五、現代における三大秘法義の理論的公開≠破す

 今までの考察を通じ、唯授一人の金口相承が大石寺門流独自の三大秘法義を伝えるものとされてきたこと、この三大秘法義が二六世・日寛の手によって文底の事の一念三千論・三大秘法の法体論・日蓮本仏論・人法体一の本尊論として理論的に開示されたこと、さらには日寛の教学展開に前後して二四世・日永や二五世・日宥が〈日蓮=本尊〉や人法体一論を唱道するという動きがあったこと、などを確認できたように思われる。大石寺教学の復興運動が漸く実を結び始めた日永以降の時期に、金口相承の三大秘法義の理論的開示に必要な思想環境が整えられていき、最終的には日寛がその作業を完遂したと言えるであろう。
 思うに、この見解は何ら新説ではなく、現代の大石寺宗門で暗黙の了解事項となっていることを明確化したものにすぎない。一例を挙げてみると、昭和五〇(一九七五)年に日蓮正宗宗務院の教学部から発刊された「日寛上人全(ママ)伝」の中に「吾等は日寛上人によって日蓮日興の金口血脈の大法が、偉大なる教学体系として打ち立てられ、後世に遺したまわったことを、深く奉謝申しあげねばならないのである」との一文がみられる。ここには、日寛が「日蓮日興の金口血脈の大法」を「教学体系」として理論化した、との認識が示されている。日寛の教学的功績が金口相承の教義の理論的開示にあることは、現代の視点から大石寺教学史を概観するならば、誰でも容易に察知できよう。
 ただ、ここで注意したいのは、日寛の時代には金口相承の三大秘法義の開示が完全になされたとは言い難い面もあった、ということである。それは、外的条件としての文献の開示性が十分でなかったという問題である。日寛は六巻抄や御書文段等において、富士門流に伝わる様々な相伝書を頻繁に引用しつつ門流独自の三大秘法義を論証していった。「百六箇抄」「本因妙抄」の両巻血脈をはじめ、日興の「上行所伝三大秘法口決」、三位日順の「本因妙口決」等々の相伝書なくしては、日寛の精微な主張も有力な文献的根拠を欠く我説となりかねない。しかるにこうした相伝書の全容は、日寛の時代には一部の学僧のみが知るところであった。つまり、およそ当時の大石寺門流の僧俗には、日寛の三大秘法論を文献的に検証することなど不可能だったのである。
 加えて日寛は、当時、法主以外に見ることができなかった唯授一人相承の文献まで六巻抄に引用している。この唯授一人相承の文献とは、本尊相承書をいう。すなわち「取要抄文段」に「本尊七箇の口伝、三重口決、筆法の大事等、唯授一人の相承なり。何ぞこれを顕にせんや」(文段集599)と、また日寛の講義を三〇世・日忠が筆録した「観心本尊抄聞記」に「本尊七箇、又本尊筆法等は一向に言わざる也。貫主一人の沙汰也」(研教12589)と示唆された本尊相承書である。「本尊七箇の口伝」「筆法の大事」「本尊筆法」は、いずれも五九世の堀日亨編「富士宗学要集」第一巻に編入された「御本尊七箇相承」の内容を指していると考えられる。また「三重口決」とは、前後の脈絡から言って、同じく要集の第一巻に収められた「本尊三度相伝」のことであろう。日寛は、今日でいう「御本尊七箇相承」や「本尊三度相伝」を唯授一人相承の重要な極秘文献とみなし、その開示を認めなかったのである。ところが他方で、六巻抄を読むと、日寛が「御本尊七箇相承」の文を度々引用しながら、種脱相対の一念三千や人法体一の本尊という最も深遠な法門を根拠づけていることに気づかされる。しかも、その際には必ず書名を隠し、「御相伝に云く」「当家深秘の御相伝に云く」などと記している。これでは「御本尊七箇相承」を披見しえた法主以外、当時の誰人も日寛の六巻抄を文献面から客観的に検証できなかっただろう。
 さらに日寛以降の大石寺門流に関しては、六巻抄が長らく貫主直伝の秘書とされてきた、という問題もある。四八世・日量の日寛伝によると、日寛自身、六巻抄の再治をすべて終え、学頭の日詳(後の二八世)にそれを授与する際には「尤も秘蔵すべし」と指示したという(要5355、356)。日寛が三大秘法義の理論的開示を余すことなく集大成したのが六巻抄であるから、その内容が特に他門の目に触れぬよう、厳重に秘匿されるべきは当然である。しかし門流の僧俗が容易にそれを披見できなかったとすれば、日寛により金口相承の三大秘法義が理論的に開示されたと言っても、極めて限定的な話となってしまう。
 前項までに松岡は、日寛上人によって金口相承の三大秘法義の理論的開示≠ェなされたと主張したが、そもそも三大秘法義は甚深の御法門ではあるが、唯授一人金口嫡々の血脈相承そのものではないことは既に論じた。そしてこの項では、まず大石寺教学の復興運動が漸く実を結び始めた日永以降の時期に、金口相承の三大秘法義の理論的開示に必要な思想環境が整えられていき、最終的には日寛がその作業を完遂したと言えるであろう。思うに、この見解は何ら新説ではなく、現代の大石寺宗門で暗黙の了解事項となっていることを明確化したものにすぎない≠ニ述べた後、その証拠として『日寛上人伝』の文を挙げている。しかし『日寛上人伝』に、「日寛上人によって日蓮日興の金口血脈の大法が、偉大なる教学体系として打ち立てられ、後世に遺したまわった」とある文は、松岡の論と似ているようではあっても、その意味はまったく違うのである。「日蓮日興の金口血脈の大法」とは、当然法体相承と法門相承の両義を包括するものであり、さらにその法門相承には、唯授一人金口嫡々の血脈相承と、日寛上人が教学体系として打ち立てられ僧俗一同に示された総じての法門相承とが含まれるのである。すなわち日寛上人は、大聖人以来相伝される大法の中で、法門総付の相承として立て分けられた上から三大秘法義を『六巻抄』等に著され、教学体系として打ち立てられたのである。
