九、結語≠フ邪義を破す

 かつて大石寺門流の僧俗の信仰にとって、唯授一人相承は神聖にして不可欠な意義を持っていた。歴代法主の唯授一人相承のおかげで、信仰の根本対象たる戒壇本尊は護持され、僧俗の信仰信条を規定する宗門独自の三大秘法義が継承され、本尊書写の際に必要となる種々の教義も伝承されてきたのだ、と門流内ではしばしば主張されてきた。
 けれども、その主張が歴史的事実に符合するかどうかはさておき、現代の大石寺門流に関しては何よりも事情が一変したことを指摘しなければならない。すなわち二四世の日永以降、宗門の相伝教学が宣揚され始めた中で、唯授一人の金口相承とされた三大秘法義を理論的に開示した日寛教学が現れ、堀日亨を中心とする近代宗門の出版事業を経て、戦後になると日寛の六巻抄や門流秘伝の相伝書類を民衆レベルで研鑽する運動が創価学会によって大規模に繰り広げられた。この結果、現代の大石寺門流では、三大秘法義が一般公開されるという状況が現出し、僧俗の信仰にとって法主間の金口相承による三大秘法義の継承はおよそ重要な意味を持たなくなった。
 これまでに悪書の邪義の悉くを截断してきたが、ここで悪書は結語≠ニして邪義を総括している。よって再度破折し、その邪義の根を絶つことにする。
 まず悪書では現代の大石寺門流に関しては何よりも事情が一変した現代の大石寺門流では、三大秘法義が一般公開されるという状況が現出し、僧俗の信仰にとって法主間の金口相承による三大秘法義の継承はおよそ重要な意味を持たなくなった≠ネどと主張する。では一体いつ事情が一変した≠ニいうのか。悪書が主張する。事情≠ニは、何もここ最近のことではない。書籍が出版されたことや、印刷技術が進歩したことなど、どれも数十年以上も前のことである。
 つまり事情≠ニは、どれも取って付けた事情≠ナあって、本当の事情≠ヘ別にあるのである。以下にそれを証明する池田大作の言を挙げる。
  日蓮正宗創価学会の根本中の根本は、一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊であることはいうまでもない。しかもその大御本尊は、日蓮正宗に厳然とおわします。そして宗祖日蓮大聖人より第二祖日興上人、第三祖日目上人と代々の御法主上人が法水瀉瓶・血脈相承され、現在は、第六十七世日顕上人猊下に、いっさい受け継がれているのである。ゆえに私どもは、日顕上人猊下の御指南を拝しつつ、正宗の伝統と法義をふまえながら、勇んでそれぞれの国で、それぞれの地域で、信心向上のための教学を研鑽し、おおいに広宣流布に邁進していただきたい(広布と人生を語る一一三一頁)
この池田大作の著書が発刊されたのが昭和五十七年のことである。悪書が事情が一変した≠ニ主張する事情≠ヘどれも昭和五十七年よりずっと以前のことである。とすれば、松岡の考証によれば、池田大作のこの言を不当として破折すべきであるが、それを行っているのか。行ってはいまい。したがって、松岡の論証は、まったく実状に反している。このことが何を意味するかと言えば、およそ次のようなことである。
 創価学会は日蓮正宗の信徒団体であったが池田大作の大謗法により平成三年に日蓮正宗から破門された。事情が一変した≠ニはこの破門されたことなのである。そこで創価学会は独自の教義を構築せざるを得なくなった。しかし、かつて日蓮正宗の信徒団体であった都合上、まったく新たに新興宗教としてスタートすれば会員離れが進んでしまう。それを食い止めるため、創価学会の独自教義が、あたかも日蓮正宗の伝統法義に照らして誤りないかの如くに偽装工作する必要に迫られたのである。即ちこの悪書もその偽装工作の一環であることは明々白々である。
