一 循環論法の誤謬について≠破す



 汝は、宗門の主張に対し、これを循環論法≠ニすることによって、論理学的に誤ったものであるかのように仕立て上げようとする。しかし汝の論法こそ、理を非に言い曲げる弁論すなわち詭弁である。
 そこではじめに、アリストテレスの俄(にわ)か弟子として俄か仕込みの論理学を喋々(ちょうちょう)する汝の主張こそが、詭弁(きべん)であり、循環論法≠ナあることを指摘しよう。
 我らが前書『十項目の愚問を弁駁す』で述べたように、「循環論法」とは、アリストテレスの形式論理学上の多くの「虚偽論」論旨中の僅か一部分であり、その他にも多くの虚偽が論じられている。「虚偽論」は伝統的論理学の一部門であり、「誤謬論」ともいい、アリストテレスに遡源(そげん)するのであって、もと「詭弁論駁論(きべんろんばくろん)」という。誤った推論の、誤りの性格を分類しつつ明らかにしようとするものである。
 「虚偽」とは、思考の誤謬をいい、詭弁ともいう。この「虚偽」は二つに大別される。(一)「研究法に関する虚偽」と、(二)「統整法に関する虚偽」とである。
 (一)「研究法に関する虚偽」は二つに分けられる。(あ)「観察に関する虚偽」と、(い)「記述または説明に関する虚偽」である。(あ)「観察に関する虚偽」は、観察すべきものを観察しない、ないしは誤った観察をすることによって生ずる虚偽である。(い)
「記述または説明に関する虚偽」は、(ア)「軽率な概括による虚偽」(一般化の虚偽)、(イ)「前後即因果の虚偽」、(ウ)「仮説に関する虚偽」に分けられる。
 (二)「統整法に関する虚偽」は二つに分けられる。(あ)「定義および分類に関する虚偽」と、(い)「論証に関する虚偽」である。(あ)「定義および分類に関する虚偽」は、定義の規則に反する虚偽および分類の規則に反する虚偽である。(い)「論証に関する虚偽」は、(ア)「言語の意味不明瞭による虚偽」と、(イ)「論証の不完全さによる虚偽」に分けられる。
 (ア)「言語の意味不明瞭による虚偽」は、(A)「結合および分解の虚偽」、(B)「偶然の虚偽」、(C)「強調の虚偽」、(D)「文意曖昧の虚偽」、(E)「複問の虚偽」に分類される。
 (イ)「論証の不完全さによる虚偽」は二つに分けられる。(A)「推理の形式的虚偽」(純論理的虚偽)と、(B)「論証の資料の不完全さによる虚偽」(実質的虚偽)である。
 (A)「推理の形式的虚偽」は推理法則に背くものであり、(a)「直接推理に関する虚偽」、(b)「間接推理に関する虚偽」、(c)「帰納推理に関する虚偽」、(d)「類推に関する虚偽」がある。このうち(b)「間接推理に関する虚偽」に、@定言三段論法に関するもの、A仮言三段論法に関するもの、B選言三段論法に関するものがある。
 (B)「論証の資料の不完全さによる虚偽」は二つに分けられる。(a)「論点先取の虚偽」と、(b)「論点相違即ち的外れの虚偽」とである。
 (a)「論点先取の虚偽」には、@不当仮定の虚偽、A先決問題要求の虚偽、B循環論法の虚偽がある。
 (b)「論点相違即ち的外れの虚偽」には、@論点変更の虚偽、A感情に訴える虚偽、B論証不足の虚偽がある。このうちA感情に訴える虚偽には、(1)人に訴える論証、(2)衆人に訴える論証、(3)無知に訴える論証、(4)威力に訴える論証がある。
 以上、一般的な「虚偽」に関する分類を概説したが、汝のいう循環論法≠ヘこの中の、「論点先取の虚偽」に属する。論証すべき結論を、前提の一部とするような論証のことである。悪循環は、またディアレーレ(たがいに他によっての意。悪循環を意味する)とも呼ばれるが、一般に循環論証をさし、またときに、被定義概念Aの定義概念としてBを用い、同時に被定義概念Bの定義概念としてAを用いる循環定義をさすこともある。