 ゆえに、御歴代上人に法水写瓶せられる御内証の法体相承は無論のこと、法門相承においても、唯授一人金口嫡々の法体法門の御相承が開示されることは、けっしてないのである。
 また次に悪書では、日寛の時代には金口相承の三大秘法義の開示が完全になされたとは言い難い面もあった、ということである。それは、外的条件としての文献の開示性が十分でなかった≠ニ主張する。しかし、何度も述べたように、「金口相承の開示」と「三大秘法義の開示」を同一視するのは誤りである。日應上人が『弁惑観心抄』に、
  仮令広布の時といへども別付血脈相承なるものは他に披見せしむるものに非ず(二一二頁)
と仰せられるように、「別付血脈」は他に披見、すなわち開示するものではない。しかるに、それを金口相承の三大秘法義の開示≠ネどと表現し、根本の法体たる金口嫡々の別付血脈相承が、法義説明書としての三大秘法義と同一であるとして開示されたかの如く述べることは、途方もない偏見であるとともに、悪質極まる欺瞞である。
 さらに、悪書では『百六箇抄』『本因妙抄』『上行所伝三大秘法口決』『本因妙口決』『御本尊七箇之相承』『本尊三度相伝』等の名を挙げて、こうした相伝書の全容は、日寛の時代には一部の学僧のみが知るところであった。つまり、およそ当時の大石寺門流の僧俗には、日寛の三大秘法論を文献的に検証することなど不可能だったのである。加えて日寛は、当時、法主以外に見ることができなかった唯授一人相承の文献まで六巻抄に引用している御本尊七箇相承」を披見しえた法主以外、当時の誰人も日寛の六巻抄を文献面から客観的に検証できなかった%凾ニ述べている。この言は、これらの種々の相伝書には、「唯授一人血脈相承」の内容の全てが説き顕されていると、読者に錯覚させようとする悪論である。
 ここに「相伝書」として挙げられた諸書は、いずれも古来、日興上人の門流に伝えられたものではあるが、大石寺のみに伝えられているものではない。
 まず『百六箇抄』『本因妙抄』は、大聖人より日興上人に相伝された重要書であるが、ただちに唯授一人血脈相承の相伝書ではない。それは、『家中抄』に、
  正和元年十月十三日に両巻の血脈抄を以つて日尊に相伝し給う、此の書の相承に判摂名字の相承、形名種脱の相承あり、日目・日代・日順・日尊の外漫りには相伝し給わざる秘法なり。(聖典六三五頁)
と、日目上人の他に日代・日順・日尊の各師に両巻抄を示されたことが記され、さらに日應上人が『弁惑観心抄』に、
  之を以て案ずるに此の血脈抄は唯授一人に非ずして二人三人四人迄も相伝し玉ふ処の相承なれば一目以て惣付属なること明白なり。(二一八頁)
本因血脈両抄は興師を対告衆として御弟子檀那一同に示されたるの御書なり(二一二頁)
と示されるように、これらは総じて僧俗一同に開示された法門の相伝書なのである。
 また日亨上人が『百六箇抄』の講義において、
  御相承の中には両巻抄はない(大村寿道師の聞書)
  富士の相承は必ずしも両巻抄に依るのではない(同)
と、『百六箇抄』と『本因妙抄』が「血脈相承」に含まれてはいないことを述べられていることからも明らかである。このように、『百六箇抄』や『本因妙抄』等は、日蓮大聖人の文底下種仏法における御法門の相伝書ではあるが、唯授一人金口嫡々の血脈相承書ではないのである。
 さらに『上行所伝三大秘法口決』には要法寺日辰・嘉伝日悦等の写本、『御本尊七箇之相承』には保田日山・嘉伝日悦の写本、『本尊三度相伝』には水口日源の写本が存在する。このように大石寺の御法主上人による写本以外のものがあるということは、これらの書が重要書ではあっても、唯授一人金口嫡々の血脈相承書とは言えないことを明らかに示すものである。
 また松岡は、三位日順の「本因妙口決」等々の相伝書≠ネどと述べて、『本因妙口決』を相伝書の中に入れている。しかし三位日順師は、学匠ではあったが血脈相承を受けられた方ではない。また『本因妙口決』も、『富士宗学要集』では第一巻の相伝・信条部ではなく、第二巻の宗義部に収録されているように、そもそも相伝書ではない。
 であるから、松岡がどれほど文献的に検証≠オたなどと述べても、このように、これらの唯授一人金口の血脈相承書ではなく、すでに公開された相伝書を用いたのでは、金口相承の三大秘法義の理論的開示≠ネどという迷論の根拠とはなり得ないことを告げておく。
 また悪書では、「御本尊七箇相承」を披見しえた法主以外、当時の誰人も日寛の六巻抄を文献面から客観的に検証できなかっただろう。さらに日寛以降の大石寺門流に関しては、六巻抄が長らく貫主直伝の秘書とされてきた、という問題もある≠ネどと述べる。しかし、当時も今も『六巻抄』を拝する上では、文献面から客観的に検証≠ナきなければ『六巻抄』を領解することができない、などということはけっしてない。『六巻抄』は信心をもって拝すれば、日蓮正宗の僧俗であれば誰にも、その内容を領解することができるのである。また、六巻抄が長らく貫主直伝の秘書とされてきた≠ネどという見解は、まったく実状にそぐわないものである。それは、当時の門下が『六巻抄』を拝し研鑽することは、当時の状況において可能であったからである。松岡よ、「見てきたようなデタラメ」を言ってはいけない。我見の忖度を止めるべきである。
 これにつき日亨上人は、
  兎に角学頭時代に六巻抄の講録も成り其都度門下には或は内見を許されたものもあらう。(富要三二頁)