 他方、在家の信仰者の激増や印刷技術等の飛躍的進歩によって、法主による化他行としての本尊書写は、実質的にその役割を終えた。それにともない、曼荼羅本尊の体相や筆法に関する様々な教義解説も、宗門僧俗の信仰にとって絶対不可欠なものとは言えなくなった。しかも現代では、日寛が唯授一人相承の秘書とみなした「御本尊七箇相承」や「本尊三度相伝」が出版公開されている。かりに本尊義の相承の中に未公開の内容があると仮定しても、いまやそれが必ずしも唯授一人相承の必要性に結びつかないような時代に突入しているのである。
 そしてこのように、三大秘法義が理論的に一般公開され、本尊相承の秘書も出版公開され、法主による本尊書写が実質的に不要化した現在の状況下にあっては、戒壇本尊の護持を法主一人に委ねる必然性もなくなったと考えるしかない。むしろ、教団全体で戒壇本尊を護持する方向に進むのが自然な成り行きであろう。
 先にも述べたが、悪書の在家の信仰者の激増や印刷技術等の飛躍的進歩によって、法主による化他行としての本尊書写は、実質的にその役割を終えた≠ニの妄言は御本尊を一枚のプリントの如くに貶める極大謗法である。かつて池田大作は、
  御本尊は日蓮大聖人の生身と拝することです。その信心でなければなりません。(中略)御本尊を物≠ニ扱うようになった場合は罰をうけます。学会精神に反します。信心ではありません。(大白蓮華 昭和三九年八月号六二頁)
と指導していたのである。即ち印刷技術等の飛躍的進歩≠理由として、本尊を作製することができるという言が、いかにインチキで無責任な主張であるかが分かるだろう。
 また、曼荼羅本尊の体相や筆法に関する様々な教義解説も、宗門僧俗の信仰にとって絶対不可欠なものとは言えなくなった。しかも現代では、日寛が唯授一人相承の秘書とみなした「御本尊七箇相承」や「本尊三度相伝」が出版公開されている≠ニの言もまさにたわ言と言うほかない。学会でプリントした「ニセ本尊」は、当然ながら開眼されていないが、しかし先に述べたように、御本尊は御開眼により、大聖人の御法魂が宿り給うのである。故に創価学会が開眼を不要とするのであれば、創価学会員は誰でも個人的にカラーコピーしてもよいことになる。まさに松岡ら創価学会の行為は、御本尊の深義を否定する大謗法なのである。
 また、この学会の「ニセ本尊」はプリントした一枚の紙という以上に、拝めば罪を無間に開く罪障を積むのである。
 先にも述べたが、かつて戸田城聖氏は、
  ただ、大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。だから、仏立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから。力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。だからコワイ。(大白蓮華 昭和三四年七月号九頁)
と述べている。また、日顕上人は『創価学会の偽造本尊義を破す』において、
  法主が開眼していない創価学会の本尊を「ニセ本尊」と呼び、地獄に堕ちると言うのは、もう一つはっきり言えば、清浄な開眼が行われていないとともに、池田や秋谷等の大謗法の魔性が入ったのが「ニセ本尊」であるから、地獄へ堕ちると言うのであります。(七二頁)
と御指南されるごとく、「ニセ本尊」には、池田大作等が日蓮正宗の本尊義を壊乱せんとする魔心が込められているのである。即ち「ニセ本尊」の流布は、害悪の蔓延以外の何物でもない。
 本門戒壇の大御本尊の御内証を御書写され、御開眼なされるのは世界広しと雖も血脈付法の御法主上人以外にはおられない。即ち御本尊書写から御開眼にいたる全てのことが唯授一人の秘法だからである。またこれは御形木御本尊においても全く同じである。御形木御本尊も御法主上人の御開眼によって、本門戒壇の大御本尊の御内証を具え給うのであり、写真印刷の原本は半永久的に保存が可能≠ナあるから、御法主上人の御本尊書写が不要であるなどということは、御本尊の尊極なる意義を弁えぬ愚人の痴言と言うほかはない。
