十、在家僧の認識について≠破す


 汝は先の『十項目の愚問』の中で、中村元著『仏教語大辞典』にある「出家」の項の記述を根拠に、日蓮正宗の僧侶が「変則的な在家僧」であるとし、その前提で様々な押しつけの質問や邪難を繰り返していた。それについて我らは、そのようなあり得ない仮定の上に立った虚構の質問に答える意味など皆無であることを指摘したのである。
 そのことについて今回汝は、こうした態度こそ、阿部が「論文」の何たるかを全く知らず、偏狭なドグマに凝り固まっている証である。真理の前ではどこまでも謙虚であることが、公正な議論を行うためには大前提となる≠ネどといい、どこまでも汝の言動が研究者の論文であると強言するのである。そしてさらに科学哲学者のK・ポパーは、科学と非科学の境界基準として「反証可能性(falsifiability)」という概念を構築した。科学的理論は常に反証しうる暫定的仮説でなければならず、反証不可能な論は非科学的なドグマに他ならない。もちろん、科学と宗教とでは次元が異なるが、ドグマを排した公正な議論を期すうえで、反証可能性という概念は大いに参考となる≠ネどという話を持ち出し、公正な議論≠フため反証可能性という概念は大いに参考となる≠ニも言う。
 再度指摘する。これらの主張こそが、汝の似非学者たることを如実に物語る欺瞞の言辞であり、汝の言動が研究者の論文などではなく、堕落僧たる汝の名前を借りた創価学会の宗門誹謗の一環であることを証明するものである。
 そもそも汝に日蓮正宗の甚深の教義の一端を示したことについて、汝はそれがドグマ≠ナあるとか虚構≠ナあるなどと述べるが、御書の文面にも、
さどの国より弟子どもに内々申す法門あり。此は仏より後、迦葉・阿難・竜樹・天親・天台・妙楽・伝教・義真等の大論師・大人師は知りてしかも御心の中に秘せさせ給ひて、口より外には出だし給はず。其の故は仏制して云はく、我が滅後末法に入らずば此の大法いうべからずとありしゆへなり。(『三沢抄』・新編一二〇四頁)
とある如く、真実の大法には説黙の内容がそれぞれにあり、また「内々申す法門」とある如く、文面に顕れない口伝の法門等も存在するのである。さらに補処たる日興上人には、大聖人の仏法の全てを束ねた唯授一人の血脈相承が厳然とあり、それは門下一同が伏して信ずべきものなのである。それについて他門の日蓮宗は二箇相承の御真蹟が伝承されないことなどから、血脈相承を疑うのであるが、その疑念こそが大聖人の御本意を見失い、ドグマに陥った姿そのものなのである。
 今、汝が反証可能性≠ネどという概念を持ちだして、汝ら創価学会に都合の悪い日蓮正宗の教義や伝統の一々を疑い、否定しようとする、その行いそのものが、日蓮正宗を批判することでしか自分たちの正当性を主張できない、派生新興宗教団体・創価学会の偏狭なドグマ≠ネのである。
 汝は註の10で、創価学会が、信仰状況の変化(血脈相承の断絶、法主の謗法化)によって『百六箇抄』の後加文の一部を真書扱いしなくなったからといって、それを信仰上の変節や文献学的主張の変更とみなすことはできないのである≠ニ述べている。このような無慚無愧な言動こそ、汝の創価学会の飼い犬としての本性をよく顕している。
 汝は創価学会が、信仰状況の変化(血脈相承の断絶、法主の謗法化)によって文献学的主張の変更≠行ったことを、信仰上の変節≠ネどではないとするが、血脈相承の断絶≠ニの主張こそが信仰上の変節≠サのものではないか。
 かつて池田大作は、
「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(御書一三三八n)の御金言を拝し申し上げたい。
 日蓮宗身延派にあっても、南無妙法蓮華経の題目を唱えている。御書もある。経文も、法華経の方便品、寿量品等を読経している。また、もと正宗の僧侶であった「正信会」も、御法主上人の認められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。外見からみればわれわれと同じようにみえるが、それらには唯授一人・法水写瓶の血脈がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである。すなわち「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」なのである。(広布と人生を語る八─二二八頁)

と、総本山六十七世日顕上人猊下の血脈を拝信し、その血脈を誹謗することを理由に正信会をも非難していた。しかるに汝は今血脈相承の断絶%凾理由に挙げ、信仰状況の変化≠ェあったという。
 これをご都合主義の変節と言わずして何というのか。つまり、創価学会は自らの都合に合わせて、血脈を肯定する場合もあれば、否定したりもする。即ち独善的、かつ偏狭なドグマ≠ノ凝り固まったエセ宗教団体とは創価学会なのである。
 