と考察されている。また雪山文庫には、享和三年(一八〇三)純澄日定師の『末法相応抄』の転写本が存する(富要三一頁)。享和三年といえば、日寛上人が享保十年(一七二五)に『六巻抄』を再治せられてから七十八年後のことで、総本山四十三世日相上人の代である。このことは、すでに当時の門下が『六巻抄』を披見し、研鑽していたことを物語っている。
 日寛上人は、御遷化の前年の享保十年(一七二五)に『六巻抄』を再治され、
  此の書六巻の師子王あるときは国中の諸宗諸門の狐兎一党して当山に襲来すといへども敢て驚怖するに足らず尤モ秘蔵すべし尤モ秘蔵すべし(富要五三五五頁)
と仰せになって、時の学頭日詳上人に授与された。その意味では『六巻抄』は、別しては、血脈付法の御法主上人に伝えられた重要な法門書である。しかし総じては、『六巻抄』は門弟には披見を許されていたことは明らかである。このことは日寛上人御自ら、
  此の抄の中に多くの大事を示す、此れは是れ偏に令法久住の為なり。(六巻抄三頁)
  後世の弟子に贈る。此れは是れ偏に広宣流布の為なり(同七九頁)
と仰せられるとおり、『六巻抄』は令法久住・広宣流布のための法義書であり、ただ徒に秘蔵するのが日寛上人の御真意なのではない。要するに、血脈付法の御法主上人の御指南に随い奉り、『六巻抄』の深意を正しく拝し、研鑽に努め、折伏に活用していくことが肝要なのである。
 結局のところ、日寛が成し遂げた、金口相承の三大秘法義の理論的開示も、六巻抄や同抄に引用された相伝書の数々が公開されるまでは完結しないと言える。そこに今度は、近代における堀日亨の史料公開が大きな意味を持つゆえんが出てくるのである。
 近代に入ると、明治四二(一九〇九)年に発刊された身延の祖山学院編「本尊論資料」の中に「御本尊七箇相承」が収録され、初めて出版公開された。続いて、堀慈琳(後の日亨)の協力を得て大正一四(一九二五)年に出版された「日蓮宗宗学全書」第二巻に「百六箇抄」「本因妙抄」が収録され、これまた初公開された。そして昭和期、堀日亨は自ら、大石寺門流の立場に配慮した相伝書の出版公開を手がけていく。昭和一一(一九三六)年一二月、日亨編「富士宗学要集 相伝信条部」が謄写印刷で発刊され、「御本尊七箇相承」「百六箇抄」「本因妙抄」等の富士門流の主要な相伝書がことごとく編録され、出版公開された。
 また六巻抄に関しては、後世に書写が重ねられ次第に流伝していくとともに、明治三七(一九〇四)年に五六世・日応が註解した「三重秘伝抄」が東京の法道会から出版された。そうした状況を踏まえ、堀は大正一一(一九二二)年に出版された「日蓮正宗綱要」の中で「此(六巻抄のこと=筆者注)と本尊抄文段とは特に門外不出貫主直伝の秘書であったが、後世には何日となしに写伝して次第に公開せらるるに至ったのは、善か悪か全く時の流れであらう」と述べている。そしてついに、堀の後援の下で大正一四(一九二五)年に刊行された「日蓮宗宗学全書」第四巻に六巻抄が収録され、全面的な出版公開の日を迎えたのである。この後、六巻抄は、昭和一三(一九三八)年に堀日亨自らが編纂した「富士宗学要集 宗義部之三」の中にも収められている。
 同様に、日寛の御書文段も近代以降、徐々に公開の方向へと向かっていった。日亨の証言によると、明治三〇年代まで、日寛筆の諸々の御書文段の正本はないものと思われていた。だが彼は独自に調査を行い、大石寺宝蔵の棚の上でそれらを発見したという。この発見により、写本ではなく日寛直筆の御書文段の内容が初めて明らかになり、大正期から昭和にかけて、「門外不出貫主直伝」の「観心本尊抄文段」の全文と、日寛の主要な御書文段を堀が撮要したものとが、「日蓮宗宗学全書」第四巻や「富士宗学要集 疏釈部二」に収められ、一般に公開されたのである。
 時代性や堀日亨の尽力により、富士門流の秘伝書が次々と活字化され、日寛の六巻抄及び御書文段等も出版公開されたことは、まさしく金口相承の三大秘法義の理論的開示に必要な外的条件が整ったことを意味していよう。とはいえ、日亨が戦前に発刊したガリ版の「富士宗学要集」は部数も限られ、ごく一部の僧俗が購入しただけで、広く世間に知れ渡るには程遠い状況であった。しかも当時の門下僧俗の中で、宗学要集を座右に置いて日寛教学を論ずる者など、極めて特殊な存在だったと言ってよい。「富士宗学要集」が名実ともに広く世間に流通し、富士の相伝書や日寛教学が一般大衆レベルにまで浸透するのは、何と言っても戦後、創価学会の出版活動や教学運動が本格化してからである。
 日亨は戦後、創価学会の戸田城聖・第二代会長の後援を得て「富士宗学要集」の改訂増補に取り組み、昭和三二(一九五七)年の逝去までに八巻分を刊行、残りの二巻は日亨の一周忌を期して翌年に発刊された。また日亨は創価学会版の「日蓮大聖人御書全集」の編纂にも携わり、その中に「百六箇抄」「本因妙抄」「御義口伝」「産湯相承事」などの富士門流の相伝書を加えて発刊した。こうした結果、日寛の六巻抄や御書文段、門流秘伝の相伝書等は、初めて一般の在家信徒の目にも触れるようになった。ただし、日寛の御書文段に関しては戦後の「富士宗学要集」でも本尊抄文段を除いてその撮要が収録されるにとどまっていたが、昭和五五(一九八〇)年発刊の創価学会教学部編「日寛上人文段集」が種々の御書文段の全文を平易な書き下しで公開し、以後は一般会員の教学研鑽に資するものとなっている。
