五、日寛上人は六巻抄から法主信仰を除外された
                         との僻見を破す



 汝は日寛上人の『当家法則文抜書(とうけほっそくもんぬきがき)』について日寛上人はそこで、日教の「類聚翰集私」から、多くの箇所を抜き書きされている。中には、「当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり」「法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ」などの「法主即本尊」「法主即日蓮」の義を説いた文も含まれている≠ネどといっている。しかしながら『類聚翰集私』の当該御文においては、補処(ふしょ)を定めることと、それによる次第相続の意義を前提として述べられており、直ちに御法主上人が即御本尊であるとか、また大聖人であるなどという文意ではない。この文の正意は歴代の御法主上人が、唯授一人の血脈相承によって伝えられた法体を、大聖人・日興上人の御意志に基づき御本尊として御書写あそばされるのであり、御法主上人に伝わる唯授一人血脈相承の法体と、戒壇の大御本尊とが御内証の上に不二の尊体であるとの意義の上から、御法主上人に信順する信仰の筋目を述べられているのである。汝の法主即本尊%凾フ言は勝手な歪曲的解釈に過ぎない。
 また汝は、「当家法則文抜書」は「抜書」であり、殊更に何かを主張した論書ではない≠ネどと同書を評価しているが、この『当家御法則文抜書』には、抜粋された要文に続き、「大貮(だいに)云く」(※「大貮」とは日寛上人御自身の阿闍梨号)として私註を加えられ、日寛上人御自身の教学的見解を述べられた箇所も多く拝せられるのである。さらに註の中には、
予が末法相応抄の如し(研教九─七五七頁)
と記されているように、明らかに他人の閲覧を想定された御配慮をされており、これ以外にも随所に同趣旨の御教示をされている。
 同書は日寛上人が御自分の法門研鑽のために要文を抜粋され、御自身の要文集として御所持遊ばされたことはいうまでもないが、さらには日寛上人の御弟子方はもちろんのこと、後世の弟子の教学研鑽に資するために同書を残されたことは明らかである。汝は日寛上人が後世の門人に伝え残そうとされたのは、ひとえに「六巻抄」であった≠ニ述べるのは、この『当家御法則文抜書』の文献としての価値を意図的に下げることで、そこに抜書された文言の有する重要な意義をもすべて葬り去ろうという魂胆であろう。同書は当家以外の他門の文献の引用も見られるが、なにより日寛上人が「抜書」として重用されていたものであり、その中には数多くの尊い日寛上人の御教示が存在するのである。よって汝ごときが、同書の文献としての価値全体を備忘録の類≠ネどと軽々しく評価することは、日寛上人に対する不遜極まりない冒涜に他ならない。
 また汝は当項の全体的な姿勢として、『六巻抄』に直接示されていない教義は日寛上人の本意ではないかのごとき暴論を展開している。『六巻抄』が日寛上人の主要な御著述であることは勿論であるが、一々の御法門に関していえば、『六巻抄』に述べられていないことをもって日寛上人の重要な教学ではないなどと軽々に論ずることは誤りである。数多(あまた)ある日寛上人の御著述に説かれる法義内容のすべてを尊い日寛上人の教学であると拝することが正しい教義研鑽の姿である。
 また汝は日寛上人は、宗門の〈伝統〉に「法主即本尊」「法主即日蓮」の義があることを承知のうえで、最も大事な「六巻抄」の内容からそれを除外されたのである「六巻抄」のどこに、歴代法主の内証を「本尊の体」とするような教義があろうか≠ネどと述べるが、日寛上人は『文底秘沈抄』に、
法を日目に付し、日目亦日道に付す、今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月豈此に移らざらんや(六巻抄六五頁)
と御法主上人の処に「蓮師の心月」すなわち、金口嫡々血脈相承に基づく御本尊の御内証の法体が伝持遊ばされていることを明示されているではないか。この御教示を刮目して見よ。これは「当家御法則」の、