 また汝は中村編『仏教語大辞典』は、仏教全般に関する辞典として、いわば「出家」の最大公約数的な定義を行っている。簡単に言えば、「少なくとも、この条件だけは満たさなければ出家ではない」という定義を示したものである≠ニして、実に回りくどくご託を並べてはいるが、『仏教語大辞典』の「出家」の項に記載された内容が「出家」の最大公約数的な定義≠ナあり、要するに妻帯する日蓮正宗の僧侶は、それに反した在家者であると言いたいようである。
 このことについては先の『十項目の愚問を弁駁す』でも述べたとおり、中村元の『仏教語大辞典』の記述を根拠に、日蓮正宗の出家が、在家であるなどとする汝の邪難こそ論点のごまかしであり、為にする邪難なのである。
 下種仏法においては釈尊仏法における爾前権教の戒律は用いないのであり、釈尊仏教における出家の条件は、日蓮正宗の出家の条件とはならない。むしろ明治以降においては御法主上人が下種仏法の本義を鑑みられ、僧侶が妻帯することも認められるべきであると判断なされたのである。
 汝も曽ては日蓮正宗僧侶として出家を志し、度牒を頂いて出家者として名を連ねた身であれば、日蓮正宗の出家のあり方をよく承知しているはずである。
 日蓮正宗において、特に少年得度者の場合、中学一年生になる時に、文字通り「父母の家を出て」総本山に登り、それ以後の一切、僧侶としての分を外れ、父母の家に居住することが禁じられるのである。これが現在の厳然たる日蓮正宗の出家の形態であり、そこには在家との明確な区別が存するのである。それを汝が一仏教辞典の記述を根拠に出家ではないなどと主張することはできない。日蓮正宗の出家は寺院世襲の厳禁など、他宗他門に比しても特に厳しい定めがあり、これが出家ではないというなら、日本に出家者など居ないという道理になる。汝は家庭生活から離れる、という点だけは、全ての仏教宗派の「出家」の定義に共通してみられる≠ネどというが、そのような条件をみたしている仏教宗派があるなら出してみよ。このような実態を無視した汝の曲言こそ暴論といわずして何というのか。
 また、従来述べるとおり、日蓮正宗僧侶が住職として各末寺に派遣され、その寺院に居住し運営していく上においては、衣食住全般にわたっての用務が生じ、それらの用務は勿論、御信徒との対応や、社会的なつながりにおいても夫人が対応すべき事柄が多々あるのである。故に、僧侶が妻帯することは寺院を守り、布教する上においてプラスになることを指摘したのである。そして何より汝ら創価学会は、そのような中で多年にわたり、日蓮正宗の信徒団体として、活動してきたのではないのか。
 それを今になって、日蓮正宗の僧侶は在家者≠ナあるなどと邪難すること自体、まさに無節操な難癖以外の何ものでもなく、汝らの信仰上の変節≠物語るものなのである。
 
 また汝は法主信仰は厳密には「現法主信仰」であり、具体的に言えば「阿部日顕信仰」である。創価学会では、早くから今の日蓮正宗のことを「日顕宗」と呼んできたが、言いえて妙である。なるほど「日顕宗」の人たちは、「南無日顕上人」とは唱えない。けれども彼らは、日顕一人が専有する法体としての「南無妙法蓮華経」を唱えている。だから、本質論的には「南無日顕上人」と唱えるのと同じことなのである≠ニもいい、日蓮正宗において、御法主上人に信伏随従する宗是を邪難している。これも先に掲げた池田大作の発言を読み返すがよい。汝の言いがかりがいかに無節操で恥知らずなものかがよく分かるであろう。また「三『三宝抄』の三宝一体義について≠破折す」においても引用したが、日寛上人と因縁浅からぬ福原式治氏は、血脈付法の御法主上人について、
当門御歴代のたっときは御相承たっとき故なり。一枚の御本尊も御相承を以っての故に、果中の満位、因中の満行、皆具円満の御利益もたっときと信じ奉るなり。然れば御歴代の伝上に何れたっときと云う事はなき也。御相承ある故に皆たっとし。能々思うべし。人に依るときは御相承を軽しむるになるなり。是大謗法の重罪なり。(妙喜寺文書)
との書き付けを残されている。この血脈に関する福原氏の領解こそ日寛上人の御教導の結実であり、『三宝抄』や『六巻抄』において三宝尊重を御指南された日寛上人の御意を素直にうけた言葉である。
 汝の、現在の日蓮正宗の信仰が本質論的には「南無日顕上人」と唱えるのと同じことなのである≠ネどとの言が、いかに御歴代上人、就中日寛上人、ひいては宗祖大聖人の御意を踏みにじる悪言であるか思い知るべきである。
 日蓮正宗の御歴代上人を尊崇する伝統が、大聖人が日興上人に唯授一人の血脈相承をあそばされた、相伝仏法の大事に由来することはいうまでもない。日蓮正宗では、日蓮大聖人を御本仏と拝し奉り、そしてまた僧宝たる血脈付法の御法主上人をも御内証に、日蓮大聖人の御法魂を具えているという点から尊崇申し上げるのである。この血脈に対する尊崇を、法主信仰≠セなどと述べる汝こそ悩乱の極みである。曽ての創価学会は池田大作が、
法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである。すなわち「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」なのである。(広布と人生を語る八─二二八頁)
と発言し、日蓮正宗の信仰の筋道に則った指導を行っていた。しかるに汝ら創価学会狂信者が恥知らずにもこれらの言を一顧だにせず、剰え日顕上人の血脈を否定し、そしてこの信仰の根本に科学と非科学の境界≠ヘ反証可能性≠セなどと科学上の概念を持ちだして、月氏外道の「懐疑論者」の如き摧尊入卑の疑難を加えるということは、汝らが大聖人の仏法を捨て去り、邪教徒と化したことを如実に物語っているのである。
 つまり日蓮宗の学者の「文献批判」等の考えや、大聖人の御化導を無視した血脈否定などは、自分の立場を擁護しようとする自己中心の考えが元になっているのである。汝が行っている自分たちに都合の悪い日蓮正宗の教義等を全て疑い、否定しようとする主張もそれと同轍である。しかも汝はそれに輪をかけて、かつて日蓮正宗の僧侶であったことを省みることのない恥知らずであることが付け加えられる。
 即ち汝の様々な邪論は、創価学会を正当化するために、創価学会が派生する元となった大石寺門流・日蓮正宗に一応の信仰上の根拠を求めようとする試みであろうが、汝がいかにご託を並べてみたところで、創価学会の無節操、変節は明らかであり、その誹りを免れることはできないのである。
 