 戸田会長は、戦後の学会再建の当初から教学振興に力を注ぎ、「一般講義」「一級講義」等の御書講義や教学試験を定期的に開催することで、会員幹部に徹底して日寛教学を研鑽させていった。とりわけ戦後間もない頃から、後に六五世の法主となる堀米日淳が学会本部に毎月のように出向き、昭和三一(一九五六)年一一月に終了するまで十年もの長きにわたって学会幹部への御書講義を続けた、という事実は注目に値する。宗門の碩学で六巻抄に造詣が深かった日淳の講義を通じて、大石寺の金口相承の根幹的内容である三大秘法義は創価学会員の間に深く浸透していったに違いない。そのようにして、かつては大石寺の法主や一部の法門家だけが会得していた相伝教学の真髄が、幾百万もの在家の学会員によって日常的に学ばれるようになったのである。今日では、創価学会の布教活動の世界的拡大や情報技術の格段の発達にともない、日寛の六巻抄や日亨編「富士宗学要集」は世界各地で研鑽され、講述され、論議されるまでになっている。
 以上を要するに、時代性を反映した堀日亨の古文書校合・出版事業、戸田会長や堀米日淳が行った学会の会員幹部への教学的薫陶、そして創価学会の世界宗教化などにより、江戸時代の日寛が達成した金口相承の三大秘法義の理論的開示は民衆レベルにまで浸透し、それを根拠づける重要な相伝書の数々も広く公開される時代を迎えたのである。われわれは、現代こそ真に三大秘法義が理論的に開示された時代である、と言うべきであろう。
 ここで悪書は、『六巻抄』『御本尊七箇之相承』『百六箇抄』『本因妙抄』『御義口伝』『産湯相承事』『御書文段』等の出版の過程について述べているが、明治以降、これらの書も活字となって出版されていったのである。このことは、松岡自らが日亨上人の『日蓮正宗綱要』を引くように、「時の流れ」であるといえる。しかし、これら相伝書の出版は、日亨上人をはじめとする御歴代上人の御尽力によって行われたものであり、またその内容においては、唯授一人金口嫡々血脈相承の秘書が公開されたのではなく、すでに日興上人以来、門下の法義研鑽のために公開されていた文献としての相伝書が、印刷出版されたに過ぎないのである。
 また悪書はここで、『六巻抄』と『観心本尊抄文段』は「門外不出貫主直伝の秘書」であったという『日蓮正宗綱要』の文を引いている。しかし「門外不出貫主直伝」ということは、『六巻抄』『観心本尊抄文段』が、日寛上人によって大衆に御講義された内容のものであることが明らかである以上、別しては御法主上人に伝えられ、また総じては当家の門弟に対して開示された重要書、という意味なのである。
 また悪書では、この「時の流れ」について時代性や堀日亨の尽力により、富士門流の秘伝書が次々と活字化され、日寛の六巻抄及び御書文段等も出版公開されたことは、まさしく金口相承の三大秘法義の理論的開示に必要な外的条件が整ったことを意味していよう≠ニ述べる。ここでも松岡は、懲りずに金口相承の三大秘法義の理論的開示に必要な外的条件が整った≠ネどとの言を弄している。日寛上人の『六巻抄』『御書文段』等によって、三大秘法についての深義が明されたといっても、その三大秘法義が、さらにその根本の金口嫡々血脈相承の秘伝法門ではないことは既に何度も述べた。それまで活字化されていなかった書が出版されたからといって、金口嫡々の血脈相承が理論的開示≠ウれたなどの妄見は、素人の浅識以外のものではない。
 次に悪書では、「富士宗学要集」が名実ともに広く世間に流通し、富士の相伝書や日寛教学が一般大衆レベルにまで浸透するのは、何と言っても戦後、創価学会の出版活動や教学運動が本格化してからである日寛の六巻抄や御書文段、門流秘伝の相伝書等は、初めて一般の在家信徒の目にも触れるようになった創価学会教学部編「日寛上人文段集」が種々の御書文段の全文を平易な書き下しで公開し、以後は一般会員の教学研鑽に資するものとなっている%凾ニ述べている。この『富士宗学要集』『御書全集』『日寛上人文段集』等の刊行は、当時においては意義のあることであった。これらの書が刊行されたことは、日蓮正宗信徒の教学研鑽にも大きく寄与したことであろう。創価学会の草創期であった戸田会長の時代は、たしかに御書や『六巻抄』等の研鑽が熱心にされていた。また戸田会長による御書講義も活発に行われていた。しかし、戸田会長の御書の理解は、けっして独りでなしえたのではない。
 牧口常三郎氏と戸田城聖氏は、昭和三年に日蓮正宗に入信したが、昭和六年に中野教会(現・昭倫寺)が日淳上人によって設立されてから、中野教会の御講等に参詣して日淳上人の指導を受け、昭和十一年からは本行坊における日亨上人による富士宗学要集講習会に参加し、御教示を仰いでいた。
 大聖人は『一代聖教大意』に、
  此の経は相伝に有らざれば知り難し。(新編九二頁)
と仰せになり、また日興上人は『日興遺誡置文』に、
  御抄を心肝に染め極理を師伝して(新編一八八四頁)
と示されているが、創価教育学会の草創期にあっては、牧口・戸田両氏は、日蓮正宗古来の血脈に対する師弟相対の筋目にのっとり、日亨上人や日淳上人から、本宗信仰の肝要を教わっていたのである。
 しかし、ここで大切なことは、それを勝手に解釈して、松岡ら離脱僧や創価学会が金口相承の三大秘法義の理論的開示≠ネどの新義を主張することは絶対に許されない、ということである。唯授一人の血脈を離れた新義は、己義・邪義となるからである。その時代に応じた衆生への御化導は、代々の御法主上人に伝えられる唯授一人金口嫡々血脈相承を基とする御指南によってなされるのである。
