八、法体の血脈相承は万人に開かれている
                     との誑言を破す




 汝は、法体の血脈相承は万人に開かれている≠ニいうが、一切衆生を救済遊ばされる大聖人の下種仏法において、万人に成仏が叶うことは当然である。しかし前回『邪誑の難を粉砕す』においても述べたごとく、そこには総別の二義の筋道が厳然と存するのである。すなわち、別しての法体の血脈は、末法万年に亘る法体伝持のため、御本仏大聖人が定められた唯授一人金口嫡々の御相伝により代々の御法主上人にのみ受け継がれているのである。よって、汝が、その根本の血脈を離れて、法体の血脈相承≠ェ万人に開かれて≠「ると主張するならば、それは下種仏法における能所・総別の二義を否定し、破壊する大謗法の言である。末法の一切衆生は、御相伝により法体の血脈を伝持遊ばされる御法主上人に信伏随従して、正しく信仰するところに、総じての「信心の血脈」が流れ通い、成仏が叶うのである。よって、本宗の唯授一人血脈付法の御法主上人を誹毀讒謗(ひきざんぼう)する汝ら創価学会員は、血脈相承の根本を否定しているゆえに、「信心の血脈」が流れ通うことはないのである。
 また汝は、大石寺の歴代からは、大聖人、日興上人の正しい教義から逸脱し、釈迦仏像の造立を唱えたり、神札受容を黙認して焼死したり、といった謗法の法主が度々出た≠ネどという虚言を根拠も示さずに吐いている。ここで汝に、はっきりと告げておくが、日興上人以来、代々の御法主上人の血脈伝持の御功績により、現第六十七世御法主日顕上人に至るまで、厳然と、大聖人の御法体が相伝遊ばされているのであるから、そもそも御歴代上人が大聖人、日興上人の正しい教義から逸脱≠キることなど絶対にあり得ないのである。大聖人の定められた唯授一人金口相承をお受け遊ばされた代々の御法主上人に対する悪口誹謗の妄言は、そのまま大聖人に対する悪口誹謗の妄言であり、汝の罪業は途方もなく深いことを知れ。
 さて汝は、妄言の根拠として、釈迦仏像の造立を唱えた≠挙げる。これについては、当方がこれまで何度も破折してきたことは汝も承知していよう。特に、日精上人に対する邪難を徹底して破折した『創価学会教学部長 斉藤克司の邪問を破す』に詳細に明かしてあるので、それを熟読するがよかろう。また、次に汝は、事実無根の虚言をもって、総本山第六十二世日恭上人の御事を誹謗している。この件についても、すでに、『新興宗教「創価学会」と離脱僧らの再度の邪難を摧破す』(三七頁)で詳細に神札受容%凾フ邪難を徹底破折してあるので、それを熟読し、懺悔せよと告げておく。
 これらを含め、宗門史を詳細に検討するかぎり′喧ャ付法の御歴代上人は、令法久住広宣流布のため、その時代における宗門を正しく教導遊ばされていたのである。而るに、汝は、宗門の法主は僧宝の一分になりうる≠ニいう不確定な存在にすぎない≠ネどとたわけたことを述べるが、御歴代上人に謗法など存在しないのであるから、汝の主張自体が成立しないのである。代々の御法主上人は、僧宝の一分になりうる≠フではなく、日興上人を随一とした厳然たる「僧宝」にあらせられるのである。汝の己義我見をもって、日寛上人の『三宝抄』『当家三衣抄』の御指南を曲解する勿れ。
 また汝は日寛上人は、「三宝抄」の中で「予が如き無智無戒も僧宝の一分なり」と述べられている。御自身を「僧宝の一分」とされたことは、教義の根幹にかかわる以上、単なる謙遜の表現ではない≠ニいう。汝の言う如く御自身を「僧宝の一分」とされたことは単なる謙遜の表現ではない≠ネらば、御自身の真実を述べられた御指南と拝するのが当然である。すなわち『三宝抄』の「予が如き無智無戒も僧宝の一分なり」との御指南を素直に拝せば、「日寛が如きは無智であり無戒のものであるけれども、大聖人よりの唯授一人金口嫡々の血脈相承をお受けした以上は僧宝の一分である」と御自身の自覚を披瀝(ひれき)遊ばされた御指南であることが明白である。つまり、「予が如き無智無戒」とは御謙遜遊ばされた表現であるが、「僧宝の一分なり」とは真実を述べられた言辞と解するのが正しい拝し方である。このような簡単明瞭な御指南も理解できぬ汝の読解能力は、極めて低いものと言っておく。
 また汝は 日寛上人は、あくまで法主を修行者と考えられた。それは、上人が「観心本尊抄文段」の中で、法主の本尊書写を、「受持」という信心修行の位における書写行、とされたことからも明らかである≠ニいう。この愚言については、先に汝に送付した『十項目の愚問を弁駁す』において既に破折してある。汝の言う『観心本尊抄文段』とは、
今「受持」とは即ち是れ偈の中の総体の受持なり。故に五種の妙行に通じ、五種の妙行を総するなり。然るに今、受持正しく信心口唱に当たるとは、信心は即ち是れ受持が家の受持なり。口唱は即ち是れ受持が家の読誦なり。当に知るべし、受持が家の受持読誦は此れ即ち自行なり。今自行の観心を明かす故に但自行の辺を取るなり。解説書写は化他を面と為す故に之を論ぜず。解説は知んぬべし。本尊書写豈化他に非ずや。(御書文段二二八頁)