 そして次に汝は、あろうことか御法主日顕上人猊下を名指しし、個人誹謗のための邪問を羅列している。
@
 汝は@として、写真偽造事件において取り上げられた阿部法胤師と椎名法宣師の古稀の祝いに日顕上人が招待されたことを蒸し返して難癖を付けている。
 そしてさらに、創価学会にとって恥部となるべき創価学会の写真偽造のことについては裁判の争点の一つとなった写真の偽造云々の件についても、何ら興味がない。したがって阿部日顕には、こうした問題について何一つ答えないでもらいたい≠ニか写真が偽造かどうかという点は日蓮正宗と創価学会との間の問題であって、私個人には何ら関係がない阿部が私の質問をはぐらかして写真偽造の問題に逃げ込んだ場合、または何の返答もしなかった場合、私は阿部が返答不能に陥ったものとみなす≠ネどと述べ、自分勝手にも汝は、汝の押しつけた質問だけに答え、問題の本質ともいうべき写真偽造のことには触れるなと繰り返し念を押している。この自分本位でわがまま勝手な姿勢こそが、汝の主張が学者の論文などではなく、創価学会の独善的で無節操な宗門批判の一貫であることを物語っているのである。
 汝が仮初めにも学者を装うなら、汝の邪難の根拠となった写真偽造事件について、最終的には「訴える資格のないものが訴えた裁判」であると判定され、最高裁判所で日蓮正宗の敗訴が確定した≠ネどと創価学会に有利な情報だけを挙げ、創価学会に不利な内容を興味がない何一つ答えないでもらいたい≠ネどと逃げるのではなく、「創価学会が行った写真偽造報道は違法性が指摘された不当なものであった」と、裁判所の創価学会の行為は「違法性を有する」との判断を明示した客観的、公正な論評があってしかるべきである。このことからも、汝自身の創価学会の飼い犬たる正体を隠した悪辣な意図が見て取れる。
 前置きはここまでにし、汝の質問に答える。
 汝は質問を三点に分けて述べている。要は古稀の宴会の主催者が日顕上人ではなく、たとえ夫人同伴の会食であったとしても、小欲知足の聖訓に反するのではないのかというものである。
 まず、汝は宴会の場に芸者≠ェ居たことを殊更に強調している。しかし芸妓は非合法な仕事などではない。また御法主上人を接待することが許されないなどというバカげたこともないはずである。
 汝は一応私は芸者の酌を受けたこと自体を問題視するつもりはない≠ニいいながら、返す刀で必要もないのに高額な費用で呼んだ芸者の酌を自ら受けたことは、阿部が「少欲知足」の訓戒破りを承認したに等しい≠ニもいう。色々とご託を並べてはいるが、要するに汝は従前の創価学会の邪難と同じく、芸妓が接待に居たことを問題にしているのである。一般的な良識を持ち合わせた人ならば、芸妓が日本文化の情緒を伝える女性ならではの職業であることに、全く異存はないはずである。
 また宗門人であれば、阿部法胤師や椎名法宣師の日常の質素な振る舞いは誰でも知っている。その両師が一生に一度のこととして古稀の祝いに日顕上人をお招きし、祝宴を開かれることに何の異存もあるはずはない。ましてこの祝宴は昭和六十一年のことであり、当時の学会は御法主上人および宗門に従順を誓っていた。しかるに平成二年暮れからの創価学会問題勃発以降、祝宴の主催者の一人である椎名法宣師の息子、椎名法昭が日蓮正宗から学会へと離脱した。その椎名法昭は不心得にも学会に諂い、自分の父の古稀祝いの席を日顕上人誹謗の材料に利用したのである。しかもその椎名法昭は当日の宴会をセッティングした張本人である。
 汝は「赤坂」での芸者付宴会も、法主である阿部の贅沢志向に合わせて主催者が気を利かせ、芸者を呼んだ可能性の方が高い≠ネどと牽強付会の言を述べているが、日顕上人は虚心坦懐に阿部法胤師や椎名法宣師のもてなしを受けられたのである。その宴会が贅沢志向≠ナあるというなら、それをセッティングした堕落僧の椎名法昭こそ、贅沢志向≠ネのである。
 創価新報では、椎名法昭が提供した写真を偽造して掲載し、日顕上人お一人が芸者遊びをしているように欺誑した。汝の魂胆は曽ての創価学会の虚偽報道の効果を、もう一度呼び起こさせようと狙ったものに他ならない。それは、たった一度行われただけの宴会と知りながら、法主である阿部の贅沢志向に合わせて≠ネどと、あたかも御法主上人が常日頃より贅沢志向≠ナあるかのごとく仕立て上げようとする文言にも顕れている。また、汝が本当に真実を求めようとする学者ならば、このような悪辣な意図のもとに用いられてきた材料をもとに日顕上人を誹謗することなど出来ないはずである。
 つまり、言葉は違えども、写真偽造事件に端を発した事柄について日顕上人を陥れようとする者は、すべて同類である。即ち写真を偽造して虚偽報道を行った創価学会、また自分の父の古稀祝いを汚し、写真提供者であることを恐れげもなく名乗り出て、虚偽報道に荷担した椎名法昭、そしてさらにそれと同類の非難を行う汝松岡、そのどれもが下卑た己の本性をさらけ出し、真実を見つめることを放棄した創価学会絶対という偏狭なドグマ≠ノ凝り固まった、邪智の極悪人どもであると断ずる。また、これらの者のうち、写真提供者で策謀に大きく関わった堕落僧の椎名法昭は平成十五年十二月に五十一歳で、また写真偽造報道の責任者で創価学会副会長であった野崎勲は平成十六年三月に六十一歳で、それぞれ写真偽造事件の最高裁判決の前後に奇しくも相次いで死去した。同類の松岡、汝も気を付けるがよい。
 