 これが「循環論法(論証)」の論理学上の分類における位置と意義付けである。
 このように論理学を概括し、「循環論法(論証)」の位置と意義付けを略記したのは、本来、論理学における、「虚偽論」の研究は、誤った推論の、誤りの性格を分類しつつ明らかにし、詭弁を論駁する資糧とするものであるにもかかわらず、汝や創価学会がこれを逆に悪用していることを暴き破すためである。つまり汝は循環論法≠ニいう一般になじみのない論理学上の用語を悪用し、論理学的見地からの検討を装って、本宗の正義の論述を悪義のように欺瞞しているのだ。
 しかし我らの反駁は、法四依の方軌や文・理・現の三証を踏まえた上での正直な論証であり、本質的に論理学に適った正論である。
 このような論理学の見地より分析すれば、むしろ汝の本宗に対する邪難や弁解こそが、虚偽・誤謬であり詭弁である。故に『十項目の愚問を弁駁す』において、

ところで汝の循環論法をもってする血脈批判説はそれ自体迷妄であると共に、かえってアリストテレスの虚偽論中の、「観察に関する虚偽」「軽率な概括による虚偽」「論点相違即ち的外れの虚偽」に該当していると思われる。汝はアリストテレスの俄か弟子としても余りに杜撰(ずさん)であり、自らを破す愚の骨頂というべきである。(五頁)

と指弾したのである。
 さて汝は、日蓮正宗の血脈相承が日寛上人によって理論的に開示されているとする。故に創価学会も御法主上人と同等の教義理解が得られるとし、血脈付法の御法主上人を不要とするのである。これが汝の宗門に対抗する邪論の骨子である。その根拠とするのが、日寛上人の『文底秘沈抄』の御文である。この御文を悪用する汝の循環論法≠ニは、次のようなものである。

A 日寛上人は血脈相承を『文底秘沈抄』で理論的に開示している。
B なぜ血脈相承を理論的に開示したと分かるのか。
A 日寛上人が血脈相承を『文底秘沈抄』で理論的に開示したと述べているからだ。

 このように汝がいう、Aの前提と結論とは同一の陳述であり、円環状に連鎖している。まさに循環論法≠ナはないか。つぎに汝の循環論法≠フ具体例も挙げておこう。
相承の当事者たる日寛が、『文底秘沈抄』の内容を超える奥義などない、と断言している以上、いかなる非公開の相承法門も同抄の三大秘法義に従属する法門とみなしうる。こうしたことから、私は、大石寺の金口相承の教義上の核心は日寛の六巻抄、なかんずく『文底秘沈抄』の中で理論的に開示されている、と主張したのである=i邪書六六頁)
私は血脈相承の当事者が書き残した言説(史料)を用いて立論している。それが、人文科学研究における当然の手法だからである。大石寺の歴代法主の中で最も教義的に信頼のおける日寛が、「宗門の奥義此に過ぎたるは莫し」と言われる宗門究極の奥義について「已むことを獲ず粗大旨を撮りて以て之を示さん」と自ら記し(要3―70)、寿量文底の三大秘法義を開示している。私はそこに最も着目し、金口相承の理論的開示説を有力な仮説として提示したのである=i邪書八六頁)
 ここでも、「日寛上人は血脈相承を『文底秘沈抄』で理論的に開示している」という前提は、「日寛上人は血脈相承を『文底秘沈抄』で理論的に開示した」という結論を先取りしている。このような場合には、前提に関して、血脈相承の理論を確実に認識できること、そして「開示」していることが確実であること、それが現時点で「確認」できること、等々を証明しなければならない。ところが、汝は常にその証明を避ける。換言すれば、血脈相承の理論に関して一切の思考を停止する汝は、前提と結論の関係を円環で閉じるしかなくなり、循環論法の誤謬に陥るのである。
