結論≠フ誤謬を破す

 
 汝は結論≠ノおいて、十の批判の要旨を箇条書きにして列示≠オている。しかし、その何れもが正当な批判とは言い難いものである。汝ははじめに――論争の経過≠ノおいて、我らが送付した『松岡幹夫の傲慢不遜なる十項目の愚問を弁駁す』について、阿部自身の教学観を日蓮正宗として公式に表明した文書であると、認識しておく≠ニ述べている。もとより日蓮正宗には汝が誣言するごとき、阿部日顕の教学≠ネどという個人の教学は存在しない。今日の日蓮正宗の教学と御本仏日蓮大聖人、日興上人以来の本宗伝統の教学とはまったく同一であることを汝に教えておく。
 汝は(1)阿部日顕の教学には確たる「論理」がない。それは、低次元の循環論法を多用し、他にも多くの論理的誤謬を含んでいる≠ニいうが、ためにする言い掛かりに過ぎない。日蓮正宗の教学は一代仏教のすべてを統括するものである。すなわち南無妙法蓮華経の一法には仏教論理の一切が包含されるのである。汝の批判はまったくの的はずれであると呵しておく。また低次元の循環論法≠ニは汝松岡の愚論に当てはまることは、既に「一 循環論法の誤謬について≠破す」中で論証した。
 また(2)阿部日顕の教学では、「末法の教主」の実質的権威を日蓮から現法主へと移行せしめる≠ニの汝の言もまったくの虚偽である。日蓮正宗教学において、末法の教主とは御本仏日蓮大聖人以外におられないことは当然である。また御書を心肝に染め、極理を御当代の御法主上人より師伝することも、開山日興上人以来の日蓮正宗の伝統なのである。実質的権威を日蓮から現法主へと移行≠ネどという汝の虚言こそ、宗開両祖以来の伝統教義への違背に他ならない。
 更に(3)阿部日顕の教学では、三宝が〈物言わぬ存在〉であるのをいいことに「現法主」中心の三宝一体義を立てる≠ニの汝の説も誣言そのものである。日蓮正宗の教学において、いつどこで三宝の中心が現法主であるなどと述べているか。仏宝御本仏宗祖日蓮大聖人、法宝本門戒壇の大御本尊、僧宝第二祖開山日興上人及び血脈付法の歴代上人、との日蓮正宗の下種三宝義において、どこに現法主が三宝の中心であるなどという誣言の入り込む余地があるというのか。馬鹿を言うのもいい加減にせよ。
 次に汝は(4)阿部日顕の教学では、法主が丑寅勤行において、その場にない無数の形木本尊を漠然と想起しつつ祈念することを〈御本尊の開眼供養〉と称する。それは、常住本尊には対面祈念、形木本尊には非対面祈念という差別も設ける≠ネどと誹謗する。これも言い掛かりの誣言である。「四、法主による本尊の開眼と許可について≠破す」中でも述べたが、事の一念三千の御祈念は時空を超越し、法界全体に及ぶのである。卑近な例で言えば、地球の反対側の南米各国に住む信徒による諸御祈念願いに対し、御法主上人の御本尊に対する御祈念の功徳が及ぶことは当然ではないか。不信心な汝が、仏法の大功徳を信じられないだけなのである。ただし、現実の化儀においては、御法主日顕上人におかれては、御登座以来、すべての御形木御本尊、常住御本尊の区別なく、御本尊はすべて丑寅勤行の御宝前にお供えして御開眼をなされていることを教えておく。汝は常住本尊には対面祈念、形木本尊には非対面祈念という差別も設ける≠ネどというが、対面祈念非対面祈念≠ネどの用語は日蓮正宗にはまったく存在せず、汝松岡の造語にすぎない。よって、かかる日顕上人に対する汝の言は虚偽の誹謗にすぎないのである。
 更に汝は(5)阿部日顕の教学は、法主を霊能者化する。それは、丑寅勤行における阿部の祈念によリ本仏の「法魂」を自由に操作できる、と論理的根拠もなく主張する≠ニ誹謗する。日蓮正宗においては、一機一縁の様々な因縁により、御本尊は総本山へお戻りになる。根源の法体よりお出ましになられた御本尊が、もとの法体へお還りになる時に当たって、御法主上人が御祈念を遊ばされることは、御本尊に対し奉っての信仰の上から至極当然のことではないか。それを霊能者≠セとか、御本仏の「法魂」を自由に操作≠ネどと誹謗することこそ、許されざる背信の言である。