A
 また汝は阿部自身に関しても、昭和五十八年一月七日、自分の還暦祝を「ホテル・オークラ」で行っている。この時は僧侶が約九十名参加して盛大に行われ、参加の僧侶・寺族に対し「洋服は禁止・全員着物で出席」との達しが出された≠ネどと述べているが、汝は誰からそのようなことを聞いたのか。その者の名前を示すべきである。「洋服は禁止・全員着物で出席」との達しが出された≠ニいうそのような事実は全くなかったのである。このような荒唐無稽の言を弄するとは、汝が真実を求める学者とはほど遠い似非学者たることを物語るものである。
 なお、この時の会食は、日顕上人が還暦祝いを受けた方々に対しての答礼として行われたものであり、汝がとやかくいうべき問題ではない。またそれは、極めて常識的な形で行われており、汝が邪難するような華美・高額なものではなかったことを付記しておく。
 
B
 汝は、当時総監であられた常泉寺御住職藤本日潤重役に対し宗教専門紙≠フ報道を用いて、常泉寺の地代収入を宗教法人の会計に入れず、自己の収入としていた。しかも、夫人名義にして隠し持っていた≠ニか、悪質な計画的脱税行為≠ナあるなどと非難している。
 しかしこれらの汝の邪難は針小棒大である。地代収入を自己の収入≠竍夫人名義にして隠し持っていた≠ネどということは全くなく、常泉寺名義の口座に預金されていたのである。宗教法人の会計処理を遺漏無きようにするのは、住職の勤めであることは当然だが、まれにはそのミスを税務署から指摘されることもありうる。しかし、そのミスを税務署から指摘されるということは、それを隠す意図などなく、適正に会計を行おうとする意志の表れなのである。
 ところで、汝の邪難の元となる、針小棒大報道を行った宗教専門紙≠ニは『中外日報』である。
 その『中外日報』は一時期、盛んに日蓮正宗の誹謗記事を載せ、その宗門誹謗が行われている一時期だけ、購読の申し込みをしていない全国の日蓮正宗の末寺にも贈呈として無料で配布していた。またその『中外日報』の誹謗記事を根拠に『創価新報』が宗門誹謗の報道を行っていた。この悪連鎖の誹謗報道がどのような理由、どのような意図で行われていたか、想像に難くない。
 しかるに『中外日報』は平成十年三月三日、一面の全紙面を使い、異例の謝罪記事を掲載した。見出しに、
「中外日報」が変わります
「不偏不党」を貫く真実で公正な報道・論評へ
恣意的な紙面作りを断ち切り「刷新」
と今までの恣意的で不公平な報道を改めることを強調し、
近年、不幸にして、創刊者涙骨翁の精神に背き、「公器」である紙面の一部がゆがめられてまいりました。(中略)私共は昨年十二月二十四日、恣意的な紙面作りを断ち切るために、前社長を解任しました。独立不覊の記者魂で蹶起した私共の微衷をお酌み取りいただければ幸甚に存じます。この上は創刊の精神にかえって「紙面刷新」に取り組んでまいります。
とそれまで恣意的に歪められた、偏重報道を謝罪したのである。
 何がどのように「歪められて」きたか、具体的には記していない。しかしこの謝罪記事の後、『中外日報』に日蓮正宗誹謗の記事が無くなったことや、悪宣伝のビラまきともいうべき、日蓮正宗末寺への無料配布がなくなったことなどから、この「恣意的」な報道が創価学会に与同する如き日蓮正宗への誹謗であったことは誰の目にも明らかである。