 また悪書では三大秘法義が理論的に一般公開され、本尊相承の秘書も出版公開され、法主による本尊書写が実質的に不要化した現在の状況下にあっては、戒壇本尊の護持を法主一人に委ねる必然性もなくなったと考えるしかない。むしろ、教団全体で戒壇本尊を護持する方向に進むのが自然な成り行きであろう≠ネどとも述べているが、これも本末転倒の妄言である。日應上人は『弁惑観心抄』に、
  別付の法体と者則吾山に秘蔵する本門戒壇の大御本尊是なり、故に開山上人より目師への付属書に云く日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大本尊日目に之を授与す云々、此法体相承を受くるに付き尚唯授一人金口嫡々相承なるものあり此金口嫡々相承を受けざれは決して本尊の書写をなすこと能はず(二一二頁)
と、御法主上人が本門戒壇の大御本尊を身に宛てて御所持され、金口嫡々の血脈相承をお受け遊ばすところに、御本尊を書写する権能が具わると御指南されている。即ち法体別付の相承には御本尊に関する権能の授受も含まれるのである。御法主上人は大聖人より唯授一人の血脈をもって、御本尊を書写する権能を有されるのである。そのことは七百数十年の日蓮正宗の歴史を紐解けば明らかなことである。その法体別付の相承、根源の本門戒壇の大御本尊を忘れ、またその御内証を御書写下さる御法主上人を差し置いて、教団全体で戒壇本尊を護持する方向に進むのが自然≠ネどと述べるのは、まさに錯乱者の世迷い言と言うほかない。
 だいいち、教団全体≠ニは、一体どこの教団のことか。もし日蓮正宗を指すなら、離脱僧の松岡らに指図される謂れはなく、また彼らにはその資格もまったくない。また、松岡ら創価学会を含めているのなら、それはまったくの欺瞞である。その証拠に、創価学会の首魁池田大作は、大御本尊を物体視するという大謗法を犯し、それを受けた創価学会は、「規則」と「会則」の双方から、さらには学会版経本の観念文からも「本門戒壇の大御本尊」の語を既に削除しているではないか。故に、松岡のかかる言は、矛盾誑惑以外の何ものでもない。
 結論として、現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義は、あらゆる面で消滅したのである。かかる事態の到来は、在家信仰者が法主僧侶の介在抜きで本尊証得に達することを可能にし、法主の法体相承が戒壇本尊の護持継承であることを鮮明化し、三宝論では僧宝の日興に連なる意義を能力論的に考える視座を引き出したと言えよう。冒頭の血脈論争の話題に戻ると、現代はまさに「信心の血脈」の如何が信仰上の正否を決する時代なのである。現宗門は、今の大石寺門流の信仰状況が中近世の頃のそれとは劇的に変化している、という点にあまりにも無自覚である。その滑稽さは喩えて言えば、髷を結い、刀を差した侍集団が社会から隔離されたまま現代に生き残り、江戸時代の士農工商さながらの論理でグローバルな大企業に武家への絶対服従を強要し、聞かぬとみるや「切捨て御免」と騒ぐようなものであろう。創価学会と日蓮正宗との教義論争は、じつは時代認識をめぐる論争であるように思われてならない。肉食妻帯の世俗的生活を送り、寺院会計から月々の給与や賞与を受け取って私有財産を形成し、法務の面では儀式法要の執行を専らとする現今の宗門僧を果たして「出家」と認めるべきなのか、といった現実的疑問も含め、われわれが時代認識の問題に関心を持つことは、かえって学会と宗門の論争の本質に迫る近道なのである。
 悪書では結論として、現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義は、あらゆる面で消滅したのである≠ネどと述べているが、『百六箇抄』には、
  上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。(新編一七〇二頁)
