四、日顕上人の御指南は御報恩の一念

 貴殿らは、我らの論旨に対し、勝手に毒づいていると言うが、毒づいて≠ニは方向違いで、そっくりそちらに返しておく。貴殿らの蒙昧を開かんとする慈悲の良薬を毒と思う貴殿らは、まさに文字通りの「毒気深入失本心故」と言うほかない。それも雁首そろえた全員が全員、毒気がよほど深入しているらしく、先に貴殿らに送付した良薬たる『離脱僧らの邪難を粉砕す』の説明が全く理解できていない。日亨上人が『御書全集』に立宗「三月」の御書を「四月」とされた理由について懇切に説明してあるので、該書の一七〜一九頁をよく読むべし。こちらの破折に反論もできずに、繰り返し同じ邪難をしかけるなど、凡そ常人の所為とは思えぬ。改革同盟などとは笑止千万、愚癡蒙昧の徒党であると断ずるものである。
 日亨上人は『御書全集』の刊行に当り、『清澄寺大衆中』の立宗の日を古来所伝の「三月」ではなく「四月」とされた≠フではけっしてない。それ以前の近年に他門から刊行され、宗門においても用いていた御書が、すべて「四月」に改変されていたのである。日亨上人は単にそれを踏襲されたにすぎない。単に踏襲されたにすぎないことは『御書全集』の『破良観等御書』の記述が「春の比」のままとなっていることによっても明らかである。
 さらに、『離脱僧らの邪難を粉砕す』一九頁で指摘したが、何も反論が無いところを見ると、貴殿らも明々赫々たる事実の前にひれ伏したと見える。すなわち、『宗学要集』の版権が聖教新聞社に移った後、『祖師伝』の「三月」の記述は、なんと「四月」に改められているのである。これこそ改変と言わずして何であろう。日亨上人の本意をねじ曲げ、踏みにじるものである。白を黒と言いくるめる傲慢不遜の性根は、創価学会にこそあるのである。
 貴殿らは、当方が歴代先師を批判している≠ネどとケチをつけているが、本宗の御歴代上人で日興上人、日道上人を尊信しておられない方は皆無であり、また両上人の著述についてはどなたも否定などされていないのである。宗旨建立七百五十年に当り、御当代日顕上人が、「三月」の宗旨建立に関する最も根本のお示しとしての日興上人、日道上人の処へ立ち戻られて「開宣大法要」を執行遊ばされたことを、御本仏日蓮大聖人への真心からの御報恩とは思われても、御歴代を批判≠ネどと思われる御歴代上人はお一人もおられないだろう。破門された新興宗教創価学会と離脱僧だけが、怨嫉の念止みがたくそう思い込んでいるだけなのだ。
 また貴殿らは、日顕上人は歴代先師を批判し、自分だけが日興上人、日道上人の心に叶っていると自慢しているなどと誹謗している。日顕上人はただただ全歴代上人の御心を承け、御心を拝される御立場において、御報恩の一念で振る舞われたのである。その証拠には、日顕上人の多くの御言葉の中に、御先師のことを批判したような文があるならはっきり出してみよ。一言半句もないではないか。邪推もいい加減にせよというほかはない。貴殿らこそ「毒気深入失本心故」の輩である。
 また貴殿ら創価学会と離脱僧は、日達上人の立宗七百年における此の宗旨建立は建長五年四月二十八日と三月二十八日との両説がありますが、宗祖は松野抄に「去建長五年の夏のころより」とお書きになっていますから四月二十八日の方が正しいのでしょう。本宗では四月二十八日を以て昔から宗旨建立の日と定めてあります≠ニのお言葉を載せ、日達上人は、明確に立宗三月説も立宗二回説も否定されたとしている。
 しかし、日達上人は、
「四月二十八日の方が正しいのでしょう」(達全一―三―五一九)
と仰せられているのである。国語辞典を引くまでもなく、「でしょう」は推量を表す言葉である。断定ではない。すなわち日達上人は、「此の宗旨建立は建長五年四月二十八日と三月二十八日との両説がありますが」と両説あることを断られた上で、「四月」であると推量されているのであるが、日達上人が何の為に推量に止めおかれたのか。その御心を拝せば、大聖人の本意に照らして誤りがあってはならないと、断定を憚られたのであることは当然である。
 その証拠に、昭和三十九年に日達上人の命によって発刊された『富士年表上』にも、
「建長5年 3・28 安房清澄寺に宗旨建立の内証を宣示」(同書九)
とはっきり記されているのである。これについては、堕落僧の渡辺慈済が日顕(上人)のゴリ押しで記述が盛り込まれた≠ニ、その当時未だ年表作成委員になってもいないのに、見てきたような虚偽の主張をしている。後に詳細に破折するが、大聖人の立宗の大事についての記述を、並居る老僧を差し置き、日達上人の御許可もなく、当時、未だ教学部長にも就任していなかった日顕上人が、勝手に盛り込める筈はない。紛れもなく日達上人が自らの御意志として、この項目をお入れになったのである。
 また我等改革同盟は大石寺の正統血脈を守るために、貴殿らの稚説を論破しているのである≠ニは開いた口が塞がらない。抱腹絶倒とはこのことである。破門となった邪教団体・新興宗教創価学会にこき使われているだけの貴殿らに、大石寺の正統を守ることなどできる訳がないではないか。ホラを吹くのもいい加減にしてもらいたい。因みに貴殿らの首魁・池田大作の過去の発言を引いておく。
「もと正宗の僧侶であった『正信会』も、御法主上人の認められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。外見からみればわれわれと同じようにみえるが、それらには唯授一人・法水瀉瓶の血脈がない。法水瀉瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである」(広布と人生を語る八―二二八)
 宗義の大事について、貴殿らの首魁・池田大作は、このように言うことが正常と異常の間をコロコロと変わる。まさにニセ指導者たる所以だが、その下にいる貴殿らも自業自得とはいえ、気の毒なことである。しかし、ここに挙げた言葉は、どうやら正常な折の発言だから、よくよく服膺せよと言っておく。