 汝は、『中外日報』にかかる謝罪記事が掲載され、紙面が刷新されたことを当然知っているはずである。にも関わらず、「恣意的」で「ゆがめられて」きた報道の一端を利用して、しかも宗教専門紙≠ネどと紙名を隠して、まことしやかにそのことを述べるのは、いかにも姑息であり、汝の薄汚い性根を顕してあまりあるといえよう。
 
C
 汝は阿部が着ている普段着の和服は一着いくらするのか一説には、着物と羽織で二千万円とされ、阿部はこれを色違いで四着持っているという≠ネどとまさに荒唐無稽の言いがかりを付けてきている。これについて我らが調査したところ、御法主上人が今までに所持された着物で一番高価なものは、池田大作より御供養された当時として数十万円のものである。普段着の和服としてそのような高価な着物を所持されたり、お召しになることなど、絶対にありえないとのことである。さらにその上簡明な質問に変えよう。阿部が二大法要(虫払い・御大会)用に着る法衣一式の費用は、五百万円以上するのか、あるいはそれ以下なのか。「はい・いいえ」の二者択一で答えてほしい。当方は各方面に取材済みなので、ウソを言うと後々新たな問題を生ずることだろう≠ネどと愚にもつかぬ因縁をつけてきている。各方面に取材済み≠ニのことであるが、誰にどのように取材したというのか。これについても我らが実際に法衣店に問い合わせたところ、御法主上人の法衣で一番高価なものは、御大会にお召しになる長絹といわれるすその長い衣と、袈裟、差貫、等の一式であり、この一式を日顕上人が御登座間もない頃に一度納めたことがある。そしてこの一番高価な法衣一式の値段は、汝がいう五百万≠フ半額にも遠く満たない額であるとのことである。如上の杜撰な根拠に基づく言いがかりをつけ、それを論文≠ニ称し恥じることのない、汝の性根はもはや腐り果てているといえる。
 そして、汝はデタラメな法衣の価格を根拠に「徒らに万金の衣を著」(要3‐237)る者こそ阿部である、ということになる。その場合、宗祖や先師の訓戒を破っている阿部は、法主であるか否か、という問題以前に〈大石寺門流の僧〉として認められなくなる≠ニも減らず口をたたいている。
 御法主上人が着用される法衣の生地は「緞子」と称されるものであるが、日寛上人は『当家三衣抄』に、
然るに当家に於ては尚緞子・紗・綾・縮緬等の法衣を許す、如何ぞ仏制に違わざるを得べけんや。
 答う、実に所問の如し、是れ吾が欲する所なり。然るに之れを制せざることは強いて世に准ずるのみ。(六巻抄二二三頁)

と御指南され、緞子等の法衣の着用をお認めになられている。さらに妙喜寺には日寛上人御在世の登山者が、登山の記念に日寛上人より衣の端切れを賜ったものが蔵されているが、それは模様の織り込まれた緞子の生地であった。このように御法主上人が緞子地の法衣を着用されることは大石寺門流において伝統的に行われているのである。これは現在の「日蓮正宗宗規」にも「絹地随意」として認められている。つまり、今現在御法主上人がお召しになる法衣は、大石寺の伝統を受け継がれる上からのものであり、その価格がいくらであろうと、誰人も文句をつけるべきではない。これらのことを殊更に問題にして言いがかりを付けることこそ、汝が堕落僧にして門外漢たることを証明しているのである。
 