 このように汝の「日寛上人は血脈相承を『文底秘沈抄』で理論的に開示している」という前提は、論点の先取りであり、「日寛上人は血脈相承を『文底秘沈抄』で理論的に開示した」という結論は演繹(えんえき)されない。なぜならば、汝は血脈相承の理論を確実に認識することはできないのであり、「開示」していることが確実とはいえないからである。ゆえに、この例では前提としての仮説からの推測を演繹と取り違える論理的な誤謬が、ここにはみられるのである。
 汝は日寛上人の『文底秘沈抄』の御文にしがみついてこの詭弁を構える。しかし考えてもみよ。たしかに三大秘法義は奥義であるが、『文底秘沈抄』の奥義が、奥義中のどの段階つまり最奥なのかどうなのか、さらには全分なのか部分なのか、汝には全く分からないはずである。ところが汝はこれを奥義中の奥義のごとく仮定し、その上で「日寛上人は血脈相承を『文底秘沈抄』で理論的に開示している」との前提としたうえでさらに推論して、『六巻抄』に示される三大秘法義が血脈相承の内容であり、「日寛上人は血脈相承を『文底秘沈抄』で理論的に開示した」と結論するに至る。まさに、典型的な循環論法≠ナはないか。
 ここで汝に教えておこう。日寛上人は『撰時抄愚記』に、
今略して玄文の大旨を示さん。(御書文段三二九頁)
等と述べられて天台三大部を略述されている。いうまでもなく三大部は法華経の深義を述べられたものであるが、日寛上人が大旨として述べられたところは、三大部それぞれの内容の概説に過ぎない。
 このように日寛上人の大旨とは、ここでは概括的な意義というほどの意味である。したがって『文底秘沈抄』に宗門の奥義たる三大秘法の大旨を示されることも、やはり概説と拝すべきである。すくなくとも、「宗門の奥義」を詳細に解説した≠ネどとは言えないのである。にもかかわらず、そのように推定する汝の見解は明らかな誤謬である。以上、まずはじめに汝の論理学を悪用しての詭弁を、論理学の観点から破折したのである。
 つぎに汝は、我らが汝に対する反論の中で、日顕上人の血脈継承のお立場の正当性を論じたことに対し、阿部は、今回の『阿部側回答書』の中でも、相変わらず循環論法を多用している≠ニ非難し、つぎのような疑難を構えている。
阿部の循環論法とは、通例、次のようなものである。
A 日顕は血脈を受けている。
B 日顕が血脈を受けていることを、どうして知ることができるのか。
A それは、日顕が「血脈を受けた」と言っているからである。
B どうして日顕が言っていることを信用できるのか。
A 日顕は血脈を受けた当事者だからである。
Aの前提と結論とは同一の陳述であり、円環状に連鎖している。ゆえに循環論法と言うのである。
具体例も挙げておこう。
日顕上人は血脈御所持の当事者であり、血脈に関する御指南は『説』ではなく、全て『真実』なのである(『阿部側回答書』四五頁)。
 ここでも、日顕は血脈所持の当事者である≠ニいう前提と血脈に関する日顕の説は全て真実である≠ニいう結論との間に、密接な関係が見出される。このような場合には、前提に関して、「血脈」なるものが確実に存在すること、それが現時点で「所持」できること、そして「日顕」が血脈所持の「当事者」であること、等々を証明しなければならない。ところが、阿部は常にその証明を避ける。換言すれば、「血脈」「法主」に関して一切の思考を停止する阿部は、それらが問題となるや、前提と結論の関係を円環で閉じるしかなくなり、循環論法の誤謬に陥るのである

 このように我らの論述を恣意(しい)的に略説した上で循環論法≠ニ揶揄しているのである。しかし御法主上人の血脈継承のお立場は、日蓮大聖人・日興上人以来、先師からの御付嘱によって定められているのである。その甚深の御境界に具え給う一切は唯授一人であり、他に示されるものではない。したがって一般僧俗は、御法主上人の御高徳は無論であるが、御先師上人よりの御付嘱という厳然たる事実によって、御法主上人の正統にましますことを拝信するのである。