 次に汝は(6)阿部日顕の教学では、日蓮の予言を無視した上に、大石寺の唯授一人相承の永遠性を粗雑に主張する≠ニ述べる。この汝の言も噴飯モノの邪義である。日蓮正宗においては、末法万年に下種三宝が令法久住することが説かれるが、その仏法伝持の中心主体こそ日蓮正宗の僧であり、就中血脈法水であることは、『四恩抄』等の御書、『百六箇抄』等の相伝書に明らかである。汝が日蓮の予言≠ニいう、日蓮正宗の僧による血脈法水は摂受の時代で役目を終え、賢王が中心主体となった折伏の時代が始まるなどということは、大聖人はどこにも予言などされていない。末法広宣流布の流れにおいて、順縁広布の時代が訪れた時、仏法伝持の僧による摂受と、賢王の折伏とが相まったところに、真の末法折伏の実践が存することが、『観心本尊抄』の四菩薩の役割を僧と賢王とに配された大聖人の御意であることは、『三大秘法抄』の有徳王覚徳比丘の御指南からも明白なのである。
 そして次に汝は(7)阿部日顕の教学は、日置正宗の「正依」たる日寛教学を枝葉末節の法門と見下す≠ニ誹毀する。今日の日蓮正宗の教学において、日寛上人の教学を枝葉末節の法門と見下す≠ネどということが、一体どこにあるというのか。この汝の言も支離滅裂である。汝が日寛上人の『文底秘沈抄』には、大聖人日興上人以来の血脈相承の根本的内容が三大秘法義としてすべて公開されているなどと出鱈目をいうから、それは違うと教えたまでである。この汝の言もためにする誣言というほかない。『文底秘沈抄』の三大秘法義は、法門相承としての内容であることは、先に述べたとおりである。見当違いをするなかれ。
 更に汝の(8)阿部日顕の教学では、「十二箇条の法門」なる唯授一人の未公開文献があると主張するが、それは百箇所以上もの誤謬を指摘されている十七世・日精の『家中抄』の一文を、曲解を加えつつ唯一の根拠とする≠ニの言も無懺な悪言というほかない。日蓮正宗において、総本山第十七世・日精上人の『家中抄』が、上古の宗門史を繙く上で貴重な資料であることは論を俟たない。故に百箇所以上といっても、膨大な範囲の内容から見れば、僅かとも言える誤りについて指摘された日亨上人も、『家中抄』全体の意義と功績について、大いに称賛されていることを汝が知らないはずはあるまい。まことに汝は卑怯な男である。血脈相承の当事者にあられる各御法主上人が、大慈悲の上から「十二箇条の法門」の存在を御指南下されているのである。部外者の汝が容喙すべきことではない。
 そして汝は(9)阿部日顕の教学は、大石寺正統の″本尊そのもの≠ノ対する信仰を法主に付随する本尊≠ノ対する信仰へと歪曲する≠ニの誹謗を述べている。まさに日蓮正宗の本尊観への重大な誹毀讒謗である。汝は『文底秘沈抄』の「蓮師の心月」の御指南が同抄の本門戒壇篇に述べられていることをもって、単に大聖人のお心が富士に移ったことを意味する証拠と強弁するが、その汝の見解は短見である。日寛上人が御相伝の『御本尊七箇之相承』等に拝される、「代代の聖人悉く日蓮なり」(聖典三七九頁)の意義をご存じないわけがない。ただしそれは内証の深義であるが故に、敢えて本門本尊篇に記述なされなかったのである。それよりも当項の破折でも述べたが、「蓮師の心月」が富士に移る前提として述べられた、
法を日目に付し、日目亦日道に付す、今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し(六巻抄六五頁)
との御指南こそ重要なのである。「一器の水を一器に移す」「清浄の法水断絶せしむる事無し」とは、まさに御法主上人の心身の器に法体が血脈相承せられている証拠なのである。その法体こそ大御本尊と一体不二の大聖人の御法魂、すなわち「蓮師の心月」であることは論を俟たないのである。
 最後に汝は、(10)阿部日顕の教学は、現今の在家僧を出家僧と取り違え、僧形者をそのまま僧とみなす誤謬にも陥っている≠ニ述べ、相も変わらず釈尊仏教の戒律をもとに、肉食妻帯をもって在家僧・僧形者と誹謗する。大聖人の下種仏法においてはかかる批判が当たらないことは、先の項において破折したところである。しかし、末法無戒の中にあって、日蓮正宗においては厳格な出家の意義を堅持していることは、少年得度者の厳しい修行、寺院世襲制の排除等により明白である。世間の仏教各宗派と比較してみよと告げておく。
