六、日寛上人こそが大聖人と日興上人の正統な系譜
                    との誣言(ぶげん)を破す



 ここで汝は、日寛上人は、ご自身が相承を受けられた後でも、歴代法主だけは本仏と一体である、などと決して説かれなかった≠ネどと述べている。しかし『三宝抄』には、
若し内体に約せば実には是れ体一なり。所謂法宝の全体即ち是れ仏宝なり故に一念三千即自受用身と云い、又十界互具方名円仏と云うなり。亦復一器の水を一器に写すが故に師弟亦体一なり、故に三宝一体也。(歴全四─三九二頁)
と「三宝一体」の意義が説かれている。後にも述べるが、「三宝一体」である故に、日興上人のみならず、歴代の御法主上人の御内証は、御本仏大聖人と一体である。
 この『三宝抄』は、日寛上人が第二十七世日養上人に血脈相承せられて御隠尊となられた後の享保七年(一七二二)の御著述である。ゆえに日寛上人は、ご自身が相承を受けられた後でも、歴代法主だけは本仏と一体である、などと決して説かれなかった≠ネどという汝の言が、事実に相違する虚言であることは明らかではないか。
 また『文底秘沈抄』には、
今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し(六巻抄六六頁)
と御指南されている。『邪誑の難を粉砕す』においても、
日寛上人は「一器の水を一器に写すが故に師弟体一・三宝一体」(三宝抄)であると仰せられているのであるから、「一器の水を一器に移す」(文底秘沈抄)御歴代上人をも三宝一体であると仰せられていることは明々白々である。(一八九頁)
と、『三宝抄』における「三宝一体」の御指南は御歴代上人も含めて拝すべきであると指摘したが、日寛上人が『三宝抄』と『文底秘沈抄』に「一器の水」と述べられた文意は、どちらも御本仏大聖人の血脈法水について示されたものである。すなわち御歴代上人が御内証に受け継がれる血脈法水には勝劣・区別はないのであり、その意義において、御歴代上人においても「三宝一体」と拝することが日寛上人の御意なのである。「三宝一体」の義が『六巻抄』に明文として示されていないといっても、この『三宝抄』の御指南と『文底秘沈抄』の御指南は同じ趣旨であり、最晩年に完成された再治本の「六巻抄」に、そのような主張は、どこにもみられない≠ニいう汝の言は誣妄(ふぼう)である。
 また汝は、むしろ「当家三衣抄」の最後の所で、日寛上人は、宗門の三宝を論ずるとともに、「行者謹んで次第を超越する勿れ」との誡めの言葉を残されている≠ニ述べている。そもそも、『当家三衣抄』に汝が引く文の前には、
南無仏・南無法・南無僧とは、若し当流の意は、(中略)南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師。此くの如き三宝を一心に之れを念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え乃ち一子を過ごすべし云云。(六巻抄二二五頁)
と示されている。したがってこの文は、本宗の信仰において三宝を念ずることを御教示されたものであり、中において、日興上人、日目上人以来の御歴代上人を僧宝として拝すべきことを明確に御指南されるとともに、行者即ち本宗僧俗は、仏法僧の三宝を拝するという「次第」を越えてはならないとの意である。その「次第」を越えたならば、成仏の妨げとなる。汝の引くところの「行者謹んで次第を超越する勿れ」の御指南は、かえって宗祖大聖人以来唯授一人の血脈を承継され、尊信すべき血脈付法の御法主上人を、能所の「次第」を越えて蔑ろにする汝らのごとき邪義を厳しく誡められたものである。
 なお汝は、これは、「法主即日蓮」の義などに基づく「法主信仰」を、上人が否定されていた証左である≠ニいうが、池田大作が、
唯我与我の御法主上人のご内証を、大聖人と拝すべきなのであります。(聖教新聞昭和五十四年五月四日付)
と述べていたように、御法主上人の御内証は大聖人と一体であると拝すべきなのである。ただし日顕上人が、
たしかに本宗信徒の立場からは、歴代法主の内証を大聖人様と拝することが、信仰上、大切でありますが、そこには三宝における内証と外用等の甚深の立て分け、筋道があるのです。(中略)しかし、それと学会が論難する「法主即大聖人」や「法主本仏」などとは、筋道も意義も異なるのであり、そのようなことは全く宗門には存在しておりません。存在していないにもかかわらず、さも存在している如く誣告するのが、創価学会の卑劣なやり方であります。(創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す二四五頁)
と御指南されるように、法主即日蓮法主信仰≠ネどと、あたかも御法主上人個人が信仰の対象であるかのように述べる汝の義は、もとより本宗には存在しない。したがって日寛上人が「法主信仰」を∞否定され≠驍アとなど、あり得ないのである。
 次に汝は、日蓮大聖人は「強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ」(1338n)と断じられ、信心根本の血脈観を明示された≠ニしている。
 この「信心の血脈」について、日淳上人は、
信心血脈は付嘱相承の場合問題ではない。(中略)大聖人が仏法─最大深秘の正法と仰せ給ふ秘法、また末法には持ち難しと仰せ給ふ大法を唯信心だけで付嘱相承し給ふと考へるのは迂愚の骨頂ではないか。そういう顛倒の考へ方によって仏法の混乱があり、魔が跋扈するのである。(日淳上人全集一四四四頁)
と御指南されている。信心の血脈のみをもってよしとし、付嘱を疎かにするところに、仏法の混乱がある。また汝はこのような言を吐く前に、池田大作の、
御本仏日蓮大聖人の御内証そのものであられる南無妙法蓮華経の法体こそ、生死一大事血脈の究極であります。総別の二義でいえば「別して」の立場であります。申すまでもなく、この法体の血脈相承は「身延相承書」に「血脈の次第 日蓮日興」と仰せのごとく、第二祖日興上人にすべて受け継がれ、以後、血脈付法唯授一人の御法主上人が伝持あそばされるところであります。(中略)「総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず」の御金言に照らして、私達は「別して」の法体の血脈相承と「総じて」の信心の血脈を、明確に立て分けて拝していかなければなりません。
(「生死一大事血脈抄」の会長講義改訂版三頁)