 なお悪書では、とりわけ戦後間もない頃から、後に六五世の法主となる堀米日淳が学会本部に毎月のように出向き、昭和三一(一九五六)年一一月に終了するまで十年もの長きにわたって学会幹部への御書講義を続けた、という事実は注目に値する。宗門の碩学で六巻抄に造詣が深かった日淳の講義を通じて、大石寺の金口相承の根幹的内容である三大秘法義は創価学会員の間に深く浸透していったに違いない≠ニ、戦後日淳上人が、学会幹部に対して御書講義をなされたことを取り上げている。日淳上人が宗門の碩学で六巻抄に造詣が深かった≠ニの言は当然としても、大石寺の金口相承の根幹的内容である三大秘法義は創価学会員の間に深く浸透していったに違いない≠ニの言は、またもや松岡お得意の詐術である。
 日淳上人は、「御抄を心肝に染め極理を師伝して」の御遺誡に則り、御書等を講義されたまでである。しかるに、大石寺の金口相承の根幹的内容♂]々との言は極めて曖昧であり、狡猾な言いまわしである。すなわち、松岡はここで、日淳上人の講義によって大石寺の金口相承の内容がすべて明らかとなり、それが学会員の間に浸透した≠ニ言いたいのか。あるいは、大石寺に伝わる金口相承を基とした三大秘法の法義が会員の間に浸透した≠ニ言いたいのか、その違いが不明である。仮に日淳上人が金口相承の内容そのものを講義されたと考えるならば、それは大なる誤りであり、日淳上人の御真意を踏みにじる不知恩の行為と断ずる。しかも悪書のいう後に六五世の法主となる堀米日淳が学会本部に毎月のように出向≠「た御書講義≠ニは、日淳上人の御登座以前のことである。したがって、日淳の講義を通じて、大石寺の金口相承の根幹的内容≠ェ創価学会員の間に深く浸透していった≠ネどということは、あり得ないことではないか。口から出まかせを言うなかれと呵しておく。
 なお、悪書では日淳上人による御書講義は昭和三一(一九五六)年一一月に終了≠ニしているが、日淳上人の御書講義は、御登座の前月である昭和三十一年二月二十七日に終了している。ここにも、松岡の資料調査の杜撰さが現れているのである。
 次に、ここで悪書が結論的に述べる時代性を反映した堀日亨の古文書校合・出版事業、戸田会長や堀米日淳が行った学会の会員幹部への教学的薫陶、そして創価学会の世界宗教化などにより、江戸時代の日寛が達成した金口相承の三大秘法義の理論的開示は民衆レベルにまで浸透現代こそ真に三大秘法義が理論的に開示された時代である≠ニの言は、詐術の集大成である。いかに文献が出版され、御書の講義がなされたとしても、金口相承の三大秘法義の理論的開示≠ネどということにはならず、その言葉自体が誤りである。また松岡は、創価学会の世界宗教化≠ネどと言うが、日達上人が、
  日蓮正宗の教義が、一閻浮提に布衍していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが、一閻浮提に広がっても、それは、広宣流布とは言えないのであります。(大日蓮 昭和四九年八月号一九頁)
と仰せのように、日蓮正宗と無縁の創価学会がいかに世界に広まっても、それは三大秘法の広宣流布とは言わないのである。したがって、創価学会の世界宗教化≠ネどと言っても、それは一切衆生を煩悩・業・苦の三道から救うところの真実の広宣流布の前進ではなく、誹謗正法の悪義・悪臭を世界中にまき散らしているだけなのである。
 たしかに戸田会長時代の学会員は、基本的には日蓮正宗の信仰の大枠をはずすことなく、信行学に励んでいたといえよう。それは、戸田会長が血脈付法の御法主上人であられた日昇上人・日淳上人、また御隠尊猊下であられた日亨上人に信順し、御指南を仰いでいたからである。それに対して池田大作が会長に就任してからの創価学会は、しだいに日蓮正宗の信仰から逸脱するようになり、日蓮正宗から破門された現在は、日蓮大聖人の仏法を利用しながら、大聖人の教えとは大きくかけ離れた邪義満載の異流義教団となってしまった。その原因は、言うまでもなく、池田大作が日蓮正宗の血脈相伝の仏法を信解できずに、己れの邪解を基としてしまったからである。
 もとより、唯授一人金口嫡々の血脈法水は、日蓮正宗の御法主上人以外に承継される方はいないのであるから、金口相承の三大秘法義の理論的開示は民衆レベルにまで浸透≠ニか真に三大秘法義が理論的に開示された時代≠ネどということは、初めから成立しない邪義であり、噴飯ものの誑言である。
 最後に、この誰人も否定できない事実を証する一助として、日寛が「観心本尊抄文段」の中で列示した「重々の相伝」のすべてが今日、公開資料によって説明可能であることを確認しておきたい。本尊抄文段は、先述のごとく六巻抄と並んで貫主直伝の秘書とされ、享保六(一七二一)年の夏、前年に猊座を降りた日寛が学僧四十余人の熱心な懇請を容れて行った「観心本尊抄」講義の内容である。日寛はいつにも増して万全の用意で講義に臨み、満講の後には祝賀の儀まで設けられたという(要8258)。かくも重視せられたゆえんは、「観心本尊抄」に明かされる「人即法の本尊」こそ「蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一末法下種の正体」である、と日寛が考えたからに他ならない。法主職を辞して再び学寮に入った日寛が、唯授一人相承の当事者の立場から「蓮祖出世の本懐」たる本尊の深義を理論的に開示した講義の内容が本尊抄文段なのである。してみれば、同文段の目頭に列挙された「重々の相伝」は、すべて唯授一人の金口相承の本尊義にかかわる門流の秘伝とみて差し支えない。