 更に汝は、阿部日顕の教学の本質は、じつに論のすり替えにある理性を放棄し、自分たちが〈信仰〉と称する世界に逃げ込む大石寺の正統教学から逸脱した法主信仰%凾ニ誹謗する。論のすり替え≠いうなら、それはそっくり汝らにこそ当てはまることであると告げておく。また理性を放棄正統教学から逸脱%凾フ誹謗も当たらない。邪智諂曲の汝の目から見れば、正統な本宗教学も、理性を放棄≠オ逸脱≠オているように見えるのであろう。
 また汝は、本年の八月二十五日に開催された「全国教師講習会」における御法主日顕上人の御指南を挙げ、相承法門の核心が説かれた六巻抄等の重要文献は、五十九世・日亨の手によって公開された≠ニする私の主張を、暗に受け入れた≠ネどと慢言を吐いている。御法主上人には相承法門の核心が説かれた六巻抄≠ネどという汝の主張の誤りを指摘なされたのであり、受け入れてなどおられるはずがないではないか。汝が誹謗する御法主上人の御指南とは、
最近は、総本山第五十九世日亨上人が様々な文献を公開されましたから、ありとあらゆる人々がそれらを目にすることができます。ですから、自分でこつこつと勉強するのはよいけれども、どうしても根本の信のところ、順のところ、すなわち信によって所聞の理を会するということ、また師資の道を成ずることを忘れて読んでいくと、知識としては解るのですが、そこを外れていくら勉強をしてもだめなのです。(中略)松岡某などという者の考え方も、また創価学会の考え方も全部、そうなのです。知識としては解っているつもりでいるのです。それでいて結局、そこから外れるのです。これが恐ろしいのです。(大日蓮 平成一七年一〇月号四九頁)
との仰せである。これにつき汝は、『曾谷殿御返事』の、
但し師なりとも誤りある者をば捨つべし。又捨てざる義も有るべし。世間仏法の道理によるべきなり。(新編一〇三九頁)
の御指南を挙げ、日蓮は、師への信順よりも、万人に理解されるような「世間・仏法の道理」の方を優先した。ところが阿部は、一般人にも通ずる道理を軽視し、とにかく師たる自分への信順を最優先せよ、と宗門教師に迫っている≠ニし、日蓮の説示と逆≠ニ誹謗するのである。まったく汝の頭はどうなっているのか。言っては悪いが学者馬鹿という言葉もある。『曾谷殿御返事』を挙げるなら、その御指南の深い意義を拝さねばならない。この御指南は世間や仏法の中においても様々な師が存在する。その師の取捨は道理によるべきであり、もって真実の師を見定めることが重要であることを仰せられたものである。御法主日顕上人の御指南は、その真実の師にまします御本仏日蓮大聖人と、日興上人以来、大聖人の仏法を正しく師伝せられる御法主上人の御指南に信順することを述べられたものである。これ御開山日興上人の遺誡置文の御指南の通りである。汝は、文義意の中の文も分からぬ浅識者という他ない。仏法は汝の謗法杜撰な頭で想像できるような単純なものではないのである。
 また他宗破折のために様々な仏教文献を「知識としては解る」ことが最低要件となる≠ネどということは、汝に指摘されずとも日蓮正宗の僧侶なら誰でも弁え、教学の研鑽に励んでいるのである。しかし、その教学研鑽の根本に、日蓮大聖人の仏法への信順がなければ、正しい仏法の理解などおぼつかない。世間に迎合するのではなく、その信心の大切なることを世間に教えていくのが日蓮大聖人の弟子檀那の使命なのである。汝ごときエセ学者に一切衆生を救う力もなければ資格もない。汝は次の『十八円満抄』の御指南を至心に拝すべきである。
総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ。智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき。所詮時々念々に南無妙法蓮華経と唱ふべし。(新編一五一九頁)
