化儀化法から大きく逸脱したことは有名である≠ネどと言い、また後の註においても、現宗門は、日精が「日蓮聖人年譜」の中で日辰の本尊論を破折した、との立場をとるが、これはかなり強引な史料の誤読である%凾ニ言っている。松岡は今回この「悪書」を執筆するにあたり、創価学会の教学部長、斉藤克司に相談、または許可を得て書いているのであろうか。斉藤克司の日精上人に対する邪難については、我ら邪義破折班が昨年、一文を草して完膚無きまでに破折したため、斉藤克司は未だ何の返答もできず、だんまりを決め込んでいる。その斉藤克司が御法主上人に対し送りつけた駄文では、これまでの創価学会の主張、すなわち日精上人には御登座後も要法寺の広蔵日辰流の造読思想があったとしていたものを、
  確かに日精は、この書(日精上人著『日蓮聖人年譜』)では一応、「或ル抄」(要法寺日辰の邪抄)の立義の誤まりを指摘しており、要法寺流の邪義にべったりというわけではない。(創価学会教学部長 斉藤克司の邪問を破す一一五頁)
と述べて、従来の見解を見事に訂正している。要法寺流の邪義にべったりというわけではない≠ニは、日精上人が要法寺流の立義、つまり造仏読誦の誤りを指摘されているから要法寺流ではない、ということであり、それはとりもなおさず、斉藤克司が「創価学会教学部長」の肩書きをひっさげて書いた文書で、「日精上人が造読家ではない」ということをはっきりと認めたことなのである。よって日精上人が日辰を破折しておられる以上、日精上人が日辰の造仏論に影響された≠ネどということも事実無根の誣言なのである。
 松岡の言い分は、斉藤克司の主張と相反するものであり、斉藤克司に対してかなり強引な史料の誤読≠ニ詈っていることに他ならない。まずその指摘を斉藤克司にするがよかろう。それとも我々邪義破折班に対して、未だ何の回答もできず、あまりにも不甲斐ない大失態を犯した斉藤克司に成り代わって、創価学会教学部長の椅子でも狙っているのか。
 いずれにせよ、松岡らの立論は宗祖大聖人以来の唯授一人血脈相承の尊厳を貶めんとの悪意のもとに作られた戯論に過ぎず、その目的を果たすためには、組織的に一貫した主張など必要ないのであろう。それらの邪論はまさに「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」との感覚によって繰り出される、まったく信用するに値しないものである。
 松岡も斉藤克司も、血脈相承を罵詈雑言するとの立場が一致しているのみで、肝心の認識・主張が一貫していない現況が露呈しているのだ。松岡には『創価学会教学部長 斉藤克司の邪問を破す』を熟読せよと申し渡しておく。
 また悪書では、「随宜論」に「聖人御在世に仏像を安置せざることは未だ居処定まらざる故なり」と述べるなどして、造仏こそ日蓮の本意なり、と主張し、大石寺伝統の戒壇本尊中心主義を迷乱させた≠ニの疑難を呈し、日精上人が造仏こそ日蓮の本意なり≠ニ主張したかのごとき論述をしているが、『随宜論』は門徒の真俗の疑難から敬台院の信仰継続の意志を守るために、日精上人が敢えて一旦の方便として造像擁護の旨を書き記されたものであり、本意ではないのである。また日精上人が率先して仏像を造立されたなどという事実はまったくなく、実際には、御登座以来、末寺や信徒に対して漫荼羅御本尊のみを授与されているのである。さらに日精上人が造仏を批判された御指南までもが、金沢信徒、福原式治によって伝えられているのである。
 このように、日精上人は、御生涯を通じて大聖人を御本仏と仰ぎ、大漫荼羅御本尊を本宗信仰の根幹とされていたことは、総本山御影堂、六壺、常在寺、細草檀林などの板御本尊を造立され、さらに多くの御信徒に漫荼羅御本尊を書写し、授与遊ばされていることからも明らかである。大石寺伝統の戒壇本尊中心主義を迷乱させた≠ネどとは完全な事実誤認の誑言である。
 松岡らの日精上人に対する誹謗の繰り返しの底意は、大聖人以来、連綿と伝承される本宗深秘の血脈相承への嫉妬と、下種三宝の尊厳の失墜を狙うところにある。しかしその思惑とは裏腹に、逆にそれらが機縁となって、日精上人の御化導の偉大さが内外に知れ渡るところとなっているのが現実である。
