4 法主による本尊の開眼と許可について≠破す

 ここで汝は、日顕上人が御本尊の御開眼に対する学会の疑難に対して仰せになった御指南を恣意的に解釈し、妄想を頼りに不遜極まりない質疑を繰り返している。これらの疑難は、従来の創価学会の宗門誹謗における疑難と何ら変わらない低次元のものであり、創価学会の走狗に成り下がった汝が創価学会の偽造したニセ本尊の正当化を計るための言い掛かりに過ぎない。
 まず、汝は日顕上人の御指南について、あなたが「あらゆる御本尊は、下附のために総本山から離れる前に、丑寅勤行において法主が祈念をしている」というところの「あらゆる御本尊」の中に、形木本尊は含まれていませんね≠ネどといい、法道院での御形木御本尊の取り次ぎに関する御指南をその根拠にしている。
 汝が挙げた日顕上人の御指南には、
総本山においては、歴代上人より現住・日顕に至るまで、こと御本尊に関する一切はことごとく、かたじけなくも諸仏成道の刻みである丑寅の勤行において、下種本因の四妙たる妙境・妙智・妙行・妙位の正義をもって、事の一念三千の御本尊に対し奉り、開眼草木成仏の深意により、妙境妙智一体不二の御祈念を申し上げておるのであります。この行事は、書写本尊、形木本尊その他、一切を含めていささかの例外もありません。(創価学会の偽造本尊義を破す五九頁)
とあるように、日顕上人は御形木御本尊を含めたすべての御本尊は必ず丁重に開眼されていることを明確に仰せになられているのである。故に汝の「あらゆる御本尊」の中に、形木本尊は含まれていませんね≠ニの言は、汝の思いこみによる的外れな愚問である。
 そもそも汝はこの開眼に関する御指南の解釈に関して、致命的な勘違いを犯している。
 前掲の御指南を虚心坦懐に拝するならば、丑寅勤行においてなされたる開眼は、御法主上人が允可された一切の御本尊に及ぶものであり、これには御形木御本尊も当然含まれているのである。
 さらにいえば、ここで仰せの開眼の意義は、大聖人の御内証たる唯授一人血脈相承の御境界よりなされる開眼の御祈念によって、允可された一切の御本尊に時間・空間を超えて御法魂が具わることを仰せになられているのであり、汝の顛倒した脳裏で邪推するような軽々しいものではないのである。
 また汝は、過去に法道院から送付されていた御形木御本尊に関する日顕上人の御指南をあげて、法道院が各末寺へ送付していた形木本尊については「法主の許可」で充分だったと語っているからです。察するに、あなたの考えは「あらゆる法主直筆の常住本尊は開眼されているが、印刷の形木本尊については法主の許可さえあれば開眼の必要がない」ということと思われます。そうだとすれば、なぜ形木本尊には開眼の必要がないのですか≠ニ邪問するが、これも汝の妄想による空論にすぎない。日顕上人の御指南のどこに御形木御本尊は「法主の許可」で充分だった≠ネどとあるのか。そのような御指南は存在しない。当該御指南には、
以前に法道院より各末寺が送付を受けた御形木御本尊について「開眼がない」と推測しているのですけれども、当時の法道院主管の早瀬道応師、のちの日慈上人は、総本山の法主の許可によって、当時の形においてお取り次ぎをしていたのです。故に総本山の正しい化儀に、なんら反していないのであります。(創価学会の偽造本尊義を破す六二頁)
とあるように、ここで仰せの意味は、以前、法道院では、当時の日達上人の御命によって法道院主管であった観妙院日慈上人が御形木御本尊のお取り次ぎをなされ、全国の寺院に送付していたことについて、これは正式に御法主上人の允可のもとで行われ、総本山において御法主上人の御祈念によって開眼がなされていたのであるから、なんら総本山の正しい化儀に反してはいない、との御指南なのである。しかもこの御指南は法道院から下附されていた御形木御本尊には開眼がない≠ニの疑難に対して破折された箇所であり、むしろ開眼があったことについての御指南なのである。したがって一連の御指南において、形木本尊には開眼の必要がない≠ネどとはまったくいわれておらず、汝の歪んだ先入観による臆断であると言わざるを得ない。
 また法主が直接祈念するわけでもなく、不特定多数の形木本尊に漠然と許可を与えるだけで、なぜ、すべての形木本尊に「法魂」が宿るのですか≠ネどとは、またまた汝の事実誤認である。日顕上人が仰せのように、御形木御本尊の御開眼は丑寅勤行において厳然となされているのであり、許可のみで法魂が宿る≠ネどとは汝の臆測による愚問である。
 いっておくが、御法主上人による開眼の御祈念は、汝のような謗法者の想像に及ぶものではない。日應上人が、
此法体相承を受くるに付き尚唯授一人金口嫡々相承なるものあり此金口嫡々相承を受けざれは決して本尊の書写をなすこと能はず(弁惑観心抄二一二頁)
金口血脈には宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり (『法の道』・研教二七―四七四頁)
と仰せのように、御法主上人による開眼とは「唯授一人金口嫡々相承」「極意の相伝」を御所持なされるお立場からの崇高なる御境界においてなされるものなのである。しかるにその内容に関しては、血脈相承をお受けなされた御法主上人のみ知るところであり、余人が知る必要もなく、また知ることはできないのである。
 また付言すれば、先述のごとく、過去の法道院における御形木御本尊の下附は、法道院が独自に行っていたものではないのである。当時、印刷技術等の問題を含め、種々の状況を鑑みられた総本山第六十六世日達上人の御命によりなされたものであり、御本尊の一切の権能を御所持される御法主上人の允可のもとで行われ、その上で丑寅勤行の折に開眼の御祈念をなされ、さらに各末寺において丁重に御宝前にお供えをしてから下付されていたのである。
 汝はかつての末寺における御本尊の印刷・送付という表面的な姿のみを殊更に取り上げて、そこに開眼がされていないと推測しているようであるが、これは開眼の意義、また総本山と末寺のつながりにかかわる深い意義を無視した、当て推量に過ぎない妄見であることを指摘しておく。
 また汝は本宗における御本尊の開眼について、草木成仏の意義の上から、教義的な説明を願います≠ネどというが、本宗における開眼の意義は、大聖人の御内証を御所持される御法主上人の御祈念によってなされるものであり、その意義は先に挙げた御指南に示されている。その甚深の内容は余人が知ることなどできるはずもないのである。
 また汝はいわゆる「特別御形木御本尊」については開眼の必要があったのかなかったのか、そしてなぜ常住本尊には開眼、形木本尊には許可といった区別を設けているのか、についてもお答え下さい≠ネどというが、もともと汝の想定する前提自体が成り立っておらず、あえて反論する価値もないが、端的にこの質問に返答するならば、前述のように御法主上人によって允可されたすべての御本尊に開眼がなされているのであり、総本山においては常住本尊には開眼、形木本尊には許可≠ネどという区別など存在しないのである。




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