故に当抄に於て重々の相伝あり。所謂三種九部の法華経、二百二十九条の口伝、種脱一百六箇の本迹、三大章疏七面七重口決、台当両家二十四番の勝劣、摩訶止観十重顕観の相伝、四重の興廃、三重の口伝、宗教の五箇、宗旨の三箇、文上文底、本地垂迹、自行化池(ママ)、形貌種脱、判摂名字、応仏昇進、久遠元初、名同体異、名異体同、事理の三千、観心教相、本尊七箇の口決、三重の相伝、筆法の大事、明星直見の伝受、甚深奥旨、宗門の淵底は唯我が家の所伝にして諸門流の知らざる所なり(文段集443〜444)。

 金口相承の三大秘法義の理論的開示が完結した時代に生きるわれわれは、大石寺の血脈の承継者たらずとも、上記の「重々の相伝」の内容をすべて説明することができる。まず「三種九部の法華経」とは「撰時抄愚記」に「これ則ち広・略・要の中には要の法華経なり。文・義・意の中には意の法華経なり。種・熟・脱の中には下種の法華経なり」(文段集221)と示されるごとく、文義意の法華経・種熟脱の法華経・広略要の法華経を総称した言葉である。また創価学会の「仏教哲学大辞典」第三版には日寛の「三種九部法華経事」の内容の一部が引用され、広く公開されている。次に、「二百廿九条の口伝」とは「御義口伝」(全集708〜803)のことをいい、「三大章疏七面七重口決」(全集870〜872)「台当両家廿四番の勝劣」(全集875〜876)「摩訶止観十重顕観の相伝」(全集872〜875)はいずれも「本因妙抄」の中にある。「四重の興廃」は、釈尊の教えを爾前経・法華経迹門・法華経本門・観心の四重に配立したもので「法華玄義」に説かれるが、ここでは文底の立場から、三大秘法の妙法の興隆によって寿量文上の本門が廃れるという意を含んでいる。「三重の口伝」は迹門・本門・文底の三重秘伝、「宗教の五箇」は教・機・時・国・教法流布の先後のこと、「宗旨の三箇」は三大秘法の本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目、「文上文底」は法華経の寿量品を本果妙から読めば文上・本因妙から読めば文底となることをいう。また多少順番は前後するが、「本地垂迹」「自行化他」「応仏昇進」「久遠元初」はいずれも本仏と迹仏の区別を示すための概念で、日寛の様々な著述の中で論じられている。例えば、「末法相応抄」には「問ふ久遠元初の自受用身と応仏昇進の自受用身とは其異如何、答ふ多の異有りと雖も今一二を説かん、一には謂く本地と垂迹、二には謂く自行と化他、三には謂く名字凡身と色相荘厳、四には謂く人法体一と人法勝劣、五には謂く下種の教主と脱益の化主云云」(要3174)と示されている。さらに「形貌種脱」とは仏の形貌に約して種脱を論ずること、「判摂名字」は「名字に摂まると判ず」と読み、究竟即といっても名字即におさまるとの意である。「名同体異」は名が同じでも本体が異なる様を言い、日寛の「観心本尊抄文段」では、蔵・通・別・迹・本・文底の六種の釈尊が「名同体異の相伝」として示唆されている(文段集531)。反対に、「名異体同」は名を異にしても体が同じとの意で、例えば、釈尊と日蓮が名を異にしながら、ともに本因妙の教主としてその体を一にしていることをいう。「事理の三千」は「迹門理の一念三千」「本門事の一念三千」の区別から一重立ち入った法門、すなわち迹本の一念三千をともに理の一念三千として文底事行の一念三千を顕説する「本因妙抄」の文などを指すと考えられる。「観心教相」は、ここでは釈尊の仏法を教相、日蓮仏法を観心とする勝劣判を意味するのだろう。「本尊七箇口決・三重の相伝・筆法の大事」は、「富士宗学要集」第一巻の「御本尊七箇相承」(要131〜33)「本尊三度相伝」(要135〜42)の内容を指すものと思われる。「明星直見の伝受」は現在の「御本尊七箇相承」の中にあり、日蓮が日興に対し、自身が本尊の当体であることを明かした口伝相承とされている。最後の「甚深奥旨・宗門の淵底」は、具体的名目すら明かせぬ金口相承の秘義、という意味ではない。日寛は「文底秘沈抄」の中で、文底秘沈の三大秘法義をもって「宗門の奥義此に過ぎたるは莫し」の極理と規定している。日寛にあっては、「文底秘沈抄」に説かれた三大秘法義以上の「宗門の奥義」など存在しなかった。したがって、ここでいう「甚深奥旨・宗門の淵底」とは、その前に列挙された、三大秘法の本尊義にかかわる様々な教義概念を総括した表現なのである。
 ここで松岡は、この誰人も否定できない事実を証する一助として、日寛が「観心本尊抄文段」の中で列示した「重々の相伝」のすべてが今日、公開資料によって説明可能であることを確認しておきたい≠ネどと慢ぶりを如何なく露呈している。
 松岡に言われずとも、『観心本尊抄文段』において説示された「重々の相伝」といわれる御法門の内容は、日寛上人をはじめとする御歴代上人の御指南によってほぼ拝することができよう。しかし、これらの一つ一つは甚深の御法門であって、簡単に分かったなどと片づけられるものではない。たとえ言葉でだけは説明できても、「論語読みの論語知らず」の箴言のとおり、極理の師伝によらねば、その本義を弁え、信行の糧とすることはできないのである。
 また悪書の欺瞞は、ここで列記された「重々の相伝」を唯授一人金口嫡々の血脈相承と誤解させようとするところにある。そしてこの欺誑の論を根拠として、金口相承の三大秘法義の理論的開示が完結した時代に生きるわれわれは、大石寺の血脈の承継者たらずとも、上記の「重々の相伝」の内容をすべて説明することができる≠ネどと結論づけている。しかし、唯授一人金口嫡々の血脈相承の何たるかを知りもしない者が、上記の「重々の相伝」の内容をすべて説明することができる≠ネどと強言することは、創価学会が血脈相伝の全てを理解しているとの邪義を構築せんとする、悪辣にして慢極まる邪論である。