とのお示しであろうが、汝の言は、能所を混乱した邪義というほかはない。
 この御指南は、下種仏法における五種の妙行を示されたものであるが、本尊書写の部分は御法主上人に限られるのであり、能化たる御法主上人の本尊書写は化他行に当たるとの意である。すなわち御法主上人がその御内証の法体を、一切衆生の信心の対境として御認(したた)め遊ばされる御本尊書写は、能化における化他行の意義が存するとの御指南である。したがって、この「本尊書写豈化他に非ずや」の御指南を、所化の修行と同等の「受持」という信心修行の位における書写行≠ニ解釈することは大間違いであり、摧尊入卑の邪言である。汝の主張は、あくまで御法主上人を「僧宝」「能化」から外し、「所化」に属させたいが為にする邪悪な欺誑であると断ずる。
 また汝は大聖人の究極の教えが日寛教学を通じて公開されている現代では、すべての信仰者が僧宝の一分になりうる¢カ在である。今の私たちは、信仰の本質的次元において、法主とまったく対等な立場にいる。いわんや、明治以降の法主が、在家者と同じく肉食妻帯の者であることを思えば、なおさらである≠ネどと恣意的な暴論を吐いている。汝は大聖人の究極の教え≠ネどと抽象的な言辞を用いているが、要するに、汝らは、従来それが三大秘法義であると主張している。しかし、これまでにも何度も教えたように、三大秘法義の実体とは、日寛上人が『文底秘沈抄』に、「一器の水を一器に移す」と御指南の「蓮師の心月」であり、唯授一人金口嫡々の法体である。この法体は大聖人以来、代々の上人の胸中の肉団に秘して持たれるところであり、文書によって公開≠ウれるような次元と異なる御内証の深義であることが、邪信邪念の汝にはどうしても領解できぬらしい。このことが領解できなければ、汝らが僧宝の一分になりうる≠アとなど絶対にないのである。而るに汝が、今の私たちは、信仰の本質的次元において、法主とまったく対等な立場にいる≠ネどと述べることは、身の程を弁えぬ逆路迦耶陀(ぎゃくろかだや)の慢言であると断ずる。
 ここで汝に教えておく。我らが僧宝の一分に成りうるか否かは、御法門の公開未公開によるのではない。大聖人よりの唯授一人金口相承により大聖人の御法魂を御内証に具えられた御法主上人に信伏随従して、正しく信仰に励むか否かにある。したがって、その筋道を無視して、すべての信仰者が僧宝の一分になりうる¢カ在≠ネどではけっしてないのである。さらにいえば、本宗の僧俗は、御仏意に適った正しい信仰を実践しているゆえに、僧宝の一分になりうる¢カ在ではあるが、血脈付法の御法主上人に背逆する汝ら創価学会員は、僧宝の一分になりうる%ケ理など微塵もないことを告げておく。
 なお、汝が法主とまったく対等な立場にいる≠ニ慢言を吐く根拠に、在家者と同じく肉食妻帯の者である≠アとを挙げている。先の『十項目の愚問を弁駁す』においても論証したが、肉食妻帯≠ニは爾前経の戒に関する問題である。そもそも下種仏法における僧俗の行体については、一切の防非止悪、戒体の根源たる本門の金剛宝器戒において、その是非が論ぜられなければならない。すなわち末法の日蓮大聖人の仏法においては、釈尊仏教の戒律は用いないからである。したがって、肉食妻帯≠理由に、汝らが法主とまったく対等な立場にいる≠ネどということが、いかに莫迦げている戯論であるかを知るべきである。本宗において、御法主上人を合掌礼をもって拝し奉る所以は、法界の一切衆生を当位において即身成仏せしめる御本仏大聖人より唯授一人金口嫡々血脈相承の法体を御所持遊ばされているからなのである。
 また汝は日顕だけが「本尊の体」を所持するだの、日顕の内証は「究竟果分の無作三身」だの、あげく無信無行にして遊蕩坊主の日顕が「生身の釈迦日蓮」だの、と好き放題に言い放つ日顕宗は、どこまで狂っているのか≠ニあらん限りの謗言を吐いているが、我らは大聖人より唯授一人金口嫡々の血脈相承をお受け遊ばされた代々の御法主上人のみが大聖人の法体の血脈を御所持遊ばされ、ゆえに代々の御法主上人の御内証には、「究竟果分の無作三身」たる大聖人の御法魂が相伝されていると真実を述べているのである。汝の邪難は、御法主日顕上人御一人を悪人に仕立て上げ、その実、日蓮正宗の血脈そのものを否定せんとする悪辣なスリカエの暴言であると断ずる。なお、汝はまた無信無行にして遊蕩坊主の日顕≠ネどと虚偽捏造の言をもって御法主日顕上人を誹毀讒謗するが、池田大作はかつて、
大聖人御入滅後、唯授一人・血脈付法された第二祖日興上人は、大聖人の広大無辺の大仏法を、いささかも違えることなく、令法久住されることに無量の辛労をつくされた。以来、法灯連綿と七百三十年の間、厳護されてきた法水は、御当代御法主日顕上人猊下に受け継がれておられる。御法主上人の御説法を拝しながら正しく信行に邁進しゆくことが大切である。(広布と人生を語る三─二九七頁)