 智者・学匠の身となっても、信心唱題を根本としなければ、地獄に堕ちるのである。自分が地獄へ堕ちて一切衆生が救えるか。汝は何のための仏法か、よくよく考えるがよい。
 更に汝の阿部の説く師への信順は、根源の師たる本仏・日蓮への背反に他ならない≠ニの誹謗も噴飯モノである。大聖人、日興上人以来の血脈を受け継がれておられる御法主上人を誹謗する汝こそ、根源の師たる本仏・日蓮¢蜷ケ人に背逆する逆賊であると呵しておく。汝の言によるまでもなく、「本尊とは法華経の行者の一身の当体」にましまし、御本仏日蓮大聖人の御生命にあられる。しかし、いかにその大聖人の御法魂にまします本門戒壇の大御本尊を信じていると言っても、遠くは身延派等の五老僧、近くは汝ら創価学会等の異流義の輩は、御相承書の、
背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。(新編一六七五頁)
に当たる違背の者である。すなわち日興上人以来の血脈付法の御法主上人に背く者は、日興上人から「背き畢ぬ」と厳しく裁かれるのであり、懺悔改心せぬ限りは、違背の者が唱える題目は、大御本尊には通じないことは当然である。故に邪宗日蓮宗等の各山に存する本尊は、たとえ大聖人御真筆本尊といえども、いかに題目を唱えても本門の題目の功徳はないのである。
 次に汝の阿部らは「日蓮がたましひ(魂)」の根源的所在を「本門戒壇の大御本尊」にではなく、法主の中に置いている≠ニか、現宗門の法主信仰にあっては、「末法の教主」の実質的権威が、本仏・日蓮から現法主の阿部へと移行している≠ネどの言は、まさに非法の衆の言と呵すものである。汝ら創価学会の者達には、『王舎城事』の、
師弟ともに無間地獄に堕ちて、阿鼻の炎にもえ候(新編九七五頁)
との厳しき教誡のあることを教えておく。また汝が挙げる日興上人の、
日蓮聖人に背き進らする師共をば捨てぬが還つて失にて候と申す法門なりと御存じ渡らせ給うべきか。(『原殿御返事』・聖典五六一頁)
との御指南は、邪師池田大作を捨てぬ汝らへの仰せと、厳粛に反省すべきである。
 また次に汝は私にはまだ一つ、論ずべき課題が残されている≠ニして、我らが、『創価学会機関誌『大白蓮華』掲載 松岡雄茂の「法主信仰の打破」なる邪論を破す』の最後において、汝に詰問した三項目を挙げ、私自身はこれに誠実に答えたい≠ニ述べている。果たして誠実な回答かどうか。確認しよう。
 まず汝は、我らが「汝は日寛上人の『六巻抄』を出世の本懐≠ニ称賛し、金科玉条として崇めている」と述べたことに対し、私は、日寛個人にとって六巻抄は「出世の本懐」だったと言える、と論じたにすぎない≠ニ遁辞を構えている。汝は、『六巻抄』が日寛上人の「出世の本懐」、という前提のもとに自論を進めているのであるから、その汝の態度を「金科玉条として崇めている」と評価したのである。よって、私の記述に対する阿部の理解は、論理的におかしい≠ニの汝の批判は成立しない。
 また、全編を通じてのことであるが、汝は阿部の理解≠ネどとし、あたかも我らの破折がそのまま、御法主日顕上人によるものであるかの如く述べている。しかし、この汝の阿部の理解≠ネどとの表現は、読者をして、汝が御法主上人と論争しているかの如く錯覚させる詐術的言辞であると同時に、汝の異流義謗法者たる分際を弁えぬ思い上がりであることを付け加えておく。
 
 次にまず我ら邪義破折班の汝に対する確認を挙げ、次に汝の回答を評価する。
 邪義破折班の確認
「汝に確認する。
一、『文底秘沈抄』に、
 三大秘法随一の本門戒壇の本尊は今富士の山下に在り、故に富士山は即ち法身の四処なり、是れ則ち法妙なるが故に人尊く、人尊きが故に処貴しとは是れなり。(六巻抄六四頁)
 根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり、(中略)既に是れ広布の根源の所住なり、蓋ぞ本山と仰がざらんや。(同六八頁)
と、本門戒壇の大御本尊まします総本山が法身の四処であり、広布の根源であると仰せられている。汝はこの御指南を死守するや否や、明確に返答せよ」
