三、法主信仰は稚児貫首の時代に作られた逸脱義
                           との偽言を破す



 さて汝は邪論を補強すべく、左京日教師を引き合いに出して長々と妄説を展開しているが、汝の悪意に満ちた魂胆は見えすいている。すなわち「御法主上人の御内証を大聖人と拝すべきとの伝統教義は、実は帰伏僧の左京日教師が言い出したことであり、本来の正統教義ではない」とでも言いたいのであろう。しかし汝の妄説は事実無根であり、いかに奸策(かんさく)を弄しようとも厳然たる事実を歪めることなどできようはずはない。
 汝は日寛上人以前の宗門では、法主の権威がとりわけ強調された時期が2度ほどあった≠ネどと、あたかも見てきたかの如くいうが、かかる汝の妄説は、左京日教師や法詔寺日感師が御法主上人への信順を述べた記述に対し、架空の背景をもとにした、勝手なストーリーを作り上げているに過ぎない。先に悪意による結論ありきの汝の妄説は、明らかな牽強付会の邪論であることをまず指摘しておく。
 そもそも法主の権威がとりわけ強調された≠ニの汝の言辞に既に欺瞞がある。宗門史において御法主上人への信順を促すことはあっても権威のみを強調するような事実など存在しない。
 もとより、宗門史上における御歴代上人への信順の姿勢は一貫したものであり、ある時代における文献に御法主上人への信順を説く文言がなかったからといって、その時の大石寺に、御法主上人に対し信伏随従する信仰がなかったと邪推すること自体ナンセンスである。特に宗門上代の文献はほとんど残っておらず、文献に記された内容のみで当時の状況を判断することなど到底できない。大石寺では、基本的信条として、御法主上人の御内証を大聖人と拝し、信順してきたのである。この信条には根本的な御指南として、『二箇相承』や『御本尊七箇相承』の金文が厳然として存在するのであり、開山以来不変の教義なのである。
 汝は妄言を吐くにしても、学者を騙(かた)るのであれば、もう少し確実な文証と明解な論証をもってすべきである。
 次に汝は左京日教師が『類聚翰集私(るいじゅかんしゅうし)』において、
当代の法主の所に本尊の体有るべきなり(富要二─三〇九)
法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ(同)
と述べていることにつき、未熟な青年法主を支えるためか、日教はいくつかの著作の中で、ことのほか法主の権威を力説している≠ネどと詭弁を弄するが、これは、「御法主上人の御内証を大聖人と拝する」との大石寺に伝わる宗門古来の伝統教義を述べられたに過ぎないのであり、何も左京日教師が突然言い出した教義ではない。前述のごとく、宗祖大聖人、御開山日興上人、さらには、左京日教師が帰伏した当時の御法主上人であられた日有上人に、同様の御指南が存するではないか。左京日教師の言辞は日有上人より賜った伝統教義を拝した上で、信仰的見地から述べられたものである。
 また汝が左京日教師について、若年の日鎮法主の補佐役として活躍した≠ネどと述べることは、まさに汝の都合によって作り上げられた筋書きであり、行き過ぎた表現であると言わざるを得ない。
 室町時代の帰伏僧である左京日教師の行跡に関しては、現存文献も少なく、判然としない点が多々存するのが実状であるが、少なくとも日鎮上人の側近として活動された形跡は見あたらない。
 伝承によれば、日有上人より日鎮上人への御相承は文明十四年である。左京日教師は文明十三年頃に大石寺に帰伏したが、その直後の文明十四年九月に日有上人の御遷化に遇っている。そして翌年には堺・調御寺、さらにその翌年には日向国(ひゅうがのくに)穆作(むかさ)においてその存在を確認することができるのである。もし日鎮上人の補佐役・後見人という立場であったとしたら、御登座された直後から早々と大石寺を離れ、その後も諸国を転々とすることなどあるはずがないのである。左京日教師は大石寺門流の僧侶としての立場において、誰しもがそうであるように時の御法主上人を支えられたことは確かであるが、日鎮上人の補佐役として活躍した≠ネどという事実はないのである。汝の不条理な戯論のために、史実を歪めることは許されざる愚行であることを指摘しておく。
 また汝は「本尊の体」を、御本尊よりも大石寺法主の内証に求めるならば、明らかに逸脱義である。日教は、「穆作抄(むかさしょう)」に「閻浮第一の御本尊も真実は用なり」と述べている。ここでいう「御本尊」が、大聖人の顕された御本尊を指すとすれば、日教の本尊観は法主が体で、御本尊は用≠ニいうことになる。これは、本末転倒の「法主信仰」である≠ネどといっている。この『穆作抄』の当該部分は、
信心薄短の者は臨終阿鼻を現ぜん一無間・二無間乃至十百無間疑ひ無しと云云大事なり、所詮は当代教主法王より外は本門の本尊は無シと此の信成就する時、釈迦如来の因行果徳の万行万善・諸波羅蜜の功徳法門が法主の御内証に収まる時・信心成就すると信ず可きなり、釈尊も八十入滅の命に替へて末代の衆生を利益あるべし、寿量品の御定めなれば、高祖聖人も我不愛身命とこそ御修行あれ、信心成就の趣きをば後生善処なれば現世安穏なり、
閻浮第一の御本尊も真実は用なり(富要二─二五三頁)

とあるように、当文の趣旨は、高祖聖人の我不愛身命の御修行によって三大秘法を御建立あそばされ、その本仏内証の御境智を体となし給うのに対し、衆生化導の為に顕し給う御本尊は用に配するとの体用の法門が基本である。その処より血脈伝承の法体伝授により、本門の本尊といっても唯授一人の血脈相承を所持なされる御法主上人を離れては利益成就はないということを信仰的な筋目の上から述べられたまでである。すなわち衆生に対する実際の信仰教導の意義の上から「用」の言辞を使用されたのである。故になんら逸脱義≠ナも、本末転倒の「法主信仰」≠ナもないのである。
 事実、御法主上人には、戒壇の大御本尊の御内証が唯授一人の血脈相承として受け継がれているのであり、そこに絶対的な体があることは宗門古来の伝統教義である。
 ことに、大聖人真筆の御本尊であっても御法主上人に背反し、相伝の深義に背く他門流の本尊には、義が事の戒壇に当たる功徳はなく、信心の血脈と利益が成就しないのは当然である。左京日教師の記述は表現の相違はあるものの、大石寺の伝統教義を信仰的な立場から示されたものなのである。
 かつては創価学会でも、
富士大石寺にそむく謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがない(折伏教典三四〇頁)
と解説し、たとえ大聖人の御真筆であっても大石寺の御法主上人から離れた御本尊には大聖人の心は宿らないと正義を述べていたではないか。異流義になりはてた汝らには今更まともな道理など通じるはずもないが、この解説と先の『穆作抄』の趣旨はほぼ同義なのであり、逸脱義≠ネどの言は汝の迷見迷眼によるものである。




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