 日顕上人は血脈付法のお立場から、この「重々の相伝」について次のように甚深の御指南をなされている。刮目して拝すがよい。
  今、この『本尊抄文段』の初めに列記された、創価学会では略していますが、二十三カ条の名目を見ますと、さすが日寛上人かなと感嘆いたします。なぜかと言うと、大聖人、日興上人以下に伝わる甚深の相承には、外用と内用があり、特にその内用と定められた唯授一人の血脈相承の文には、一言半句も触れておられないことであります。ここにきちんとけじめをつけられて、甚深の法門、相伝書といえども、文段に挙げる名目は外に示してよい名目に限っておられます。これを見て、創価学会の輩は「相承と言ってもこれしかないのだ。それは皆、既に発表済みで、ほかに何もない」と得意顔なのは、そこに創価学会の邪心・無慙があり、その誤りを自覚せずして喋々する「御書根本」「大聖人直結」などの意味がすべて、我見・邪悪の結果を生ずるのであります。
 重ねて言うと、この文段の「重々の相伝」と言われるものは、秘伝ながら外用の範囲であります。さらに内用において、金口嫡々唯授一人の相承があり、今、その記述内容の関連より、やむをえず示された文が公開済みなので、これを挙げることにいたします。
 『家中抄』の日道上人の伝の終わりに、
「御上洛の刻み、法を日道に付嘱す、所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり。総じて之れを謂えば内用外用金口の知識なり、別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり、甚深の血脈なり、其の器に非ざれば伝えず、此くの如き当家大事の法門既に日道に付嘱す。爰に知りぬ、大石寺を日道に付嘱することを。後来の衆徒疑滞を残す莫かれ」(聖典六九五頁)
とあります。このなかの「外用」とは、外に向かって仏法の筋道を示す、従浅至深、一切の法門であり、日寛上人の挙げた名目も、大体ここに入ります。
 「内用」とは、嫡々代々の内証において用いる真の唯授一人、七百年、法統連綿をなす根幹の相承、一言一句も他に申し出すべからずと示されたる、別しての十二カ条の法体法門であります。故に、日亨上人といえども全く公開せず、極秘伝の扱いのまま、今日に至っております。(創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す二〇四頁)

 ここで日顕上人が仰せのように、『観心本尊抄文段』の「重々の相伝」と言われる御法門は、深義の御相伝ではあるが、あくまでも「外用」の範囲であり、それとは他に別しての、「内用」である金口嫡々唯授一人の血脈相承が存在するのである。しかして、この「金口嫡々唯授一人血脈相承」こそ、文献として公開されざる極秘中の極秘であり、悩乱した松岡などにはまったく想像すらできないものである。この御教示こそが、誰人も否定できない事実≠明かしているのである。この御指南を繰り返し拝し、自らの邪義を猛省せよと呵すものである。
 また松岡は『観心本尊抄文段』を六巻抄と並んで貫主直伝の秘書≠ニしているが、この『観心本尊抄文段』は、現存する数多くの聞書にも明らかなように、複数のお弟子方に向かって『観心本尊抄』の御講義をなされたもので、そこでお説き遊ばされた御法門は、当然ながら講義に列した聴衆すべての人々が知り得たものである。ここでの目論見は、同抄文段がそのまま唯授一人金口嫡々の血脈相承の内容が開示された秘書≠ナあり、同抄文段に引用された相伝文献が各種の出版物に掲載された以上、そこに引かれた「重々の相伝」は既に説明可能≠ナあるとするところにある。そして、その「重々の相伝」があたかも唯授一人金口嫡々の血脈相承であると錯覚させようとするのが松岡の魂胆であり、誠に狡猾な手口と言うほかはない。
 さて、以上のような教義概念や文献に関する説明は、今日、創価学会が発行する「御書全集」「富士宗学要集」「六巻抄講義」「仏教哲学大辞典」等を参照すれば、誰にでも可能である。この事実は当たり前のようにみえて、まことに驚嘆すべきことではなかろうか。現代は、唯授一人どころか、万人が血脈承継の法主と同等の教義理解をなし得る時代なのである。この刮目すべき事態を到来せしめたものは、第一に日寛による三大秘法義の理論的開示、第二に堀日亨による富士門流の相伝書の出版公開、第三には戦後の創価学会による在家主体の日寛教学継承である。大石寺の唯授一人血脈相承は、日寛の時代から二百数十年を経てその中心的教義の理論的開示を完結し、もはや理論的公開の段階に入ったとさえ言えよう。
 悪書では、以上のような教義概念や文献に関する説明は、今日、創価学会が発行する「御書全集」「富士宗学要集」「六巻抄講義」「仏教哲学大辞典」等を参照すれば、誰にでも可能である≠ネどと述べている。しかし、これは妄言であって、御書等を参照≠オさえすれば、教義概念や文献に関する説明≠ェ誰にでも可能である≠ニいうような慢な考えから、五老僧の異解が生じ、日蓮宗の各派も誕生したのである。
 また『富士宗学要集』には、様々な文献が掲載されているが、次の「緒言」を心して読むべきである。
  一、本集は大部の富士宗学全集中の要篇及びその他の古文書新文献の中より編集したものであるから時代に依り学匠に依り自然に醇雑相交り正傍反の三篇に大別すべきも、本集には成る可く反系の書を省いた。