 この我らの確認につき汝松岡は、現在の大石寺は法主信仰に染まり、本尊信仰という大石寺正統の「信心」を失っている≠ニして、『文底秘沈抄』の文に関しては、日寛在世の頃にはあてはまるが、現在の大石寺は「法身の四処」でも「広布の根源」でもない≠ニ結論づけている。
 かかる汝の返答を見て、やはり汝は度し難き逆縁の衆生であったとの感を深くするものである。先にも教えたように、日蓮正宗大石寺は、日興上人以来七百有余年、本門戒壇の大御本尊と血脈法水という大聖人の下種仏法の根本を少しも変わらず清浄に伝えている。よって、現在の大石寺が「法身の四処」であり「広布の根源」であることは、まぎれもない事実である。したがって、汝の回答はまともな内容になっていない。かつて、創価学会初代会長牧口常三郎氏、二代会長戸田城聖氏は、日蓮正宗にその正法正義が伝えられていたからこそ入信したのである。汝の言は、御歴代上人に対する背逆の罪は無論のこと、創価学会を創立した両会長の信仰をも否定する不知恩の所行であると呵責する。
 また汝は、本宗僧侶であった者の実名を挙げて、その不行跡の所以につき、回答を迫っている。この二名の元本宗僧侶についての批判は甘んじて受ける。修行中の者が過去の宿業により魔が出来し、僧道を踏み外すことは、残念なことであるが、還俗の罪という点では汝松岡も同罪である。しかし、この両名の犯した罪と、ここ十年来の創価学会員の犯した殺人事件等の罪とを比較してみるがよい。前述の如く、板橋区で熱心な創価学会員の両親が、息子に鉄アレイと包丁で惨殺されるという事件が起きた。その罪業の深さは比較にならないのである。その他、己の利益のために世間を欺く創価学会員の不行跡は枚挙に暇がない。これにどう答えるのか。汝は虚心坦懐に恥ずべき現実を見つめてみよ。返答に窮して本宗僧侶の不行跡の一、二例をあげつらう汝の回答は、逃避であり詭弁でしかない。
 
「二、『文底秘沈抄』に、
 今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月豈此に移らざらんや、是の故に御心今は富山に住したもうなり。(六巻抄六六頁)
と、大聖人の清浄なる血脈法水が四百余年の間、日寛上人まで厳然と御歴代上人によって伝持されており、大聖人のお心は大石寺に住されていると仰せられている。汝はこの御指南を死守するや否や、明確に返答せよ」
 右の我らの確認について、汝は大石寺に「大聖人のお心」 〈本仏の加護〉はない法主信仰によって、本尊信仰という日蓮─日興以来の「清浄の法水」が「断絶」しているからである≠ニ答え、更に汝はどうして当文が『文底秘沈抄』の「第一 本門本尊篇」で論じられず、「第二 本門戒壇篇」の中で、しかも断片的、暗示的にしか取り扱われなかったのか。明確に返答せよ≠ニ問うている。この問の答えは先に述べた。当項の汝の返答は、これまた詭弁に過ぎない。日蓮正宗大石寺に法主信仰≠ネどというものがないことはこれも既に破折したところである。汝の言は虚偽の誤謬そのものである。
 
「三、『当家三衣抄』に、
 南無仏・南無法・南無僧とは、若し当流の意は、(中略)南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師。嫡々付法歴代の諸師。此くの如き三宝を一心に之れを念じ(六巻抄二二五頁)
と仰せられ、信仰の筋目の上から、御歴代上人を僧宝と仰ぐべきことを御指南されている。汝はこの御指南を死守するや否や、明確に返答せよ」
 右の我らの確認について、汝は日興が「僧宝の全分」であるのに対し、歴代法主は「僧宝の一分」の意義にとどまる≠ニ述べ、その理由として、歴代の法主が「もし『嫡々付法』であれば」という条件付きの僧宝≠セからであるとする。そして「嫡々付法」ではない法主≠フ例として、総本山第十七世日精上人、第六十二世日恭上人、御当代日顕上人を挙げて誹謗する。