 以上述べる如く、御法主上人を「僧」であるか否か≠ニして構えた汝の邪問の悉くが、為にする言いがかりであり、汝の薄汚れた性根と、汝が学者を装った創価学会の飼い犬であることを物語るものであると断ずる。
 
 次に、汝は「妻帯」について邪問を繰り返す。
@
 まず阿部の妻・政子は、平成二年から三年にかけて約一年半、藤本栄道(当時)の妻・禮子、八木信瑩(当時)の妻・澄子、石井信量の妻・ナツ子らと共に、京都の超高級オートクチュール、エステサロンなどで約二億円の散財をしていたという≠ニいい、そしてこのことは、本当なのかウソなのか。ウソであるならば、なぜ、これらを報じた新聞記事等をいつものごとく裁判に訴えないのか≠ニ悪態をついている。まず、藤本重役が能化に昇進されたのは昭和六十三年であり、平成二年から三年にかけて約一年半、藤本栄道(当時)≠ネどというのは全くデタラメである。そのころには既に改名も終えられている。また我らが調査したところ、御法主上人の夫人におかれては、かつて京都にお住まいになられていた関係上、必要に応じて京都において、極めて常識的な買い物等をされたことがあるとのことである。しかし、当たり前すぎて、言葉にするのもはばかるが、二億円云云などと非難されるようなバカげた出費には、どなたも全く身に覚えが無く、全くデタラメの虚偽報道であることが、当然のこととして判明した。
 汝が根拠にした新聞記事≠ニいうのも例の『中外日報』である。すなわち、『中外日報』が「紙面の一部がゆがめられてまいりました」「恣意的な紙面作りを断ち切る」等と謝罪した、まさに「恣意的」な記事の一端が汝が取り上げる新聞記事≠ネのである。汝が「恣意的」で極めて信用するにあたいしない記事を取り上げて問題にするというなら、学者を騙る汝自身、学問的良心の上から論文≠ノ掲載する前に記事の信憑性について調査すべきではないのか。その調査無しに本にして出版するという姿勢が、汝の似非学者たる所以である。否、似非学者どころか下劣極まる最低の人間と評しておこう。
 裁判に訴えないのか♂]云も余計なお世話である。汝のような愚か者以外、誰もこのような荒唐無稽の記事を真に受ける者などおらず、「狂人走って不狂人走る」愚を犯さないまでである。
 
A
 汝は阿部以前の法主の頃には、大奥は女人禁制だったと聞く。なぜ阿部だけが、妻子を大奥に出入りさせているのか≠ニいうが、これこそ言いがかり以外の何ものでもない。誰が大奥は女人禁制だった≠ネどと言ったのだ。日淳上人、日達上人の御夫人は東京にお住まいになられていたが、折々大奥に上られ、御法主上人のお世話をされていたのである。現在の日顕上人の御夫人も同様である。女人禁制などとバカなことを言うものではない。
 また阿部は、質素だった大奥を改造し、華美な和風の庭まで造っている≠ニもいうが、日顕上人が庭になされた場所は、日達上人の代に利用されてきた施設があったのである。その施設が必要なくなった為、清楚な庭になされたまでのことである。愚にもつかぬ難癖を恥じよ。 
 
B
 汝は阿部は、大石寺内に設置されている「本尊書写室」を使用せず、妻子を出入りさせたり、自分が食事や着替えをしたりする大奥の「茶の間」の畳の上で本尊を書写しているという≠ネど、何の根拠も示さずに述べている。御法主上人が茶の間≠フしかも畳の上≠ナ御本尊を書写されることなどあり得ない。奥番を勤めた方々は、誰もそのようなお姿を拝見した者などいない。特に御本尊書写に関しては大奥内のしかるべきお部屋にて遊ばされているのである。汝はデマを風聞した人物に対し真実を追究し、さらにその虚言の罪を糺すべきである。
 また、日顕上人が「本尊書写室」を使用せず≠ニも邪難するが、そもそも本尊書写室は立宗七百年の記念事業として、大奥とともに建立されたものである。当時新築された大奥は二室しかなく、さらにそのうちの一室はお目通りにも利用されていた。よって狭い大奥の中では別室に御本尊を書写する部屋が必要だったのである。その別室として設けられたのが御本尊書写室であり、それは御法主上人が必要とされたから建立されたのである。故にその必要のあるなしの判断は、御法主上人がなさればよいことなのである。下らぬ言いがかりを恥じよ。
 なお御本尊書写室が使用されていないのは、現在の大奥が建立された日達上人の代からであることを付け加えておく。また先にも述べたが、その事実を無視し、破門以後の近年になってから女人禁制妻子を出入りさせ♂]云という、とって付けたような邪難を繰り返す汝の愚問こそ、その無節操ぶりを露呈するものである。
 