  一、正系必ずしも完美で無く傍系亦大に依用すべきものもある。殊に史伝に於ては著しく其の傾向を見るが故に、薫蕕相雑なる書類では栴檀を採るが為に且らく伊蘭の林に入らねばならぬ、但し成る可く一々に天註を加えて幼学を迷はさぬようの指針に供しておいた。(富要一巻巻頭)
 『富士宗学要集』には、このように玉石混淆の文献が掲載されており、また当然ながら深い教義内容が含まれている。故に、一般の学会員がそれらを参照≠オたところで、内容を間違いなく見ほどき、正しく読みこなすことなど、できようはずがない。
 さらに『仏教哲学大辞典』については、『創価学会教学部長 斉藤克司の邪問を破す』(九五頁)の中で、同一人物である日尹と日印を別人とした誤りを指摘したように、史実の取り違えや勘違いが散見され、このように不完全な内容では、正しい教義理解を得ることは到底不可能であると言わざるを得ない。
 『仏教哲学大辞典』には、他にもおかしな記述があるので、教えておく。すなわち「半偈成道」の項に、
  @雪山童子が仏道修行の時に、帝釈天の化身である羅刹から「諸行無常・是生滅法」を聞き、残りの半偈「生滅滅已・寂滅為楽」を聞くために自分の身を羅刹に与えたことによって、悟りを開いて成仏したことA法華経の経文のわずか半偈を受持するだけで仏道を成ずること。本因妙抄に「伝教の云く『三道即三徳と解れば諸悪(たちまち)に真善なる是を半偈成道と名く』今会釈して云く諸仏菩薩の定光三昧も凡聖一如の証道・刹那半偈の成道も我が家の勝劣修行の南無妙法蓮華経の一言に摂し尽す者なり」(八七六n)と説かれている。(第三版一三七〇頁)
と解釈しているが、この「半偈成道」とは、天台の相伝書とされ、大聖人も引用遊ばされる『玄旨伝』に説かれる法門である。これについて、日顕上人は次のように御指南されている。
  「三道即三徳と解すれば諸悪(たちま)ちに真善なり、是れを半偈成道と名づく。」
  この「半偈」というのは、創価学会の『仏教哲学大辞典』では、雪山童子の故事に出てくる、「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」という偈の「生滅滅已 寂滅為楽」の部分を指すとありますが、あれは間違っています。
 これも小乗の文ですが、本当は、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教(諸の悪は作すこと莫れ。衆の善は行い奉れ。自ら其の意を浄くせよ。是れ諸の仏の教えなり)」という文です。この四句で一偈ですから、半偈というのは、このうちの前半の、「諸悪莫作 衆善奉行」という文なのです。すなわち「一切の悪いことをするな、諸々の善いことをしなさい」ということなのです。これは小乗の教えでもあり、ごく当たり前のことと言えます。
 しかしながらこの善と悪という問題で、これほど文化が進んだ現代でも、あらゆる人が相変わらず悩み苦しんでいるわけです。どういうことが善で、何が悪ということか、そこにはいろいろ複雑な意味があって迷い易いのです。とにかくこの善と悪という問題で、みんながいろいろな形で悩み苦しんでおることは現実の問題です。これを正しく解決することが正法正師の正義なのです。つまり南無妙法蓮華経を受持して御題目を唱えるところに、その一切の諸悪が(たちま)ちに真善になるという、そこに善悪の根本の道理があることをお示しになっておるのであります。
 この「三道即三徳と解すれば」ということは、先ほど言った煩悩・業・苦の三道を法身・般若・解脱の三徳と転ずることで、このことを「解すれば」というのは、御題目を唱えることにおいて、自然にそれを理解することによって、その諸の悪がことごとく真善になるのであるということです。そこが「半偈成道」であります。(大白法 平成一二年一一月一六日付)

 この御指南をよく拝してみよ。挙一例諸である。
 このように、誤りが散見される『仏教哲学大辞典』等を参照≠ネどしても、教義概念や文献に関する説明≠ェ誰にでも可能である≠ネどということはあり得ないのである。
 悪書では、現代は、唯授一人どころか、万人が血脈承継の法主と同等の教義理解をなし得る時代なのである≠ネどとして、三点の理由をあげている。しかし、そのいずれもが当たらないことは、既に述べたとおりである。
 御歴代の御法主上人は、唯授一人金口嫡々の血脈相承によって、本宗における甚深の御法門の根幹を御所持なされている。したがって、現代は数多くの書籍が出版され、様々な文献が活字になっているが、それらの文献を目にし、本宗の法門の一端を知り得たとしても、それで御法主上人と同等の領解を得ることなど、できようはずもないのである。万人が血脈承継の法主と同等の教義理解をなし得る≠ネどという松岡の悪言は、彼の大慢婆羅門でさえ足下にも及ばないほどの究極の大慢謗法なのである。
 悪書はここで、大石寺の唯授一人血脈相承は、日寛の時代から二百数十年を経てその中心的教義の理論的開示を完結し、もはや理論的公開の段階に入ったとさえ言えよう≠ニの言を弄している。しかし、「唯授一人の血脈相承」とは、総付の法門相承ではなく、法体相承と金口嫡々の相承である。故に、松岡が中心的教義の理論的開示≠ニいうのは、あくまで総付の法門相承であり、唯授一人の法体血脈相承はまったく示されていない。したがって、唯授一人血脈相承はすでに理論的公開の段階に入った≠ネどという言は、唯授一人の法体血脈相承と総付の法門相承を混同混乱する大謬見であり、また虚構・欺瞞の最たるものである。



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