末法の本尊は日蓮聖人にて御坐すなり。然るに日蓮聖人御入滅有て補処を定む、其次々に仏法を相属して当代の法主の処に本尊の体有るべきなり、此の法主に値ふは聖人の生れ替りて出世し給ふ故に、生身の聖人に値遇し結縁して師弟相対の題目を声を同く唱へ奉り(研教九─七四〇頁)
の文と同義の御教示であり、除外≠ネどなされていないのである。
 また汝はこの文が左京日教師の『類聚翰集私』の文であることを奇貨として、じつは、日寛上人は、「類聚翰集私」が誰の作なのか分からず、宗門の教義規則=「当家御法則」の集成として認識され、抜き書きをされた。「類聚翰集私」を日教の作と断定したのは、近代の堀日亨上人であり、江戸時代の宗門人は知る由もなかった≠ネどといい、またたとえ歴代先師の指南であっても、「法主信仰」につながり、正統教学を混乱させる教えは用いない、との日寛上人の姿勢がうかがい知れよう≠ネどと、あたかも日寛上人が御法主上人の御内証に関する御指南をすべて除外≠ウれたかのようにいっている。
 日寛上人は、抜き書きされた「当家御法則」の文が、『類聚翰集私』中にあることを御存知であったかどうかは不明であるが、もし御存知でなかったとしても、この内容は大石寺の伝統教義であると認識されていたのである。そもそも、御法主上人を信順すべき旨の信条は、歴代先師の指南∴ネ前に大聖人の『御本尊七箇之相承』に、
代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。(聖典三七九頁)
との御教示が存在するのである。日寛上人は御著述中において、『御本尊七箇之相承』を度々引用なされていることからも明らかなように、当然この「代代の聖人悉く日蓮」との御指南を大聖人の御金言として拝していたのであり、汝の疑難は完全な的外れである。
 さらに左京日教師と同時代の日有上人の『化儀抄』には、
手続の師匠の所は、三世の諸仏高祖以来代代上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能く能く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此くの如く我に信を取るべし、此の時は何れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏なり、是れを即身成仏と云うなり(聖典九七四頁)
とある。この代々の御法主上人の所に宗祖の御法魂が在すとの御指南は、「当家御法則」の文と同意義である。よって「当家御法則」の文に示された、御法主上人の御内証を「本尊の体」と拝するのは大石寺の伝統教義であり、日寛上人が要文として抜書された意味もここに存するのである。
 またさらにいえば、日亨上人は左京日教師の『類聚翰集私』について、
類聚翰集私ト名ケタルカ、即チ宗祖ノ書翰ヲ類聚セシ私集ノ意ナルカ(自然鳴 大正四年七月号五頁)
と推察なされているように、同書は当時大石寺に伝承されていた宗義を集め、それらについて私見を述べたものである。しかもこの『類聚翰集私』には、当時は容易に披見することのできなかった日有上人の『化儀抄』の引用も見られ、左京日教師が大石寺の伝統教義の薫陶を受け、それを自らの解釈として述べられたのが「当家御法則」の文であると考えられるのである。したがって「当家御法則」の文が左京日教師の『類聚翰集私』の文であったとしても、この文を御覧になった日寛上人は大石寺の伝統法門を伝える要文としての意義をお認めになられ、書き抜きされたものと拝する。
 いずれにせよ「御本尊の体」が唯授一人血脈相承によって当代の御法主上人の御内証に伝承されていることは大石寺に伝わる伝統教義であり、この事実はいかなる邪難があろうとも微動だにしないのである。
 汝の思惑は、単に御歴代の御法主上人の内証を大聖人と拝する教義を否定せんとするところにある。この邪論を正当化するためには、「当家御法則」の文の存在が邪魔になるのであり、汝はこれを無意味なものにするために無理な策を種々に弄しているにすぎない。




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