CD
 ここでは、松涛の大石寺出張所と、中町の旧出張所について因縁をつけてきている。そして松涛の出張所には大理石張りの浴室、一千万円のシステムキッチン、大邸宅用の床暖房、壁には一千万円の「備長炭シート」まである、という人もいる≠ネどという。そのようなデタラメを述べる狂人は一体誰なのか。デタラメを言うにもほどがある。また、まともな人間が根拠も示さず、かような狂人の勝手な憶測を根拠に論文に書いて発表することなどあるはずはない。汝は学者を騙る前に人間としての品性を養うべきである。そしてさらに松涛に約二十六億円≠ワた中町の旧出張所について約八億円をかけて手に入れ%凾ニもいうが、額といい、使用用途といい、汝の述べるそのどれもが事実とは全く異なる邪推である。
 さらに汝は、「汝に答える必要はない」などと、阿部は言ってはいけない信徒の浄財をつぎ込んだ%凵Xとも難癖をつけるが、日蓮正宗の僧俗は、大石寺の出張所が質実な建物であり、適正に運用されていることを了知している。汝の大石寺出張所にまつわる邪問について、汝は「汝に答える必要はない」などと、阿部は言ってはいけない≠ニ、挑発しているが、信徒≠ナもなく、宗門誹謗に血道をあげるだけの汝の邪問が、御法主上人および宗門を陥れようとする悪辣な意図のもとになされていることは明らかである。汝の邪推はいずれも事実と大きくかけ離れている。汝は、以上のような虚構の情報を伝えた者の氏名を明示すべきであり、それができないのなら汝に答える必要はない≠ニ念告しておく。
 
 さらにまた汝は日蓮正宗の僧形者たちは、秘法伝授の「僧」たる意義を一分も有さない在家者である≠ネどと述べ、阿部の考え方の誤りを、まだ何点にもわたって指摘しておかねばならない再批判の意を込めた質問を、さらに阿部に対して提起する≠ニしてまた数項目の邪問を羅列している。
 
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 ここでは日蓮正宗の僧侶が犯した不祥事、および総本山修行中の所化学衆が問題を起こして還俗した等のことがらを取り上げている。
 宗門の僧侶であっても信心に迷いを生じ、考え違いを起こして、まれに不祥事を起こす者がいるかもしれない。世間・出世間のいずれにおいても罪を犯すことは許されるものではなく、宗門に於ても厳正に処置されているのである。しかるに『松野殿御返事』に、
魚の子は多けれども魚となるは少なく、菴羅樹の花は多くさけども菓になるは少なし。人も又此くの如し。(新編一〇四八頁)
とあるごとく、僧侶の中にも時に淘汰されたり、反省が求められたりする場合もある。ただし、これらを宗教の正邪の問題として論ずることはできない。個々人の信心の迷いの結果が罪障として顕れることもあるからである。
 創価学会では、学会活動に熱心な父親が十五歳の子供に「信心が足りない」と注意していたことが引き金となって、子供が両親を惨殺するという凄惨な事件が起き、そのことが週刊誌に報じられていた。その週刊誌は、『中外日報』のように自ら偏向報道があったことを認めるようないい加減な会社のものではなく、日本でも屈指の発行部数を誇る週刊誌である。さらに創価学会員の犯した殺人事件等の不祥事が枚挙に暇のないことは、汝もよく承知していよう。これこそいかに熱心に信心しても創価学会に仏法の功徳など微塵もないことを物語る現証ではないか。
 日蓮正宗にのみ伝承される血脈相伝の仏法に信順していけば、必ずその功徳として自然に正しい道理に適った生活となっていくのであり、そのことは大多数の日蓮正宗の僧俗によって証明されているのである。
 また汝は、不祥事を起こして下山となった所化学衆の人数を答えろなどと息巻いているが、汝松岡のように心得違いの所化が堕落し淘汰されたという例の如く、過去からの罪障により還俗する者も多少はいる。しかし所化学衆に対する指導は汝にとやかく言われるまでもなく健全に行われているのである。
 
A
 汝は大納骨堂内の合葬納骨のカロウト内部の写真を持ち出して難癖をつけている。
 そもそも合葬納骨願は、他の遺骨と併せて納骨することの願い出であり、現在では袋に納めず御遺骨を直接カロウトに納めている。そして汝が邪難の材料に利用する写真は、御遺骨がカロウト内部で袋の中に納められているという写真であり、その写真をもって汝は、あたかも御遺骨が粗末に扱われているかのように、読者をして誤解させようとしている。要するにこれはカロウト内部で御遺骨が袋に収められているか、直接納められているかという問題である。汝はその袋を使い古しの米袋や黒ビニールのゴミ袋≠ネどと根拠もなく粗末な袋であるとの印象を与えようとしているが、これは悪質で強引な言いがかりである。御遺骨を安全に運搬するため特に丈夫な袋が求められるのである。それが一般に米を入れるのに用いられる袋である。また合葬納骨願いの御遺骨を運搬するのに使用していた袋は使い古し≠ネどではない。さらにビニール袋をゴミ袋≠ニ形容するところがいかにも悪質である。
 汝は昭和六〇年代、大石寺に在勤していた僧侶が、同寺の「大納骨堂」の内部を撮影した≠ニいうが、その大石寺に在勤していた僧侶≠ニは汝と同類の堕落僧の仲間であり、その者が当時、池田大作の意を汲んで、宗門誹謗の準備をしていたのであろう。仮に袋に収められていない、合葬納骨のカロウト内部の写真であったとしても、大量の遺骨の写真を公開すれば、それが粗末な扱いなのかどうか、一般の人々は分からないのである。汝の邪難はそのことにつけ込んだ悪意の誹謗である。また、遺骨収蔵の様子を写真に撮って公開した元僧侶のスパイ紛いの行動も当然非難されるべきである。その罪業の深いことを汝も目の当たりに見て知っているであろう。後生を恐れよ。
 
