七、尊信の対象となる僧宝は日興上人御一人である
                          との謬義を破す



 汝は日寛上人の『三宝抄』を曲解し、「法宝を以て中央に安置し仏及び僧を以て左右に安置する」「仏宝を右の上座に安置し僧宝を左の下座に安置し」云々と、三宝安置のあり方が長々と論じられている≠ネどとして、三宝一体を御指南される『三宝抄』に別体三宝の御本尊奉安形式が述べられていることを唯一の根拠に、何が何でも「三宝一体」として拝するのは日興上人までであるとこじつけるのである。まさに『三宝抄』の脈絡を無視した詭弁というほかはない。
 日寛上人は『三宝抄』に、
所謂僧宝は日興上人を首(はじめ)と為す、是れ則ち秘法伝授の御弟子なる故なり。(歴全四─三八五頁)
等と仰せられ、全般を通じて日興上人は僧宝の上首であり、さらにまた僧宝たる理由が「秘法伝授の御弟子」つまり唯授一人の血脈相承にあることの上から、それ以下の血脈付法の御歴代上人をも僧宝であるという意義が明示され、その趣旨は一貫しているのである。
 汝は三宝安置のあり方が長々と論じられ≠ネどと文章量を理由にして僧宝は日興上人お一人に限ると主張しているが、法義を判定する上で重要なのは文義であり、量が問題でないことは小学生でも知っていることである。
 『三宝抄』に別体三宝の御本尊奉安形式に触れられるのは、内体に約して「三宝一体」ながら外相に約して「任運勝劣」の意義が具わる例として述べられたのである。従って日寛上人は、汝の言う如く、内体に約する「三宝一体」の語を、御歴代上人を外して日興上人にのみ限定されているのではない。日寛上人は別体三宝において、御本尊に向かって、左右対称に仏(大聖人)と僧(日興上人)が安置されていても、そこに差別があるという意義を「右尊左卑」等の国風や、南北などの向きによって、左・右に上座・下座の区別が自ずと具わることを述べられたのである。
 また汝は何を血迷ったか、私は、日顕に言いたい。「歴代法主が『三宝抄』に説く三宝一体の僧宝に含まれる、と本気で思うのなら、大石寺の宝前に、67人の法主の『御影』をずらりと並べて拝みなさい」と≠ネどと言っているが、まさに「頭破七分」の悩乱者にして言い得る戯言(たわごと)である。
 日蓮正宗における御本尊の奉安形式においては、一体三宝、別体三宝等があるが、これらは開合の相異であり、一体の御本尊の中にも、人法の御本尊と三宝の全てが具わるのである。しかるに、特に御本尊に具わる三宝の意義を開けば、御本尊の左右に大聖人、日興上人の御影を安置する別体三宝となるのであり、日寛上人が「所謂僧宝は日興上人を首と為す」と御指南される如く、別体三宝の場合、根本の僧宝たる日興上人の御影を御安置し帰命する意義の中に、それ以下の御歴代上人に帰命する意義も含まれるのである。故に本宗においては、本尊奉安形式の如何に関わらず、御宝前に於いては必ず日目上人以下の御歴代上人に対しても、南無し奉り、御威光倍増乃至御報恩謝徳の御観念を申し上げるのである。
 汝が67人の法主の『御影』≠ネどと悩乱の言を述べるのは、汝がすっかり大石寺門流の信仰を捨て去り、学会の売僧になりさがって改悪された観念文によって日夜に邪行を行っているからである。また67人≠ニは総本山第六十七世日顕上人に対する誹謗の意味で言っているのであろうが、総本山の系譜は御本仏宗祖大聖人を初祖とし、六十七世を数えているのであり、汝の言は御当代日顕上人を非難するのみならず、御本仏大聖人に対してもずらりと並べて拝みなさい≠ネどと愚かしい悪態をつき、冒涜しているのである。
 また、同じく法水写瓶の表現が使われていても、「三宝抄」では信仰対象として安置すべき僧宝が、「文底秘沈抄」では法義継承面での大石寺の正統性が、それぞれ論じられている。二つの議論は、次元の異なる話なのである≠ニの言であるが、内体に約して三宝一体を御指南される『三宝抄』に、
所謂法宝の全体即ち是れ仏宝なり故に一念三千即自受用身と云い、又十界互具方名円仏と云うなり。亦復一器の水を一器に写すが故に師弟亦体一なり、故に三宝一体也(歴全四─三九二頁)
とある御指南と、『文底秘沈抄』の、
今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し(六巻抄六六頁)
との御指南において、「一器の水を一器に」との「法水写瓶」の意義が、大聖人から日興上人までと、それ已下の御歴代上人とで次元の異なる話≠ネどと主張する汝こそ、この明らかな日寛上人の文意に背いて三宝義に迷惑し、日寛上人を冒涜する不徳漢である。
 汝の『三宝抄』に対する理解が先に述べる如くに誤謬である以上、『三宝抄』『文底秘沈抄』ともに、御歴代上人が承継遊ばされる血脈法水が大聖人の御内証の法水と寸分違わないこと、またその意義において三宝一体を志向された御指南であることは明々白々たる事実なのである。




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