 日顕上人が正嫡の御法主上人にましますことは、御登座の当初より、宗内僧俗の全てが拝信申し上げてきたことである。また日達上人の選定された方が日顕上人であられたことは、複数の僧侶による証言を示して何度も教えた通りである。あの池田大作でさえ御登座後十年以上の長きにわたり拝信していたではないか。
 このように、
道理証文よりも現証にはすぎず。(『三三蔵祈雨事』・新編八七四頁)
であって、御登座以来二十七年にわたる歳月が、日顕上人の血脈継承の真実を証明しているのである。
 これらの事実からも、汝が日顕上人の血脈承継を証明するものは日顕上人の言のみのように欺瞞し、もって循環論法≠ニ主張することは、論理学における「論点先取」の虚偽中の「不当仮定」、また「論点相違」の虚偽中の「論証不足の虚偽」に該当することが明らかである。すなわち汝の日顕上人への循環論法≠ネる疑難・誹謗はすでに破綻しており、全くの虚偽・詭弁に過ぎない。
 また汝は、たとえ日顕は血脈所持の当事者である≠ニいう前提が証明されても、血脈に関する日顕の説は全て真実である≠ニいう結論は演繹されない。なぜならば、「血脈御所持の当事者」に「真実を述べる」という意味は含まれていないからである。換言すれば、血脈所持の当事者が必ず血脈に関して真実を述べる、とは言えない。ゆえに、この例では前提に対応するいくつかの結論のうちの一つが述べられているにすぎず、その結論は本来、推測された仮説として「〜であろう」といった表現で示されねばならない。推測を演繹と取り違える論理的な誤謬が、ここにはみられる≠ニもいう。この疑難も同轍である。すなわち汝は血脈所持の当事者が必ず血脈に関して真実を述べる、とは言えない≠ニの一方的な論理をもって、我らに論理的な誤謬≠ニの誹謗をなすが、それこそ論理的におかしい。このような場合、当然「血脈所持の当事者は必ず血脈に関して真実を述べる」ということも仮定の中には含まれるのであって、汝のように一辺の仮定だけで、当方の論旨を論理的な誤謬≠ニ断定することは、むしろ偏向した不当な仮定を前提とした論証といえる。このような論証も「不当仮定」の虚偽に相当するのである。
 つぎに汝は前回、現日蓮正宗の主張は、学問的にみると循環論法に陥っているのではないでしょうかあなた方は常に、歴代法主の専権的な立場を歴代法主の文言によって正当化しようとします。単純な循環論法であり、検証も反証も不可能な、自己完結している議論と言わねばなりません≠ニ述べて、日蓮正宗の主張を循環論法≠ニすることによって、これを根底から否定しようとした。これに対し我らは『十項目の愚問を弁駁す』において、

当方は御法主上人の文証のみで御法主上人の正当性を論証しているのではなく、まず第一には宗祖日蓮大聖人の御書を基本とし、同様に大聖人の金口を留められた御相伝書、さらに御歴代上人の御指南をもって論証しているのである。
 ところが汝が当方の主張を循環論法とする理由は、予め断っておきますが、あなた方は、たしかに法主の権能を宗祖のいくつかの言説によっても根拠づけようとしています。しかし日蓮文献に関する研究上の定説では、それらはすべて後人の偽作か加筆であり、循環論法を脱しているという有力な根拠になりえません≠ニ述べるところにある。すなわち当方が論証に用いた宗祖日蓮大聖人の御書や御相伝書を後人の偽作か加筆≠ニするのである。しかし、どの御書や御相伝書が、どのような理由で偽作≠ネのかや、どの箇所が加筆≠ナあって、なぜそれが論証に不適切なのかは明記していない。全く非論理的な記述である。このようなふざけた理由で当方の主張を否定することはできない。
 特に相伝について『日蓮一期弘法付嘱書』と『身延山付嘱書』はその根本であり、これより血脈相承のすべてが伝承されている以上、循環論法(論証)などの言い掛かりこそ詭弁という外はない。