と、「尽未来際」までも「嫡々付法の上人」を「総貫首」と仰ぎ、師弟相対すべきことが御指南されている。宗旨建立から七百数十年で、この「尽未来際に至るまで」のお示しが空文化したと言うのか。日寛上人も当然ながら全ての御法主上人が、この『百六箇抄』の御指南の如く、唯授一人血脈相承をもって「総貫首」たる御法主上人を定められているのである。即ち松岡の言う唯授一人相承の信仰上の意義≠フ消滅≠ネどと言うのは、大聖人の御遺誡に対する重大な背逆である。これは創価学会が日蓮正宗から派生した亜流邪教団体として、日蓮正宗の法義を盗み取らんとして創作した我田引水の説であり、まったく根拠のない妄言である。
 また、かかる事態の到来は、在家信仰者が法主僧侶の介在抜きで本尊証得に達することを可能にし、法主の法体相承が戒壇本尊の護持継承であることを鮮明化し、三宝論では僧宝の日興に連なる意義を能力論的に考える視座を引き出したと言えよう≠ニも言うが、日寛上人は、
  南無仏・南無法・南無僧とは、若し当流の意は、(中略)南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師。此くの如き三宝を一心に之れを念じて、唯当に南無妙法蓮華経と称え(六巻抄二二五頁)
と、本宗の信仰における三宝、就中僧宝は、御歴代上人を僧宝として拝して信心しなければならないことを明確に御指南されている。この厳然たる血脈の筋目を無視し、あろうことか邪教団体創価学会が御歴代上人をないがしろにし、僧宝の日興に連なる≠ネどという意義があろうはずはないのである。
 さらにこの悪書においては、法主の法体相承が戒壇本尊の護持継承であることを鮮明化≠オたなどと言うが、御歴代上人における法体相承とは、本門戒壇の大御本尊を相伝厳護遊ばされるとともに、その御内証たる大聖人の御法魂を、御歴代上人の御内証に受け継がれていることである。松岡が貶めるごとく、単なる御本尊の護持と継承というものではないのである。
 悪書では今の大石寺門流の信仰状況が中近世の頃のそれとは劇的に変化している≠ネどと言うが、先にも述べた通り、その変化≠ニはまったくの詭弁であり、松岡が誤魔化そうとしている変化≠フ本質は「創価学会」が邪教化したという変化≠ノ他ならない。例を挙げれば、昭和十一年に刊行された『富士宗学要集』には、『御本尊七箇之相承』や『六巻抄』が収録され、昭和二十七年刊行の『日蓮正宗聖典』にもそれら重要法義書が収録されている。また「ニセ本尊」正当化の根拠とする写真印刷の技術≠ネども、そのころにはすでに確立されているのである。今頃になって変化≠叫ぶことは前後撞着であり、その必然性は微塵もないのである。
 さらに日亨上人が『富士宗学要集』を編纂されたことや、六十四世日昇上人の御指南を仰ぎつつ六十五世日淳上人が中心となって『日蓮正宗聖典』を出版したのは、『六巻抄』や『御本尊七箇之相承』をたとえ公開したとしても、大石寺伝統の血脈相伝の仏法は微動だにしないという確信のもとに行われていることは当然である。なぜならば当時も今も、日蓮正宗が折伏しなければならない邪教は日本国中、及び世界に蔓延しているからである。法義書を公開したことにより、戒壇の大御本尊と大聖人よりの血脈法水を根本命脈とする日蓮正宗の正統が失われる恐れがあるとするならば、そのようなものを日亨上人や、日昇上人が公開をお許しになるはずはない。法義書を公開したことにより、日蓮正宗の正統が失われ、別の邪教団体が正統を主張するなどという本末転倒の事態をありとせば、当時の門下に『六巻抄』『御書文段』を御講義された日寛上人、それを出版された日亨上人・日昇上人・日淳上人、それらの御先師に対する著しい冒涜であり、大聖人、御歴代上人の弟子の一分として、かかる暴言を断じて許すわけにはいかない。