 したがって悪書が、日蓮宗各派の学僧たちの中で、特に要法寺日辰の教学が近世初期の大石寺門流に多大な影響を与え、一時は大石寺門流の相伝教学が覆い隠される事態になった、という問題もある。背景には、一四世・日主の代に大石寺が要法寺との通用を始め、一五世・日昌から二三世・日啓まで、じつに九代にわたる大石寺法主の任を要法寺出身の僧が務めたという事情がある≠ネどと、要法寺との通用によって唯授一人血脈相承に影響が生じたかのように悪意に満ちた妄言を述べることは、この九代の御法主上人をまとめて誹謗する慢極まりない大謗法である。
 要法寺との通用に関しては、日精上人の御事蹟に不明な点が多かったため、誤解が生ずるなど、その認識が曖昧であった。しかし、日顕上人の、
  日精上人がはっきりと造像家の日辰を、しかも本尊等の教義の解釈としての内容を破折しておられる以上、もう少し日精上人のことは、改めて考えなければならない意味があるのです。(創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す六四頁)
との御指南のように、日精上人の正義が証明された今、日精上人の御事をはじめ要法寺からの御法主上人に対する全体的な認識を、本宗本来の血脈相伝に対する信条に基づいて改めなければならないのである。松岡らの唯授一人血脈相承に対する不信には、その要因として、要法寺との通用に関する暗昧な認識と日精上人を造読家と見る固執が大きく横たわっている。その不信の暗雲を除去しなければ、妙解の慧日が顕れることはないと知れ。
 つまり総本山第十四世日主上人の代に要法寺との通用が始まり、第十五世日昌上人・日就上人・日精上人乃至第二十三世日啓上人に至る九代の要法寺御出身の方々が御法主上人となられたが、これら御先師は全て大聖人日興上人以来の金口嫡々の相承をお受けになられたのである。したがって、まず最初の第十五世日昌上人に絶対の信を立てることが肝要である。ここにおいて、もし不信を挿めば、そこに九代の御法主上人に対する様々な謬解が生じるからである。
 すなわち『家中抄』に、
  日主に随つて直授相承を受く(聖典七五二頁)
と、記されているように、日主上人は日昌上人に対し、唯授一人血脈相承を直授遊ばされているのである。また日昌上人は多くの大漫荼羅御本尊を御書写遊ばされている。さらに同抄には、
  晩年当山に於いて玄義文心解・集解等を講ず、講ずる所の書には皆章抄を記す、所謂集解要文十二巻・文心解抄上下二冊・玄義之私纔かに一巻未だ部帙を成ぜず、一生病苦を知らず、若し檀那に病者多ければ即ち頭病疾む、或いは死去有れば三日以前に之れを覚知す、良に末世の竜象と謂つべき者か。元和八壬戌卯月七日午刻正念にして没したまう、行年六十一歳なり、臨終三日以前より幡蓋虚空を覆い紫雲天に満つ、奇瑞一に非ず、皆万人の見る所聞く所の故に之れを記せず云云。(聖典七五二頁)
と、学徳兼備であられたことも明記されている。日昌上人は、有智高徳の法器であられたが故に、第十四世日主上人から絶大な信頼を受けて本宗の血脈相承を受けられたのである。以来、日就上人・日精上人乃至第二十三世日啓上人に至る要法寺御出身の御歴代上人によって、日蓮大聖人の御法魂たる本門戒壇の大御本尊と血脈法水が伝持されてきたのである。どなたも有智高徳であられたことは疑う余地がない。
 松岡は邪智をめぐらし研究者ぶって無責任な愚論を展開し、御歴代の御法主上人を非難攻撃しているが、その一方で、自説の論証のためには唯授一人血脈相承の御法主上人の御指南を悪用するという厚顔無恥の矛盾を犯している。日蓮正宗とその法灯をけなしながら、今も尚日寛上人の御本尊を勝手に偽造して拝み、日蓮正宗の教義を自らの教義として恥じない松岡ら創価学会の所業は、実に法盗人集団というべきであり、三宝破壊の許し難い大謗法であると断じておく。



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