(四頁)

と駁した。そして、
 しかも、汝の説は、これまでの創価学会の主張と相反している。なぜならば、当方が引証した御書や相伝書は、総本山第五十九世日亨上人の編纂された『御書全集』や『富士宗学要集』等に収録されているが、創価学会はこれを出版して依用しているではないか。また加筆部分については、池田大作も「百六箇抄講義」のなかで、
本抄には、歴代の法主上人が「百六箇抄」を拝読された折り、一種の「覚え書き」として挿入、付加された部分が織り込まれております。歴代の法主上人が、日蓮大聖人の血脈を受けられ、大聖人の口伝を一点の誤りもなく後代に伝える意味もあって、「百六箇抄」の行間、本抄の前後、各項目の注釈等として書き込まれたものであります。故に、この部分も、私たちが大聖人の口伝を体得していくうえにおいて、不可欠の記述といえましょう。
 この講義にあたっても、百六箇条の口伝はもとより、代々の法主上人が記述された個所も、すべて日蓮大聖人の金口として拝していきたい(大白蓮華 昭和五二年一月号二〇頁)
と述べているからである。
 そこで汝に反問する。汝はこの池田の言に対し自らの意見として肯定か否定かをはっきり論ずると共に、その理由を述べよ。さらに大聖人の文献の何が偽作なのかを、その理由と共に明示せよ。またどの部分が加筆なのかを明示し、なぜそれが論証として不適切なのか理由を述べよ。そしてそれは、創価学会の公式見解なのか、それとも汝の私的見解なのかを明らかにせよ。(五頁)

と詰めたのである。ところが汝は我らの破折の内容について、今回、つぎのように要約している。
 現宗門が論証に用いた宗祖の書や相伝書が、なぜ偽作なのか、どの箇所が加筆であり、なぜそれが論証に不適切なのか、ということを、松岡の質問書は論理的に記述していない。相伝については『日蓮一期弘法付嘱書』と『身延相承書』はその根本であり、これより血脈相承のすべてが伝承されている以上、循環論法(論証)などの言い掛かりこそ詭弁である
 このように汝は我らの前掲反論の主要部分である、
当方は御法主上人の文証のみで御法主上人の正当性を論証しているのではなく、まず第一には宗祖日蓮大聖人の御書を基本とし、同様に大聖人の金口を留められた御相伝書、さらに御歴代上人の御指南をもって論証しているのである。(十項目の愚問を弁駁す四頁)
との箇所や、池田大作の発言およびこの発言についての我らの追及はよほど都合が悪いと見えて全く挙げていない。汝は実に姑息(こそく)である。
 その上で、汝は、「相伝について『日蓮一期弘法付嘱書』と『身延相承書』はその根本であり、これより血脈相承のすべてが伝承されている」(「阿部側回答書」五頁)という記述も、同様な例である。いわゆる「二箇相承」は、日蓮と日興の関係についてのみ記された文書である。したがって、二箇相承が信仰上の「根本」だとしても、歴代法主間の血脈相承とは論理的につながらない。あくまで仮説の域を出ないはずである≠ニ反論してきた。しかし、『本因妙抄』に、
此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり。(新編一六八四頁)
と示され、『御本尊七箇之相承』に、
日蓮在御判と嫡嫡代代と書くべしとの給う事如何。 師の曰わく、深秘なり、代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。(聖典三七九頁)
と説かれるところは、血脈相承が日興上人以下の御歴代上人に御相伝されていることを示している。したがって「二箇相承」は、汝のいうような日蓮と日興の関係についてのみ記された文書≠ナはない。もし汝が、『本因妙抄』『御本尊七箇之相承』の御文を後加文という理由で否定するならば、当然、池田大作の後加文に対する、