B
 さらに汝はあろうことか平成六年、憂宗護法同盟の僧侶らは、阿部信雄(現在の日顕)が遊興目的でパイプカット手術を受けた、という話を昭和四〇年頃、宗内で聞いた≠ニ実名で告発した。そして、「日本ばかりか世界のどこに、パイプカットをした法主がいるだろうか」と激しく阿部を非難した≠ネどと述べ、さらにその上、かかる内容の是非を言明せよと詰問している。まことに人権尊重の良識のかけらもない、汝の汚らわしい性根をそのまま現すかのごとき、下卑た質問である。
 当然このような事実はない。憂宗護法同盟の僧侶ら≠ニは汝と同じく堕落僧仲間であり、誰がどのような経緯でその話を聞いたのか、汝自身が調査し信憑性を確認することは当然可能だったはずである。それを身体のプライバシーに関わる、しかも遊興目的≠フ避妊手術をしたかしないかなどという下品な質問について、事実関係を確認もせずに本にして出版するという汝の神経は、もはや常人ものではない。汝の下卑た本性を雄弁に物語っている。もはや汝の著書は学術的≠ナも論文≠ナもなく、腐った性根と、下品さと、邪智と、あらゆる策謀を駆使して著された、単なる誹謗目的の文書たることが明らかである。
 
C
 ここで汝は、我らが創価学会の破仏破法の因縁によりあらゆる災害が起きていると指摘したことについて、阿部の学会謗法論は、突きつめると主観的感情に基づいている≠ニか阿部による災害の学会起因説には、教義上の確たる根拠が欠けている≠ネどと述べ、災害と学会とは関係ないと言い逃れる。
 このような言い訳は通用しない。大聖人が『一生成仏抄』に、
衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり。(新編四六頁)
と御指南される如く、浄土と穢土の違いは、その国土に生活する衆生が正法を受持するか否かによって生ずるのである。また、一方では大聖人が『新尼御前御返事』に、
末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難並びをこり、一閻浮提の人々各々甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給はざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存ぜば、諸王は国を扶け万民は難をのがれん。(新編七六四頁)
と御指南される如く、正法を受持する者は大災害の中にも不思議の功徳をもって難を免れるのである。これが仏法の道理に基づく功徳と罰の現証である。阪神大震災は広域に及ぶ災害であったが、この場合でも特にこの功徳と罰の現証が顕著であった。汝はこの現証を、どうしてもはぐらかしたいらしく、何とか言い逃れようとしているが、所詮そのようなまやかしは通用しない。仏法の裁きが厳然たることは、学会員の被災者を調べれば如実に現れるはずである。
 またインドネシアにおいて日顕上人の御親修があったことにかこつけて、その前後にスマトラ島沖地震や、テロが起こったことを引き合いに出し、むしろ日蓮正宗の「大謗法」が原因となって大震災や大事件が起きた、ということになるのではないか≠ニもいうが、たわけたことを述べるものではない。インドネシアには数十万人もの日蓮正宗の信徒がおり、地震の際に最も被害の大きかったアチェ州にも相当数の信徒が居た。地震の後にしばらく消息が途絶えた信徒も少数おられたが、後の調査で全員の無事が確認された。これもまさに「万民は難をのがれん」という功徳の実証である。
 さらに汝は一連の大災害を創価学会による妙法流布の瑞相とみなすことも十分に可能である≠ニも強がりを言うが、阪神大震災で正しい御本尊を焼き、ニセ本尊を拝んだ罰でどれほどの学会員が犠牲となり被災したのだ。その犠牲者・被災者の数を前にそれでも汝は創価学会による妙法流布の瑞相≠ネどと呑気なことを抜かすことができるのか。これぞ『教行証御書』の、
悪鬼入其身の無明の悪酒に酔ひ沈み給ふらん。一切は現証には如かず。(新編一一〇六頁)
である。汝はまさに「悪鬼入其身の無明の悪酒に酔ひ沈」む謗法者である。
 



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