 この汝の邪難中、僧宝の全分一分≠ネどの定義は日蓮正宗には存在しない。汝が金科玉条とする日寛上人の仰せの中の「僧宝の一分なり」の意味については、既に破折した通りである。二十六名中のお一人である上からは一分であるが、「一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事なし」の意義の上からは、日寛上人に至る二十六名すべての御法主上人に法水の全分が写瓶せられているのである。いくら頭の悪い汝でも、ここまで教えれば領解すべきである。故に汝の「もし『嫡々付法』であれば」という条件付きの僧宝≠ネどということは嘘八百の戯言と呵責しておく。
 次に御歴代上人への誹謗であるが、日精上人に対する造仏の疑難については、創価学会教学部長斉藤克司の邪難を徹底して粉砕した書を既に送りつけてあるから、これを熟読するよう申しておく。また日恭上人の「八紘一宇」等の発言を取り上げてこうした法主らの言動が、どうして「嫡々付法」の姿と言えようか≠ニ非難する。しかし、この一往戦争翼賛とも取れる発言については、かつて汝ら離脱僧の邪難に答えたように、戦時中の国家状況を考えなければならない。当時の国家神道を背景とした軍部による宗教政策により、日蓮正宗は身延派との合同を強制される危機にあった。仏法の根本の危機に際し、何としてもそれだけは避けるために、当時の日恭上人をはじめとする宗門首脳は苦心なされたのである。機関誌におけるかかる発言は、検閲の厳しい状況下において、軍部をいたずらに刺激せぬためのやむを得ぬ方途であったのである。創価学会においても神札受け取りを指示した通牒が残っている通り、当時の国家社会の状況をも考慮せず、いたずらに日恭上人や歴代上人を誹謗することは、許されざる大謗法である。さらに御法主日顕上人に対する汝の法主信仰≠ニの数々の誹謗は、悉く誤謬による誣言であることは、既に破折した通りである。
 よって汝が『当家三衣抄』の当該文につき、「信仰の筋目の上から、御歴代上人を僧宝と仰ぐべきことを御指南されている」といった阿部の解釈は、すべての法主が「嫡々付法」ではないという意味で、明確に間違っている≠ニする結論こそ、明確に間違っているのである。
 以上、検証の結果、汝の返答は一つとして満足なものはなく、虚偽の誤謬そのものであると断ずる。
 我らの破折中に汝の質間への答えはすべて述べておいた。よく読むがよい。ただし汝が注の十一に記した、相承箱の公開に関する質問等にも、必ず回答を示してほしい≠ニの言は明確に拒否する。仏法においては「心に入れぬ者には話してはいけない」との方軌があることによるからである。
 最後に、汝に述べておく。汝の邪書を破折する作業の中で、つくづく感じたことがある。それは謗法の害毒による思考の顛倒である。仏法と世法とはたしかに一体である。しかしそれは妙法の絶待開会の上に言えることであり、世法中に含まれる一般の学問の論理をもって、仏法を捉えようとするところに、汝の童蒙たる所以があるのである。
 汝は歴史的現実を直視すれば、やはり阿部らの法主信仰の裏面には、普遍的原理としての日蓮の教義に背いてでも現法主の指示に追従していく、という暗黙の思考様式が隠蔽されている≠ニし、それこそが丸山の言う日本人に顕著な思考様式、すなわち「原型」的思考なのである≠ネどと結論づける。宗開両祖以来、七百数十年の歴史の中で、歴代の御法主上人はその時代に応じ、あらゆる苦難を受け止められつつ、時には方便の化導も用いて大聖人の御法の令法久住を果たしてこられたのである。それをあげつらい、創価仏法などという邪義を蔓延らせるために、日蓮正宗に対して日蓮の教義に背い≠ス「原型」的思考≠ネどと誹謗することは断じて許されない。
 最後に松岡雄茂に告げる。汝が日蓮正宗の血脈法水を誹毀讒謗し、御当代御法主日顕上人への血脈相承を否定することは、御本仏日蓮大聖人の御意に背く大謗法の所業である。堕在無間は確実なりと呵責し、汝松岡雄茂の邪智極まる十項目の誑言に対する我らの破折を終える。



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