この部分も、私たちが大聖人の口伝を体得していくうえにおいて、不可欠の記述といえましょう。(中略)代々の法主上人が記述された個所も、すべて日蓮大聖人の金口として拝していきたい
(大白蓮華 昭和五二年一月号二〇頁)

との見解と相違している。また、創価学会の『仏教哲学大辞典』(第二版)の【二箇相承】の項には、
大聖人からの唯授一人の血脈は、第二祖日興上人、第三祖日目上人、第四世日道上人へと、一器の水を一器に移すように代々の御法主上人へ相承され現在に至っている。(一三〇五頁)
と明記されている。これがかつての創価学会の認識だったのだ。汝の説は以前の創価学会の見解とは百八十度相違していることが明らかである。
 なおここで一言しておくが、『十項目の愚問を弁駁す』において、
特に相伝について『日蓮一期弘法付嘱書』と『身延山付嘱書』はその根本であり、これより血脈相承のすべてが伝承されている(五頁)
と述べた。ところが汝が要約した我らの回答要旨≠ノは相伝については『日蓮一期弘法付嘱書』と『身延相承書』はその根本であり、これより血脈相承のすべてが伝承されている≠ニなっており、汝は『身延山付嘱書』を『身延相承書』≠ニ置き換えている。しかし『日蓮一期弘法付嘱書』は身延での御付嘱書であるので別名を『身延相承書』といい、『身延山付嘱書』は池上での御付嘱書であるので別名を『池上相承書』ということは、日蓮正宗の僧俗なら誰でも知っている基本的なことである。しかも汝は、先の悪書『唯授一人相承の信仰上の意義』において教義概念や文献に関する説明は、今日、創価学会が発行する『御書全集』『富士宗学要集』『六巻抄講義』『仏教哲学大辞典』等を参照すれば、誰にでも可能である≠ニ自信たっぷりに述べていたが、『日蓮一期弘法付嘱書』と『身延相承書』が同じものであって、『身延山付嘱書』と『身延相承書』が異なることは、『御書全集』や『仏教哲学大辞典』を見れば、誰にでもたやすく判ることではないか。故意か過失かは知らないが、このようなミスをするとは、汝が似非学者であることを自ら示すものである。
 さらに汝は今回、阿部は、しばしば創価学会における過去の発言を取り上げ、それと私の発言との相違を非難する。私の論の矛盾を指摘したいのならば、私の発言内容を根拠にすべきである。そうではなく、私という「人」を根拠とし、松岡は創価学会側の人間だから、過去の学会指導と違うことを述べるのは自家撞着である≠ネどと言うのは論理的におかしい≠ニ遁辞を構える。しかし、我らは汝の論理的矛盾を突くと同時に、汝の信仰的アイデンティティーをも問うているのだ。汝にとって池田大作の見解と相違することは許されるのか、汝の思想基盤は池田大作にあるのではないのか、ということである。汝はこの池田の言に対し自らの意見として肯定か否定かをはっきり論ずべきである。
 また汝は、日蓮の直系として絶対無二の正義を標榜するのなら、西洋の論理学をも悠然と包み込む高度な教義的説明を行うべきではないか、と訴えているのである。(中略)日蓮は、「まことの・みちは世間の事法にて候」「世間の法が仏法の全体」(「白米一俵御書」、全集1597・定本1263)と説いている。一切法即仏法の立場をとる日蓮仏教にあっては、ヨーロッパの理性尊重主義もまた仏法に通じていく。理性の検証に耐えられない信仰や教義は、真の日蓮仏教とは言えない≠ニいう。
 論理学は論証を正確ならしめるためには当然弁えておかねばならない学問である。また汝のような不正直な者の誤謬や虚偽すなわち詭弁を見抜くためにも、虚偽論の構造を知悉し、弁駁の論理を心得ておくことは大切である。故に我らは決して論理学を否定などしていない。むしろ信心の上からは論理学を大いに活用している。しかし汝の論理学を借りた主張は、現行の学術研究の偏向や弊害から逃れることはできないのである。