の言をよく読んでみよ。血脈には、「法体の血脈」と「信心の血脈」という総別の二義が厳然と存することは、池田大作自らが言明している。『生死一大事血脈抄』の文をもって信心根本の血脈観を明示された≠ネどというのは、「別して」の法体の血脈相承を無視するものであって、これは大作の「講義」にも背く、汝の偏頗(へんぱ)な痴論(ちろん)である。
 つづいて汝は、日興上人は「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」(1618n)と遺誡され、法主の権威を相対化された≠ニいう。しかしこの『遺誡置文』の文は、その次の、
衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧(くじ)くべき事。(新編一八八五頁)
との文と対比して拝すべきである。すなわち、仏法の正邪を判定し、状況に応じて衆義を摧くべき立場にあられるのはあくまで「貫首」すなわち御法主上人である。数を頼んで血脈を冒涜する創価学会こそ、「摧くべき衆義」に当たるのである。
 さらに汝は、日有上人は「信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり」と述べ、「信心の血脈」という血脈の本義を語り残された という。
 しかし日達上人はこの『化儀抄』の文について、
信心といい、血脈といい、法水というところの法水は、どこから出てくるかということがもっとも大切であります。それは、我が日蓮正宗においては日蓮大聖人のご当体たる本門戒壇の大御本尊であります。ゆえに、大聖人の仏法を相伝しなければ、大聖人の仏法の法水は流れないのであります。大聖人は『一代聖教大意』に『此の経は相伝に有らざれば知り難し』と申されております。また日寛上人は『口伝にあらざれば知り難し、師資相承故あるかな』と申されております。師資相承とは師より弟子に相承することであります。(日達上人全集二─五─五九二頁)
と仰せられている。この文に「信」「血脈」「法水」という言葉があるからといって、血脈相伝を無視した「信心の血脈」はあり得ない。「信心の血脈」も、根源は師資相承による唯授一人の血脈相承にあるのである。
 この項の最後に汝は、日寛上人の「六巻抄」は、これら宗門先師の正しき血脈観、法主観を確固たるものとする、正しい教学上の土台を提供したのである≠ネどという。しかし、『邪誑の難を粉砕す』でも、
日寛上人は、大聖人以来相伝される大法の中で、法門総付の相承として立て分けられた上から三大秘法義を『六巻抄』等に著され、教学体系として打ち立てられたのである。(八六頁)
と述べたように、『六巻抄』は汝のいうような宗門先師の正しき血脈観、法主観を確固たるものとする、正しい教学上の土台を提供≠キることを目的とした書ではない。『六巻抄』は、血脈の深義に基づき大聖人の御書の上からの各重要法門を示された書なのである。何より、提供≠ネどという言は、日寛上人が令法久住、広宣流布のために『六巻抄』を著された尊いお心を軽しめる傲慢な思い上がりと呵すものである。




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