 また悪書では現宗門は、(中略)髷を結い、刀を差した侍集団が社会から隔離されたまま現代に生き残り、江戸時代の士農工商さながらの論理でグローバルな大企業に武家への絶対服従を強要し、聞かぬとみるや「切捨て御免」と騒ぐようなものであろう。創価学会と日蓮正宗との教義論争は、じつは時代認識をめぐる論争であるように思われてならない≠ネどと述べ、日蓮正宗による創価学会破折を時代認識の違いであるかのように誣言するが、そのような自分勝手な曲論がまかり通るはずはない。創価学会員はかつて日蓮正宗の信徒として各末寺に所属していたはずである。そして日蓮正宗の教義に則り、日蓮正宗の信仰をしていたのである。ところが組織が大きくなると、池田大作の増上慢により教義逸脱の大謗法を犯し、一旦は改悔して許されたにもかかわらず、再び大謗法を犯して、宗門から破門されたのである。故に学会は学会として存立する大義名分を失ったのである。今創価学会に残っているのは、池田大作や秋谷栄之助などの職業幹部の名聞名利を満たすため、集金と集票と我見の創価思想による日本ないし世界支配を目的とする野望のみである。信仰など微塵もない。まして御法主上人の御説法が「ドイツ語」に聞こえると公言して憚らない愚か者の池田大作や、その者を首魁にすえる創価学会が仏法の正統となる道理などありえないことは先に述べた通りである。
 ここで悪書は肉食妻帯の世俗的生活を送り、寺院会計から月々の給与や賞与を受け取って≠ネどと宗門僧侶を誹謗するが、肉食について言えば、日興上人は、
  いをもとりもやまいのものにハたひ候て、いのちいけて仏法ひろめ給へし。(歴全一一一六頁)
と、病中の了性坊日乗師に魚鳥を食しても、命をながらえて仏法を弘通するよう大慈悲の御指南をなされている。健康面においても必要な栄養分を摂取しなければならないのは当然であり、そのことをもって僧侶を非難することは的はずれである。また妻帯についていえば、寺院を運営する上で、寺族の果たす役割は非常に大きいのである。住職不在中の留守を預かったり、受付の事務、その他寺院の諸事に資するところ甚大なのである。それにより住職は布教に専念でき結果的に大法広布に大きく寄与するのである。寺院会計から給与%凾ヘ、「宗教法人法」の規定に基づく、寺院財産と私有財産の区別をせよという定めによるのであり、国法を遵守するまでのことである。
 また斯様な宗門のありかたは、今にはじまったことではなく百年近く前からのことであり、悪書は、現宗門を誹謗するようでありながら、近世の御法主上人に対しても誹謗しているのである。即ち、創価学会が日蓮正宗の信徒団体として信仰していた当時の宗門への誹謗なのであり、矛盾と無節操極まる妄言と言うほかない。今になってこのような非難を加えるという一事をもってしても、かえって松岡の主張が、取って付けた難癖の類であることが分かるというものである。
 終わりに悪書は時代認識の問題に関心を持つことは、かえって学会と宗門の論争の本質に迫る近道≠ネどと言っているが、本質≠ニ言うなら、この言の本質≠ニは、創価学会の謗法路線を正当化せんとする意図以外のなにものでもない。自分たちの都合で、仏法の本質を改変せんとする痴れ者の松岡よ、かかる横暴が仏法の正義の前に通用するはずはない。仏法の裁きは厳然であることを知れ。
 最後に松岡に告げる。今日の宗門と創価学会の問題の本質は、末法における真の僧俗一致の広宣流布の時代を迎え、これを怨嫉する第六天の魔王が、池田大作及び松岡ら創価学会の中に深く入り込み、下種三宝護持の日蓮正宗を壊滅せんと悪謀の限りを尽くしているところにある。所詮は仏の軍勢と創価魔軍との戦いであることを自覚せよ。
 以上、我らは戒壇の大御本尊と御本仏日蓮大聖人の御照覧を仰ぎ奉り、血脈付法の御法主上人の下に一結し、大白法の末法広宣流布のため松岡ら池田創価学会の邪義を徹底して粉砕したことを宣言する。

以 上



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