 現在の一般仏教学は、大乗非仏説の例を挙げるまでもなく、考古学や書誌学という形而下での論究が中心となっている。それも多分に不確定要素を許容した仮説の上に構築されているのである。これに対し真実の仏教の教理は、天台大師における四種の不可説や説黙の教示のように、言説の及ばない形而上の分域が存する。すなわち日蓮大聖人が『立正観抄』に、
唯仏与仏の境界なるが故に、我等が言説に出だすべからざるが故に是を申すべからざるなり。是を以て経文には「我が法は妙にして思ひ難し言を以て宣ぶべからず」云云。妙覚果満の仏すら尚不可説・不思議の法と説き給ふ。何に況んや等覚の菩薩已下乃至凡夫をや。(新編七七〇頁)
と仰せになり、また『一念三千法門』に、
「妙とは不可思議の法を褒美するなり。又妙とは十界・十如・権実の法妙」云云。経の題目を唱ふると観念と一なる事心得がたしと愚癡の人は思ひ給ふべし。されども天台止の二に「而於説黙」と云へり。説とは経、黙とは観念なり。(新編一〇八頁)
と説かれるところである。汝は忘れただろうが、御観念文に「本地難思境智冥合」と示されるように、妙法蓮華経は本来、不可思議なのである。
 このような不可思議にして深遠な仏教を、真実の仏教を知らない研究者たちの認識論で把握し比較検討できると考えるところに、汝の初歩的な誤謬が存するのだ。しかも言うに事欠いて、阿部は、日蓮学の専門研究者ではなく、いわば宗派的な護教家である。そのような人物と、日蓮文書や相伝書の真偽などについて、いくら論争しても無益であろう≠ニは許し難い無慚な謗言であり、畜生にも劣る不知恩の者である。
 松岡よ、汝は「法の四依」の中の「智に依って識に依らざれ」の御教示を忘れたか。『阿仏房尼御前御返事』に、
然れども大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし。(新編九〇六頁)
と仰せのように、日蓮大聖人の仏法は大智慧の方でなければ分別できないのである。日顕上人はこの仏法の大智を御相伝されておられるのである。この大智なくしては、たとえ、「六万宝蔵・八万宝蔵を胸に浮かべ」(『祈祷抄』・新編六二七頁)るような知識があっても、勝解を得ることはない。それこそ無益≠ネのである。日蓮文書や相伝書の真偽≠ノついても爾りである。本宗では近年『平成新編日蓮大聖人御書』と『平成校定日蓮大聖人御書』を発刊したが、この中には真偽・系年・校訂について最新の研究が盛り込まれている。日顕上人はそれらの全てを、史学・文献学・古文書学等の一般学術的見地だけではなく、その大智をもって本宗独歩の法義的見地から御教導し判定遊ばされているのだ。『立正観抄』に、
本地難思の境智の妙法は迹仏等の思慮に及ばず、何に況んや菩薩・凡夫をや。(新編七七〇頁)
と説かれるように、習い損ないの汝や他宗他門の学者の認識では、法華経の極理を伝える本宗の深義を理解することは絶対にできないのである。
 もう一点、汝は日蓮正宗の現状はどうか。大学院等に進んで学術研究を志す少数の宗門教師たちは何かと冷遇されている、と私は聞く。この一点をみても、阿部の閉鎖的な法主信仰は宗祖の精神からの逸脱である、と考えざるを得ない≠ニもいう。まことにためにする悪口である。本宗には、一般の外国語大学に進んだ者や現在他門系の大学院に通う教師が数名いる。彼等は御法主上人から許されて通学しているのである。これは特別な許可であり、冷遇どころかいうなれば優遇に属するだろう。汝は、その陰湿な悪口を慎まないと舌爛口中の大罰を招くであろうことを警告しておく。




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