と語っていた。而るに、現在は正反対の悪言をもって御法主日顕上人を誹謗する。これこそ、池田大作をはじめ汝ら創価学会がいかに狂いに狂っているかを証明するものである。
 また汝は大聖人は「生死一大事血脈抄」の中で「只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ」(1338n)と、最蓮房に仰せられている。ここでは、最蓮房という一門下に釈尊から上行菩薩へと結要付嘱された南無妙法蓮華経を、あなたも唱えて血脈相承しなさい≠ニ勧められている。結要付嘱の法体が法主だけに血脈相承される、などという後世の説は、この大聖人の御教示に反している。法体の相承も信心唱題によって万人に開かれる──これが、真の大聖人の仏法である。日寛上人も、「当体義抄文段」の中で、信心唱題に励む人は「我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり」と示されている≠ニいう。だが、この『生死一大事血脈抄』の当該御文は、汝の言う最蓮房という一門下に釈尊から上行菩薩へと結要付嘱された南無妙法蓮華経を、あなたも唱えて血脈相承しなさい≠ニ勧められている≠ネどという意味ではなく、「南無妙法蓮華経は、釈迦多宝から上行菩薩へ血脈相承された結要付嘱の大法たることを信じて修行に励みなさい」との意味である。汝の言は、大聖人の御指南を己義我見をもって解釈した偽言であると断ずる。したがって結要付嘱の法体が法主だけに血脈相承される、などという後世の説は、この大聖人の御教示に反している≠ネどという邪論も成立しないのである。なお、汝は、法体の相承も信心唱題によって万人に開かれる≠ニして、日寛上人の『当体義抄文段』の御指南をその文証としているが、これも能所・総別の二義を混乱した邪義である。何度も教えた如く、別しての法体相承は、血脈の次第日蓮日興以来、厳然と唯授一人金口嫡々の相伝により御法主上人のみが御所持遊ばされるところである。一切衆生はそこに信を立てて正しく信仰するところに生死一大事の信心の血脈が流れ通い即身成仏の妙果を得るのである。すなわち日寛上人は、かかる衆生の観心を『当体義抄文段』にお示しなのである。但し、無信無行無学の池田大作をはじめとする汝ら創価学会員は、正直に信心唱題に励む人≠ヌころか、三宝破壊のニセ本尊を拝んでいるのだから、我が身全く本門戒壇の本尊と顕るる≠アとなど金輪際ないことを知るべきである。
 また汝はそもそも、大聖人は、一切衆生の信心の対境とすべく、法体を御本尊として建立され、目に見えるように公開された。このうえ、歴代法主が同じ法体を秘伝する必要など、どこにあろうか≠ニいうが、では何故、大聖人は本門戒壇の大御本尊を御顕示遊ばされた後に、第二祖日興上人に、
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。(新編一六七五頁)
と付嘱遊ばされたのか。御本尊が一般に公開されそれで充分ならば、付嘱なさる必要はないではないか。汝は、日興上人以下の代々の御法主上人が御書写遊ばされる御本尊にはなぜ功徳が具わりたもうか知っているのか。申すまでもなく、唯授一人金口嫡々の血脈相承により代々の御法主上人の御内証に大聖人の御法魂が在されるがゆえである。これは、大聖人の末法万年に亘る下種仏法伝持のための方軌である。よって汝の悪言は、末法の弘通の方軌を定められた御本仏大聖人に背逆する大謗法であると断ずる。
 また汝は法主は自らが書写し、あるいは形木にした御本尊に「法魂」を宿らせるのだ、と日顕宗は言う。だが、法魂を宿したはずの返納御本尊を大石寺内で大量焼却している、という矛盾は決定的である。その法魂は焼却してよいのか。結局、法主が伝えるべきは、法魂のごとき正体不明の法体ではなく、法体の教義なのである≠ニいうが、総本山で行われている返納御本尊の御火中については、御法主上人の御許可のもとで、しかるべき施設において丁重に行われている。またお役目を終えられた御形木御本尊に具わり給う御法魂は、丑寅勤行における御法主上人の甚深無量の御祈念によって、大御本尊のもとに還御遊ばされるのである。ゆえに、法魂は焼却してよいのか≠ネどの言は汝の無知蒙昧(むちもうまい)を証明するものと笑っておく。しかし、それと、汝らの如く、未だお役目を終えていない生身の御本尊を、御法主上人の御意に反し、邪悪な念慮をもって勝手にドラム缶で焼却することとは全く別である。まさに汝らの所業こそ恐るべき破仏法の大謗法行為であり、汝らを無間地獄が待っていることは間違いない。後生を恐れよ。




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